外国と日本が混じります
鶴田 吾郎(つるた ごろう、1890年7月8日 - 1969年1月6日)
日本の画家(洋画家)
東京生まれ 早稲田中学を中退したのち、
倉田白羊、中村不折に師事した1913年(大正2年)から1920年(大正9年)にかけて、朝鮮と満洲で暮らす
第2回の帝展に「盲目のエロシェンコ像」が入選する
中村不折は 僕の家の親戚筋にあたります
手紙や篆刻など以前載せました
中村 不折(なかむら ふせつ、1866年8月19日(慶応2年7月10日) - 1943年(昭和18年)6月6日)
明治、大正、昭和期に活躍した日本の洋画家、書家
太平洋美術学校校長-この時の手紙があると思います
夏目漱石『吾輩は猫である』の挿絵画家として知られている。
伊原 宇三郎(いはら うさぶろう、1894年10月26日 - 1976年1月5日)
徳島県徳島市出身で国内外で活躍した洋画家です
古典主義風の重量感のある裸婦像など,数多くの人物画を制作
またパブロ・ピカソに傾倒し、著書を著して日本にピカソブームを巻き起こした
戦時中は陸軍嘱託画家として台湾、香港、ビルマ(現・ミャンマー)、中国、タイ等に派遣され
「バーモウ・ビルマ国家代表像」、「香港に於ける酒井司令官、ヤング総督、の会見」、
「島田戦車部隊スリムの敵陣突破」などの戦争記録画の制作にもあたる
戦後は、日展の審査員を務める。1949年日本美術家連盟の委員長として、作家の立場を守る努力をする
この葉書には 差出人から 言葉が添えられているが
読めない部分が多い