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世襲坊主の独り言

世襲の事情から会社退職後に真宗寺院住職に転身した男が、自分の信心もないのに他人さまに信心を語る苦しさを白状する記録です。

菩提薩婆訶

2006-10-27 12:47:35 | Weblog
 羯諦、羯諦 (ギャテイ、ギャテイ)
 波羅羯諦  (ハラギャテイ)
 波羅僧羯諦 (ハラソウギャテイ)
 菩提薩婆訶 (ボジソワカ)
  
 これは般若心経の最後に出てくる真言、つまりサンスクリッド語(梵語)で近い発音の漢字を当てはめた部分です。このままでは意味がわからず、まさに呪文のように耳に響きます。元のサンスクリッド語は、「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー」で、仏典の研究に大きな功績のあった中村元(はじめ)博士は「往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全(よ)く往ける者よ、悟りよ、幸いあれ」と訳されています。「彼岸に往ける者」とは真理を悟った者、ほとけの境地を体現したもの、という意味です。そして、最後の「菩提薩婆訶」は般若心経を愛する人たちから、究極の悟りの成就を願い、敬い、讃える呪文であると理解されてきました。
 ひろさちやさんはこの真言を解釈して、「来たよ、来たよ、ほとけの国に、みんなと一緒にほとけの国に、ほとけさま、ありがとう」という喜びの歌であると味わっておられます。
 浄土真宗では般若心経は仏前での読経には用いません。それだけでなく、声高に浄土真宗門徒は読むべきではないというお坊さんもいらっしゃるようです。自力で仏に近づこうとする聖道門の匂いがするのでしょうか。しかし、私は阿弥陀如来のお浄土にあこがれる心をもってしても、般若心経の教えは素直に心に響くものであるという気がします。阿弥陀佛は彼岸のお浄土にいらっしゃる方ですがいつも此岸の私たちを見守ってくださると言います。そのようなことを考えているとき、小学館発行の「あなただけの般若心経」(中村 元監修、阿部慈園著)の「波羅僧羯諦」のページに道元禅師の「正法眼蔵」の「生死」の巻に次のような文章があることを紹介されているのを見つけました。
「心をもてはかることなかれ。ことばをもていうことなかれ。ただわが身をも心をも、はなちわすれて、仏のいえになげいれて、仏のかたよりおこなわれて、これにしたがいもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもついやさずして、生死をはなれて仏となる。」
 真にありがたいことと感じました。 菩提ソワカ...

人を信じること

2006-10-02 14:21:54 | Weblog
 ブログへの書き込みをサボっている間に、セミの声も聞こえなくなり、彼岸花が咲き誇る季節となりました。私どもでは秋になると、年中行事としてはもっとも大切に守っている宗祖親鸞さまの御命日法要、報恩講法要を地域の同派のお寺と組んで修める習わしとしています。私どもでは5ケ寺で組んで、互いに日が重ならないように計画して、お互いに参り合うことになっています。
 私のお寺は建物は大きく古いお寺なのですが、歴史的にはいろいろな不運に遭遇して檀信徒は15,6軒程度で、その運営は楽ではありません。前住職の父からお寺を引き継いだのですが、信心も不足、寺の運営は雨漏りの修繕もままならないなど、私の煩悩は刺激を受けるばかりです。
 こんなときに今年の報恩講法要の季節が巡ってまいりました。檀信徒方へのご案内に、追伸として「最近のお寺の法要へのお参りが少なくなっております。ぜひお参りを...」などと書いてしまいました。もともと7,8名の決まった顔ぶれのかたがたのお参りがあったのですが、その中から3名の方が亡くなられ、1名が腰の骨を折って遠出できなくなられたのです。春のお彼岸の法要の際のお参りは3名程度という寂しさでした。
 私はこのような追伸を入れたときの気持ちは、正直いってもうこんな寺は投げ出したい、住職でなく、一人の信徒として信心が得られるよう努力したほうがよいな、というものでした。他の檀家の多いお寺にお参りして、本堂いっぱいのお参りの方を目にするにつけ、半ば本気でこんな風に考えての追伸でした。
 そして昨日の日曜日に、1日だけ(午後と夜の2席)のわが寺の報恩講を勤めました。
 お坊さんの数より檀信徒方のお参りは少ないのではと勝手に心配していたのですが、お経が始まる前に目を走らせてびっくりしました。大勢さまというほどではないけれど、亡くなられたお婆さんの家族の方、以前はよくお出でになっていたけれど最近足が遠のいていた方、など7名の方のお参りがありました。
 信心を云々する前に、人を信じなさいと親鸞さまに叱られたような気がしました。皆さま、本当に失礼を致しました。

自信教人信

2006-08-30 11:28:57 | Weblog
 ご縁があって京都の中央仏教学院を訪ね、1時間ばかり布教、伝教を中心とするご講義を拝聴してきました。
 先生のお話は「自信教人信」から始まりました。「自信教人信」のもともとの意味は「みづから信じ、人を教へて信ぜしむること」ということで、浄土教の祖師の一人である善導大師の言葉で、親鸞さまや蓮如さまも大切にされた言葉です。
 先生の講義では、「自ら信じ、」と「人を教へて信ぜしむること」との2つの部分のどちらに力点をおいてこの言葉を頂くか、実践するかということについてはいろいろな考え方があるようにうかがえました。
 私は、自ら信じていないことを人に教えて信じさせることのないように...という坊主に対する戒めの言葉かと受け取ってきましたが、自分の信心もそう簡単には獲得できないのが実情です。これでは、坊主も勤まりません。先生は、意味はそれで良いのだが、伝道、つまり「人に教えて信じせしむ」のほうを中心に実践して、その実践を通じて自らの信心も固めて行く、という方法が実際的である、と講義されました。これについては一緒に講義を聞いた十五、六人のご同行のかたの中から、やはり自分の信心をしっかりと持たなければ、というご意見もでましたが、なかなか難しい問題です。
 私は、このブログの目的を、信心も固まっていないのに世襲で住職を勤めることになった自分の信心獲得の記録とする、と以前にも書きましたが、信心を共有する前に、同じ悩みを共有するという意味の「ご同行」がたくさんいらっしゃるような気がしました。心強いというか、おぼつかないと言うか...

お浄土ってあるの?

2006-08-14 22:20:15 | Weblog
 お盆は檀家の少ない私どもの寺でも、お盆直前の土曜、日曜にお参りが集中します。そういったお盆の檀家参りのときのことです。法話を終えてお茶をいただいているときに、参列されていたご親戚の方から質問が出ました。「きょうは来てないんですが、主人がお浄土ってほんとうにあるのか、よく聞いてきてくれ、というんですけど...」とおっしゃるのです。なんでも、その方のご主人があるお坊さんに同じ質問をしたら「お浄土には行ったことがないから分からない」と言われたので、別のお坊さんの話も聞きたい、ということのようです。

 こういう話題は話題としては面白いのですが、中には重い精神的な荷物を背負って同じ質問をされる方がおられますから、お坊さんとしては真面目に答えなければなりません。ですから、私はその席ではあまり深入りしないで、真面目な答えを返しておきました。「阿弥陀如来の教えを信じてお浄土があると信じる方にとっては、お浄土は間違いなく在ります。しかし、お浄土が信じられない方にとっては、いくら考えても無いものは無いのです。」と。そして付け加えておきました。「死んでからのことをあれこれ心配することもいいのですが、大切なことは生きている現在から、死ぬまでの時間をどのように正しく過ごすか、ということのほうがずっと大切なことですね。」

 ところで、お浄土は在るのか無いのかにこだわることは、以前にこのブログに書いた有無の見の典型ですね。お浄土は在るに違いないのですから、阿弥陀さまにお任せして、今生きている人生の中に阿弥陀さまからの確かな光を見出して有無への拘りを離れるならば、生きている中で阿弥陀さまのお救いを頂くことができます。有無への拘りを離れるということは、自我を捨てる、我執を離れることにもなります。こうして、心の平安を頂くこと、換言すれば極楽往生が約束された境地を得ることが出来るといいます。阿弥陀如来を信じきることが出来て、不退転の境地(再び疑いや迷いに戻ることのない境地)に達すれば、いざ、臨終という瞬間に至っても、既にお浄土往きの切符を手にしているわけですから、その気持ちのまま、阿弥陀さまのお膝元に参ることになるのです。

 考えてみると、死んでからもまだ自分と言う自我がいて、その自我がどういうお浄土に居れば満足だと言うことになるのでしょうか。私は、そのような気持ちの悪い自我が残らないように、阿弥陀さまによくお願いしておきたい気持ちです。

回向(えこう)

2006-08-13 22:54:37 | Weblog
 わが国に伝わった大乗仏教には、自分が善行を積んで獲得した功徳を、他人にも振り向けることができるという思想があります。これを「回向」と言います。

 ところが、自分は善行の一つもなし得ないという深い自覚を覚えて阿弥陀仏に救いを求める浄土教では、人は他人に振り向ける功徳は何も持っていないことになります。

 これはビックリする話ですが、私はビックリする前に、親鸞さまの教えに「回向」には往相(おうそう)回向と還相(げんそう)回向の二つがあることを知っていました。ですから、ビックリではなくて、え? 仏教一般に言う回向と、浄土真宗で言う回向は違うの? と考えてしまったのでした。そこで、改めて親鸞さまのおっしゃる往相回向と還相回向の意味を考えることにしました。

 往相とは、とか、還相とは、と順を追って考えてゆくと、分かったようで分からない理屈論議に陥ることになるような気がします。そこで、私なりに理解したとおりの順番に書きますと、こういうことです。

 先ず、真宗における「回向」には往相と還相の2つがあるが、そのどちらも阿弥陀仏の本願力のお働きであり、決して私たちの自力の働きによるものではない、ということを理解しなければなりません。そうした上で、往相回向とは極楽浄土に往生する私どもの救われた姿であり、還相回向とは往生して仏の仲間入りした私どもがお浄土より帰ってきて衆生の済度に勤める姿である、と理解させていただくのです。

 ただ、これでも難しい、いや、かえって難しくなった、とおっしゃる方もいらっしゃるようです。私はそういう門徒さんには「あなたが『南無阿弥陀仏』と称えることが往相回向、その声に併せて既にお浄土においでになった懐かしい方があなたに向けて、あるいは周りの人たちに向けても、『南無阿弥陀仏』と称えていらっしゃる声が聞こえます。それが還相回向」とお話しています。どちらも阿弥陀仏の本願力のお働きですと...