骨董屋 青雲館

昭和の金沢、まだ子供だったころのことや、今の金沢に思うことなど、折々に綴っています。

外国人観光客のトラブルについて

2024年05月31日 | 日記
コロナ以降、国の内外を問わず、あちこちの観光地ではオーバーツーリズムが問題になっている。
こちらでも北陸新幹線ができて以来、コロナが問題になるまでは観光客が多すぎて、これまでの金沢がどこかへ行ってしまったような思いがしたのでよくわかる。

日本の魅力を感じてわざわざ遠い所から来訪してくれるのはありがたいが、いくら日本が安全だといわれていても、日本にいるのは日本人だけとは限らない。
もともと「平和ボケ」しているといわれる日本人を狙って、外国から出稼ぎ犯罪に来る外国人も多いのだ。
日本の安全神話を信じるあまりに、楽しいはずの旅の途中でそんな輩の餌食にならないように、観光客も気を抜かないでほしいと思う。

それから観光に来た外国人は「日本人は優しくて親切」だという感想を持つようだが、それに悪乗りしたのか、それとももともとの国民性か、中には日本で失礼な行動をしてもかまわないと思っているような観光客の振る舞いも問題になっている。

日本には「郷に入っては郷に従え」ということわざがあるが、どこの国でも、他国からの観光客がその国の文化をないがしろにしたり、傷つけたりすればよい気持ちはしないだろう。
いくら「お客様」でも、やっていいことと悪いことはある。

どんな国にも迷惑な人やおかしな人はいるだろうが、外国からの観光客によるトラブルばかり続けば、日本人の心は離れていくだろうと思う。
海外の観光地では「日本人は妖精」と言われるほど、取り扱いに注意しないと後で大変なことになると思われているようだから、あまり直接文句は言わなくても、このようなことばかりが続けば観光客の姿を見たらシラッと姿を隠すかもしれない。
「さわらぬ神にたたりなし」とばかりに、必要最低限以外はかかわりを持たず、日本人同士でこっそり対策をたててやり過ごすこともあるだろう。
よその家を訪問して、その家のルールを無視し、やりたいようにやる人は次から呼んでもらえるだろうか。
また呼んでもらえたとしても、心からもてなしてもらえるだろうか。

どうしても旅先というのは、非日常的の楽しさからついはしゃぎすぎることもあるだろう。
でもその土地に住んでいるものにとっては、その外国人一人の行動でも、その国の人はこんなことをするのかと思ってしまうこともある。

マナーを守って行動すればきっと楽しい旅になるはず。
折角お金も時間も使って来てくれるのだから、より良い日本を楽しんでいってほしいと思う。

日本語の「てにおは」がおかしくなっている

2024年05月30日 | 日記
日本語は時代とともに変わってきているから、ある程度変化していくのはしようがないことだと思う。
実際今では当たり前の「だらしない」という言い方も、本来は「しだらない」をあえて言い換えたのが定着したようだし、固執を昔ながらの「こしゅう」と呼ぶ人の方が少なくなってきたりもしている。
大抵言葉が変わっていくのはいつの時代も若者の作る流行からが多く、テレビやネットでアイドルが使ったりする言葉が広まって定着していくことも多い。
中には一時の流行だけで、そのうち見られなくなっていくものもあるが、どうもこの頃では「違う」という言葉の使い方だけは変に定着してきたようだ。

「違う」のがわかったとき、これまでは「違った」あるいは「違っていた」といっていた。
しかし今では「違う」にそのまま「かった」をつけて「違う+かった」→「違かった」という者が多い。
同じように「違って」というのも「違う+くて」→「違くて」という。
「違う」自体は変化していないのだ。
これは一時だけかと思ったが、どうもこのまま認知されていきそうだ。
反対に「大丈夫」でない、というのを「大丈ばない」という言い方もあるが、こちらはどうなっていくのだろう。

また「てにおは」の使い方を良く知らない人が書いているのか、それともわざとかわからないが
車を乗ってる (正しくは車に乗ってる)
幕が開けると (幕が開くと、あるいは幕を開けると)
食べ物が売ってる (食べ物が売られている、あるいは食べ物を売ってる)
自販機が設置する (自販機が設置される、あるいは自販機を設置する)
被害を巻き起こった (被害が巻き起こった、あるいは被害を巻き起こした)
ソファーを座る (ソファーに座る)
など、このまま定着してもらっては困るような間違いも多い。

中には「〇〇が収監した」 (正しくは〇〇が収監された) などと意味が変わってきそうな記事もあって、文を書く仕事をしている者としてそれでいいのだろうかと思うこともある。
「てにおは」のない言葉の国の人には難しい使い方かもしれないが、使い方が違うと意味が変わってしまうことも多い。
いくら時代が変わっても、正しい日本語の文章を継承していってほしいと思うのは老婆心だろうか。


昔あったことと、今になって出てきたこと

2024年05月27日 | 日記
昭和の30年代はまだまだ戦前の常識が普通の時代で、兼六園などで花見をしても、食べたもののごみがゴミ箱いっぱい溢れるほどに積まれていた。
暑い時期に家の前でシュミーズ一枚の姿で涼んでいるおばさんもいたし、くわえたばこで道を歩くのも当たり前、吸殻を道に捨てて靴で踏みつけて火を消したりするのも皆がやっていたことだった。
さすがに道に痰や唾を吐き捨てるのは衛生上の事もあって行儀のない人と思われたが、それでもそんな人もまだまだ見かけた。
そういえば、そのころはまだ立小便をする人の姿も見られた。
その後、三菱爆破事件などのテロ対策のためか、公共施設にこれまで置いてあったゴミ箱が一部を除いて姿を消してしまったおかげで、かえって街がきれいになったように思う。

今は「いじめ」だとか「差別」だとかに神経をとがらせる世の中になっているが、当時はそんなこともなく、みんな当たり前のように話していた。
テレビでも当たり前のように太平洋側を「表日本」、日本海側を「裏日本」と呼んでいたし、インタビューで高齢婦人の事を「ばあさん」と話しているのも聞いた。
足が大きくてはく靴に困ると「馬鹿の大足、間抜けの小足」と言われたり、人より体重が重いと「デブ、デブ、百貫デブ、電車にひかれてペッチャンコ」とはやされた。
喧嘩したときなどは、なぜが「お前の母ちゃんでべそ」と、本人でなく母親が馬鹿にされた。

今は当時よりみんなお行儀よくなって、町もきれいになったけれど゛、その分以前にはなかったこだわりマナーなども見られるようになって、いささか息苦しい世の中になってきたようにも思う。
昔も職場にハンコはつきものだったが、今みたいに少し斜めに押して名前がお辞儀をしているように見せるなんて作法はなかった。
座る位置の上座下座はあったが、今ではうるさい所ではネット会議の画面の上座下座にこだわったり、上位の方が退出するまで残って頭を下げていなければならないというマナーもあるようだ。
世界中でいろんなネット会議が開かれているが、そんなマナーは多分日本だけではないだろうか。

それから平日に行事を行っても観客や参加者が仕事では都合が悪いと、出初式や百万石まつりなどはこれまで決まっていた日にちを土曜に、日曜に変更してしまったのもいつごろからだろうか。
東京は今でも昔通り出初式は一月六日に行われているようだが、そういえば学校が一時期二学期制になり、変なところに秋休みがあった時も東京は相変わらず三学期制を堅持していた。今ではどこも元の三学期制に戻ったようだから、東京のお偉方は先見の明があったのだろう。

仕事も学校の授業も、今では土日休みが当たり前になってしまったが、昔は土曜日は半日仕事や学校が当たり前で「半ドン」という言葉もあった。
半分ドンターク(休日)の意味らしいが、仕事においては昔と世の中も勤務形態も変わってきており、週休二日と言っても名ばかりのところもあるようだ。

身分制度のあったころには客車などにも一等、二等の区別があったようだが、戦後は大臣であっても庶民であっても特別等級的な呼称はなかったと思う。
それなのにこの頃は昔になかった「高位当局者」とか「上級国民」とか、聞きなれない言葉を耳にする。
どこかの国の言葉の翻訳をそのまま使っているのだろうか、それとも特定の人を揶揄していっているのだろうか、いずれにしても総理でも庶民でも身分は国民として平等だったはずなのに、変な特権階級みたいな言葉を使って差別化するのはどうなのだろう。
私自身は先々の日本がどう変わっていくのか、そうそう見届けることはできないだろうが、それでもこれから生き続けていく人たちが暮らしやすい、より良い日本になっていってほしいと思う。

カラオケの変遷

2024年05月24日 | 日記
今日はヒトカラで四時間ほど歌って楽しんできた。
一人で利用するときはヒトカラ代金が追加されることが多いが、それでも以前に比べたら案外安く利用できているのでうれしい。

昭和40年代は、カラオケはまだスナックとか飲み屋においてあることが多かった。
昔はそんな飲み屋に「流し」の歌い手がギターなどを抱えてやってきて、お客にお金をもらってリクエストの歌を歌っていたようだから、そんな人が少なくなった代わりに機械を置くようになったのだろうか。
私も一度そんなカラオケを利用したことがあるが、当時は一曲100円だったと思う。
今でも古い旅館などではあるかもしれないが、宴会などの余興にカラオケなどをするとき、大抵用意されていたのはレーザーディスクを使うカラオケだった。

昭和の終わりごろにはカラオケ屋ができ始めたが、コンテナとか小屋のような個室が敷地内にいくつもあって、その中でで歌うような形が多かった。
今のように一つの建物の中に部屋がいっぱいという感じではなく、私の行っていたところでは六畳ぐらいのカーペットの敷かれた建物の中にカラオケの機械が置いてあった。
一部屋は時間制限はなく、何人でも使えるが、歌を一曲歌うのに毎回100円入れる方式だった。
歌える歌も今ほど多くはなく、付属の歌の本から歌いたい曲の番号を探して機械に入力して使った。

そのうち通信カラオケの時代になって、歌の数も増え、採点機能も付くようになった。
採点も、初めは音程とテンポがずれていなければ、どんなに一本調子でも高得点が出たが、そのうち機械の方も進化して、歌い方が上手かどうか判断できるような精密な機能がつくようになった。
通信カラオケなので全国採点もできるようになり、マイページで自分の持ち歌を管理したり、自分の歌っているところを動画配信もできるようになってきた。

歌の種類も数多いから、大正時代は無理だろうが、多分昭和初期の歌も探せばいろいろと出てくると思う。
年をとると、いろいろとあちこち衰えてくることがあるが、大きな声を出し、自分の若いころの歌を歌えば気分も若返って元気になる。
歌い放題でフリードリンク・フリータイムで1500円くらいだったが、一曲100円のころを思えばずいぶん安い。
サビも忘れてしまったような昔の歌でも、歌っていると思い出してくるのも面白いし、若い人と一緒に行くと今はやっている歌が聞けて楽しい。
これからも機会があれば、カラオケでいろんな歌を楽しんでいきたいと思っている。


実家の片づけで出てきたもの

2024年05月22日 | 日記
親も高齢になると掃除や後片付けも大変のようで、この際終活を兼ねて断捨離の手伝いをすることにした。
性格からか、あることを忘れて買ってしまうのか、それとも昔の人特有の「捨てられない」思いがあるのか、同じようなものがいっぱいあって始末に困った。

特に昔からの衣類とバッグ、貰い物のタオルやハンカチ、期限のとっくに切れた食料品や食用油、温泉でタオルと一緒に用意されているビニール巾着やアメニティなど、こんなにあっても使わないだろうと思うものが収納場所を占めていた。
そんなバッグや上着などを整理していると、あちこちのポケットから使いかけのティッシュや小銭が出てきたり、古い箪笥の中を見ると、今では見なくなったような珍しいものに出逢うこともある。

今では水銀が入っているからと作られなくなった昔のマーキュロや、一の位が五玉のそろばん、旅行用に分解して持ち運べる金属製のT型髭剃り、缶の下側についている巻口を缶開けに差し込んでくるくると紐のように巻き取って缶を開けるタイプのコンビーフ缶、布おむつや大正時代の兼六園の案内地図なんかも出てきた。

中でも珍しかったのは硝子版に写された写真や、青焼きコピーよりさらに以前の毛筆で手書きされた戸籍謄本や登記簿だった。
そこには加賀藩士族と書かれていて、当時はまだ身分制度があったことを実感した。

そんな捨ててしまうには惜しいものはまた箪笥にしまっておいたが、これらもいずれは家を処分する際に運命を共にすることになるのだろう。
昔と違ってよほどの旧家か資産家の豪邸でもなければ、子供たちは別に所帯を持って親の家を継ぐこともほとんどなくなってしまったから、そんな昔からのものも仏壇さえも住むものがいなくなればゴミとなって処分され、家は壊されて更地になっていくところも多い。
そういった空き地が高齢者の多い住宅街ではぽつぽつみられるが、これまで隙間なく家のあったところが櫛の歯の抜けるように空き地になると、隣の家などは何となく防犯上からもいささか心配になるのではないだろうか。
これからまだまだ高齢化によっていろんなことが問題になっていくのだろうが、少しずつでも知恵を出し合い、より良いものになっていけばいいなと思う。