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ある美しい老婦人の予言

2013-02-19 20:41:26 | 日記


埋もれ木の 花咲くことも
    なかりしに
     身のなる果てぞ悲しかりける


私がこの和歌に初めて接したのは、今を去る30数年も前、高校生の時だった。
京都平等院に旅行に行ったとき、記帳をしてもらおうと窓口に出したところ、
年のころ70歳、白髪で清楚な女性が、差し出した朱印帳に書いた。

老婦人は大変お年を召しておられたが、高貴な雰囲気を漂わせていた。
普通ならお寺の名前、「平等院」と書くところ、老婦人はなぜか私にだけ和歌を書く。
「えっ」、と思って、「あのっ、これは何ですか?」
「これは和歌です。 普通は「平等院」と書くのだけれども、あなたには和歌を書きました」と婦人は言った。

和歌を書き留めたとこはない。覚えようとしたこともない。
しかし、35年経っても、ふっと夢の中に出てくる。和歌が出てくる。
一体、何故老婦人はこの和歌を私に書いたのか。
和歌の響きがきれいこともあって、とても印象的で脳裏に残っている。

どういう意味があるのだろうか。
調べてみた、すると、この歌は700年前に書かれた平家物語に出ており、和歌の作者は「源頼政」とある。
意味を知った私は愕然とした。
意味はだいたいこうなる。埋もれ木の花が咲くことがないように、私の生涯もときめくこともなく、その身の最期もまた悲しいことだ。
となるらしい。

「源頼政」とは、どういう人物か。 彼は歴史に名を残す人物だ。彼は、保元の乱、平時の乱に際し、平等院での平氏との戦いで敗れ、自害して果てた。この歌は自害する前に書かれた歌とある。  彼の自害を受けて、源頼朝、源義仲をはじめとする諸国の源氏が一斉に蜂起し、平家滅亡につながったという。

何故私の脳裏から この和歌が消えないのだろう。
なぜか、源--みなもと---というひびきに私は反応する。 人に前世があるとするならば、ひょっとして私は源氏の生まれ変わりかもしれない。
私は自分の人生を振り返る。

この和歌は私の人生を予言、暗示したかのようだ。
私の人生は不運の連続だった。何故、どうして、こんなことが、ということの連続だった。

私は大阪生まれであるが、祖先は関東出身らしい。
私の大阪での人生は不運の連続だったが、今、関東に移ってから、人生は好転した。
私の祖先は、源氏かもしれない。

老婦人が私にだけにこの和歌を書いたのも、不思議にも自分の前世を見越し、これから歩む自分の人生を予言、暗示したものだったのかもしれない?
そう思わせるほど、大阪での私の人生は不運、非業、争いが連続した生活だった。
今、関東の生活は落ち着いている。大阪から脱出して、世界に出て、帰国、し今関東にいる。
私は、関東が落ち着く、運も良くなった。

美しい、白髪の老婦人は今、どうされているのだろうか?
心に残る和歌を授けてくれた老婦人。
数十年たっても今だに、私の脳裏に住んでいる。




人に前世なるものは存在するか?

私も人生後半期に達した今、過去を振り返ると、何故、どうしてこんな理不尽なことが起こるのか?とよく思ったものだ。
原因、結果の因果律から起こることなら、よく考察すれば理解できる。
因果律を超越し、なんとも不可解なことが自分の身の周りに多発した。
私の一家は、一家離散に近い状態になってしまったのである。
父は祖先から引き継いだ財産を、今でいう数億円、その人生で全て散財してしまった。母は晩年、痴呆が入って、子供もわからなくなった。
自分はというと、会社で大きな実績をのこしたものの、嫉妬か、なにか不明な圧力が働き理不尽にも退職。
結婚し、娘ができたものの、最愛の娘と、理不尽にも別れさせらてしまった。
家を買った。2800万円の家はデベロッパーが倒産のため価格暴落、手放したところ手元にお金は残らなかった。1000万近く支払ったのに、売却益はマイナス1000万円。 任意整理をした。

自分の意思を超越し、何か見えない負のエネルギーによりそうさせられてしまった。いわば不可抗力。
何故だろう---自分が原因か? 自分は超まじめに努力し、がんばった。のに。 
ふと、前世はあるか?ということが頭をよぎる。

人は死んで終わりではない。次の世代に何かを引き継ぐ。
良いことも、悪しきことも次の生へバトンタッチする。

人は、誠実に生きることだ。 自分に潜む神、に恥じない、自分に嘘をつかない、自分自身を裏切らない人生を淡々と生きていく。
これが、最も正しい生き方だ、と思うようになった。

それで、いて、不幸もまた良し。不遇もまた味わおう。 理不尽なこともまた楽しもうではないか。と、達観することができるようになる。
泣いても笑っても、人生限りある。富めるもの、大成功をおさめた者、大金持ちになった者、無一文になった者、自殺した者、人生はドラマだ。
人生は、今という「時は」、終わる。

道端に咲いた、小さな、小さな、アルファルトの砂塵に咲いた可憐な花のように、人生に花を咲かせて、今を誠実に生きること。
これは、--自分にできることではないか。
そう、私は、思うようになった。

どうしても不運、よくないことが続く時、人は移動してみるべきだ。
父親が亡くなるまで看取って、そして大阪を飛び出し、世界に出て、いろんなところ、いろんな人生、を経験した。
父が亡くなった時、何故か涙が出ない。その死は自分に絡みつくしがらみ、枷が外れた解放感をもたらしたような感覚を感じた。
父は長男である私にとって縛りだったとも言える。私はけなげないい子供。親を大切にしてきた。

幽玄の世界。
この世は幽玄の世界だ。
幽玄とは、「言葉に現れぬ余情、姿に見えぬ景気なるべし」「心にも理深くことばにも艶極まりぬれば、これらの徳は自ら備はるにこそ」と、鴨長明は、その著書『無名抄』の中で言う。

源平の争いは今から800年ほどさかのぼる古い過去の出来事であるが、未だに影響を及ぼすことがあるのだろうか?
源氏は関東、平氏は関西。
翻弄された自分の人生は、平氏の残党が私に復讐をしているのかもしれない----と--思うことがある。
不思議なこと、理不尽なこと、意味不明な出来事が私の人生に多発した。
自分の人生を邪魔したエネルギーは、今もなお存在し続ける平家の残党かもしれない。

その一つが、この出来事。平等院の清楚で上品な老婦人が書いた、この和歌。
二つ目、家族が言うには、私が寝ているとき、何やら凄みのある、うわごとを大声で叫ぶことがあったという。
それは、自分ではない。自分以外の何者かが、自分の肉体を使ってしゃべらせているのだ。
自分には全く覚えがない。
一体、なんだ、この正体は! もう今、中年になった今、もうこれもなくなったが、どうしても腑に落ちない出来事だ。

20代中ころ。会社員時代。機械メーカー設計部に入社して1週間たったある日のこと。製造現場で働く職人が私をいじめた。私の顔を見るなり悪口を社内に言いふらす。悪態を付く、彼は50歳程度の中堅社員で、課長職に付いている。彼は入社して1週間目の若造、25歳の私を攻撃する。
彼は私が煙たくて、いやでたまらんという感じで、入社したての私はつらかった。彼の顔は非常に醜い。しかし、ふと、彼の顔があっ、どこかで会ったことのある、見たことがあるような記憶がする。じっと想いを凝らす。眼底に映像が映る。私は歩いている。私の一行は身なりがよい。私達は貴族か、武士か。一行があるところで、野党か、盗賊か! 4,5人の集団が私たち一行を襲った。「あっ、」その時の盗賊の中に、やつの顔が見える。まさしく彼だ。 彼は、800年経っても私を追っかけていた。

人はこの世に母体から生まれた瞬間から、茫々たる過去、家の過去、先祖から、受け継いでいる。

理不尽な過去生に振り回されない、しっかりとした人生を歩んでいこうとする生き方が、答えを見出す。

永遠(とわ)の旅人
人の肉体寿命は約100年。泣いても笑っても100年間生きて終わる。しかし、肉体は朽ち果てても残るものがある。 脳はなくなるから思考すること、考えることはない。神道では奇魂(くしたま)という。奇魂はなくならない、永遠不滅。 
死んで、奇魂となって数百年幽界、天界,神界などに滞在したあと、縁ある母体に奇魂が宿る。そして生まれて100年人生を歩む。
人は、永久の旅人だ。 

旅とは楽しむものだ。「旅」とは本来、興奮する、見知らぬものに触れる感動、喜び を意味する。 いやなことに出くわすことも、ま、あるだろう。美しい人、物、芸術に触れる感動もあるだろう。殴られて、傷つくこともあるだろう。大金を手にすることもあるかもしれない。 それが、「旅」 だ。
「奇魂」こそが、本来の自分だ。 

人は永遠の旅人だ。旅をして奇魂は成長する。














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