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『巨人の星』

2009-02-15 18:01:00 | 宣傳掲示板に書いた内容
私にとって『巨人の星』とは、あくまで王貞治が現役だった時代、梶原一騎が健在だったころの作品である。

つい最近、東京MXテレビで再放送していた『巨人の星』の花形満は「中学生で車を運轉していた」と言われる。
しかし、その後の展開を考えると、花形の初登場時は小学生になってしまう。

星飛雄馬が高校1年で夏の甲子園に出場し、高3の花形に敗れ、高1の2学期で青雲高校を中退、後半戦のシーズン中に巨人にテスト入団したとき、巨人はV3を達成し、年明けは1968年で飛雄馬は台湾キャンプに参加。

すると、飛雄馬は1967年度で高1(16歳)、花形は2年先輩で、1967年度で高2(17歳)。
したがって、飛雄馬は1951年生まれ、花形は1949年生まれ。両者とも早生まれ(年度の遅生まれ)でないことは作品からわかる。

そこから冒頭に戻ると、星飛雄馬が巨人入団直後の長嶋茂雄に魔送球を投げつけ、花形満と出会い、早稲田実業3年当時の王選手と対戦したのは半世紀前の1958年。
飛雄馬は7歳(小1)、花形は9歳(小3)になってしまう。

しかし、世間で言われているように、初登場時、ブラック=シャドーズを率いていた花形はどう観ても小学3年には見えない。当時、飛雄馬の小学校にいた6年生の赤川より花形は年上として描かれていた。
そうなると、初登場時の花形は紅洋高校に入る前だから最高で15歳。
また、当時、作中の川上哲治は飛雄馬を「10歳くらい」としていた。

さらに、飛雄馬が青雲高校に入ったのは昭和41年(1966年)の春だった。

そこで、『巨人の星』を飛雄馬の少年時代、青雲高校時代、プロ野球時代に分けて、この3つの時期の飛雄馬を別人と解釋すると問題が解決する。

少年野球時代の飛雄馬は1948年生まれ、花形は1943年生まれで、1958年当時にはそれぞれ飛雄馬10歳、花形15歳であった。「花形は中学生で車を乗り回していた」はこのイメーヂに基づく。

高校野球編の飛雄馬は1950年生まれ、花形は1948年生まれで、1966年の春でそれぞれ飛雄馬16歳、花形18歳。

そして、プロ野球編の飛雄馬は1951年生まれ、花形は1949年生まれで、
1967年の秋でそれぞれ飛雄馬16歳、花形18歳。

河崎実『「巨人の星」の謎』、柳田理科雄『空想科学読本5』、豊福きこう『水原勇気0勝3敗11S』(のちに『~1勝3敗12S「超」完全版』として改訂)では「飛雄馬1951年生まれ説」を採用している。

もっとも、河崎実は星占いから飛雄馬の誕生日を1951年の「2月」としており、この推定では早生まれになってしまうので、結局「1966年春、高校入学」になる。
星飛雄馬が大リーグボール3号で左腕を破壊した1970年当時は19歳、76年に右投手として巨人に復帰したのは25歳、蜃気楼の魔球を開發した78年当時は27歳で、翌79年に巨人の二軍コーチになったのが28歳という風に、プロ入りから『新巨人の星』『巨人のサムライ炎』に至る飛雄馬のキャリアはこのプロ編基準で解釋できるだろう。
『巨人のサムライ炎』の作中で飛雄馬の年齢設定がどうなっているかは、まだ、確認前なので、いずれ観てみたい。

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星飛雄馬年齢変遷、年表

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『忠臣蔵』

2009-02-15 17:59:00 | 宣傳掲示板に書いた内容
毎年12月になると『忠臣蔵』の時代劇が放送される。
一般的に浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)と大石内蔵助(おほいしくらのすけ)が善玉で、吉良上野介(きらかうづけのすけ)が悪玉と解釋され、一般にこれは敵(かたき)討ちと見なされているが、これはまことに奇妙な現象である。

まず、「忠臣蔵事件」の發端は江戸城の殿中松の廊下で浅野が吉良に刀で斬りつけたことから始まる。
当時の法にしたがい、浅野は切腹処分。これを不服とした浅野の家臣・大石ら47名の赤穗浪士(あかほらうし>あこうろうし)が夜間から明け方にかけて吉良邸に押し入り、住民を殺傷し、吉良の首を切断し逃走した。これが『忠臣蔵』の顛末である。

大石ら47名のしたことは、昨今の厚生事務次官連続襲撃事件に匹敵する反社会的犯罪行為である。

江戸時代には敵(かたき)討ちが合法とされていたが、赤穗浪士による吉良邸討ち入りは敵(かたき)討ちではない。
敵(かたき)討ちは「殺人事件の被害者の身内が仇討ちの免状(許可証)を得て、加害者に報復する」ことであるが、『忠臣蔵』は「殺人未遂事件の加害者の身内が被害者を殺した二重犯罪」である。
まず、吉良上野介は浅野内匠頭を殺していない。

もし、浅野を被害者、吉良を加害者とするなら、松の廊下の刃傷の前に浅野が吉良から受けたとされる虐め、浅野の言う「遺恨」である。
つまり、浅野と大石は「浅野が受けた虐め」への報復として吉良を殺そうとした、または殺したのである。これを日本中がもてはやすのであれば、感情的で理不尽な殺人事件が後を絶たないのも日本人の国民性によるものということになる。

赤穗浪士は亡君・浅野への忠義を示し、浅野を仇(あだ)を討とうとしたという擁護論もあるだろう。
しかし、浅野は徳川綱吉の判断で切腹処分になったのである。したがって、大石らが浅野の仇を討つのであれば、綱吉を討ってこそ敵(かたき)討ちとして成立する。

加害者・浅野内匠頭の家臣である大石内蔵助らが吉良への逆恨みで吉良邸への討ち入りをしようとしても、仇討ちの免状などもらえなかったのは当然。

つまり、赤穗浪士による吉良邸への討ち入りは47名の男が人家に押し入り、住民を刃物で斬りまくり、老人を引きずり出して殺害した狂気のテロ行為である。
日本では首相が交代するたびに「先の大戦は侵略であったか否か」が問われ、踏み絵のように首相の歴史観が検閲され、幕僚長が一民間企業に出した作文がそれに合わないだけで首が飛ぶという言論統制状態である。それでは、赤穗浪士が戦でもないのに行なったこの狂気の犯罪行為についての歴史認識を国民全体で検証しなおすべきであろう。

『水戸黄門』の主人公・徳川光圀は、時代劇で日本各地の政治、経済の不正を正して回った。しかし、「史実」では最大遠征先が鎌倉で、関東地方内部を移動しただけのようだ。

時代劇の光圀は「先の副将軍」であるから「内閣の前副總理」または「自民党の前副總裁」のようなもの。今で言えば山崎拓・元副總裁に近く、渡部恒三や塩川正十郎ではないところに注目。

水戸黄門の漫遊は、喩えて言えば山崎拓が非公式に日本全国を廻って各地の地方政治に干渉したり、外国に渡ったりする二重行政もどきのパフォーマンスに近い。
実際、光圀は行く先々で正体を明かしても「わしは忍び」と言い、悪人に対して「藩主に仔細を申し上げるので、厳しい沙汰があると覚悟せよ」(趣旨)という間接的な叱責をすることが多い。要するに権限が確定しない越権行為である。

しかも、光圀一行は何十回も全国行脚を繰り返しており、逆に言えば、光圀が何度全国を回っても効果が長続きしないということだ。
これについては、前鳥取県知事・片山善博氏が『中央公論』2007年4月号で「改革派知事への期待は水戸黄門幻想だ」という趣旨で述べていたので、図書館で一読することをお勧めする。

『暴れん坊将軍』と『大岡越前』では徳川吉宗と大岡忠相が偽名を名乗って自ら街を探索していた。これは享保時代の幕府や奉行所にろくな人材がいなかったことを示している。

また、天保の改革の時代を描いた『遠山の金さん』では北町奉行・遠山影元(とほやまかげもと)こと金四郎が遊び人となって町を出歩いていた。この遠山奉行の場合、裁判官が捜査官と目撃者を兼ねていたわけで、そういう状況でないと事件の犯人を裁けないわけで、与力、同心以下、役立たず揃いだったことになる。

時代劇でもてはやされる話がもし、史実だったら、それは社会が破綻していたことを意味する。

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『必殺仕事人』

2009-02-15 17:57:00 | 宣傳掲示板に書いた内容
スペシャル版『必殺仕事人2007』が連続ドラマとなり、『必殺仕事人2009』としてスタートした。毎週金曜日に放送している。

それで、「中村主水(~もんど)は映画『必殺!主水(もんど)死す』(1996年)で死んだはずでは?」という疑問が出るのはもっともであるが、これは時代設定を考えるとわかる。

『必殺!主水死す』で死んだ主水は1851年ごろにその生涯を閉じたが、『必殺仕事人2007』の時代設定はは1820年で、『2009』は『2007』の続編だからだ。

『必殺!主水死す』では冒頭で葛飾北斎が没しており、これは西暦1849年のこと。また、作中で中村主水が水野忠邦を暗殺しており、これが忠邦の没した1851年とすれば、時代設定は1849年から1851年までを含む西暦1850年前後。

一方、SP版『必殺仕事人2007』では冒頭で「文政三年二月十四日」という字幕が出るので、文政3年とは西暦にすると1820年である。
つまり、『2007』における世界は『主水死す』から30年前の話であり、1851年ごろに死んだ主水が1820年に生きていても不思議はない。

問題は、『主水死す』以前の作品の必殺で、1853年以降の幕末を舞台にした作品に登場した主水である。

1854年、2度目の黒船来航と日米和親条約締結のとき、主水は横浜で開かれた日米会談の護衛を任され、1858年の日米修好通商条約のとき、中村主水は日本とアメリカの親善野球大会の日本代表監督を任されている(「正史」では、野球は1873年=明治6年に日本に傳来した)。
また、主水は1860年に桜田門外で井伊直弼を暗殺し、1863年には清川八郎と組んで横浜で裏稼業。陰暦の1866年末、陽暦の1867年初めに慶喜が将軍になった時代、主水は『ブラウン館』で描かれた仕事をしており、1868年には鳥羽・伏見の戦いに出陣した。

これについては1702年の赤穗浪士による吉良邸討ち入りを題材にした『必殺忠臣蔵』と1982年ごろの『必殺現代版』を考えれば、服部半蔵や山田朝右衛門のように、あらゆる時代に中村主水が存在したと解釋できる。
すると、1851年ごろに小屋の爆發事故で没した中村主水は江戸時代に複数いた中村主水の一人であり、1853年の黒船のときの仕留人(しとめにん)・主水は別人。
また、『主水死す』の主水と『2007』の主水も30年の時を隔てて年齢は同じくらいなので、親子ほど年が違うと考えたほうがいい。

『仕事人2009』では絵師の仕事人が登場する。過去の必殺では安藤廣重と葛飾北斎が依頼人か、その関係者のような立場で登場したが、画家がそのまま仕事人というのは初めてではないか。
必殺でなじみの深い芦屋雁之助が山下清という画家を演じたのも何かの因縁か。

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ものがたりの歴史 投稿者:Monogatari Rekishi 投稿日:2009年 2月15日(日)19時00分0秒
ものがたりの歴史 投稿者:Monogatari Rekishi 投稿日:2009年 2月28日(土)15時01分21秒

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