軍艦島が世界遺産に登録されたこともあってか、石炭が産業を支えていたころの炭坑について、いろいろと取り上げられる機会が多くなっている。
子供のころ、社会の教科書で日本の炭田について習ったが、今では教科書にも載っていないのだろうか。
筑豊や夕張、三井三池炭鉱などの名前はよく聞いたし、盆踊りでポピュラーな炭坑ても「月が出た出た月が出た、三池炭鉱の上に出た」と歌い踊ったものだった。
この頃では固有名称は都合が悪いのか「月が出た出た月が出た、裏のお山の上に出た」と唄っているものもあるが、一般的にはまだ「三池炭鉱の上に出た」のほうが通りが良いようだ。
昔は炭坑だけでなく、銅山やカドミウム鉱山や、ほかにもいろんな鉱山が経済発展を支えて栄えていたようだが、そのために公害病も大きな問題になっていた。
また坑内で働くこと自体、落盤や出水などの危険と隣り合わせの命がけの仕事だった。
それだけの大変な仕事だからなのだろう、以前尾小屋鉱山の資料館へ行ったことがあるが、抗夫の給与の資料があって、その当時としてはかなりの高給であったとの説明書きがあった。
軍艦島で働いていた人たちの暮らしも、人工の島に閉ざされた生活ということもあってだろうが、日本で初めてのコンクリート住宅に住み、当時はなかなか買えなかったテレビや冷蔵庫を各家庭に持ち、狭いながらに商店や学校や娯楽施設などもあったという。
それでも軍艦島に限らず、当時黒ダイヤと呼ばれていた石炭を掘るためには、深くて暗く、狭い坑道にもぐらなくてはならない。粉塵のために全身真っ黒になり、常に命の危険が潜んでいる坑内で働くのは、それだけの報酬や保険が用意されていたとしても大変なことであっただろう。
昭和のころの炭鉱事故で一番覚えているのは、坑内が火事になり、支線の先端で働いていた人たちが脱出できなくなってしまったことだった。
テレビで状況が刻々と伝えられ、取り残された人たちがまだ何人も生存しているのに、炭層に火がついて延々と燃え広がることを防ぐため、坑内に水を入れるという最終決定が下された時のやりきれなさ。
当時も今も命の大切さには変わりはない。でもどんなに悔しくても、辛くても、自分たちの力らではどうにもならないことも多かった。
子供のころ、社会の教科書で日本の炭田について習ったが、今では教科書にも載っていないのだろうか。
筑豊や夕張、三井三池炭鉱などの名前はよく聞いたし、盆踊りでポピュラーな炭坑ても「月が出た出た月が出た、三池炭鉱の上に出た」と歌い踊ったものだった。
この頃では固有名称は都合が悪いのか「月が出た出た月が出た、裏のお山の上に出た」と唄っているものもあるが、一般的にはまだ「三池炭鉱の上に出た」のほうが通りが良いようだ。
昔は炭坑だけでなく、銅山やカドミウム鉱山や、ほかにもいろんな鉱山が経済発展を支えて栄えていたようだが、そのために公害病も大きな問題になっていた。
また坑内で働くこと自体、落盤や出水などの危険と隣り合わせの命がけの仕事だった。
それだけの大変な仕事だからなのだろう、以前尾小屋鉱山の資料館へ行ったことがあるが、抗夫の給与の資料があって、その当時としてはかなりの高給であったとの説明書きがあった。
軍艦島で働いていた人たちの暮らしも、人工の島に閉ざされた生活ということもあってだろうが、日本で初めてのコンクリート住宅に住み、当時はなかなか買えなかったテレビや冷蔵庫を各家庭に持ち、狭いながらに商店や学校や娯楽施設などもあったという。
それでも軍艦島に限らず、当時黒ダイヤと呼ばれていた石炭を掘るためには、深くて暗く、狭い坑道にもぐらなくてはならない。粉塵のために全身真っ黒になり、常に命の危険が潜んでいる坑内で働くのは、それだけの報酬や保険が用意されていたとしても大変なことであっただろう。
昭和のころの炭鉱事故で一番覚えているのは、坑内が火事になり、支線の先端で働いていた人たちが脱出できなくなってしまったことだった。
テレビで状況が刻々と伝えられ、取り残された人たちがまだ何人も生存しているのに、炭層に火がついて延々と燃え広がることを防ぐため、坑内に水を入れるという最終決定が下された時のやりきれなさ。
当時も今も命の大切さには変わりはない。でもどんなに悔しくても、辛くても、自分たちの力らではどうにもならないことも多かった。