骨董屋 青雲館

昭和の金沢、まだ子供だったころのことや、今の金沢に思うことなど、折々に綴っています。

炭坑の話

2015年10月15日 | 日記
軍艦島が世界遺産に登録されたこともあってか、石炭が産業を支えていたころの炭坑について、いろいろと取り上げられる機会が多くなっている。
子供のころ、社会の教科書で日本の炭田について習ったが、今では教科書にも載っていないのだろうか。
筑豊や夕張、三井三池炭鉱などの名前はよく聞いたし、盆踊りでポピュラーな炭坑ても「月が出た出た月が出た、三池炭鉱の上に出た」と歌い踊ったものだった。
この頃では固有名称は都合が悪いのか「月が出た出た月が出た、裏のお山の上に出た」と唄っているものもあるが、一般的にはまだ「三池炭鉱の上に出た」のほうが通りが良いようだ。

昔は炭坑だけでなく、銅山やカドミウム鉱山や、ほかにもいろんな鉱山が経済発展を支えて栄えていたようだが、そのために公害病も大きな問題になっていた。
また坑内で働くこと自体、落盤や出水などの危険と隣り合わせの命がけの仕事だった。
それだけの大変な仕事だからなのだろう、以前尾小屋鉱山の資料館へ行ったことがあるが、抗夫の給与の資料があって、その当時としてはかなりの高給であったとの説明書きがあった。

軍艦島で働いていた人たちの暮らしも、人工の島に閉ざされた生活ということもあってだろうが、日本で初めてのコンクリート住宅に住み、当時はなかなか買えなかったテレビや冷蔵庫を各家庭に持ち、狭いながらに商店や学校や娯楽施設などもあったという。
それでも軍艦島に限らず、当時黒ダイヤと呼ばれていた石炭を掘るためには、深くて暗く、狭い坑道にもぐらなくてはならない。粉塵のために全身真っ黒になり、常に命の危険が潜んでいる坑内で働くのは、それだけの報酬や保険が用意されていたとしても大変なことであっただろう。

昭和のころの炭鉱事故で一番覚えているのは、坑内が火事になり、支線の先端で働いていた人たちが脱出できなくなってしまったことだった。
テレビで状況が刻々と伝えられ、取り残された人たちがまだ何人も生存しているのに、炭層に火がついて延々と燃え広がることを防ぐため、坑内に水を入れるという最終決定が下された時のやりきれなさ。
当時も今も命の大切さには変わりはない。でもどんなに悔しくても、辛くても、自分たちの力らではどうにもならないことも多かった。

駅から消えたもの

2015年10月03日 | 日記
先日長野の善光寺に行った際に、タクシーの運転手さんに「どちらから」と尋ねられた。
「金沢から」と答えると、「昔、行ったことがあります」と、当時の金沢駅に謡曲の銅像が建っていて印象的だったと話してくれた。
その「杜若」の像は今では駅から姿を消したが、そのほかにもなくなってしまったものは多い。

まず駅の正面に向かって左側に手荷物を預けるところがあったが、今では手荷物(チッキ)というものがあったことすら忘れ去られてしまったようだ。

チッキというのは、飛行機の搭乗の際に大きな荷物をカウンターで預けるように、汽車でも客席に持ち込んだら邪魔になるような大きな荷物を預かってもらえる仕組みだった。
預ける際に行先の切符を見せると自分の乗る列車の荷物専用の車両に運ばれ、到着駅の手荷物引き渡し場所で受け取れるようになっていた。
私も一度だけ利用したことがある。

列車の発着のたびに、プラットフォームでは、そんな荷物運びの手伝いをしてくれる赤帽さんや駅弁売りの人たちが動き回っていた。
駅弁は汽車の窓のところまで売りに来てくれ、ほしい人は窓を開けて席にいながら買うことができた。
窓を開けた際には、今と違って蒸気機関車の場合は車体が煤で汚れているので、触らないように気を付けないと真っ黒に汚れてしまうことがあった。
余談だが、蒸気機関車では走っているときに窓を開けたままトンネルに入ると、車内に煙が入ってきて大変なことになる。
それでトンネルに入る際の汽笛のたびに、乗客はみんなで窓を閉めていた。

そんな車内での販売で、今では見かけなくなったのが冷凍ミカンと汽車土瓶のお茶だろう。
土瓶入りのお茶は、なかなか汽車の旅のできない人たちにとってはあこがれの旅土産にもなった。
その後ポリ容器に姿を変えてしばらく残っていたが、今ではほとんどペットボトルのお茶になってしまった。
何かのイベントの折に期間限定でも復刻してくれたら、往年の鉄道の旅を知る者たちにとっては懐かしいことだろう。

手荷物だけでなく、昔の陸運はほとんど鉄道が主流だったから、駅は荷物の積み下ろしの場所でもあった。
荷物は人力で積み下ろしされ、木箱などは手鉤でひっかけて引きずり出し、担いで運んだようだ。
積み荷としての扱いはもともと丁寧なものでないから、大切に扱ってほしいものには赤い字での「天地無用」や「手鉤無用」の張り紙が必要だった。
荷物は型崩れしないよう、そして持ちやすいように周囲をひもでしっかり縛って荷札を付けた。それでも時折角がへこんでいたり、しっかり新聞を丸めてクッションにしていても中身が破損していることも多々あった。
それを思うと、宅急便の時代になってからはずいぶんと早く、安心で便利に荷物を運べるようになったものだと感心する。