第③項 救われる人の予型ヤコブ
191.①弟のヤコブは、体格も貧弱で、性格も柔和で温順です。心から愛している母レベッカのご気げんを取るため、ふだんは家に母といっしょにいます。そとに出ることがあれば、それはけっして、わがままからでもなければ、自分の才能に自信があるからでもありません。ただ、母のいいつけに従うためなのです。
192.②ヤコブは、母を愛し尊敬しています。だから、しじゅう家に、母のそばにいるのです。母の顔をながめるときが、いちばんしあわせです。すべて母の気に入らないことはしないように、また母の気にいることなら何でもしようと努力しています。それを見て母レベッカも、ますますヤコブをいつくしみ、愛するようになるのです。
193.③ヤコブは、あらゆる点で、愛する母の望みどおりになっています。母のいいつけにはすべて従っています。それも、ぐずぐずせず迅速に、ブツブツ言わず心から従っています。母がちょっと望みをあらわすと、すぐさま、それを実行します。母のいうことは何でも本当だと、理屈なしに信じています。そんなわけで、父イザアクの口に合うように料理したいから、二ヒキの子ヤギをもっていらっしゃい、と母に言われたとき、ヤコブは母にタッタひとりの人が、タッタ一度だけ食べるのですから、子ヤギは一ピキで十分ではないでしょうか、などと口答えしません。ヤコブは、母に言われたとおりにするのです―ぜんぜん理屈なしに。
194.ヤコブはたいへん母を信用しています。自分の才能や、ウデにはぜんぜん信用していないからです。母からの配慮と保護を、唯一のよりどころとしているのです。必要なものはなんでも、母にねがっています。どうしていいか分からないときには、いつも母に相談しています。たとえば、そういう大それたことをしたら、祝福のかわりにノロイを受けるのではないでしょうか、と母にたずねたとき、母が、「子よ、あなたが受けるノロイは、わたしが引き受けます」と答えると、かれは母のことばをそのまま信じ、安心して母にすべてをまかせるのです。
195.⑤さいごにヤコブは自分なりに、母のかずかずの善徳を、まねていました。かれが自分の家にジっと“定住”していたわけの一つは、たいへん徳が高かった母を模倣するため、そうすることによって、自分の品行を下落さすおそれのある、悪い友達づきあいをさけるためだったのです。こうした生き方をしたればこそ、かれは父イザアクから、二重の祝福を受けるのにふさわしい者となったのです。
第二節 救われる人とマリア
第①項 救われる人の生き方
196.以上述べてきたヤコブの生き方は、そっくりそのまま、救われる人が毎日、実践している生き方なのです。
①救われる人は、自分の最愛の母マリアといっしょに、家に、すなわち自分の内奥に閉じこもっています。つまり、かれは黙想が好きです。内的生活が好きです。念祷に専従します。それも、自分の母なるマリアの模範にならい、マリアとともにです。マリアの栄光は、彼女の内面に深く秘められています。マリアは一生をつうじて、黙想と念祷を、ことのほか愛されました。
なるほど、救われる人も、ときたま、外面に、すなわち世間のまっただ中に出ることもあります。しかしそれはあくまで、神のみこころに、また聖母のみこころに、従うためです。神と聖母のみこころに従って、身分上の義務を果すためです。かれらは世間で人の目から見て、どんなに偉大なわざを行っても、しかしそれよりも、自分の内面にひきこもって、聖母とともに、ヒッソリといとなむ霊性のほうを、はるかに高く評価しています。なぜなら、自分の心の深奥で、完徳の偉大なわざを実行しているからです。完徳のわざにくらべたら、ほかのわざはみな、取るに足らぬもの、児戯にひとしいからです。
そんなわけで、信仰における兄弟姉妹たちがときたま、世の人びとのために、力のありったけを出し、精魂をかたむけ尽くして、しかも世人の絶賛のうちに、大活動をしているのを見ても、かれらの心はすこしも動揺しません。
多くのエザウの亜流や、亡びる人たちのように、世間のドまん中におどり出て、これ見よがしに、しかも自分自身の名誉のため、また自分自身の力だけによって、自然界・恩寵界の大事業をするよりも、むしろ自分の模範であるイエズス・キリストとともに、御母マリアに全面的に、完全に従属しながら、自分の心の深奥にかくれて住んでいるほうが、自分にとってはもとお大きな利益、もっと大きな楽しみがあるということを、聖霊の照らしのもとで、ハッキリさとっているからです。
「栄光と富とはその家にある」(詩篇112・3)
なるほど、そうです。神の栄光も、人間の富も、“マリアの家”にこそ無尽蔵にあるのです。
主イエズス。あなたのお住まいはなんと美しく、なんと慕わしいものでございましょう。スズメさえもそこに、住みかを見つけました。ツバメもそこに、ひなを入れる巣を見つけました。
主イエズス、あなたがまっさきに、ご自分のスイート・ホームとなさった“マリアの家”に住まう人は、どんなにしあわせなのでございましょう。
救われる人の住みかであるこの“マリアの家”の中でこそ、人はただあなたおひとりから助けを頂くのです。また自分の心の中で徳から徳へと進み、この涙の谷に泣き叫びながらも、完徳の頂をめざして一歩一歩のぼっていくのです。ああ、イエズス、あなたの住まいはなんと美しく、なんと慕わしいものでございましょう。(詩篇84篇参照)。
197.救われる人は、マリアを自分の良き母として、心から愛しています。マリアを、自分の女王として、まごころこめて尊敬しています。
ただ口先ばかりでなく、真実にマリアを愛しています。ただ外面的ばかりでなく、心のそこから、マリアを尊敬しています。ヤコブのように、すべてマリアのご気げんをそこなうことは、細心の注意を払ってさけています。反対に、マリアのご厚意を取りつけることだったら、全力を尽くして実行しています。
ヤコブが、母レベッカにそうしたように、救われる人もマリアに、二ヒキの子ヤギでシンボライズされている、自分の身体と霊魂を与え、ささげ尽くしています。同時に、身体と霊魂にかかわりのあるすべてのものを、ささげ尽くしています。そのいきさつは、ヤコブの子ヤギが予型となっています。すなわち、身体と霊魂を
(a)マリアが受け取って、それをまったくご自分のものとなすため、
(b)マリアが、この二つのモノを殺し、罪と自我に死なせ、自愛心という名の皮をはぎ取り、こうして当人を、御子イエズスのお気に召す者とならせるためです。なぜなら、御子イエズスは、自分自身に死んだ者しか、ご自分の友として、弟子として、お受けにならないからです。
(c)マリアが、身体と霊魂というこの二つのモノを使って、天にいます御父のお口に合った美味しい料理を作るため、またこの二つのモノを道具にして、御父の最大の栄光をあらわすためです。御父のお口に合った美味しい料理づくり、御父の最大の栄光の現わし方にかけては、マリアの右に出る者は被造物の中には一人もいません。
(d)マリアの心づかいと取り次によって、この身体、この霊魂が、あらゆる罪のけがれからまったく清められ、まったく自分自身に死し、まったく自我を超克し、このうえなく美味しく料理されて、御父のお口に合った御馳走となり、こうして当人を、御父の祝福にふさわしい者となすためです。こうした生き方こそ、わたしがこの本で述べている、マリアのみ手をとおしてイエズス・キリストに、自分自身をささげ尽くす―という信心を味わい実行している、救われる人の日常の生き方ではないでしょうか。こうした生き方によってこそ、救われる人は、イエズスとマリアに、自分の行動的な、勇敢な愛をあかしているのです。なるほど、亡びる連中も、オレたちはイエズスを愛している、マリアも愛している、尊敬もしている、と盛んに吹聴しているのです。が、それはただ、かけ声だけで、かれらは自分の財産や持物を犠牲にしてまで愛してはいません。救われる人のように、自分の身体をその官能とともに、自分の霊魂をその諸欲とともに、犠牲にしてまで愛してはいないのです。
198.③救われる人は、イエズス・キリストのお手本にならって、御母マリアに隷属し服従します。イエズスは、その地上生活三十三年のうち三十年もの長い期間を、御母マリアへの完全な全面的な隷属と服従をとおして、神なる御父の栄光をあらわすことにお使いになりました。
救われる人は、御母マリアの良きすすめを、きちょうめんに守ることによって、彼女に服従しています。ちょうどその昔ヤコブが、「わたしの意見にしたがい、わたしの言うとおりにしなさい」(創世記27・8)といった母レベッカのすすめに素直に従ったように。また、カナの結婚披露宴のとき、手伝いの人たちが、「あのかた、わたしの息子が言われることは、何でもしてあげてください。」(ヨハネ2・5)とおっしゃった“イエズスの母”マリアのいいつけによく従ったように。
ヤコブは母にすなおに従ったおかげで、ほんらいならとうてい手に入れることができなかった祝福を、まるで奇跡でもおこったかのように、まんまとせしめたのです。カナの結婚披露の手伝いの人たちは、聖母の良きすすめに素直に従ったおかげで、聖母のおねがいによって、水をぶどう酒に変える、というイエズス・キリストの“最初の”奇跡のおぜんだてをする栄光に浴したのです。
同様に、世の終りにいたるまで、天にいます御父から祝福を受ける者はみな、また神から偉大な奇跡をめぐんでもらう者はみな、それはひとえに、御母マリアへの完全な服従のおかげでこそ、それらの恵みを神から頂くのだということを、ゆめにも忘れてはなりません。これに反して、エザウの子らは、聖母への隷属と服従を欠いているからこそ、せっかくの祝福も失ってしまうのです。
199.④救われる人は、御母マリアのいつくしみと力づよさに、大きな信頼をよせています。御母マリアに絶えまなく助けを求めています。自分の人生の終着駅にめでたく到着できるため、御母マリアを希望の星とあおいでいます。心のとびらを全開にして、自分の苦しみ、自分の必要を、御母マリアに披瀝しています。御母マリアの慈悲ぶかい、甘美な乳房にしがみついています。そのお取り次によっておかした罪のゆるしをねがうためです。苦悩のとき、また生の倦怠を感じるとき、マリアの母ごころの甘美さを味わうためです。感嘆すべき方法でマリアのご胎に自分をかくし、自分を消しています。そこにかくれひそんで、マリアの聖純な愛で焼き尽くされるためです。そこで、ごくわずかなけがれからも清められて、イエズス・キリストを見いだすためなのです。イエズスはマリアのご胎を、最高に栄光ある玉座として、そこで支配しておいでになるからです。
ああ、なんというしあわせなんでしょう。まさにゲーリク修道院長が言っているとおりです。「マリアのご胎に住まうようりも、アブラハムのふところに住まうほうが、もっとしあわせだと考えてはいけません。なぜなら、主イエズスは、マリアのご胎にこそ、ご自分の玉座をおすえになったからです」(「被昇天についての説教」4。)
これに反して、亡びる人は、自分自身にまったく信頼しきっています。放蕩息子のように、ブタの食うイナゴ豆しか食べません。ガマのように、土くれでしか自分を養いません。俗悪な人のように、ただ目にみえるもの、ただ外面的なものしか愛しません。マリアのご胎と乳房の甘美さを、絶対に味わうことができないのです。
救われる人が、御母マリアに対していだいている、信頼感のひとかけらも持っていません。大聖グレゴリオ教皇が言っているように、亡びる人は気の毒にも、そとで、飢えることを愛しているのです。なぜなら、自分自身の内面に、イエズスとマリアの内面に、それぞれみごとに用意されている甘美さを、味わいたくないからです。
200.⑤さいごに、救われる人は、御母マリアの道をよく守ります。別のことばで申せば、御母マリアの生き方を模倣します。だからこそ、かれは本当にしあわせで熱烈な聖母信心家なのです。だからこそ、かれらは救霊のまちがいないしるしを、わが身にたずさえているのです。それもそのはず、御母マリアはかれらに、「わたしの道を守る人はしあわせです」(詩篇119・3)と言っておられるからです。
じっさい、かれらはこの世でも生涯にわたって、しあわせです。
わたしの満ちあふれから、かれらに流通する豊かな恩寵と甘美さのゆえに、しあわせです。わたしはそれをかれらに、かれらほど近くからわたしを模倣しない人びとよりも、もっと豊かに流通するからしあわせです。とりわけ臨終のとき、かれらはしあわせです。それは平和で安らかな死です。わたし自身、かれらの臨終をみとり、わたし自身かれらを、永遠の幸福の住まう天国へとみちびくからです。
さいごに、かれらは永遠にしあわせです。
地上生活のあいだ、わたしの徳を模倣した、わたしの良いしもべのうち、ひとりとして地獄に行った者はいないからです。
ああ、マリア、わたしの良き母よ、わたしは感激で胸をわくわくさせながら、あえて申し上げます。あなたへのまちがった信心に迷わされないで、あなたの道、あなたのすすめ、あなたのいいつけを守る人 は、どんなにしあわせなのでございましょう。
これに反して、あなたへの信心をあしざまに言いふらして、あなたの御子イエズスのおきてを守らない人は、どれほど不幸、どれほどのろわれた者でございましょう。
「あなたのおきてから迷い出る人はみな、のろわるべき者です」(詩篇119・21)
第②項 忠実なしもべに対して、マリアはどんな態度をとられるのか
201.すべての母の中の最高最良の母はマリアです。このマリアが、わたしがこれまで述べてきた流儀にしたがい、またヤコブの予型にしたがって、ご自分にわが身をささげ尽くした忠実なしもべたちに対して、どんないつくしみの態度をおとりになっているか、
A.マリアは、かれらをお愛しになります。
「わたしは、わたしを愛する者を愛する。」(格言8・17)
マリアは、ご自分の忠実なしもべたちをお愛しになります。そのわけはこうです。
イ、マリアは、かれらの本当の母だからです。ところで、母親というものはきまって、自分のおなかをいためた子を愛するはずです。
ロ、マリアは、かれらを、義理でも愛し返さねばなりません。なぜなら、かれらはマリアを自分たちの良き母として、行動的に愛しているからです。
ハ、かれらは救われる者として、神から愛されています。だから、マリアも当然かれらを愛されるのです。「ヤコブを愛し、エザウを憎んだ」(ローマ9・13)
ニ、かれらはマリアに、まったくささげ尽くされていて、マリアの所有物、マリアの相続財産(「イスラエルを相続財産として受けよ」(集会書24・13)となっていますから、マリアはかれらを愛されるのです。
202.マリアはご自分の忠実なしもべたちを、優しい心でお愛しになります。すべての母親の優しい心を一つに集めたものよりも、もっともっと優しい心でお愛しになります。全世界のすべての母親が、その子に対してもっているすべての愛情を、ただひとりの母親が、そのひとり子に対してもっている愛の心に、そそぎ入れたと仮定してごらんなさい。この母親はどんなに優しく、自分の子どもを愛するのでしょう。ところで、マリアが、ご自分の忠実な子どもに対していだいておられる愛は、この母親がこのひとり子に対していだいている愛どころではありません。それはもう比較できないものなのです。
マリアは、ご自分の子どもを、ただ感情的に、ただプラトーニックに愛されるのではありません。マリアの愛は行動的です。実効的です。レベッカがその予型となっているこの良き母マリアが、ご自分の子どもたちに、天の御父の祝福を得さすため、どんなことをなさるかを次に見ていきましょう。
レベッカ
203.①レベッカのようにマリアも、ご自分の子どもたち、しもべたちに良いことをしてあげるための、またかれらを霊的に成長させ富ますための好機会を、終始ねらっておいでになります。マリアは、神のうちにあって、すべての善と悪、すべての幸運と不運、すべての神の祝福とノロイを、ハッキリとごらんになっています。
そんなわけで、ご自分の忠実な子どもたち、しもべたちを、あらゆる悪から救うため、またかれらをあらゆる善で満たすため、ものごとを前もって、よいように取りはからってくださるのです。たとえばここに、高貴な役務への忠実によって、神にすばらしい奉仕ができる幸運が、好機会が、めぐってきたとします。マリアがそれを見逃すはずがありません。さっそく高貴な役務へのこの幸運を、ご自分の子ども、ご自分のしもべたちのだれかにお与えになるのです。同時に、最後まで忠実に、この役務を果すことができる恩寵までもお与えになるのです。「マリアは、ご自分で、わたしたちの利害問題に介入してくださいます」と、ある聖人が言っておられるとおりです。
204.②レベッカがヤコブに「わが子よ、わたしのすすめに従いなさい」(創世記28・8)と言ったように、マリアもご自分のしもべたちに、良いすすめをお与えになります。そのすすめの中でも、とりわけマリアはかれらに、ニヒキの子ヤギ、すなわち身体と霊魂を、ご自分のところに持ってくるように、それを材料にして神のお口に合う美味い料理を作るため、ご自分にささげ尽くすようにと、おすすめになります。また御子イエズス・キリストが、ことばと模範で教えてくださったすべてのことを実行するようにと、おすすめになります。
しかし、マリアが直接かれらに、こうしたすすめをお与えになるのではありません。天使たちをおつかわしになるのです。天使たちは天使たちで、マリアのご命令に従って地上にあまくだり、マリアのしもべを助けることぐらい、自分たちにとって名誉にもなり、楽しみになるものはありません。
205③マリアの忠実なしもべたちが、自分らの身体と霊魂、およびそれらに関連のあるものをすべて残りくまなく、マリアのもとに持ってくるとき、この良き母はそれで何をなさるのでしょうか。それは昔レベッカが、ヤコブが自分のところに持ってきたニヒキの子ヤギに対して、したのと同じことを、マリアもなさるのです。すなわち、
(a)マリアは、それ(身体と霊魂)を霊的に殺し、古いアダムの生命に死なすのです。
(b)身体と霊魂から、これまでつけていた皮をはぎ取ります。つまり、自然の傾向、自愛心、我意、被造物へのあらゆる執着―という名の皮を、はぎ取るのです。
(c)身体と霊魂を、いっさいのけがれ、欠点、罪悪から清めてくださいます。
(d)身体と霊魂を、神のお口に合うように、また神の最大の栄光となるように、調理してくださいます。どんな料理がいちばん神のお口に合うのか、またどんなことが神の最大の栄光なのか―それを完全に知っている者は、マリア以外にだれもいません。だから、わたしたちの身体と霊魂を、このうえなく、デリケートな神のお口に合うように、また人目にまったくかくされている神の最大の栄光となるように、まちがいなく調理できる者は、マリアいがいにだれもいないはずです。
206.④この良き母は、わたしが前に述べた信心の仕方(本書121~125参照)によって、わたしたち自身とわたしたち自身のクドクとつぐないとのささげ物をお受けになるとすぐ、どうなさるのでしょうか。御母マリアは、わたしたちが今まで着ていた古い服を脱がせ、わたしたちをまったくご自分のものにし、さらにわたしたちを、御父のみまえに出るのにふさわしい者としてくださるのです。
(a)御母マリアは、わたしたちに新しい服をきせてくださいます。
それは長男エザウの晴れ着、すなわち御子イエズス・キリストという名の清潔な、高価な、かおりの高い服なのです。
この服をマリアは、ご自分の家に、つまりご自分の権限のもとに、保管しておいでになるのです。
わたしが前に述べた(本書24、25、141参照)ように、マリアは永遠普遍に、御子イエス・キリストのクドクと徳の保管者であり、分配者なのです。だから、マリアはそれを、のぞむ人に、のぞむ時に、のぞむままに、のぞむだけ、お与えになるのです。
(b)マリアは、忠実なしもべの首と手に、殺して皮をはがした子ヤギのふさふさした毛皮を、ぐるぐる巻いてくださいます。すなわち、マリアは、かれら自身の善業のクドクと価値で、かれらをよそおってくださるのです。
なるほど、マリアは、しもべのうちにあるすべてのけがれ、すべての不完全を殺し、死にいたらせるでしょう。だが、そうした中でも、神の恩寵によってかれが取得したすべての善には、ぜんぜんキズをつけません。それを失いもせねば、散らしもしません。
かえって、それをご自分で保管し、そのうえふやしてくださるのです。しもべたちの首と手のかざりとし、力とするためなのです。別のことばで申せば、首にはめられたキリストのクビキをになうのに、かれらを強めるためです。かれらを強めて、神の栄光のため、世の人の救いのために、偉大な仕事をさすためです。
(c)マリアは、しもべたちのこの服と装いに、新しい芳香と、新しい恩寵を与えてくださいます。つまり、しもべたちに、ご自分の服までも着せてくださるのです。
マリアは、ご自分のクドクと徳を、ご自分の忠実なしもべたちにのこす、とご臨終のときに遺言されたそうです。聖徳のかおりの中でなくなった、前世紀のある聖女(マリア・アグレダ)が、このことを、まぼろしをとおして知ったのです。
そんなわけで、聖母の家の者はみな、その忠実なしもべも、その愛のドレイも、御子イエズス・キリストの服と聖母マリアの服との、ふたかさねの服を着ているのです。
「彼女の家の者はみな、ふたかさねの服を着ている」(格言31・21)。
だからこそ、聖母の家の者は、雪のように純白なイエズス・キリストの寒冷を、すこしも恐れません。これに反して、イエズス・キリストと聖母マリアのクドクを身につけず、素っ裸になっている亡びの人たちは、キリストの寒冷をがまんできないでしょう。
207.⑤いよいよ聖母は、ご自分の忠実なしもべに、天の御父の祝福を受けさせてくださいます。かれらは、御父の次男または養子にすぎないのですから、本来ならば長子権を受ける資格がないのだけれど。そこで聖母のしもべは、真新しい、高価な、よいかおりのする例の服装を身にまとい、からだも霊魂もこのうえなくりっぱに整え、自信に満ちて御父のいこいの座に近づきます。御父は御父で、聖母のしもべの声は聞いてもそれが罪びとの声だと、ハッキリわかります。御父は、子ヤギの毛皮でおおわれている手をなでさすります。服装が発散するよいかおりをかぎます。ご自分のお口に合うように、かれらの母マリアが作ってくれた特別料理を、大よろこびで食べます。そしてかれらのうちに、御子イエズスとその御母マリアのクドクと良いかおりを確認して。
(a)聖母のしもべに、二重の祝福をお与えになります。まず“天の露”(創世記27・28)の祝福―すなわち、天国の栄光の種である神の恩寵の祝福。「神はキリスト・イエズスにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって、わたしたちを祝福してくださいました」(エペソ1・3)
次は、“地の肥えたところ”の祝福―すなわち、天の御父は、忠実なしもべたちに、毎日の生活に十分な食糧と必需品をお与えになるのです。
(b)天の御父は、長幼の序列を逆転して、弟分である聖母のしもべたちを、兄貴分である亡びる人たちの支配者にします。しかし、聖母のしもべたちのこの首位権は必ずしも、瞬時に過ぎ去っていくこの世では表面に出ません。なぜなら、この世はしばしば、亡びの人たちの支配下にあるからです。「主よ。悪者どもはいつまで、いつまで悪者どもは勝ち誇るのでしょう。かれらはあなたの民をうち砕き、あなたのものである民を悩まします」(詩篇94・3~5)。「わたしは悪者の横暴を見た。かれは、おいしげる野生の大木のようにはびこっていた」(詩篇37・55)
しかしそれでも、聖母の首位権はホンモノです。そしてそれは死後の世界で公々然と堂々と発揮されるでしょう。そこでは、聖霊が言っているとおり、善人だけが支配権をもつのです。「義人は国々を治め、民を支配し、主は世々かれらの王となるでしょう。」(知恵3・8)
(c)天の御父は、聖母のしもべたちの人物や持ち物を祝福するだけでは満足せず、なおその上、かれらを祝福する者を祝福し、かれらをのろい迫害する者をのろわれるのです。
Ⓑマリアはかれらを霊肉ともに養ってくださいます。
208.聖母がご自分の忠実なしもべに示してくださる第二のいつくしみは、彼女がかれらの身体と霊魂を、全般にわたって養ってくださるということです。聖母はかれらに前にも申しましたように、ふたかさねの服を着せてくださいます。かれらに、神の食卓の最高料理を食べさせてくださいます。ご自分が、ご胎内で形造った“生命のパン”(ヨハネ6・35)であるイエズス・キリストを食べさせてくださいます。
聖母は智恵の口をかりて、かれらに言われます。「愛する子たちよ。わたしの実でおなかを満たしなさい」(集会書24・19)。すなわち、生命の実なるイエズス― わたしがあなたがたのために、世に生まれさせたイエズスをもって、霊魂をいっぱいにしなさいと。
さらに聖母はかれらに、こうも言っておられるようです。「来て、イエズスという名のわたしのパンを食べなさい。わたしが自分の乳房のしたたりをまぜた、神愛のぶどう酒も飲みなさい」(格言9・5)。「愛する人びとよ。食べなさい、飲みなさい。大いに飲みなさい」(雅歌5・1)
聖母は、いと高き神の賜物と恩寵の保管者であり、分配であられます。だから、それを分配するに当たっては、ご自分の愛する子どもや、しもべを養い育てるために、かれらには優先的に分量をよくし、そのうえ最高のものをお与えになるのです。
聖母のしもべらは“生けるパン”で肥えふとり、清純な処女を大量に作り出す神愛のぶどう酒に酔いしれます。(ザカリヤ9・17参照)。
かれらは、聖母のふところに抱かれます。(イザヤ66・12)。
やすやすと、イエズス・キリストのクビキをにないます。その重みをぜんぜん感じていないかのようです。「わたしのクビキは負いやすく、わたしの荷は軽い」(マタイ11・30)
それもそのはず、聖母が信心の油で、このクビキの重さを減らしてくださるからです。「かれらの重荷はあなたの肩からおり、かれのクビキはあなたの首から離れる」(イザヤ10・27)。
©マリアはかれらを導いてくださいます。
209.聖母が、ご自分の忠実なしもべになさる第三番目の善は、聖母が、御子イエズスのみこころのままに、かれらを導いてくださるということです。レベッカは、毎日の暮らしの中で、愛する子ヤコブを導き、ときには良いすすめも与えていました。それは、父の祝福をヤコブの身にひきつけるため、またヤコブが、兄エザウの憎しみと迫害をさけることができるためなのです。
“海の星”でいらっしゃるマリアも、ご自分の忠実なすべてのしもべを、かれらが自分の終着港に無事安着するまで、保護し導いてくださいます。聖母はかれらに、永遠の生命にいたる道を示してくださいます。危険な横道に迷い込まないように指導してくださいます。お手づから、“神と義の小道”(詩篇24・3)にみちびいてくださいます。
かれらがまさに倒れようとしているときは、ささえてくださいます。倒れたときには、立ち上がらせてくださいます。いけないことをしたときには、やさしく忠告してくださいます。ときには、愛のムチを加えることすらあります。
子供のように、聖母にすなおに従っている人が、天国への旅の途中、道に迷うことがあるのでしょうか。「聖母に従ってさえいれば、絶対に道に迷いません。」と聖ベルナルドが言っています。マリアの子どもは悪霊にそそのかされて、異端におちこむ心配はありません。マリアのみちびきの手がある処には、いかなる悪霊もその奸策も、いかなる異端者もその巧知も、ぜったいにわり込む余地がありません。聖ベルナルドが言っていますように、「聖母に支えてさえいただけば、絶対に倒れる心配はないのです。」(Mis17)
Ⓓマリアはかれらを守り保護してくださいます。
210.聖母が、ご自分の子どもや、忠実なしもべにしてくださる第四番目のいつくしみは、聖母がかれらを、敵から防御し保護してくださるということです。レベッカは、絶え間ない配慮と巧妙な智恵で、あらゆる危険からヤコブを守りとおしました。ちょうどその昔、カインがアベルにしたように、兄のエザウも憎みとネタミから、ヤコブのいのちをねらっていたのです。レベッカはとりわけ、この死からヤコブを守ってあげたのです。
救われる人びとの良き母であるマリアは、「めんどりがヒナを翼の下にかばうように」(マタイ23・37)かれらをご保護の翼の下にかくされます。身をかがめてかれらに話しかけ、かれらのあらゆる弱さに共感し、同情してくださいます。ワシやハゲタカの襲撃からかれらを保護するため、「戦闘準備をととのえた恐るべき軍勢のように」(雅歌6・3)かれらのそばにいてくださいます。だれしも、精強な百万の軍隊に守られていると、いかなる敵も恐れないでしょう。いわんや、天下無敵のマリアの忠実なしもべです。マリアの必勝のご保護のもとにある者が、どんな敵を恐れるというのですか。
マリアの忠実なしもべが、あれほどマリアに信頼していたのに、とうとう敵の謀略と物量と戦力に屈してしまった― と言われないために、タッタ一人でも、苦戦におちいっているのをごらんになると、さっそく幾百万の天使を急派して、このタッタ一人のしもべを救ってくださるのです。
Ⓔマリアは、かれらのために取り次いでくださいます。
211.さいごに、良き母マリアが、ご自分の忠実なしもべに与えてくださる第五番目の、しかも最大の善は、かれらのために、御子イエズス・キリストに取り次いでくださるということです。ご自分の祈りで、御子イエズスのお怒りをなだめ、かれらをかたいキズナで御子と一致させ、この一致の中にかれらをいつまでも保っておくということです。レベッカは、ヤコブを、父の床に連れていきました。お人よしの父イザクは、ヤコブにさわり、ヤコブを抱き、大よろこびでヤコブに口づけします。ヤコブがもってきた、自分の好物の肉料理に舌つづみをうち、すっかり上機嫌になっています。それから、ヤコブの服装から発散するなんともいえないかおりをかぐと、ますます感動して、こう叫ぶのです。
「ああ、これこそは、わが子のかおり
ちぐさの花のみだれ咲く野のかおり
神のめぐみにあふれる」(創世記27・27)
父の心を魅惑したこの“神のめぐみにあふれる野”のかおりこそ、マリアの善徳とクドクのかおりなのです。マリアこそ“神のめぐみにあふれる野”なのです。神なる御父はそこに、選ばれた人びとの初穂となすため、御ひとり子イエズスという名の種をおまきになったのです。
ああ、マリアの忠実な子ども、マリアの良いかおりをくゆらしているマリアの子どもは、「とこしえの父」(イザヤ9・6)と呼ばれるイエズス・キリストにどれほどあたたかく迎えられるのでしょう。ああ、マリアの子どもは、どれほど迅速、どれほど完全に、イエズス・キリストに一致するのでしょう。このことはすでに前述(本書152~168)のとおりです。
212.そればかりではありません。マリアはご自分の子ども、ご自分の忠実なしもべたちを、ご自分の寵愛で満たし、天の御父から祝福を受けさせ、イエズス・キリストに一致させたあとも、引き続きかれらを、イエズス・キリストのうちに保ち、またイエズス・キリストをかれらのうちに保つように、精を出してくださいます。
マリアはかれらをいつも保護し、かたときもかれらから目を離しません。かれらが神の恩寵を失わないためです。悪魔のおとし穴におちこまないためです。マリアはかれらを、“聖性の充満”から脱落しないようにお守りになります。そして最後まで、聖性の充満のうちに堅忍するように保護してくださいます。すでに(本書173~179)述べたとおりです。以上が、救われる人と亡びる人の予型の解説です。この偉大な古来の予型は、あまりにも人目にかくされていますが、それでも汲めども尽きぬ神秘を、その中にたたえているのです。
(第十一巻につづく)
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191.①弟のヤコブは、体格も貧弱で、性格も柔和で温順です。心から愛している母レベッカのご気げんを取るため、ふだんは家に母といっしょにいます。そとに出ることがあれば、それはけっして、わがままからでもなければ、自分の才能に自信があるからでもありません。ただ、母のいいつけに従うためなのです。
192.②ヤコブは、母を愛し尊敬しています。だから、しじゅう家に、母のそばにいるのです。母の顔をながめるときが、いちばんしあわせです。すべて母の気に入らないことはしないように、また母の気にいることなら何でもしようと努力しています。それを見て母レベッカも、ますますヤコブをいつくしみ、愛するようになるのです。
193.③ヤコブは、あらゆる点で、愛する母の望みどおりになっています。母のいいつけにはすべて従っています。それも、ぐずぐずせず迅速に、ブツブツ言わず心から従っています。母がちょっと望みをあらわすと、すぐさま、それを実行します。母のいうことは何でも本当だと、理屈なしに信じています。そんなわけで、父イザアクの口に合うように料理したいから、二ヒキの子ヤギをもっていらっしゃい、と母に言われたとき、ヤコブは母にタッタひとりの人が、タッタ一度だけ食べるのですから、子ヤギは一ピキで十分ではないでしょうか、などと口答えしません。ヤコブは、母に言われたとおりにするのです―ぜんぜん理屈なしに。
194.ヤコブはたいへん母を信用しています。自分の才能や、ウデにはぜんぜん信用していないからです。母からの配慮と保護を、唯一のよりどころとしているのです。必要なものはなんでも、母にねがっています。どうしていいか分からないときには、いつも母に相談しています。たとえば、そういう大それたことをしたら、祝福のかわりにノロイを受けるのではないでしょうか、と母にたずねたとき、母が、「子よ、あなたが受けるノロイは、わたしが引き受けます」と答えると、かれは母のことばをそのまま信じ、安心して母にすべてをまかせるのです。
195.⑤さいごにヤコブは自分なりに、母のかずかずの善徳を、まねていました。かれが自分の家にジっと“定住”していたわけの一つは、たいへん徳が高かった母を模倣するため、そうすることによって、自分の品行を下落さすおそれのある、悪い友達づきあいをさけるためだったのです。こうした生き方をしたればこそ、かれは父イザアクから、二重の祝福を受けるのにふさわしい者となったのです。
第二節 救われる人とマリア
第①項 救われる人の生き方
196.以上述べてきたヤコブの生き方は、そっくりそのまま、救われる人が毎日、実践している生き方なのです。
①救われる人は、自分の最愛の母マリアといっしょに、家に、すなわち自分の内奥に閉じこもっています。つまり、かれは黙想が好きです。内的生活が好きです。念祷に専従します。それも、自分の母なるマリアの模範にならい、マリアとともにです。マリアの栄光は、彼女の内面に深く秘められています。マリアは一生をつうじて、黙想と念祷を、ことのほか愛されました。
なるほど、救われる人も、ときたま、外面に、すなわち世間のまっただ中に出ることもあります。しかしそれはあくまで、神のみこころに、また聖母のみこころに、従うためです。神と聖母のみこころに従って、身分上の義務を果すためです。かれらは世間で人の目から見て、どんなに偉大なわざを行っても、しかしそれよりも、自分の内面にひきこもって、聖母とともに、ヒッソリといとなむ霊性のほうを、はるかに高く評価しています。なぜなら、自分の心の深奥で、完徳の偉大なわざを実行しているからです。完徳のわざにくらべたら、ほかのわざはみな、取るに足らぬもの、児戯にひとしいからです。
そんなわけで、信仰における兄弟姉妹たちがときたま、世の人びとのために、力のありったけを出し、精魂をかたむけ尽くして、しかも世人の絶賛のうちに、大活動をしているのを見ても、かれらの心はすこしも動揺しません。
多くのエザウの亜流や、亡びる人たちのように、世間のドまん中におどり出て、これ見よがしに、しかも自分自身の名誉のため、また自分自身の力だけによって、自然界・恩寵界の大事業をするよりも、むしろ自分の模範であるイエズス・キリストとともに、御母マリアに全面的に、完全に従属しながら、自分の心の深奥にかくれて住んでいるほうが、自分にとってはもとお大きな利益、もっと大きな楽しみがあるということを、聖霊の照らしのもとで、ハッキリさとっているからです。
「栄光と富とはその家にある」(詩篇112・3)
なるほど、そうです。神の栄光も、人間の富も、“マリアの家”にこそ無尽蔵にあるのです。
主イエズス。あなたのお住まいはなんと美しく、なんと慕わしいものでございましょう。スズメさえもそこに、住みかを見つけました。ツバメもそこに、ひなを入れる巣を見つけました。
主イエズス、あなたがまっさきに、ご自分のスイート・ホームとなさった“マリアの家”に住まう人は、どんなにしあわせなのでございましょう。
救われる人の住みかであるこの“マリアの家”の中でこそ、人はただあなたおひとりから助けを頂くのです。また自分の心の中で徳から徳へと進み、この涙の谷に泣き叫びながらも、完徳の頂をめざして一歩一歩のぼっていくのです。ああ、イエズス、あなたの住まいはなんと美しく、なんと慕わしいものでございましょう。(詩篇84篇参照)。
197.救われる人は、マリアを自分の良き母として、心から愛しています。マリアを、自分の女王として、まごころこめて尊敬しています。
ただ口先ばかりでなく、真実にマリアを愛しています。ただ外面的ばかりでなく、心のそこから、マリアを尊敬しています。ヤコブのように、すべてマリアのご気げんをそこなうことは、細心の注意を払ってさけています。反対に、マリアのご厚意を取りつけることだったら、全力を尽くして実行しています。
ヤコブが、母レベッカにそうしたように、救われる人もマリアに、二ヒキの子ヤギでシンボライズされている、自分の身体と霊魂を与え、ささげ尽くしています。同時に、身体と霊魂にかかわりのあるすべてのものを、ささげ尽くしています。そのいきさつは、ヤコブの子ヤギが予型となっています。すなわち、身体と霊魂を
(a)マリアが受け取って、それをまったくご自分のものとなすため、
(b)マリアが、この二つのモノを殺し、罪と自我に死なせ、自愛心という名の皮をはぎ取り、こうして当人を、御子イエズスのお気に召す者とならせるためです。なぜなら、御子イエズスは、自分自身に死んだ者しか、ご自分の友として、弟子として、お受けにならないからです。
(c)マリアが、身体と霊魂というこの二つのモノを使って、天にいます御父のお口に合った美味しい料理を作るため、またこの二つのモノを道具にして、御父の最大の栄光をあらわすためです。御父のお口に合った美味しい料理づくり、御父の最大の栄光の現わし方にかけては、マリアの右に出る者は被造物の中には一人もいません。
(d)マリアの心づかいと取り次によって、この身体、この霊魂が、あらゆる罪のけがれからまったく清められ、まったく自分自身に死し、まったく自我を超克し、このうえなく美味しく料理されて、御父のお口に合った御馳走となり、こうして当人を、御父の祝福にふさわしい者となすためです。こうした生き方こそ、わたしがこの本で述べている、マリアのみ手をとおしてイエズス・キリストに、自分自身をささげ尽くす―という信心を味わい実行している、救われる人の日常の生き方ではないでしょうか。こうした生き方によってこそ、救われる人は、イエズスとマリアに、自分の行動的な、勇敢な愛をあかしているのです。なるほど、亡びる連中も、オレたちはイエズスを愛している、マリアも愛している、尊敬もしている、と盛んに吹聴しているのです。が、それはただ、かけ声だけで、かれらは自分の財産や持物を犠牲にしてまで愛してはいません。救われる人のように、自分の身体をその官能とともに、自分の霊魂をその諸欲とともに、犠牲にしてまで愛してはいないのです。
198.③救われる人は、イエズス・キリストのお手本にならって、御母マリアに隷属し服従します。イエズスは、その地上生活三十三年のうち三十年もの長い期間を、御母マリアへの完全な全面的な隷属と服従をとおして、神なる御父の栄光をあらわすことにお使いになりました。
救われる人は、御母マリアの良きすすめを、きちょうめんに守ることによって、彼女に服従しています。ちょうどその昔ヤコブが、「わたしの意見にしたがい、わたしの言うとおりにしなさい」(創世記27・8)といった母レベッカのすすめに素直に従ったように。また、カナの結婚披露宴のとき、手伝いの人たちが、「あのかた、わたしの息子が言われることは、何でもしてあげてください。」(ヨハネ2・5)とおっしゃった“イエズスの母”マリアのいいつけによく従ったように。
ヤコブは母にすなおに従ったおかげで、ほんらいならとうてい手に入れることができなかった祝福を、まるで奇跡でもおこったかのように、まんまとせしめたのです。カナの結婚披露の手伝いの人たちは、聖母の良きすすめに素直に従ったおかげで、聖母のおねがいによって、水をぶどう酒に変える、というイエズス・キリストの“最初の”奇跡のおぜんだてをする栄光に浴したのです。
同様に、世の終りにいたるまで、天にいます御父から祝福を受ける者はみな、また神から偉大な奇跡をめぐんでもらう者はみな、それはひとえに、御母マリアへの完全な服従のおかげでこそ、それらの恵みを神から頂くのだということを、ゆめにも忘れてはなりません。これに反して、エザウの子らは、聖母への隷属と服従を欠いているからこそ、せっかくの祝福も失ってしまうのです。
199.④救われる人は、御母マリアのいつくしみと力づよさに、大きな信頼をよせています。御母マリアに絶えまなく助けを求めています。自分の人生の終着駅にめでたく到着できるため、御母マリアを希望の星とあおいでいます。心のとびらを全開にして、自分の苦しみ、自分の必要を、御母マリアに披瀝しています。御母マリアの慈悲ぶかい、甘美な乳房にしがみついています。そのお取り次によっておかした罪のゆるしをねがうためです。苦悩のとき、また生の倦怠を感じるとき、マリアの母ごころの甘美さを味わうためです。感嘆すべき方法でマリアのご胎に自分をかくし、自分を消しています。そこにかくれひそんで、マリアの聖純な愛で焼き尽くされるためです。そこで、ごくわずかなけがれからも清められて、イエズス・キリストを見いだすためなのです。イエズスはマリアのご胎を、最高に栄光ある玉座として、そこで支配しておいでになるからです。
ああ、なんというしあわせなんでしょう。まさにゲーリク修道院長が言っているとおりです。「マリアのご胎に住まうようりも、アブラハムのふところに住まうほうが、もっとしあわせだと考えてはいけません。なぜなら、主イエズスは、マリアのご胎にこそ、ご自分の玉座をおすえになったからです」(「被昇天についての説教」4。)
これに反して、亡びる人は、自分自身にまったく信頼しきっています。放蕩息子のように、ブタの食うイナゴ豆しか食べません。ガマのように、土くれでしか自分を養いません。俗悪な人のように、ただ目にみえるもの、ただ外面的なものしか愛しません。マリアのご胎と乳房の甘美さを、絶対に味わうことができないのです。
救われる人が、御母マリアに対していだいている、信頼感のひとかけらも持っていません。大聖グレゴリオ教皇が言っているように、亡びる人は気の毒にも、そとで、飢えることを愛しているのです。なぜなら、自分自身の内面に、イエズスとマリアの内面に、それぞれみごとに用意されている甘美さを、味わいたくないからです。
200.⑤さいごに、救われる人は、御母マリアの道をよく守ります。別のことばで申せば、御母マリアの生き方を模倣します。だからこそ、かれは本当にしあわせで熱烈な聖母信心家なのです。だからこそ、かれらは救霊のまちがいないしるしを、わが身にたずさえているのです。それもそのはず、御母マリアはかれらに、「わたしの道を守る人はしあわせです」(詩篇119・3)と言っておられるからです。
じっさい、かれらはこの世でも生涯にわたって、しあわせです。
わたしの満ちあふれから、かれらに流通する豊かな恩寵と甘美さのゆえに、しあわせです。わたしはそれをかれらに、かれらほど近くからわたしを模倣しない人びとよりも、もっと豊かに流通するからしあわせです。とりわけ臨終のとき、かれらはしあわせです。それは平和で安らかな死です。わたし自身、かれらの臨終をみとり、わたし自身かれらを、永遠の幸福の住まう天国へとみちびくからです。
さいごに、かれらは永遠にしあわせです。
地上生活のあいだ、わたしの徳を模倣した、わたしの良いしもべのうち、ひとりとして地獄に行った者はいないからです。
ああ、マリア、わたしの良き母よ、わたしは感激で胸をわくわくさせながら、あえて申し上げます。あなたへのまちがった信心に迷わされないで、あなたの道、あなたのすすめ、あなたのいいつけを守る人 は、どんなにしあわせなのでございましょう。
これに反して、あなたへの信心をあしざまに言いふらして、あなたの御子イエズスのおきてを守らない人は、どれほど不幸、どれほどのろわれた者でございましょう。
「あなたのおきてから迷い出る人はみな、のろわるべき者です」(詩篇119・21)
第②項 忠実なしもべに対して、マリアはどんな態度をとられるのか
201.すべての母の中の最高最良の母はマリアです。このマリアが、わたしがこれまで述べてきた流儀にしたがい、またヤコブの予型にしたがって、ご自分にわが身をささげ尽くした忠実なしもべたちに対して、どんないつくしみの態度をおとりになっているか、
A.マリアは、かれらをお愛しになります。
「わたしは、わたしを愛する者を愛する。」(格言8・17)
マリアは、ご自分の忠実なしもべたちをお愛しになります。そのわけはこうです。
イ、マリアは、かれらの本当の母だからです。ところで、母親というものはきまって、自分のおなかをいためた子を愛するはずです。
ロ、マリアは、かれらを、義理でも愛し返さねばなりません。なぜなら、かれらはマリアを自分たちの良き母として、行動的に愛しているからです。
ハ、かれらは救われる者として、神から愛されています。だから、マリアも当然かれらを愛されるのです。「ヤコブを愛し、エザウを憎んだ」(ローマ9・13)
ニ、かれらはマリアに、まったくささげ尽くされていて、マリアの所有物、マリアの相続財産(「イスラエルを相続財産として受けよ」(集会書24・13)となっていますから、マリアはかれらを愛されるのです。
202.マリアはご自分の忠実なしもべたちを、優しい心でお愛しになります。すべての母親の優しい心を一つに集めたものよりも、もっともっと優しい心でお愛しになります。全世界のすべての母親が、その子に対してもっているすべての愛情を、ただひとりの母親が、そのひとり子に対してもっている愛の心に、そそぎ入れたと仮定してごらんなさい。この母親はどんなに優しく、自分の子どもを愛するのでしょう。ところで、マリアが、ご自分の忠実な子どもに対していだいておられる愛は、この母親がこのひとり子に対していだいている愛どころではありません。それはもう比較できないものなのです。
マリアは、ご自分の子どもを、ただ感情的に、ただプラトーニックに愛されるのではありません。マリアの愛は行動的です。実効的です。レベッカがその予型となっているこの良き母マリアが、ご自分の子どもたちに、天の御父の祝福を得さすため、どんなことをなさるかを次に見ていきましょう。
レベッカ
203.①レベッカのようにマリアも、ご自分の子どもたち、しもべたちに良いことをしてあげるための、またかれらを霊的に成長させ富ますための好機会を、終始ねらっておいでになります。マリアは、神のうちにあって、すべての善と悪、すべての幸運と不運、すべての神の祝福とノロイを、ハッキリとごらんになっています。
そんなわけで、ご自分の忠実な子どもたち、しもべたちを、あらゆる悪から救うため、またかれらをあらゆる善で満たすため、ものごとを前もって、よいように取りはからってくださるのです。たとえばここに、高貴な役務への忠実によって、神にすばらしい奉仕ができる幸運が、好機会が、めぐってきたとします。マリアがそれを見逃すはずがありません。さっそく高貴な役務へのこの幸運を、ご自分の子ども、ご自分のしもべたちのだれかにお与えになるのです。同時に、最後まで忠実に、この役務を果すことができる恩寵までもお与えになるのです。「マリアは、ご自分で、わたしたちの利害問題に介入してくださいます」と、ある聖人が言っておられるとおりです。
204.②レベッカがヤコブに「わが子よ、わたしのすすめに従いなさい」(創世記28・8)と言ったように、マリアもご自分のしもべたちに、良いすすめをお与えになります。そのすすめの中でも、とりわけマリアはかれらに、ニヒキの子ヤギ、すなわち身体と霊魂を、ご自分のところに持ってくるように、それを材料にして神のお口に合う美味い料理を作るため、ご自分にささげ尽くすようにと、おすすめになります。また御子イエズス・キリストが、ことばと模範で教えてくださったすべてのことを実行するようにと、おすすめになります。
しかし、マリアが直接かれらに、こうしたすすめをお与えになるのではありません。天使たちをおつかわしになるのです。天使たちは天使たちで、マリアのご命令に従って地上にあまくだり、マリアのしもべを助けることぐらい、自分たちにとって名誉にもなり、楽しみになるものはありません。
205③マリアの忠実なしもべたちが、自分らの身体と霊魂、およびそれらに関連のあるものをすべて残りくまなく、マリアのもとに持ってくるとき、この良き母はそれで何をなさるのでしょうか。それは昔レベッカが、ヤコブが自分のところに持ってきたニヒキの子ヤギに対して、したのと同じことを、マリアもなさるのです。すなわち、
(a)マリアは、それ(身体と霊魂)を霊的に殺し、古いアダムの生命に死なすのです。
(b)身体と霊魂から、これまでつけていた皮をはぎ取ります。つまり、自然の傾向、自愛心、我意、被造物へのあらゆる執着―という名の皮を、はぎ取るのです。
(c)身体と霊魂を、いっさいのけがれ、欠点、罪悪から清めてくださいます。
(d)身体と霊魂を、神のお口に合うように、また神の最大の栄光となるように、調理してくださいます。どんな料理がいちばん神のお口に合うのか、またどんなことが神の最大の栄光なのか―それを完全に知っている者は、マリア以外にだれもいません。だから、わたしたちの身体と霊魂を、このうえなく、デリケートな神のお口に合うように、また人目にまったくかくされている神の最大の栄光となるように、まちがいなく調理できる者は、マリアいがいにだれもいないはずです。
206.④この良き母は、わたしが前に述べた信心の仕方(本書121~125参照)によって、わたしたち自身とわたしたち自身のクドクとつぐないとのささげ物をお受けになるとすぐ、どうなさるのでしょうか。御母マリアは、わたしたちが今まで着ていた古い服を脱がせ、わたしたちをまったくご自分のものにし、さらにわたしたちを、御父のみまえに出るのにふさわしい者としてくださるのです。
(a)御母マリアは、わたしたちに新しい服をきせてくださいます。
それは長男エザウの晴れ着、すなわち御子イエズス・キリストという名の清潔な、高価な、かおりの高い服なのです。
この服をマリアは、ご自分の家に、つまりご自分の権限のもとに、保管しておいでになるのです。
わたしが前に述べた(本書24、25、141参照)ように、マリアは永遠普遍に、御子イエス・キリストのクドクと徳の保管者であり、分配者なのです。だから、マリアはそれを、のぞむ人に、のぞむ時に、のぞむままに、のぞむだけ、お与えになるのです。
(b)マリアは、忠実なしもべの首と手に、殺して皮をはがした子ヤギのふさふさした毛皮を、ぐるぐる巻いてくださいます。すなわち、マリアは、かれら自身の善業のクドクと価値で、かれらをよそおってくださるのです。
なるほど、マリアは、しもべのうちにあるすべてのけがれ、すべての不完全を殺し、死にいたらせるでしょう。だが、そうした中でも、神の恩寵によってかれが取得したすべての善には、ぜんぜんキズをつけません。それを失いもせねば、散らしもしません。
かえって、それをご自分で保管し、そのうえふやしてくださるのです。しもべたちの首と手のかざりとし、力とするためなのです。別のことばで申せば、首にはめられたキリストのクビキをになうのに、かれらを強めるためです。かれらを強めて、神の栄光のため、世の人の救いのために、偉大な仕事をさすためです。
(c)マリアは、しもべたちのこの服と装いに、新しい芳香と、新しい恩寵を与えてくださいます。つまり、しもべたちに、ご自分の服までも着せてくださるのです。
マリアは、ご自分のクドクと徳を、ご自分の忠実なしもべたちにのこす、とご臨終のときに遺言されたそうです。聖徳のかおりの中でなくなった、前世紀のある聖女(マリア・アグレダ)が、このことを、まぼろしをとおして知ったのです。
そんなわけで、聖母の家の者はみな、その忠実なしもべも、その愛のドレイも、御子イエズス・キリストの服と聖母マリアの服との、ふたかさねの服を着ているのです。
「彼女の家の者はみな、ふたかさねの服を着ている」(格言31・21)。
だからこそ、聖母の家の者は、雪のように純白なイエズス・キリストの寒冷を、すこしも恐れません。これに反して、イエズス・キリストと聖母マリアのクドクを身につけず、素っ裸になっている亡びの人たちは、キリストの寒冷をがまんできないでしょう。
207.⑤いよいよ聖母は、ご自分の忠実なしもべに、天の御父の祝福を受けさせてくださいます。かれらは、御父の次男または養子にすぎないのですから、本来ならば長子権を受ける資格がないのだけれど。そこで聖母のしもべは、真新しい、高価な、よいかおりのする例の服装を身にまとい、からだも霊魂もこのうえなくりっぱに整え、自信に満ちて御父のいこいの座に近づきます。御父は御父で、聖母のしもべの声は聞いてもそれが罪びとの声だと、ハッキリわかります。御父は、子ヤギの毛皮でおおわれている手をなでさすります。服装が発散するよいかおりをかぎます。ご自分のお口に合うように、かれらの母マリアが作ってくれた特別料理を、大よろこびで食べます。そしてかれらのうちに、御子イエズスとその御母マリアのクドクと良いかおりを確認して。
(a)聖母のしもべに、二重の祝福をお与えになります。まず“天の露”(創世記27・28)の祝福―すなわち、天国の栄光の種である神の恩寵の祝福。「神はキリスト・イエズスにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって、わたしたちを祝福してくださいました」(エペソ1・3)
次は、“地の肥えたところ”の祝福―すなわち、天の御父は、忠実なしもべたちに、毎日の生活に十分な食糧と必需品をお与えになるのです。
(b)天の御父は、長幼の序列を逆転して、弟分である聖母のしもべたちを、兄貴分である亡びる人たちの支配者にします。しかし、聖母のしもべたちのこの首位権は必ずしも、瞬時に過ぎ去っていくこの世では表面に出ません。なぜなら、この世はしばしば、亡びの人たちの支配下にあるからです。「主よ。悪者どもはいつまで、いつまで悪者どもは勝ち誇るのでしょう。かれらはあなたの民をうち砕き、あなたのものである民を悩まします」(詩篇94・3~5)。「わたしは悪者の横暴を見た。かれは、おいしげる野生の大木のようにはびこっていた」(詩篇37・55)
しかしそれでも、聖母の首位権はホンモノです。そしてそれは死後の世界で公々然と堂々と発揮されるでしょう。そこでは、聖霊が言っているとおり、善人だけが支配権をもつのです。「義人は国々を治め、民を支配し、主は世々かれらの王となるでしょう。」(知恵3・8)
(c)天の御父は、聖母のしもべたちの人物や持ち物を祝福するだけでは満足せず、なおその上、かれらを祝福する者を祝福し、かれらをのろい迫害する者をのろわれるのです。
Ⓑマリアはかれらを霊肉ともに養ってくださいます。
208.聖母がご自分の忠実なしもべに示してくださる第二のいつくしみは、彼女がかれらの身体と霊魂を、全般にわたって養ってくださるということです。聖母はかれらに前にも申しましたように、ふたかさねの服を着せてくださいます。かれらに、神の食卓の最高料理を食べさせてくださいます。ご自分が、ご胎内で形造った“生命のパン”(ヨハネ6・35)であるイエズス・キリストを食べさせてくださいます。
聖母は智恵の口をかりて、かれらに言われます。「愛する子たちよ。わたしの実でおなかを満たしなさい」(集会書24・19)。すなわち、生命の実なるイエズス― わたしがあなたがたのために、世に生まれさせたイエズスをもって、霊魂をいっぱいにしなさいと。
さらに聖母はかれらに、こうも言っておられるようです。「来て、イエズスという名のわたしのパンを食べなさい。わたしが自分の乳房のしたたりをまぜた、神愛のぶどう酒も飲みなさい」(格言9・5)。「愛する人びとよ。食べなさい、飲みなさい。大いに飲みなさい」(雅歌5・1)
聖母は、いと高き神の賜物と恩寵の保管者であり、分配であられます。だから、それを分配するに当たっては、ご自分の愛する子どもや、しもべを養い育てるために、かれらには優先的に分量をよくし、そのうえ最高のものをお与えになるのです。
聖母のしもべらは“生けるパン”で肥えふとり、清純な処女を大量に作り出す神愛のぶどう酒に酔いしれます。(ザカリヤ9・17参照)。
かれらは、聖母のふところに抱かれます。(イザヤ66・12)。
やすやすと、イエズス・キリストのクビキをにないます。その重みをぜんぜん感じていないかのようです。「わたしのクビキは負いやすく、わたしの荷は軽い」(マタイ11・30)
それもそのはず、聖母が信心の油で、このクビキの重さを減らしてくださるからです。「かれらの重荷はあなたの肩からおり、かれのクビキはあなたの首から離れる」(イザヤ10・27)。
©マリアはかれらを導いてくださいます。
209.聖母が、ご自分の忠実なしもべになさる第三番目の善は、聖母が、御子イエズスのみこころのままに、かれらを導いてくださるということです。レベッカは、毎日の暮らしの中で、愛する子ヤコブを導き、ときには良いすすめも与えていました。それは、父の祝福をヤコブの身にひきつけるため、またヤコブが、兄エザウの憎しみと迫害をさけることができるためなのです。
“海の星”でいらっしゃるマリアも、ご自分の忠実なすべてのしもべを、かれらが自分の終着港に無事安着するまで、保護し導いてくださいます。聖母はかれらに、永遠の生命にいたる道を示してくださいます。危険な横道に迷い込まないように指導してくださいます。お手づから、“神と義の小道”(詩篇24・3)にみちびいてくださいます。
かれらがまさに倒れようとしているときは、ささえてくださいます。倒れたときには、立ち上がらせてくださいます。いけないことをしたときには、やさしく忠告してくださいます。ときには、愛のムチを加えることすらあります。
子供のように、聖母にすなおに従っている人が、天国への旅の途中、道に迷うことがあるのでしょうか。「聖母に従ってさえいれば、絶対に道に迷いません。」と聖ベルナルドが言っています。マリアの子どもは悪霊にそそのかされて、異端におちこむ心配はありません。マリアのみちびきの手がある処には、いかなる悪霊もその奸策も、いかなる異端者もその巧知も、ぜったいにわり込む余地がありません。聖ベルナルドが言っていますように、「聖母に支えてさえいただけば、絶対に倒れる心配はないのです。」(Mis17)
Ⓓマリアはかれらを守り保護してくださいます。
210.聖母が、ご自分の子どもや、忠実なしもべにしてくださる第四番目のいつくしみは、聖母がかれらを、敵から防御し保護してくださるということです。レベッカは、絶え間ない配慮と巧妙な智恵で、あらゆる危険からヤコブを守りとおしました。ちょうどその昔、カインがアベルにしたように、兄のエザウも憎みとネタミから、ヤコブのいのちをねらっていたのです。レベッカはとりわけ、この死からヤコブを守ってあげたのです。
救われる人びとの良き母であるマリアは、「めんどりがヒナを翼の下にかばうように」(マタイ23・37)かれらをご保護の翼の下にかくされます。身をかがめてかれらに話しかけ、かれらのあらゆる弱さに共感し、同情してくださいます。ワシやハゲタカの襲撃からかれらを保護するため、「戦闘準備をととのえた恐るべき軍勢のように」(雅歌6・3)かれらのそばにいてくださいます。だれしも、精強な百万の軍隊に守られていると、いかなる敵も恐れないでしょう。いわんや、天下無敵のマリアの忠実なしもべです。マリアの必勝のご保護のもとにある者が、どんな敵を恐れるというのですか。
マリアの忠実なしもべが、あれほどマリアに信頼していたのに、とうとう敵の謀略と物量と戦力に屈してしまった― と言われないために、タッタ一人でも、苦戦におちいっているのをごらんになると、さっそく幾百万の天使を急派して、このタッタ一人のしもべを救ってくださるのです。
Ⓔマリアは、かれらのために取り次いでくださいます。
211.さいごに、良き母マリアが、ご自分の忠実なしもべに与えてくださる第五番目の、しかも最大の善は、かれらのために、御子イエズス・キリストに取り次いでくださるということです。ご自分の祈りで、御子イエズスのお怒りをなだめ、かれらをかたいキズナで御子と一致させ、この一致の中にかれらをいつまでも保っておくということです。レベッカは、ヤコブを、父の床に連れていきました。お人よしの父イザクは、ヤコブにさわり、ヤコブを抱き、大よろこびでヤコブに口づけします。ヤコブがもってきた、自分の好物の肉料理に舌つづみをうち、すっかり上機嫌になっています。それから、ヤコブの服装から発散するなんともいえないかおりをかぐと、ますます感動して、こう叫ぶのです。
「ああ、これこそは、わが子のかおり
ちぐさの花のみだれ咲く野のかおり
神のめぐみにあふれる」(創世記27・27)
父の心を魅惑したこの“神のめぐみにあふれる野”のかおりこそ、マリアの善徳とクドクのかおりなのです。マリアこそ“神のめぐみにあふれる野”なのです。神なる御父はそこに、選ばれた人びとの初穂となすため、御ひとり子イエズスという名の種をおまきになったのです。
ああ、マリアの忠実な子ども、マリアの良いかおりをくゆらしているマリアの子どもは、「とこしえの父」(イザヤ9・6)と呼ばれるイエズス・キリストにどれほどあたたかく迎えられるのでしょう。ああ、マリアの子どもは、どれほど迅速、どれほど完全に、イエズス・キリストに一致するのでしょう。このことはすでに前述(本書152~168)のとおりです。
212.そればかりではありません。マリアはご自分の子ども、ご自分の忠実なしもべたちを、ご自分の寵愛で満たし、天の御父から祝福を受けさせ、イエズス・キリストに一致させたあとも、引き続きかれらを、イエズス・キリストのうちに保ち、またイエズス・キリストをかれらのうちに保つように、精を出してくださいます。
マリアはかれらをいつも保護し、かたときもかれらから目を離しません。かれらが神の恩寵を失わないためです。悪魔のおとし穴におちこまないためです。マリアはかれらを、“聖性の充満”から脱落しないようにお守りになります。そして最後まで、聖性の充満のうちに堅忍するように保護してくださいます。すでに(本書173~179)述べたとおりです。以上が、救われる人と亡びる人の予型の解説です。この偉大な古来の予型は、あまりにも人目にかくされていますが、それでも汲めども尽きぬ神秘を、その中にたたえているのです。
(第十一巻につづく)
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