▼星飛雄馬の高校時代、プロ入団(『巨人の星』、『パッチギ』、『華麗なる一族』、『あしたのジョー』、『ドラえもん』、『アタックNo.1』)
青雲高校時代
1966年(昭和41年)春、星飛雄馬は青雲高校に入学。野球部に入団し、柔道部の主将だった伴宙太が野球部に移籍。星一徹が短期間だけ監督を勤め、紅白戦で飛雄馬の敵にまわり、飛雄馬を苦しめた。
一徹が監督を勤めた理由は、飛雄馬がバックを信頼せずに自分の球威だけで勝とうとしており、その思い上がりを戒めるためだったが、その飛雄馬の思い上がりも一徹が作ったもので、一度は王貞治からも指摘されたものだった。しかし、飛雄馬の悪癖は容易には治らず、飛雄馬の勝手な降板癖としてプロ前期の左腕投手時代終了まで尾を引くことになる。一徹が辞めたあと青雲野球部は都の予選を勝ち抜き、甲子園大会で準優勝。
星飛雄馬は青雲を中退し、伴宙太とともに巨人軍にテスト入団。メキシコ五輪の候補生だった陸上選手・速水譲次も入団。
ここで時代はなぜか、1967年(昭和43年)秋に移っており、川上巨人はセ・リーグと日本シリーズでV3を達成していた。『巨人の星』で少年時代、高校時代を丁寧に描いていたため、時間が予想以上にかかってしまったのだろう。これは有名で、河崎実の『「巨人の星」の謎』、豊福きこう『水原勇気0勝3敗11S』でも言及されている
しかし、『ドカベン』山田太郎たちの高校入学からプロ入りまで20年という世界に比べれば、『巨人の星』の1年など、まだ序の口である。
プロ入団
星飛雄馬は川上監督から現役時代の背番号16を贈呈された。川上のV9監督時代の背番号は77。しかし、投手としてのエースナンバーは18で、飛雄馬が18番をもらうことはなかった。当時、18番は言うまでもなく、堀内恒夫(のちに監督)がつけており、飛雄馬が受けた遠投テストの審査員もなぜか18番で、一徹も三塁手ながら18番だったらしい(河崎実『「巨人の星」の謎』)。
アニメでは、のちに明子が飛雄馬に「背番号16には投手として入団しながら、打者に移った川上監督の夢がこめられている」と語っている。川上は投手から一塁手に変わって打撃の神様になったが、川上の後継者と言えるのは、V9時代の現役選手の中では星飛でなく王貞治であろう。
優勝高校である紅洋高校の花形満は阪神に、準決勝で青雲と戦った熊本農林高校の左門豊作は大洋ホエールズ(のちの横浜ベイスターズ)に入り、年末から練習に参加。ある記者は藤村定義監督の心裏を「哲よ、ことしはいただくぜ」と推測したが、「ことし(今年)」でなく「来年」と言うべきであった。
左門はまき割り、草むしり、農作業などで足腰を鍛えた。甲子園で星飛雄馬は学友の牧場春彦から左門の生い立ちを聴いたとき、船をこいで足腰を鍛えた大投手・稲尾に喩えていた。左門のまき割りによる怪力は、のちに中日に入る大砲万作に受け継がれる。
なぜか、飛雄馬を相手に甲子園で善戦した尾張高校の太刀川のその後はまったく記録されていない。
二軍時代の飛雄馬は一度、王と長嶋を三振に打ち取ったが、一徹は千葉周作と国定忠治の話をして、相手にかすり傷を負わせても、次には一刀両断されると戒めた。そして二度目の対戦で飛雄馬はONに打ち込まれた。
星飛雄馬は二軍戦で東映フライヤーズ(日本ハムファイターズ)と対戦。東映の監督は元阪神の藤村富美男(ふじむらふみお)、『新必殺仕事人』の元締め・虎であった。
一徹によると、藤村はかつて沢村栄治と対戦し、速球打ちでは日本一と言われたらしい。
前後一覧
2008年2/28(東京裁判~「戦後」復興期~星飛雄馬プロ入団)
2008年2/28(「戦後」復興期~大リーグボール1号)
青雲高校時代
1966年(昭和41年)春、星飛雄馬は青雲高校に入学。野球部に入団し、柔道部の主将だった伴宙太が野球部に移籍。星一徹が短期間だけ監督を勤め、紅白戦で飛雄馬の敵にまわり、飛雄馬を苦しめた。
一徹が監督を勤めた理由は、飛雄馬がバックを信頼せずに自分の球威だけで勝とうとしており、その思い上がりを戒めるためだったが、その飛雄馬の思い上がりも一徹が作ったもので、一度は王貞治からも指摘されたものだった。しかし、飛雄馬の悪癖は容易には治らず、飛雄馬の勝手な降板癖としてプロ前期の左腕投手時代終了まで尾を引くことになる。一徹が辞めたあと青雲野球部は都の予選を勝ち抜き、甲子園大会で準優勝。
星飛雄馬は青雲を中退し、伴宙太とともに巨人軍にテスト入団。メキシコ五輪の候補生だった陸上選手・速水譲次も入団。
ここで時代はなぜか、1967年(昭和43年)秋に移っており、川上巨人はセ・リーグと日本シリーズでV3を達成していた。『巨人の星』で少年時代、高校時代を丁寧に描いていたため、時間が予想以上にかかってしまったのだろう。これは有名で、河崎実の『「巨人の星」の謎』、豊福きこう『水原勇気0勝3敗11S』でも言及されている
しかし、『ドカベン』山田太郎たちの高校入学からプロ入りまで20年という世界に比べれば、『巨人の星』の1年など、まだ序の口である。
プロ入団
星飛雄馬は川上監督から現役時代の背番号16を贈呈された。川上のV9監督時代の背番号は77。しかし、投手としてのエースナンバーは18で、飛雄馬が18番をもらうことはなかった。当時、18番は言うまでもなく、堀内恒夫(のちに監督)がつけており、飛雄馬が受けた遠投テストの審査員もなぜか18番で、一徹も三塁手ながら18番だったらしい(河崎実『「巨人の星」の謎』)。
アニメでは、のちに明子が飛雄馬に「背番号16には投手として入団しながら、打者に移った川上監督の夢がこめられている」と語っている。川上は投手から一塁手に変わって打撃の神様になったが、川上の後継者と言えるのは、V9時代の現役選手の中では星飛でなく王貞治であろう。
優勝高校である紅洋高校の花形満は阪神に、準決勝で青雲と戦った熊本農林高校の左門豊作は大洋ホエールズ(のちの横浜ベイスターズ)に入り、年末から練習に参加。ある記者は藤村定義監督の心裏を「哲よ、ことしはいただくぜ」と推測したが、「ことし(今年)」でなく「来年」と言うべきであった。
左門はまき割り、草むしり、農作業などで足腰を鍛えた。甲子園で星飛雄馬は学友の牧場春彦から左門の生い立ちを聴いたとき、船をこいで足腰を鍛えた大投手・稲尾に喩えていた。左門のまき割りによる怪力は、のちに中日に入る大砲万作に受け継がれる。
なぜか、飛雄馬を相手に甲子園で善戦した尾張高校の太刀川のその後はまったく記録されていない。
二軍時代の飛雄馬は一度、王と長嶋を三振に打ち取ったが、一徹は千葉周作と国定忠治の話をして、相手にかすり傷を負わせても、次には一刀両断されると戒めた。そして二度目の対戦で飛雄馬はONに打ち込まれた。
星飛雄馬は二軍戦で東映フライヤーズ(日本ハムファイターズ)と対戦。東映の監督は元阪神の藤村富美男(ふじむらふみお)、『新必殺仕事人』の元締め・虎であった。
一徹によると、藤村はかつて沢村栄治と対戦し、速球打ちでは日本一と言われたらしい。
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2008年2/28(東京裁判~「戦後」復興期~星飛雄馬プロ入団)
2008年2/28(「戦後」復興期~大リーグボール1号)
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