「聖母マリアへのまことの信心」(聖グレニョン・ド・モンフォール著)

読者の皆様、この本は宝であります。
神秘的な働きによってマリア御自身が
あなたを選ばれ手の中に納められたのです。

聖母マリアへのまことの信心:全11巻一覧表

2022-04-28 12:54:53 | 日記
【「聖母マリアへのまことの信心」一覧】全11巻 
聖グレニョン・ド・モンフォール著



読者の皆様、この本は宝であります。神秘的な働きによってマリア御自身があなたを選ばれ手の中に納められたのです。



聖母像の前の聖モンフォール

第1巻
https://blog.goo.ne.jp/monfo28/e/e430ecc209f4ae942b87f75fb560906e

第2巻
https://blog.goo.ne.jp/monfo28/e/bcf04da5c46291177ab0cb321da344ed

第3巻
https://blog.goo.ne.jp/monfo28/e/ff35ebdaa74ecfc0ae9021f3106f4056

第4巻
https://blog.goo.ne.jp/monfo28/e/49cc11f5af6cfa7d4d400bfd208afe6a

第5巻
https://blog.goo.ne.jp/monfo28/e/6bc311882161d6e157e4baafe8b5446d

第6巻
https://blog.goo.ne.jp/monfo28/e/2bd8ed29c4ece7fd9482f4553e1bbb86

第7巻
https://blog.goo.ne.jp/monfo28/e/1c8d9676716c71c4aa2ca946672326bd

第8巻
https://blog.goo.ne.jp/monfo28/e/f2bea94f81e67da75b3f27f131b2ebd7

第9巻
https://blog.goo.ne.jp/monfo28/e/8641f6e0cffd9bd08d80e2840fb57169

第10巻
https://blog.goo.ne.jp/monfo28/e/83432937302bb05b90cbc7b5ad3ea6af

第11巻
https://blog.goo.ne.jp/monfo28/e/916bcbe321c9384631be9f262e18de04

               -完ー

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「聖母マリアへのまことの信心」 第一巻

2022-04-28 12:53:54 | 日記
原本『聖母マリアへのまことの信心』 

聖グレニョンド・モンフォール(1673~1716年)著
山下房三郎(トラピスト会司祭)訳
愛心館 1990年発行
(頁表示は原本との対応のため)


*教皇・枢機卿の推薦文


◎聖ピオ十世教皇は「聖ド・モンフォール著の聖母マリアへのまことの信心書を、余は熱烈に推奨し、これを読む人々に、心からの使徒の祝福を与える」と述べられた。

◎ベネディクト十五世教皇は、「聖母へのまことの信心の本は、小冊ながら敬虔において大である。この本が、ますます数多い霊魂にキリスト教的精神を斉らさん事を余は切に希望すると書き贈った。

◎ヴァン・ロスム枢機卿は、「この小さな本からは、霊魂を聖徳まで押し上げる見えざる力が発出している。たえずこの本を黙想することによって、心を地上から離して神に一致させる神秘的刺激を感ずるにいたるであろう。それは著者自身の聖徳のほとばしりであり、また寛大に報いたもう聖母マリアの祝福のためであろう。聖グレニョンド・モンフォールが教える聖母へのまことの信心を根気よく忠実に実行する人は、キリスト教的完徳の頂上に至り、神との密接な一致に達し得るにちがいない。真理であるキリストがこの世に与えられるのは常にマリアを通してであるから、より広くより深くマリアを知らせることは自分一個の完徳のためであるのは、もちろんであるが、またそれは崇高な使徒職でもあるのである」と言われている。

◎教皇・聖ヨハネ・パウロ2世は自らの使徒的書簡「おとめマリアのロザリオ」(en:Rosarium Virginis Mariae)において、「マリアは造られたもののうちで、最もイエズス・キリストと一致しているのです。ですから、人々の魂をイエズス・キリストへと聖別し、一致させるために一番必要なことは、その母である聖マリアへの信心業です。」と述べ、マリアへの信心業の大切さを強調している。
一般信者のあいだでは、グレニョンド・モンフォールによる「聖母マリアへのまことの信心」(en:True Devotion to Mary)のような著作が数世紀に渡って読まれ、このことがカトリック教会におけるマリアへの信心業が大きくなっていく土壌となり、何千万という巡礼者たちが、マリアに捧げられた大聖堂を毎年訪れるようになっていった。


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巻頭言

神はマリアの協力をえて、世の終りにそなえて、偉大な聖人を大量に送り出さねばならないからです。これらの偉大な聖人は、聖性の高さにおいて、他の尋常な聖人よりも抜群でなければなりません。ちょうどレバノンの糸杉が、他の杉よりも飛び抜けて巨大なように。このことは、ある無名の聖者に、神から啓示されました。これらの偉大な聖人は、恩寵と熱心に満ちあふれ、神の敵と戦うために、神から特に選抜された勇士です。この勇士らに向って、神の敵どもは四方八方から襲いかかるのです・・・。(本書47~48)


 すべての民に及ぶ大きな喜びを
  あなたがたに告げ知らせる
 きょう ダビドの町に
  あなたがたのために
 救い主がお生まれになった、すなわち
 主キリストである
         (ルカ2・10)



はしがき

読者のみなさま、あなたの手に入ったこの小さな本は、宝であります。しかも、かくれた宝であります。その宝は、聖霊の神秘的な働きによってあなたに知らされました。実はマリア御自身があなたを選ばれ、あなたの手の中に、この本を納められたのです。

最近誤った神学的な考え方によって、次第にマリア様に関する講話も少なくなり、聖職者の中にも、信者の中にも、マリア様に対する信心が非常に冷たくなったのではないかと思います。しかし、パウロ六世、ヨハネ・パウロ二世の教令・教書によって、マリアにたいする信心、つまり、神学に基づく信心の時代になりました。聖グレニョン・ド・モンフォールのこの本は、教会のマリアに関する神学のテキストであります。
マリア様を知りたいですか、どうぞこの本を読みなさい、とすすめたいのです。
「この母にこの子あり」という諺の通り、イエズス様を知ったものは、どうしてもその母親をも知りたいと思います。と同時に、母を知りながら子もよく知っておきたいという事も言われます。「マリアへの、まことの信心」は神の御摂理の計画の中に聖母マリアの役割りが明らかに表れますし、又、あなた自身も母マリアの子として正しい信心とは何かを、この本をゆっくり読みながら黙想すれば、子としての務めが何であるかわかるのではないかと思います。

新しい聖霊降臨の時代に向って、最後のときの使徒職者が生み育てられることになるでしょう。したがって使徒職者を養成するために、大へんふさわしいテキストではないかと思います。マリア様に対する信心が深くなりますと、御子イエズスに対する信心も深くなりますし、イエズス様を愛してしまったものは何とかイエズス様を知らせたい、イエズス様に愛されたいと思うようになるのではないでしょうか。マリアのどれいになった者は幸いな人です。熱心さをもって、御国のために一生けんめいに働くことになるでしょう。
 最後の言葉としてもう一つのことをお願いしたいと思います。聖母のまことの信心を読んで、素晴らしい本であるとお考えになりましたら、どうか、ふさわしい人にこの本を配るようにおすすめします。

1980年1月19日
「愛と光の家」  アラン・ケヌエル神父

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P324
訳者あとがき(聖モンフォールの紹介)



この本の著者は、聖ルイ・マリ・クリニョン・ド・モンフォ-ル( Saint Louis Marie Grignion de Montfort )です。
彼は1673年1月31日、フランス、ブルターニュ地方のモンフォール・ラ・カンで生まれ、1716年4月28日サン・ローラン・シュル・セーブルで、四十三才で亡くなっています。

1685年、レンヌ市のイエズス会経営のトマス学園で、中等教育を受け、1693年秋、司祭職への招きを意識してパリへ出発、神学予備校ともいうべきクロード氏の私塾で勉強。1695年、サンスルピ大神学校に入学。かたわら、ソルボンヌ大学神学部に、聴講生としてかよっています。頭はいいし、その上たいへんな勉強家で、当時すでに霊性生活にかんする本は殆ど読破。1700年6月5日、二十七才で司祭に叙階されています。

海外宣教を志し、まずカナダ行きを願い出ましたが、上長から許してもらえず、1701年夏から、ナント教区で信徒司牧を開始。同年秋、ナント市立総合病院のチャプレンに就任。病める者、貧しき者、どうにもならない者との出合いによって、キリストの福音の精神を体得しています。
1706年、かれ独特の福音宣教のため、教会当局からの圧迫により病院のチャプレンを辞任、ローマへ巡礼。同年6月6日、時の教皇クレメンス十一世に単独面接をねがって許可され、東洋布教への派遣をねがい出ましたが許されません。教皇はかれに、フランスにとどまって、国内布教に専従するよう勧告。同時に教皇は、ド・モンフォール神父の悲願であり司牧目標である「洗礼の約束の更新によるキリスト教精神の刷新」運動を正式に承認され、かれに、“聖座直属宣教師”という肩書まで与えておられます。

それに勇気づけられたド・モンフォール“宣教師”は、すぐにフランスに帰り、全国の教区でモーレツな国内布教を展開しています。とりわけ、同志を糾合して、聖母信心を主旨とする使徒職を組織したり、修道会を創立。宗教改革によってひきおこされた、キリスト教生活の退潮を聖母信心によって、既往にもどすことに専念しています。


さて、この本の原稿(聖ド・モンフォールの直筆原稿)が、発見されたのは1842年です。だから、著者が亡くなってから126年目です。すでに著者が、本書の114で予言していますように、この本の原稿は長い間、悪魔の憎悪とネタミと妨害によって、倉庫の片すみの“やみと沈黙とホコリ”の中に、置き忘れられていました。その間、フランス大革命があってド・モンフォール神父の遺品がみな、官憲によって没収されました。官憲が到着する前、だれかが、聖人の直接原稿をどこかに持ち去って、そこに隠匿したらしい。発見場所は、聖ド・モンフォ-ルがそこで亡くなったローラン・シュブル・セーブルの教会(大天使ミカエル教会)に隣接した、畑の小屋の中です。1842年4月29日でした。だから、この原稿は約130年間、フランス大革命やその他教会迫害のあらし(つまり悪魔の地上制覇)が一段落するまで、ここに隠されていたのです。

本書の訳者は、厳律シトー・トラピスト会の修道僧ですが、トラピスト会はもともと、その会憲に明記しているとおり、“天地の元后・聖母マリアの栄誉のために”建てられたものです。だから“ナザレのマリア”の生活のように、トラピストの一日は、聖母への賛美と祈りで始まり、続行し、終わります。“サルベ(SALVE)を歌って、一日のお恵みを聖母に感謝し、お告げの祈りをとなえて床につきます。
こうした聖母の子どもの生活ほど、しあわせなものはありません。このしあわせを、読者のみなさんと分かち合いたいために、この本を邦訳出版して、お手元におとどけする次第です。

 1978年  聖母月  灯台の聖母トラピスト大修道院にて   山下房三郎



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    受胎告知



第Ⅰ章 聖母への信心の必要

第一節 マリアの偉大さ

1.マリアをとおしてこそ、イエズス・キリストは、この世においでになりました。だから、
おなじくマリアをとおしてこそ、イエズス・キリストは、この世を支配せねばならないのです。


2.マリアは、この世では、まったくかくれて生活されました。そのため、聖霊からも
教会からも“アルマ・マーテル”すなわち“かくれた母”と呼ばれておいでになるのです。
マリアは、たいへん謙遜な方でした。マリアが、地上で燃やしておられた最大の、絶えまない
情熱は、自身からも全被造物からも、まったくかくれることでした。神にだけ知られるためです。


3.マリアは、神に、できるだけ自分をかくしてくださるように、できるだけ自分を、貧しく卑しくしてくださるようにと、熱心に祈っておられました。だから、神も喜んで、ほとんど全ての人の目から、マリアをおかくしになったのです。マリアが、母の胎にやどされたときもそうです。
誕生のときも、毎日の暮らしの中でも、マリアにかかわりのあるキリストの奥義においても、復活のときも、被昇天のときもそうです。両親にしてさえも、自分らの娘なのに、マリアのことが、全然わからなかったのです。天使たちは天使たちで、マリアをつらつらながめては、しばしば互にささやき合ったものです。
「あの女は、どんなかたですか」(雅歌3・6)
それほど神が、マリアを、全被造物の目から、おおいかくしておいでになったからです。むろん、神はときたま、マリアの御姿を被造物に、ホンのすこしばかり、かいま見せることもありました。しかしそれとても、マリアを、ますますかくしたいご意向から、そうなさったに過ぎないのです。


4.全被造物の目から、自分をかくしたい、とのマリアのねがいにこたえて、神なる御父も彼女に、一生のあいだ一度も、すくなくとも人目をひくような奇跡はおこなわれませんでした。マリアが、奇跡を行なうカリスマを、じゅうぶん持ち合わせていたにもかかわらず神なる御子も、マリアには、人前でほとんど、お話しをさせませんでした。彼女には、ご自分の神的知恵を、あふれるほど、与えておられたにもかかわらず。
神なる聖霊も、使徒や福音記者に、マリアにかんしては、ホンのわずかしか、記録させませんでした。しかも、人びとにイエズス・キリストを知らせるため、マリアのご登場がどうしても必要な場合に限り、そうさせたのです。マリアが、ご自分のいたって誠実な妻であったにもかかわらず。


5.マリアは、芸術作品でいえば、神の傑作です。神だけが、マリアを知り、マリアを独占しておいでになるのです。マリアは、神の御子の感嘆すべき母です。神の御子は御母マリアのけんそんを、ますます、助成するため、生涯にわたって彼女を低くし、かくすことを喜ばれたのです。彼女を実名ではなく“女の方”という、まるで赤の他人みたいな呼び方で、あしらわれました。
にもかかわらず、心の中では、すべての天使、すべての人にもまして、マリアを尊敬し、マリアを愛しておいでになるのです。

マリアは、聖霊の『閉じた園』(雅歌4・12)です。マリアは、聖霊のいとも忠実な妻です。聖霊だけが、この閉じた園に、はいることがおできになるのです。


マリアは、聖なる三位一体が、お住まいになる聖所です。マリアは、聖なる三位一体のいこいの場所です。マリアという名のこの聖所、このいこいの場でこそ、神は宇宙の他のいかなる場においてよりも、もっと神らしく、もっと素晴らしいのです。ケルビムセラフィムの上におけるお住まいなど、マリアのそれにくらべたら、テンで問題になりません。異例な特権でも与えられない限り、どんな被造物も、マリアという名の聖所にはいることは許されません―どんなに純潔な被造物であっても。


6.わたしも、聖人たちとともに言います。マリアは、新しいアダムであるイエズスが、お住まいになる地上楽園であると。マリアという名のこの地上楽園で、神の御子イエズスは、聖霊のみわざによって、人となられました。そこで、人間の知恵ではわからない、さまざまな霊妙神秘なことをおこなうためです。マリアは、神の偉大な御国、神国である。神はご自分のこの国に、いい尽くせない美と宝を貯蔵しておいでになります。

マリアは、神の無限の富の所蔵者です。神は、マリアのうちに、御ひとり子をかくしておかれました。ちょうどご自分のふところにかれを、かくしておいでになるように、また神は、御ひとり子のうちに、もっともすぐれたもの、もっとも貴重なものを秘蔵しておいでになります。
 ああ、全能の神は、どれほど偉大なこと、どれほどかくれたことを、この賛嘆すべきマリアのうちにおこなわれたのでしょう。マリア自身、そのふかい謙遜にもかかわらず、そのことを正直に告白せねばならなかったのです。「全能の神が、わたしに偉大なことをしてくださいました」(ルカ1・49)。世界は、マリアのこの“偉大なこと”を、ちっともわかっていません。それを理解することもできねば、それにふさわしくもないからです。


7.聖人たちは、神の聖なる都であるマリアについて、たいそうりっぱなことを言っております。みずからそう白状していますように、聖人たちはマリアについて話す時が一番心が燃え、うれしくもあり、雄弁でもあったのです。(聖ベルナルド「聖母の被昇天についての説教」4)聖人たちは、そう白状したのち、異口同音に次のように絶叫するのです。
 神の王座までとどくマリアのクドク(功徳)の高さは、だれも見きわめることはできません。広大無辺の宇宙よりも広いマリアの愛は、だれもはかり知ることができません。神ごじしんにまで圧力をかけるマリアの勢力の偉大さは、だれも理解することはできません。さいごに、マリアの謙虚さ、マリアのすべての美徳、マリアのすべての恩寵の深さはだれもおしはかることができません。
 ああ、人間の理解をこえる高さよ。
 ああ、人間のことばではいい尽せない長よ。
 ああ、はかり知れない偉大さよ。
 ああ、底知れぬ深いふちよ。


8.くる日もくる日も、地球のあらゆる地点で、天のいと高き処で、大海原の深みで、全被造物はマリアをたたえ、マリアをのべ伝えています。天においては、天使の九つの歌隊が、地においては、あらゆる年齢・あらゆる身分・あらゆる宗教の人びとが、善人も悪人も、地獄の悪魔にいたるまで、いやが応でも、マリアを“しあわせな者”と呼ばねばなりません。真理だからです。



聖ボナベントラ教会博士が言っているように、天国では、すべての天使が絶えまなく、聖母に向って、「聖なるかな、聖なるかな、神の御母にして永遠のおとめマリアよ」と熱烈に叫んでいます。そして、毎日、何千回も、何万回も、「天使祝詞」の前半“めでたし、聖寵満ちみてるマリア”をくり返しています。また、天使たちはマリアに、どうぞ何なりと、ご用事をいいつけてくださいと、ひれ伏しておねがいしています。また、これは聖アウグスチヌスが言っていることですが、聖なる三位一体の宮廷の侍従長―という要職にある聖ミカエル大天使までがマリアに、あらゆる讃辞、あらゆる栄誉を自らもささげ、またひとにもささげさすことに、最大の情熱をそそいでいます。
 聖ミカエル大天使は、マリアのご命令一下、すぐに、どこへでも、お使いしようと、また部下のだれかにお使いさせようと、いつも待機の姿勢をとっているのです。(申命記10・13/ヘブライ1・14参照)。


   聖母マリアと天使たち

9.全地は、マリアの栄光で満ちています。とりわけ、キリスト教諸国においてそうなのです。キリスト教の国々、地方、教区、都会などでは、マリアを自分らの保護者というタイトルで尊敬し、あがめています。そこでは、たくさんのカテドラルが、マリアの名のもとに、神に献堂されています。マリアをたたえる祭壇のない教会は一つもありません。マリアの不思議なメダイやご絵のおかげで、あらゆる種類の悪が影をひそめ、あらゆる種類の善が得られたということは、どんな町、どんな村でも耳にします。
マリアの栄誉をたたえるために、信心会や使徒職が、数えきれないほど組織されています。マリアのお名前を冠し、マリアのご保護のもとにたてられた男女の修道会が、どれほど多いことでしょう。どれほどたくさんの聖母信心会や、修道会のかたがたが、聖母への讃美を、聖母から頂いたお恵みを、あまねく世にのべ伝えていることでしょう。ちいちゃな幼な子までが、口ごもりながら“めでたし”をとなえているではありませんか。回心を拒否している頑固な罪びとさえ、心のそこでは、聖母への信頼の火ダネを保ち続けているではありませんか。地獄の業火にくるしみもだえている悪魔さえ、マリアを恐れながら、それでも尊敬しているのです。


   聖マリア教会(ポーランド)

10.そんなわけで、だれもが、聖人たちとともに、次の事実を正直に認めないわけにはまいりません。<マリアをどんなにほめたたえても、もうこれで十分だとはいえません>マリアへの賛美、称賛、尊敬、愛、奉仕は、それでもまだ、十分だとはいえません。マリアは、もっと賛美され、ほめたたえられ、尊敬され、愛され、奉仕されねばならないのです。


11.そんなわけで、聖霊とともに、「王の娘の栄光のすべては内面にある」(詩篇45・13)と言わないわけにはまいりません。別のことばで申せば、天と地がきそってマリアにささげる、あらゆる外面的栄光も、それをマリアが、ご自分の内面において、造物主からいただいている栄光にくらべたら、取るに足らないものです。また、マリアは、王の秘密中の秘密に立ち入ることができないすべの被造物からは、適正に認識され評価されないほど偉大なのです。


12.こうした中で、わたしたちは使徒パウロとともに呼ばざるをえません。神の恩恵と、自然と、栄光とが共同でおこなった、奇跡の中の奇跡ともいうべきマリアの美しさ偉大さは、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの」(1コリント2・9)なのです。子がそうであれば、母もそうである、とある人が言いました。マリアが、どんなに偉大なかたであるかを理解したいのなら、その子イエズスが、どんな方であるかを理解したいのなら、その子イエズスが、どんなかたであるかを理解したらいいのです。ところで、その子イエズスは、“神”です。だから、マリアは“神の母”なのです。だとすると、絶句・合掌あるのみです


13.わたしの心は、これまでわたしが書いてきたことを反芻しながら、かってない歓びです。激しく鼓動しています。じっさい、マリアは、今日まで、まだよく知られていません。そのことが、イエズス・キリストがまだ、知られるはずなのに知られていない原因の一つともなっているのです。
マリアが、世の人に知られ、マリアの支配が地上に来た後にこそ、はじめてキリストも、世の人に知られ、キリストの御国もこの世に来るのです。
これはたしかな論理です。キリストを、地上に降誕させたのはマリアです。だから、キリストを、世にかがやかすのも当然、このおなじマリアでなければなりません。





第二節 神は御子の受肉の神秘において、マリアを使おうと望まれた

14.わたしは、全教会とともに、告白します。マリアは、神のみ手から出た、純然たる被造物ですから、神の無限の稜威(みいず)にくらべたら、一個の原子よりも、もっともちいさいのです。いや、むしろ、無にひとしいのです。神だけが「有って有る者」(出エジプト記3・14)だからです。したがって、神だけが永遠に、だれにも依存しない完全自立、自己充足の存在だからです。そんなわけで、神はご自分の意思を達成し、ご自分の栄光をあらわすためには、マリアを絶対に必要とはしなかったし、また現在でもそうなのです。すべてのことをなさるためには、神はただ“望む”だけで、たくさんなのです。


15.だが、わたしは急いで、つけ加えねばならぬと思うのです。神が、ご自分のお造りになったマリアをとおして、ご自分のもっとも偉大なみわざを始め、完成しようと望まれたからには、このやりかたを神は、永久に変えないでしょう。そう信じなければなりません。なぜなら、神は永遠不動の実在ですから、ご自分の意識を変えたり、やりかたを変えたりすることは絶対にありえないからです。(ヘブル1・12参照)


16.父なる神は、マリアをとおしてでなければ、その御ひとり子を、世にお与えになりませんでした。
旧約時代の聖なる太祖・預言者・聖者たちが、四千年もの間、どんなにタメ息まじりに神におねがいしても、この地上最高のタカラである神の御ひとり子を、地上に降誕させることはできませんでした。
 ただ、マリアだけが、マリアひとりだけが、その力づよい祈りと、そのたかい聖徳とによって、神のみまえに恵みをえて、神の御ひとり子を地上に降誕させることに成功したのです。聖アウグスチノが言っていますように、この世は、神の御子を、御父のみ手から、じかにお受けするにふさわしいものではありませんでした。だから、御父は、この世が、マリアをとおして、御子をお受けすることができるようにとのご配慮から、まずマリアに、御子をお与えになったのです。
神の御子は、わたくしたちの救いのために、人となられました。だがしかし、マリアにおいて、マリアをとおしてこそ、人となられた事実を、ゆめにも忘れてはなりません。
聖霊は、マリアのご胎の中で、イエズス・キリストを形造られました。だが、それはあらかじめ天使を代理に使って、マリアの同意をえてはじめて、そうなさったのです。



17.神である御父は、マリアに、被造物として可能な限りの産み育てる力を、お与えになりました。ご自分の御子とその神秘体のすべての成員を産み出すちからを、マリアにお与えになるためです。


18.神である御子は、マリアの処女の胎に、天からおくだりになりました。新しいアダムとして、ご自分の地上楽園に、おくだりになったのです。そこで、おもうぞんぶん楽しむため、また恩寵界の霊妙ふしぎなわざを、人目にかくれておこなうためなのです。
 人となられたこの神は、マリアのご胎に閉じ込められることによって、ご自分の自由を見いだしました。おとめマリアから、あちこち持ち運ばれることによって、ご自分の全能を最大に発揮されました。ご自分のかがやきをただ、マリアにだけ示すため、それを地上では他のすべての被造物の目からかくすことにおいて、ご自分の栄光も、御父の栄光も、ともに見いだしました。

人となられたこの神は、ご自分の降誕のときも、神殿奉献のときも、三十年間のかくれた私生活のときも、ご受難・ご死去のときにいたるまで、いとも愛すべきおとめマリアに、ご自分を従属させることによって、神としての自立独立性と無限の稜威(みいず)の栄光を、最高に現されました。人類救済のこれらの神秘に、マリアは、どうしても参加せねばならなかったのです。キリストがマリアとともに、同一単一のイケニエを御父にささげることができるため、またキリストが、マリアの同意によって、イケニエとしてほふられることができるためなのです。

ちょうど昔、イザアクが、父アブラハムの、神のみこころへの同意によってほふられたように。マリアこそ、幼な子イエズスに、乳房をふくませ、養い育て、成長させ、おとなにし、ついにわたしたちのために、十字架のイケニエにしてくださったのです。

ああ、感嘆すべきも、人知に理解しがたい神の従属よ。さすがに聖霊もこの事実だけは、沈黙のやみに葬り去ることができなかったのです。(ルカ2・51)人となられた永遠の知恵が、人目にかくれた三十年の私生活のあいだになさった、賛嘆すべきことを、ことごとく、やみに葬り去った聖霊も、この一事だけは、明るみに出されたのです。マリアへのイエズスの従属が、人類救済の歴史において、どれほど価値があり、どれほど価値があり、どれほど栄光があるかを、わたしたちに示すためなのです。

救世主イエズス・キリストは、人目を見はらせるような奇跡によって、全世界を回心させ、それによって、神なる御父の栄光を現わすこともできたでしょう。しかし、三十年のあいだ、ひたすらマリアに従い、マリアに孝養をはげむことによって、それよりもはるかに大きな栄光を、御父にあたえたのです。わたしたちも、唯一の模範であるイエズス・キリストにならって、神を喜ばすため、マリアに従いマリアに自分を従属させるとき、ああ、どれほど偉大な栄光を、神にきすのでしょう。


19.イエズスのご生涯の事跡を、たんねんにしらべていくと、イエズスが、マリアをとおして、かずかずの奇跡をおこない始めるのを望まれたことがよく分かります。イエズスは、マリアのことばをとおして、先駆者ヨハネを、その母エリザベトの胎内で聖化されました。マリアが、ごあいさつをとおして、先駆者ヨハネを、その母エリザベトの胎内で聖化されました。マリアが、ごあいさつのことばを述べられるとすぐ、ヨハネはまったく聖化されたのです。これは、恩寵界の最初にして最大の奇跡です。(ルカ1・41)

イエズスは、カナの結婚披露宴で、マリアのつつましいねがいによって、水を、ぶどう酒に変えてくださいました。これは、自然界での最初の奇跡です。(ヨハネ2・1~12)イエズスは、マリアをとおしてこそ、ご自分の奇跡をおこない始め、おこない続けられたのです。イエズスは世界終末の夕べにいたるまで、マリアをとおして、奇跡をおこない続けていかれるのです。



20.神である聖霊は、神の生命のいとなみにおいては不妊です。すなわち、いかなる神的ペルソナをも、生み出すことができません。ところが、そのきよき妻マリアのおかげで、たくさんの子供を生むようになりました。聖霊は、マリアとともに、マリアにおいてマリアからこそ、その傑作の中の傑作ともいうべき、人となられた神を生み出したのです。そのうえ聖霊は、くる日もくる日も、世紀のとばりがおりるまで、天国の予定された人びとを、キリストの神秘体の成員を生み続けていかれるのです。
そんなわけで、聖霊は、ご自分のいとしい妻、不解消のキズナで結ばれている妻マリアを、ある人のたましいの中に見いだせば見いだすほど、ますますこの人の中に、イエズス・キリストを生み出すように、またこの人を、イエズス・キリストの中に生み出すようにと、さかんに、おはたらきになるのです。


21.だからといって、おとめマリアが、聖霊に、聖霊が以前に持たなかった産み育てる力を、はじめて与えた、という意味にとってもらってはこまります。
聖霊は、全能の神なのですから、御父や御子のように、産み育てる力、つまり子を生む能力は、潜在的にもっておいでになるのです。たとえそれまでは、この産み育てる力を現実には行使せず、いかなる神的ペルソナをも、生み出さなかったにしても。
わたしがいいたいのは、聖霊は、おとめマリアの仲だちによって、ご自分が潜在的に持っているこの産み育てる力をはじめて現実に行使して、イエズス・キリストとその神秘体の成員を、マリアにおいて、マリアをとおして生み出した、ということなのです。この仕事のため、聖霊には、マリアが絶対に必要だったわけではありません。ただマリアを使いたかったのです。このことは、キリスト者の大学者にも、霊性の大家にも、なかなか理解しがたい、恩寵界のミステリーなのです。



(第二巻につづく)

注1.聖ベルナルド(1090~1153年)

クレルヴォーのベルナルドゥスあるいは聖ベルナルドは、12世紀のフランス出身の神学者。すぐれた説教家としても有名である。フランス語読みでクレルヴォーのベルナールとも呼ばれる。 聖公会とカトリック教会の聖人であり、35人の教会博士のうちの一人でもある。「蜜の流れる博士」と呼ばれ聖母マリアへの崇敬がことのほか厚かった。


注2.聖ボナヴェントゥラ(1221~1274年)

ボナヴェントゥラは、13世紀イタリアの神学者、枢機卿、フランシスコ会総長。本名ジョヴァンニ・デ・フィデンツァ。トマス・アクィナスと同時代の人物で、当代の二大神学者と並び称された。フランシスコ会学派を代表する人物の一人で、当時の流行だったアリストテレス思想の受容には批判的であった。

注3.聖アウグスティヌス(354~430年)

アウグスティヌスは古代キリスト教の神学者、哲学者、説教者。ラテン教父とよばれる一群の神学者たちの一人。初期キリスト教の西方教会最大の教父で、正統的信仰教義の礎石を築いた。


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第1部 信経
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第2部 秘跡
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「聖母マリアへのまことの信心」 第二巻

2022-04-28 12:53:38 | 日記
第三節  神は人間聖化のみわざにおいて、マリアを使おうと望まれる



第①項 三位一体の三つのペルソナは、教会の中で、マリアに対してどんな態度をとっておられるか

22.三位一体の三つのペルソナが、イエズス・キリストの受肉のとき、すなわち最初の地上来臨のとき、マリアに対してお取りになった態度は、そっくりそのまま、毎日、目にみえない仕方で、教会の中で継続されています。それは世の終わりまで、すなわちイエズス・キリストの再臨の日まで、継続されていくのです。


23.神である御父は、地表のすべての水を一か処に集めて、これを“海”と名づけました。おなじように、ご自分のすべての恩寵を一か処に集めて、これを“マリア”と呼びました。この偉大な神は、たいへん高価なタカラ、たいへん豊富なタカラの倉をお持ちです。その内部には、すべて美しいもの、すべて光りかがやくもの、すべて希少価値のあるタカラがドッサリ収蔵してあります。かけがいのない、ご自分の御ひとり子までが、しまってあります。
 この山のようなタカラの倉とは、だれあろう、マリアのことです。聖人たちは、マリアのことを“主のタカラ”と呼んでいます。このタカラの倉のあふれから頂いて、わたしたちは霊的に富者となったのです。


24.神である御子は、ご自分の母マリアに、ご自身の生と死によってもうけたすべてのもの、すなわち無限のクドク、賛嘆すべき善徳をみなお与えになりました。御父から相続財産としていただいた、すべてのタカラの保管者として、マリアを指名されました。だから、マリアこそ、キリストのクドクを、キリストの神秘体の各成員に流通されるのです。マリアこそ、キリストの善徳を、キリストの神秘体に交流されるのです。マリアこそ、キリストの恩寵を、キリストの神秘体の各成員に分配されるのです。
 そんなわけで、マリアこそ、キリストという恩寵の貯水池の運河です。水道です。マリアという名のこの運河、この水道を使って、キリストは、ご自分のあわれみを、その神秘体の各成員に、静かに、しかし豊富に、お通しになるのです。


25.神である聖霊は、ご自分の誠実な妻マリアに、ご自分のいい尽くせぬタマモノを流通されました。聖霊はご自分がもっているすべてのタマモノの分配者として、マリアを選ばれました。当然の結果、マリアは、聖霊のタマモノと恩寵を、ご自分が好きな人に、好きなだけ、好きな時に分配されるのです。聖霊はマリアの手をとおさないでは、ご自分のどんなタマモノも人々にお与えになりません。
 なぜなら、これが、神のご意志だからです。神は、わたしたちが、マリアをとおして、ご自分からすべてをもらうことをお望みになるのです。こうして、マリアを富ませ、称賛しマリアに栄誉をお着せになるのです。なぜなら、マリアは一生をつうじて、その深い謙遜によって、暮らしは貧しく卑しく、消えてなくなるほど人目にかくれておられたからです。これが、母なる教会と聖なる教父たちの一貫した見解なのです。


26.もしわたしが、今日のエライ学者先生がたをあいてに話をしているのなら、以上簡潔に述べたことを、聖書や教父たちに訴えて、もっと長々と議論を勧めていくでしょう。聖書や教父たちの著書から、ラテン語のテキストを引用し、いくつかの堂々たる論拠をごらんにいれることもできましょう。ちょうどボアレ神父が、その著「マリアの三重冠」の中でそうしているように。
 しかし、わたしは、とりわけ、貧しい人や、心がすなおな人に向って、話しかけているのです。こういう人たちはみな、善意の人であるから、平均的学者先生よりも、もっと率直に、ひとのいうことを信じるし、したがって、もっと神からごほうびをうけるのです。それでわたしは、こうした単純素朴な読者に、ただ真理を提示するだけにとどめます。ラテン語のテキストを引用しても、おわかりにならないのですから、それはやめにします。それでも、すこしばかり引用させていただくこともありましょう。しかし、けっして長たらしい引用はいたしません。(この訳本では、ラテン語のテキストはのせません―訳者)閑話休題。では、先を急ぎましょう。


27.恩寵は自然を完成し、栄光は恩寵を完成します。だとすると、イエズス・キリストが地上で、マリアの子であったように、天国でもおなじくマリアの子であるということは、たしかな事実です。当然の結果として、イエズス・キリストが、すべての子らの最も完全な従属と服従を、天国でもそっくりそのまま、すべての母親の中の最高の母親マリアに対して、持ち続けておられるということは、これもたしかな事実です。
 だがイエズス・キリストになにか不足があるから、なにか不完全さがあるから、このように、マリアに従属しているのだと考えてはいけません。なぜなら、マリアは、神である御子イエズスよりも、無限におとったお方ですから、世の母親が、自分よりもおとっている子供に命令するとおりに、御子イエズスに命令するわけにはまいりません。マリアは、天国のすべての聖人を神に変容させる恩寵と栄光によって、ご自分もスッカリ神に変容し尽くされておいでになるのです。だから、神の永遠不動の意志に反することはひとつとして望むこともできねば、することもできないのです。

そんなわけで、聖ベルナルド、聖ベルナルジノ、聖ボナベントラ・・・などの書き物の中に、天国でもこの世でも、すべてのものが、神さまさえも、マリアに従っている、というような文字が見えても、誤解してはいけません。その真意はこうです。―神が、マリアに与えてくださった権威は、たいへんなもので、そのために、マリアは、神とおなじぐらい権威をもっているかのように思われます。また、マリアの祈りと願いは、神のみまえに、たいそう力があるので、それはいつも神にとっては“命令”とおなじぐらいねうちがあります。神であるイエズスは、ご自分のいとしい母マリアの祈りを、絶対こばむことはできません。マリアの祈りはいつも謙遜で、そのうえいつでも神の意思にピッタリ沿っているからです。


旧約のモーセは、祈りの力で、イスラエル人への神の怒りの爆発を、未然にふせぐことができました。このうえなく偉大、かぎりなくあわれみ深い神は、モーセの強烈な祈りの攻勢にたじたじ。とうとうモーセに、「わたしをとめるな。このかたくなな民にむかって思うぞんぶん怒らせ、罰さしておくれ」(出エジプト記32・9)と言われたほどです。だとすると、いわんや謙遜なマリアの祈り、このうえなく偉大な神の御母の祈りは、天国と地上のあらゆる天使、あらゆる聖人の祈りと取り次ぎよりも、神のみまえに、どれほどいっそう力があるのでしょう。



28.マリアは、天国で、天使・聖人たちのうえに采配をふるっておいでになります。神は、地上でのマリアのふかい謙遜にむくいるため、反逆の天使たちが高慢によって、そこからつい落した天国の空席を、聖人たちで満たす権能と使命を、マリアにお与えになりました。これが、神の意思なのです。すなわち神は、自分をひくくする者を高くし、自分を高くする者をひくくされるのです。(ルカ1・52)
 神は、天上のものも、地上のものも、地獄のものも、謙遜なマリアの命令に、いやでも応でも服従させるのです。神は、へりくだるマリアを、ご自分の軍団の総指揮者、ご自分のタカラの管理者、恩寵の分配者、ご自分の大事業の現場監督、人類の改造者、人びとの仲介者、神の敵の粉砕者、ご自分の偉大さと勝利の同伴者となさいました。


 聖人たちに囲まれる聖マリア

29.神である御父は、マリアによって、世の終わりまで、ご自分の子どもを次から次へと作りたいのです。それでマリアに、「ヤコブに住まいを定めよ」(集会24・8)とおっしゃるのです。すなわち、ヤコブによってかたどられている、神の子どもたち、救われる人たちの中に、あなたの住いと、いこいの場を確保しなさい。けっしてエザウによってかたどられている、悪魔の子どもや亡びの子どもたちの中に、あなたの住いを定めてはいけませんよ。



30.自然界の誕生、からだの誕生という産み育てる行為には、かならずそこに、父と母とがいなければなりません。同様に、超自然界の誕生、霊的誕生においても、神という御父とマリアという母とがいなければなりません。神の子ども、救われる人は、ひとり残らず、神を父として、マリアを母としてもっています。マリアを母としてもっていない者は、神を父としてもっていません。
 だから、マリアを憎んだり、軽蔑したり、無視したりする異端者や離教者のような亡びの子は、どんなに神を誇りとしていても、神を父としてもってはいません。マリアを母としてもっていないからです。もしかれらが、マリアを母としてもっているなら、世間の子どもが、自分にいのちをあたえてくれた母親を、本能的に愛し尊敬するように、かれらも同様に、マリアを愛し尊敬するはずです。
 異端者、邪説者、亡びる人と救われる人とを見分ける、いちばん確実、いちばん明白なしるしがここにあります。それは、異端者や亡びる人はきまって、マリアをけいべつし、マリアにたいして無関心な態度をとっている、ということです。民衆のマリアへの信心と愛を弱めるため、ことばでも行いでも、陰に陽に、ときには、もっともらしい口実を使って、たいへん活躍している、ということです。この人たちは本当に気の毒です。神である御父は、マリアに、この人たちの中に住まいを定めよ、とはおっしゃいません。この人たちは、エザウの子ぶんだからです。



31.神である御子は、母マリアをとおして、くる日も、くる日も、ご自分の神秘体の各成員の中に形造られようと、つまり受肉しようと望んでおられます。それでマリアに、「イスラエルをあなたの相続財産として受けなさい。」(集会書24・8)とおっしゃるのです。その意味はこうです。神であるわたしの父は、わたしに相続財産として、地上のすべての国民、すべての人を、善人も悪人も、救われる人も亡びる人も、与えてくださいました。救われる人を、わたしは黄金のムチでみちびき、亡びる人を、鉄のムチでみちびきます。わたしは救われる人にとっては、父であり弁護者ですが、亡びる人にとっては、正義の報復者です。そして、救われる人にとっても、亡びる人にとっても、いちように、わたしは審判者なのです。
 しかし、わたしの愛する母マリアよ。あなたは相続財産として、恒久的財産として、イスラエルによってかたどられた、救われる人しか持たないのです。あなたは、救われる人の良いママとして、かれらを産み、養い、育てられるのです。また、救われる人の女王として、かれらをみちびき、おさめ、保護されるのです。



32.聖霊は言っておられます-「あの人も、この人も、彼女から生まれた」(詩篇87・5)。 ある教父たちの解説によりますと、マリアから最初に生まれた人は、神人イエズス・キリストです。次に生まれた人は、養子縁組によって生まれた純潔な人、神とマリアとの子供です。もしも人類のかしらイエズス・キリストがマリアから生まれたのなら、このかしらのからだであるすべての救われる人も、当然の帰結として、マリアから生まれねばなりません。
ひとりの同じ母親が、からだのないあたまだけの子供を産みますか。または、あたまのない、からだだけの子供を産みますか。そうだとしたら、まさに世紀のオバケです。これと同じ理くつで、恩寵の世界においても、かしらとそのからだは、ひとりの同じ母親から生まれるのです。だから、もしもイエズス・キリストの神秘体のある成員が、つまり救われる人が、神秘体のかしらをお産みになったマリアいがいの、他の母親から生まれたとしたら、この人はもはや、イエズス・キリストの神秘体の成員でもなければ、したがって、救われる人でもないわけです。そんな人は恩寵界のオバケです。



33.そればかりでなく、天上のものも、地上のものも、毎日、数えきれないほど、天使祝詞の中で、「また、ご胎の御子イエズスも祝されたもう」と、くり返しくり返し祈っています。イエズスは、いつの時代にもまして、特に今日、マリアのご胎の実、すなわちマリアの胎から生まれた御子なのです。だから、イエス・キリストは、すべての人にとって総括的にそうであるように、ご自分を所有している信者各自にとってはとりわけ、本当の意味で、マリアのご胎の実、マリアの作品なのです。
 そんなわけで、もしも自分のたましいの中に形造られているイエズス・キリストを、所有している信者だったらだれでも、次のように大胆に言うことができるのです。「マリアさまに感謝いたします。わたしが所有しているイエズス・キリストは、マリアさまのご胎の実、マリアの作品です。マリアさまなしには、わたしはイエズス・キリストを、所有することができなかったはずです。」

さらに、聖パウロが、自分にあてはめて言った次のことばを、もっと真実な意味で、マリアにも、あてはめることができるのです。「わたしの子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、わたしは再びあなたがたのために、産みの苦しみをしています。」ガラテヤ4・19)。すなわち、わたしはくる日もくる日も、神の子どもを産み続けています。わたしの子イエズス・キリストが、かれらのうちに形造られ、おとなの背たけに達するまで、産みの苦しみをしているのです(エペソ4・13)。


     聖パウロ

聖アウグスティヌスは、自分が考えていたことよりも、またわたしが以上述べてきたことよりも、はるかに意味深長な現実をふまえて、次のように言っています。「救われる者はすべて、神の御子の姿に似るために、この世ではマリアのご胎のなかにかくされています。かれはそこで、この良きママから保護され、養われ、胎教を受け、すくすくと成長していくのです。かれらが死ぬと直ぐ、マリアはかれらを、こんどは栄光のいのちに産みます。だから、教会が、善人の死をそう呼んでいるように、かれらの死こそは、まさしくかれらの誕生日なのです。」

  聖アウグスティヌス

 ああ、亡びる人にとっては、まったく知られていない恩寵の神秘よ。
 ああ、救われる人にとっても、わずかばかりしか知られていない恩寵の神秘よ。



34.神である聖霊は、マリアにおいて、マリアをとおして、選ばれた人を形造りたいのです。聖霊はマリアにこう言われます。「選ばれた人びとの中に、根をおろしなさい」(集会書24・12)。わたしの最愛の女よ、わたしの愛しい妻よ。選ばれた人びとの中に、あなたのもろもろの善徳の根をおろしなさい。選ばれた人びとが徳から徳へ恩寵から恩寵へと、成長してゆくことができるために。あなたが、かずかずのけだかい善徳を実行しながら、地上生活をおくっているのを見て、わたしの心は歓びにたえませんでした。
いま、あなたは天国におられる。天国にいながら、同時に地上にも、いてもらいたいものです。どうか、わたしのねがいをかなえて、選ばれた人びとのうちに、あなた自身を再生してください。かれらのうちに、あなた自身の確固不動の信仰を見たいものです。

       聖霊の鳩

あなた自身の深いけんそんを、あなた自身の全面苦業を、あなた自身の崇高な祈りを、あなた自身の熱烈な愛徳を、あなた自身の強固な望徳を、あなた自身のあらゆる善徳を見たいものです。見て歓びたいものです。
マリアよ。あなたは昔も今もいつも、わたしの誠実な妻です。きよらかな妻、子宝に恵まれた妻です。どうか、あなたの信仰がわたしに、たくさんの信者を与えてくれますように。どうか、あなたの純潔がわたしに、たくさんのバージンを与えてくれますように。どうか、あなたのたくましい豊かな産み育てる力がわたしに、無数の選ばれた人を与えてくれますように。



35.マリアがある霊魂の中に、根をおろすとき、彼女はそこに、ご自分だけがおできになる、恩寵の絶妙神秘なみわざをなさいます。マリアだけが、子どもを産む能力をもつ聖処女だからです。純潔の点で、また無数の子どもを産むたくましい産み育てる力の点で、マリアに比肩できる者は、過去、現在、未来をつうじて、ひとりもいないからです。
 マリアは聖霊に協力して、世にもたぐいない、最高の傑作をし上げました。すなわち、神であって同時に人でもあるイエズス・キリストを生んだのです。マリアはひき続き、世の終わりに登場する大人物を生み出していくのです。世の終わりに大活躍を演じる偉大な聖人はみな、マリアから養成され、マリアから教育されるのです。マリアだけが、ただひとり、霊との交わりの中で、世にもたぐいない人物を生み出すことができるからです。



36.マリアの夫である聖霊が、ある霊魂の中に、マリアを見いだすとすぐ、そこに飛んでいき、そこにはいり、この霊魂にご自分を、豊かにお与えになります。聖霊は、この霊魂が、マリアに提供している住まいの場の大きさに応じて、この霊魂にご自分をお与えになるのです。昨今、聖霊は、霊魂たちの中に、人が目を見はるようなみわざをなさっていません。その理由の一つは、聖霊が、霊魂たちの中に、ご自分の誠実な妻、ご自分と絶対に離れることのできない妻マリアとかれらとの、じゅうぶん深い一致を、見いだすことができないからです。「ご自分と絶対に離れることのできない妻マリア」と、わたしは言います。なぜなら、御父と御子との無限愛である聖霊が、選ばれた人びとのかしらであるイエズス・キリストを生み出すため、またイエズス・キリストを選ばれた人びとの中に生み出すために、ひとたびマリアを、ご自分の妻としたからには、このおなじ聖霊は、マリアを絶対に“離別”しないからです。マリアが、いつも聖霊に対して誠実であり、マリアが、いつも豊かな産み育てる力に恵まれているからです。





 第②項 上記の事実から出る諸結果

1、マリアは心の女王


     天の女王マリア


37.わたしが以上述べてきた事実から当然、次のことが結論できます。
第一、マリアは、選ばれた人びとの心に対して、大きな支配力を神から頂きました。もしもマリアが、異例の恩寵によって、選ばれた人
びとの心に対して、神から特別の権限と支配力を頂いていなかったら、神である御父が、彼女にお命じになったように、選ばれた人びとのうちにご自分の住まいを定めることは、とうていできなかったはずです。
選ばれた人びとの母としてかれらを形造り、養い、永遠の生命に産むこともできないはずです。選ばれた人びとを、ご自分の相続財産とすることも、持ちものとすることもできないはずです。かれらをイエズス・キリストのうちに形造り、またイエズス・キリストを、かれらのうちに形造ることもできないはずです。かれらのうちに、ご自分の善徳の根をおろすこともできねば、これらすべての恩寵のみわざにおいて、聖霊の不可欠な協力者となることもできないはずです。
 神はこれらの権能を、ただご自分の御ひとり子であり、実子でもあるイエズス・キリストに対してばかりでなく、ご自分の養子であるすべてのキリスト者に対しても、同様に行使するようにと、マリアにお与えになったのです。それもただ、キリスト者の身体に対してばかりでなく、霊魂に対しても、身体におとらず、行使するようにと、お与えになったのです。



38.イエズスが、生まれながらの権利によって、また征服の権限によって、天地の王であるように、マリアも恩寵によって、天地の女王なのです。さて、「神の国はあなたがたのうちにある」(ルカ17・21)というそのおことばのとおり、イエズス・キリストの御国が、主として人間の心、すなわち人間の内面にあるように、マリアの御国も同様に主として人間の内面、すなわち人間のたましいにあるのです。したがって、マリアは、目にみえるすべての被造物のうちにおいてよりも、目にみえないたましいのうちにおいてこそ、その御子とともに、いっそうはるかに栄光を着せられておいでになるのです。そんなわけで、聖人たちとともに、マリアのことを“心の女王”とお呼びすることができるのです。



二、人間はその終極の目的を達成するために、どうしてもマリアが必要  
(1)キリスト者には、その身分上の義務を完全に果すために、どうしてもマリアが必要です。


39.第二の結論は、次のとおり。マリアは、相対的必要から、つまり神がそれをお望みになるから、神にとって必要な人物です。人びとにとっては、その終局目的を達成するために、マリアはもっともっと必要な人物です。だから、マリアへの信心を、他の聖人への信心と同列に置いてはいけません。マリアへの信心の必要性を値引きしてもいけないし、いわんやそれを余計なものと思ってもいけません。



40.聖アウグスティヌス、エデッサの助祭、聖エフレム、エルザレムの聖チリロ、コンスタンチノーブルの聖ゼルマノ、ダマスコの聖ヨハネ、聖アンセルモ、聖ベルナルド、聖ベルナルジノ、聖トマス・アクイナス、聖ボナベントラなどの教父たちの意見にもとずいて、学徳円満なイエズス会員スワレズ、おなじく学識と信心に富むルーハン大学のユスト・リプス博士、その他大勢の学者は、マリアへの信心が、救いに必要なことを、だれも抗弁できないほど明確に証明しています。また、これはエコランパジオはじめ、その他の著名な異端者までが明言していることですが、マリアに対して尊敬も愛も持たないということは亡びへの確実なしるし、反対に、全力を尽して、心のそこから信心をする、または献身することは、救いへの確実なしるしなのです。


41.旧約聖書のもろもろの予型も、新約聖書のかずかずの宣言も、右の事実を証明しています。聖人たちの思想も行動も、それを確認し、人びとの理性も経験も、それを納得し、公表しています。悪魔までが、その一味とともに、いやいやながらも、真理の圧力に抵抗しきれないで、右の事実をしばしば告白せざるをえないように仕向けられたものです。この真理を証明する聖なる教父や博士たちの数多い文献の中から、長たらしい引用をさけるため、タッタひとりの教父(ダマスコの聖ヨハネ)の、タッタ一節を左にかかげます。「ああ、マリアよ。あなたへの信心こそは、神が救おうと望んでおられる人びとにお与えになる、救いの武器なのです。」


       古い聖書

42.この事実を証明するエピソードは、たくさんありますが、そのうちの二つだけを次にかかげましょう。
(a)アシジの聖フランシスコの伝記にあることですが、聖人はある日、忘我の境にあったとき、天までとどく巨大なハシゴを見ました。ハシゴの先端には、マリアさまがいらしたのです。天国にはいるには、このハシゴをのぼらねばならないことが、このマボロシによって示されているのです。

(b)もうひとつは、聖ドミニコの伝記に出ています。聖人がカルカンソの町の近くで、ロザリオについて説教していたときのことです。15000匹もの悪魔につかれた、ひとりの気の毒な異端者が聴衆の中にいました。マリアはこの悪魔たちに、ご自分への信心にかんする幾つかの重要な、なぐさめになる真理を、みんなの前で公表するようにと、お命じになりました。仕方がありません。悪魔どもは顔を真っ赤にしながら、それでも力いっぱい、ハッキリと、それをやってのけました。悪魔が仕方なく、マリアへの信心についてやってのけたこの大演説、この大讃辞こそ、マリアに対してあまり信心をしていない人たちにとってさえ歓びの涙なしには聞くことができないほどりっぱなものです。



(2)とりわけ、完徳にあこがれる人たちにとっては、どうしてもマリアが必要です。

43.マリアへの信心が、ただ単に救いをえるためにだけでも、すべての人にとって必要だとするなら、まして特別の完徳に召された人たちにとってはなおさらのこと、もっともっと必要になってくるのです。マリアとの親しい一致がなければ、またマリアの助けに完全にすがっていなければ、イエズス・キリストとの親しい一致に達することもできないし、また聖霊への完全な忠実を身につけることもできません。これはたしかです。



44.マリアだけが、ただひとり、ほかのどんな人の助けもかりないで、「神から恵みをいただいたのです」(ルカ1・30)。マリアが、神から恵みをいただいた後、たくさんの人が、おなじように神から恵みをいただきましたが、かれらはみな、ただマリアをとおしてのみ、それをいただいたのです。
 これからいただく人も同じこと、マリアをとおしてはじめて、それをいただくのです。大天使ガブリエルから、ごあいさつのことばを聞いたとき、マリアはすでに「神の恵みに満ち満ちておられました」(ルカ1・28)。さらに、「聖霊が彼女のうえに臨み、いと高き者の力が彼女をおおった」(ルカ1・35)とき、マリアは聖霊によって、ますます神の恵みに満ちあふれました。それ以来、マリアはこの二重の恩寵の充満を、時々刻々、ふやし続けていかれたので、だれも想像できないほど、恩寵の絶頂に到達されたのです。

だから、神はマリアを、ご自分のタカラの唯一の管理者にし、ご自分の恩寵の唯一の分配者にされたのです。それは、マリアが、お望みの人をきよめ、高め、富ませるためです。マリアがお望みの人に天国への狭い道をたどらせるためです。マリアがお望みの人に、生命への狭き門を、どんなギセイを払っても、くぐらせるためです。こうして、マリアが、お望みの人に、王の玉座と王しゃくと王冠を与えるためです。
 イエズスは、いつどこでも、マリアのご胎の実、マリアの子です。マリアは、いつどこでも、いのちの実を生じる木、いのちの母なのです。



45.神は、ただマリアひとりに、神愛の酒倉のカギをお渡しになりました。ただマリアひとりに、完徳の秘境に分け入る権限を、またほかの人にも分け入らせる権限を、お与えになりました。マリアだけが、不信のエバの子らを、地上楽園に入場させることができるのです。ここでマリアは、この気の毒な子どもたちを、神とごいっしょに楽しく散歩させてくださるのです。敵の攻撃に対して安全地帯であるここに、かれらをかくしてくださるのです。ここで、善悪を知る生命の木の実を、中毒死の恐れなしに、かれらにおいしく食べさせてくださるのです。こんこんと豊かにわき出るきよらかな泉の水を、おなかいっぱい飲ませてくださるのです。マリアこそ、この地上楽園です。
 アダムとエバが、罪をおかしてそこから追い出された、ご自分じしんにほかならないこの処女地、この祝福の楽園には、マリアは、お望みの人しか入場させません。入場者をみな聖人に仕上げるためです。



46.聖ベルナルドの解説にしたがって、聖霊のことばをかりていうなら、マリアよ、「民のうちの富んだ者は」千代に八千代に、とりわけ世の終わりに、「あなたの行為を求めるでしょう」(詩篇45・13)。すなわち、世の終りごろには、もっとも偉大な聖人、恩寵と善徳にもっとも富んだ人たちこそ、もっとも熱烈にマリアに祈るのです。マリアを模倣するため、自分らの完全な手本として、いつもマリアを眼前に見すえているのです。マリアに助けを呼ばわるため、自分らの力づよいパトロンとして、いつもマリアにまなざしをそそいでいるのです。


  聖ベルナルドに現れる聖母

(第三巻につづく)

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第1部 信経
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第2部 秘跡
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「聖母マリアへのまことの信心」 第三巻

2022-04-28 12:53:19 | 日記
第四節 世の終りにおけるマリアの特殊な役わり 

 第①項 世の終りの予言的展望


47.こうした現象は、とりわけ世の終りごろに起こるであろう、と今さきわたしは書きました。ところが、世の終りごろを待つまでもなく、それはまもなくやってくるのです。なぜなら、神はマリアの協力をえて、世の終りにそなえて、偉大な聖人を大量に送り出さねばならないからです。これらの偉大な聖人は、聖性の高さにおいて、他の尋常な聖人よりも抜群でなければなりません。ちょうどレバノンの糸杉が、他の杉よりも飛び抜けて巨大なように。このことは、ある無名の聖者に、神から啓示されました。そしてレンチ氏が、この聖者の伝記を公開しています。


    レバノン杉



48.これらの偉大な聖人は、恩寵と熱心に満ちあふれ、神の敵と戦うために、神から特に選抜された勇士です。この勇士らに向かって、神の敵どもは四方八方から襲いかかるのです。世界終末の夕べにおこなわれる、神と悪魔との決戦に登場するこれらの勇士はマリアに対して、特別の信心をもっているのです。マリアの光で照明され、マリアの乳房で養われ、マリアの精神でみちびかれ、マリアの両腕で支えられ、マリアの保護で守られているのです。こうした中で、一方の手では敵と戦い、他方の手ではどしどし建設していくのです(エズラ4・17参照)。
片方の手では、異端者とその異端、離教者とその離教、偶像崇拝者とその偶像、悪人たちとその罪悪に対して戦い、これをたおし、これを粉砕するのです。もう一方の手では、聖なる教父たちがそう呼んでいるように、“マリア”という名の「ソロモンの神殿」「神の都」を建設していくのです。
世界終末の神の勇士たちは、自分らの雄弁と行動によって、全世界の人を、マリアへのまことの信心に投入するでしょう。こうした運動は、多くの敵をつくりだすでしょう。だが同時に、それにまさる多くの勝利と、神の栄光を獲得するでしょう。このことを、神ごじしんが、当代の大使徒・聖ビンセンシオ・フェリエに啓示されました。そうしてこの聖人は、ご自分の本のどこかに、この啓示をくわしく書いています。
世界終末の夕べに起るこうした現象を、聖霊はすでに詩篇59編のなかで、予告しているように思われます。次のように言っておられるのです。

「神はヤコブを支配する方
地の果てまでも支配する方であることを。
夕べになると彼らは戻って来て
犬のようにほえ、町を巡ります。
彼らは餌食を求めてさまよい
食べ飽きるまでは眠ろうとしません。」
(詩篇59・14-16)
世界終末の夕べ、全世界の人が、父なる神のふところに帰っていくため、また神の義への飢えかわきをいやすため、犬のようにほえ、食をもとめて、うろつきまわる“町”とはマリアという名の町です。マリアは聖霊から“神の町”“神の都”(詩篇87・3)と呼ばれているからです。



49.世の救いは、マリアをとおして開始されました。だから、おなじくマリアをとおして完成されるべきです。マリアは、イエズス・キリストが初めてこの世においでになったときには、ほとんど目立たない存在でした。当時の人々は神の御子について、まだ十分な知識もなく、ハッキリした認識も持ち合わせていなかったので、もしもマリアがさいさいお姿をあらわしたら、そのすばらしい魅力のために、人びとは先をあらそってマリアに、あまりに強く、あまりに人間的に愛着したにちがいありません。そのために、真理から遠ざかる危険があったのです。それほど神は、マリアの外貌までも神々しく装ってくださったのです。こうした推測はけっして、でたらめではありません。アレオパーグの聖デニスも、ちゃんと書き残しているとおりです。ある日、かれはマリアを見たのですが、もしかれがシッカリした信仰をもっていなかったら、またこの信仰が、そうじゃない、と教えてくれなかったら、かれはてっきり、マリアを“神”だと感ちがいしたにちがいない、と書いているのです。それはさておき、世の終わりにイエズス・キリストがおいでになる直前、つまりキリストの再臨の直前、マリアは聖霊をとおして、人びとに知られ、人前に姿を現さねばなりません。それはマリアをとおして、イエズス・キリストが、あまねく世の人に知られ、愛され、奉仕されるためなのです。聖霊が、ご自分の妻マリアを一生、ひたかくしにかくし、キリストが公生活にはいって福音をのべ伝えてからも、マリアをホンのわずかしか人間に出さなかった理由が、もうとっくに、なくなったからです。



50.そんなわけで、神はご自分のみ手の傑作であるマリアを、世の終り頃、人びとに見せよう、マリアの美と使命を全世界の前に展開しよう、とお望みになるのです。その理由は次のとおりです。
①マリアは、一生のあいだ、まったく人目にかくれておいでになり、その深い謙遜によって、ご自分をチリあくたよりも、もっともっとひくくされたからです。ご自分のことを絶対に人前に表わさないようにと、神にも、使徒にも、福音記者にも、お願いしてそれが聞きとどけられたのです。
②マリアは、地上においては恩寵によって、天下においては栄光によって、神のみ手に成る傑作です。だから、神もこの傑作をとおして、地上においても、生きている人から、栄光を着せられ、賛美されたいのです。
③マリアは、イエズス・キリストという“正義の太陽”のさきがけをし、またそのありかを示す“あけぼの”なのですから、イエズス・キリストが、あまねく世の人に知られ、神として、救い主として、認められるために、まずご自分が知られ、認められなければなりません。
④イエズス・キリストが初めてこの世においでになったとき、お通りになったのは、マリアという名の“道”です。だから、これからおいでになるときお通りになる道も、たとえご通過の様式はことなってはいても、おなじくマリアという名の道なのです。
⑤マリアは、わたしたちがイエズス・キリストにいたるための、またイエズス・キリストを見いだすための確実な手段、まちがいのない真っ直ぐな道ですから、高次元の聖性に召された人はみな、マリアという道をとおってこそ、イエズス・キリストを見いださねばならないのです。

マリアを見いだす人は、生命を見出す(格言8・35)。すなわち、「わたしは道であり、真理であり、生命です」(ヨハネ14・6)と言われたイエズス・キリストを見出すのです。しかし、マリアを探し求めなければ、マリアを見出すことは出来ません。マリアのことをよく知らなければ、マリアを探し求める気にはなりません。人はだれでも、自分が知っていないものを、望むこともできねば、さがし求めることもできないからです。
だからこそ、どの時代よりも特に、世の終りの直前、マリアは世の人に、もっとよく知られねばならぬというのです。それは、いとも聖なる三位一体が、最高に知られ、最高に栄光を着せられるためなのです。
⑥世の終りが近づくにつれて、マリアはふだんよりも特に、慈悲と、力と、恩寵の威力を発揮しなければなりません。

“慈悲”の偉力を。そうです。あわれな罪びとを、教会に連れもどし、愛情こめて受け入れるために。道をふみはずした者を回心させ、母なる教会のふところに安住させるために“力”を発揮せねばなりません。そうです。神の敵どもに対して、偶像崇拝者、離教者、異端者、無神論者、がんこな罪びと、反社会活動家、破壊分子に対して。かれらは、自分らに反対する全ての善良な神の民を、甘言と脅迫で誘惑し、ダラクさせるため、大車輪の活動をするでしょう。
さいごに“恩寵”の偉力を発揮せねばなりません。そうです。イエズス・キリストの勇敢な将兵、忠実なしもべたちを力づけ、かれらの勇気をささえるために。かれらはキリストのために、身命をなげうって戦うでしょう。

⑦とにかく、マリアは、悪魔とその手先どもにとっては、ちょうど「戦闘体制」をととのえた精強な軍隊のように」(雅歌6・3)、戦りつすべき存在です。とりわけ、世も終りごろになると、そうなのです。なぜなら、悪魔は、霊魂をダラクさせるため、時間がもう残り少なになっている、時間が日に日に、減っていくことを、ちゃんと知っているのです。だから、マリアの軍隊との戦いも、日に日に、激しさを加えていくのです。
悪魔はやがて、マリアの忠実なしもべ、マリアの子どもらに対して、残忍無情な迫害をおこし、恐ろしい謀計をめぐらすでしょう。マリアのしもべ、マリアの子どもこそ、ほかのだれよりも、悪魔にとっては強敵だからです。



第②項 マリア勢と悪魔勢との決戦
51.反キリストの世界制覇が確立するまで、日に日に増強してゆく悪魔の残酷な、最後の迫害のことを考えるとき、いまさらのようにわたしたちは、神がそのむかし、地上楽園でヘビに投げつけられた、あの最後の有名な予言と、のろいのことばを想起しないではいられません。それをここで、ゼヒ説明する必要があると思います。それは、マリアの栄光のため、マリアの子どもらの救霊のため、また悪魔に赤恥をかかせるためにも必要なのです。
「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に
わたしは敵意を置く。
彼はお前の頭を砕き
お前は彼のかかとを砕く。」
(創世記3・15)


    天にそびえる聖母像


52.神が被造世界に造りだし、組織化した敵対心、しかも永久に和解できない敵対心は、あとにもさきにもタッタ一つしかありません。それは、神ごじしんが、その母マリアと悪魔との間に、またマリアの子マリアのしもべと、悪魔の子悪魔の徒党との間に、置かれた敵対心・怨恨なのです。この敵対心、この怨恨のはげしさといったら、あらゆる形容を絶します。
そんなわけで、悪魔にとって、いちばん恐ろしい敵は、神の母マリアです。神がそうしてくださったのです。マリアがまだ、神のお考えの中でしか存在していなかった失楽園当時からすでに、神はマリアのうちに、ご自分の仇敵なる悪魔に対する燃えるような嫌悪心を、たきつけられたのです。神はマリアに、人祖をだましたこのヘビの奸計を見抜く、鋭い眼光をお与えになったのです。神に向かって弓をひく、この思いあがった悪魔を打ち負かし、その頭をふみ砕く絶大な力をお与えになったのです。だから、悪魔は、すべての天使、すべての人間の全集団よりも、いや、ある意味では神じしんよりもひとりのマリアを恐れているのです。

だからといって、悪魔に対する神の怒り、憎しみ、力、がマリアのそれにくらべて劣っている、というわけではありません。マリアは神の被造物ですから、その完全さにもおのずから限界があります。では、なぜ、悪魔はそれほどマリアをこわがるのでしょうか。
それは、第一、悪魔は高慢なのですから、神ごじしんと戦って負けたときよりも、このちっぽけな、このいやしい、神のはしために負かされて、罰を受けるときのほうが、もっともっと、くやしいからです。神の全能に負けるよりも、マリアのいやしさに負けるほうが、悪魔にとっては、もっと、はずかしいからです。
次に、神はマリアに、悪魔の勢力を破砕するたいへんな力をお与えになったからです。悪魔ツキの口をとおして、しばしばやむをえず白状させられたように、悪魔はすべての聖人のすべての祈りを、いっしょにしたよりも、マリアがある霊魂のために神にささげるタッタ一回の溜息のほうが、いっそうこわいのです。また悪魔は、マリアが自分らに向かってなさるタッタ一回のおどかしのほうが、ほかのすべての苦しみよりも、いっそう身にこたえるのです。



53.悪魔が高慢によって失ったものを、マリアは、謙遜によって取得しました。エバが、神への不従順によって亡ぼし、失ったものを、マリアは、神への従順によって救いだしました。エバは、ヘビに従うことによって、自分の子どもである全人類を、自分といっしょに無理心中させ、悪魔の手に渡しました。マリアは、あくまでも神に忠誠を尽くすことによって、ご自分といっしょに、すべての子ども、すべてのしもべを救い、神にささげられました。 



54.神が、ただマリアと悪魔との間にだけでなく、マリア族と悪魔族との間にも置かれた“敵愾心”はタッタ一つだけではありません。多種多様な敵対心です。別の言葉で申せば、神はマリアの子どもとしもべ、悪魔の子どもとドレイ―この両者の間に、永遠に和解できないかずかずの敵対心、反感、憎悪の執念を置かれたのです。この両陣営は絶対に愛し合うことができません。両者の間には、絶対に心からの話し合いがありません。ベリアルの子ども、悪魔のドレイ、この世の友―この三者は名前こそちがっても、みんな同じものですが―この人たちは、今日までそうでしたが、今後もますます激しく、マリアの陣営にぞくする人々を迫害するでしょう。ちょうどそのむかし、カインが弟のアベルを、エザウが弟のヤコブを、それぞれ迫害したように。カインとエザウは、亡びる人の前じるし。アベルとヤコブは、救われる人の前じるしです。
だが、この激しい迫害にもかかわらず、謙遜なマリアは、高慢な悪魔に対して、いつも勝利を得るでしょう。それも、高慢の温床である悪魔の頭部を粉砕するほどの大きな勝利です。マリアはいつも、悪魔のたくみな謀略を見抜くでしょう。
悪魔のすすめを払いのけ、ご自分の忠実なしもべたちを、世の終りまで、悪魔の残酷な襲撃から無キズに保護してくださるでしょう。


 悪魔の蛇を踏みつける聖母





第③項 世界終末の勇士たち

しかし、マリアが悪魔に対してもっている絶大なちからは、とりわけ世の終りごろ、その偉力を最高に発揮するでしょう。世も終りに近づくと、悪魔はますますいきり立ってマリアの“かかと”に襲いかかるのです。マリアのかかとは、マリアが悪魔との決戦に召集した、名もなく卑しいマリアのしもべ、貧しく謙遜なマリアの子たちです。なるほど、かれらは、世間の目からみれば、小さな者、貧弱な者であるでしょう。すべての人から、足のかかとのように、さげすまれてはいるでしょう。かかとが、からだの他の部分から踏みつけられ、痛めつけられているように、この人たちも、世の人びとから踏みつけられ、痛めつけられてはいるでしょう。
だが、神のみまえでは、まったくちがいます。世の人びとからの評価と処遇とは正反対に、この人たちは、神の恩寵に富んでいるでしょう。マリアが、それらに、豊かに、分配してくださるからです。かれらは、神のみまえにおいては聖徳の巨人、熱烈な愛においては衆を抜いているでしょう。神の助けに強く支えられたかれは、自分の“かかと”の謙遜を武器として、マリアと一つとなって悪魔の頭部を粉砕し、めでたくイエズス・キリストに勝利のがい歌をあげさせるでしょう。



55.さいごに、神はその母マリアが、こんにち、いつもよりもっと人に知られ、愛され尊敬されることをお望みになります。神のこのお望みは、わたしがこれから述べようとするマリアへの信心を、救われる人びとが聖霊の恵みと光のもとに、真心こめて、完全に実行しさえすれば、まちがいなく達成されるでしょう。そうした中で、かれらは信仰の度合いに応じて、マリアという“海の星”を、ハッキリ認めることができるでしょう。そしてこの星にみちびかれて、途中で暴風雨や海賊になやまされても、めでたく目的の港にたどり着くことができるでしょう。
かれは今更のように、この女王の偉大さが分かるでしょう。そして自分をケライとして、愛のしもべとして、マリアへの奉仕に、まったくささげ尽くすでしょう。

そのときかれは、マリアの母性愛の甘美といつくしみを、ひしひしと実感するでしょう。反射的に、マリアを、ありったけの孝情を披瀝して、愛しかえすでしょう。マリアのうちに、自分らに対する慈悲が、どれほど満ちあふれているか、マリアに助けてもらわねばならない自分の窮乏が、どれほどひどいものか、を理解することが出来るでしょう。
そこでかれは、万事において、マリアのもとに馳せてゆき、マリアを、イエズス・キリストのみまえにおける、自分の弁護者・仲介者と仰ぐでしょう。
こうした中でマリアこそ、イエズス・キリストにいたるいちばん確実な、いちばん容易な、いちばん短い、いちばん完全な道だということが分かるでしょう。そして完全にイエズス・キリストのものになりきるために、自分のからだも、たましいも、残りくまなくマリアにささげ尽くすでしょう。



56.ところで、右に述べたマリアのケライ、マリアのしもべ、マリアの子とは、いったいどんな人のことでしょうか。
それは、燃えさかる炎、主の召使い(詩篇104・4)のことです。神愛の炎を、地上いたる処に点じてあるく人のことです。それは「勇士の手にある矢」(詩篇127・4) ご自分の敵をうちたおすため、マリアが手にしておられる鋭い矢のことです。
それは、大いなる苦悩の火で清められて、神と密着したキリスト者のことです。心に愛の黄金を、精神に祈りの乳香を、からだに苦業の没薬を帯びていることです。貧しい人、小さな人たちにとってはキリスト者の「かぐわしいイエズス・キリストのかおり」(コリント2・2・15~16) しかし、この世のエライ人、富んだ人、高慢な人たちにとっては、“死のかおり”―そうしたキリスト者のことです。



57.かれらは、聖霊のかすかないぶきにも、すぐに霊界に舞い上がり、全世界をかけめぐる雲(イザヤ60・8)、カミナリを伴う雲のような者でしょう。
地上のいかなるものにも愛着せず、いかなるものにも驚かず、いかなるものにも気をとめず、ただただ、神のことばと永遠の雨を、洪水のように地上に降らせるでしょう。
罪を弾劾して、雷鳴のようにとどろきわたり、世間をしかって、これに大目玉をくわせるでしょう。悪魔とその徒党に痛撃を加え、「神の言葉」という名の「両刃の剣」(ヘブル4・12)をふるって、神が指名するすべての人を刺し貫くでしょう。こうした中で、ある者は死にいたり、ある者は回心して生命にいたるのです。



58.かれらこそ、世界終末の宇宙ドラマに登場するまことの勇士、まことの使徒なのです。万軍の神なる主はかれらに、力あることばをお与えになります。奇跡をおこない偉大なわざをなし、悪魔に勝利をえ、栄光ある戦利品をたずさえて、かれらをガイセンさせるためです。
世界終末の勇士たちは、身に一センのたくわえもなく、赤貧洗うがごとくでしょう。それでもヘイキで、ほかの富裕な司祭・聖職者・教会役務者と肩をならべて、堂々と暮らすでしょう。しかし貧乏ではあっても、銀でおおわれた“ハトの翼“(詩篇68・14)を持っているのです。この翼をつけ、神の栄光と霊魂の救い、というハトのように清らかな純な意向をもって、聖霊がお呼びになる場にはどこへでも飛んでいくのです。そしてかれらは自分が説教した場には、ただ「律法の完備」(ローマ13・19)である愛の黄金しか残しません。



59.この勇士たちこそ、イエズス・キリストの本当の弟子です。かれらは、キリストの清貧・謙遜・世俗蔑視・神愛と兄弟愛を実行しながら、師の足あとを忠実にたどります。この世の知恵に従ってではなく、キリストの福音に従って、天国への狭き道を、キリストが説かれたとおり、人びとに教えます。たれもはばからず、だれの顔色もうかがわず(マタイ22・16)だれも容赦せず、地上のいかなる権勢家のいかなるおどしも耳に入れず、また恐れないで。

かれらは口に、神のことばという「両刃の剣」(ヘブル4・12)をもっています。肩に血染めの十字架の旗をかついでいます。右手には十字架像、左手にはロザリオ、心にはイエズスとマリアのみ名、かれらの起居動作には、イエズス・キリストの謙遜と苦業を帯びています。
これこそ、世界終末のヒノキ舞台に登場する神の国の偉人たち―神の命令によって、マリアが造りだす偉大な人物群なのです。神は、悪魔とその徒党に対して、ご自分の支配権を発展伸張させるため、これらの偉大な人物群の育成を、マリアに下命されるのです。だが、いつ、どのように、実現するか これはただ、神だけが知っておられる秘密なのです。わたしたちとしては、ただ黙って、祈って、あえいで、待つのみです。そうです。ただ「切なる思いで、待ち望みましょう。」(詩篇40・1)



第Ⅱ章 聖母へのまことの信心の鑑定法

第一節 基本的真理

60.これまでわたしは、聖母への信心が、わたしたちにとって、なぜ必要か、について述べてきました。これからはいよいよ、この信心が何に基づいているか、について話さねばなりません。しかし、わたしはその前に、この偉大で堅実な信心の発生源とも見られる、いくつかの基本的真理について考えてみたいと思うのです。



第①項 第一の真理 ― イエズス・キリストこそ、あらゆる信心の最終目的

61.わたしたちの救い主、まことの神、まことの人であるイエズス・キリストこそ、わたしたちのあらゆる信心の最終目的でなければなりません。イエズス・キリストは、すべてのもののアルファであって同時にオメガ、初めであって同時に終りでもあるからです(黙示録1・8)。使徒パウロが言っているように、すべての人をイエズス・キリストにおいて完全な者となすためにこそ、わたしたちは働いているのです。ただイエズス・キリストのうちにだけ、神性のあらゆる充満が、恩寵と善徳と完徳とのあらゆる充満が宿っているからです。ただキリストにおいてのみ、わたしたちは神なる御父から、すべての霊的祝福をもって祝福していただいたからです。

キリストだけが、わたしたちを教えてくださらねばならない唯一の教師です。キリストだけが、わたしたちが仕えねばならぬ唯一のかしらです。キリストだけが、わたしたちが模倣せねばならぬ唯一の典型です。キリストだけが、わたしたちをなおさねばならぬ唯一の医師です。キリストだけが、わたしたちを養わねばならぬ唯一の牧者です。キリストだけが、わたしたちをみちびかねばならぬ唯一の道案内人です。キリストだけが、わたしたちが信じねばならぬ唯一の真理です。キリストだけが、わたしたちを生かさねばならぬ唯一の生命です。キリストだけが、わたしたちのあらゆる必要を完全に満たしてくださる唯一のかたなのです。

このかた以外には、だれによっても救いはありません。世界中でイエズスの御名のほかには、わたしたちが救われるべき名としては、どのような名も、人間にあたえられていないからです。
神は、わたしたちの救い、完徳、栄光の土台として、イエズス・キリスト以外のいかなる土台も、おすえになりませんでした。この堅固な岩の上に、土台をすえていない建物はすべて、砂の上に建てられたものであって、おそかれ早かれ、確実に崩壊するのです。
キリスト信者はだれでも、ちょうどぶどうの枝が、ぶどうの木についているように、そのように密接にキリストにとどまっていなければ、木から落ちた枝のように枯れてしまい、ひろわれて火に投げ込まれるのがオチです。もしわたしたちがイエズス・キリストにとどまり、イエズス・キリストも、わたしたちの中にとどまっているなら、亡びる心配は絶対にありません。天上の天使たちも、地上の人びとも、地獄の悪魔も、そのほかどんな被造物も、わたしたちに害を加えることはできません。わたしたちの主キリスト・イエズスにある神の愛から、わたしたちを引き離すことができないからです。

キリストによって、キリストとともに、キリストにあって、わたしたちに不可能なことは一つもありません。また、キリストによって、キリストとともに、キリストのうちに聖霊の交わりの中で、すべてのほまれと栄光は御父にきし、さらにまた、わたしたちは自己を完成し、永遠の生命から発散する“良いかおり”を周囲の人に与えることができるのです。



62.そんなわけで、イエズス・キリストへの信心をもっと完全なもの、もっとしっかりしたものにするためにこそ、マリアへの信心を、堅固な土台の上にすえようとしているのです。それがイエズス・キリストを見いだすための容易な、確実な手段を提供するからこそ、マリアへの信心を究明しようとしているのです。もしもマリアへの信心が、人を、イエズス・キリストから遠ざけるなら、そんな信心は、悪魔からくる妄想として排せきせねばなりません。しかし、わたしがこれまで述べてきたとおり、またこれからものべるように、絶対にそんなことはありっこないのです。
イエズス・キリストを完全に見いだし、優しい心で愛し、忠実に仕えるためには、どうしてもわたしたちにとって、マリアへの信心が、必要となってくるのです。



63.こうした中で、主よ、わたしたちはあなたのほうに向きなおって、愛情こめて嘆き訴えさせていただきたいのです。キリスト信者の大部分が、しかも、もの分かりのいい人たちでさえ、あなたと御母マリアとの間には、お互いを結び合わすキズナが必然に存在していることを、すこしも理解していません。主よ、あなたはいつも、マリアとともにおられ、マリアはいつも、あなたとともにおられ、あなたから離れることはできません。もしマリアがあなたから離れると、マリアはもうマリアではありえなくなるのでしょう。
恩寵によって、マリアはスッカリあなたに変容し尽くされていますので、生きているのはもはやマリアではなく、存在しているのはもはやマリアではない、と言えるほどなのです。イエズスよ、あなたこそ、ただあなただけが、マリアのうちに生き、支配しておいでになるのです―天の全ての天使、すべての聖人のうちにおけるよりも、もっと完全な仕方で。

ああ、あなたがマリアのうちにあって、受けておいでになる栄光と愛を、すこしでも理解することができましたら、その人はきっとあなたについて、またマリアについて、これまでとちがった考えを持つようになるでしょうに。太陽から光を引き離すほうが、火から熱を引き離すほうが、むしろ容易だと思われるぐらい、それほど緊密にマリアは、あなたと一つになりきっておられます。いいえ、それどころではありません。天国のすべての天使、すべての聖人をあなたから引き離すほうが、あなたからマリアを引き離すよりも、むしろ容易なのでございましょう。マリアは、ほかの全被造物よりも、もっと熱烈にあなたを愛し、もっと完全にあなたに栄光を着せておいでになるからです。



64.いとも愛すべき主よ。こうした現実にもかかわらず、地上のすべての人が、あなたの聖なる母マリアのことに関して、あまりに無知である、あまりに忘却のやみに沈んでいる、ということは、なんとも驚くべきこと、なんとも痛ましいことではないでしょうか。わたしは、異教徒のことや、偶像をおがんでいる人たちのことを言っているのではございません。この人たちは、もともと、あなたをごぞんじないのですから、マリアのことを知ろうとしないのは当然です。わたしはまた、異端者や離教者のことを言っているのでもございません。この人たちは、あなたからも教会からも、離れているのですから、マリアさまに信心をしないのも当然でございましょう。

わたしがここで言っていますのは、カトリック信者、しかもカトリック信者の中でも、インテリ階級にぞくする学者先生のことです。この先生がたは、ひとに真理を教えることを、一生の職業としていながら、あなたのことも知らねば、あなたの聖なる母マリアのことも知っていないのです。たまに知っていても、それはあくまで、純理論的で無味乾燥な、不毛でうるおいのない認識でしかありません。

この先生がたは、マリアさまについて、マリアさまへの信心について、ごくごくまれにしか話しません。マリアをあんまり尊敬すると、それは信心の乱用である、あなたへの侮辱である、と言っているのです。たまたま、マリアさまを熱烈に崇敬している者が、マリアさまへの信心について、この信心はイエズス・キリストを完全に見いだし、愛するための、まちがいのない確実な手段である、危険のない最短の導かれである。欠陥のない清らかな方法である、本人しか知らない秘けつである、と心をこめて、力づよく、納得のいくまで、しばしば話しているのを、この先生がたが見たり聞いたりしてごらんなさい。さっそくかれは、このマリア信心家に向かって、くってかかり、こう言うのです―そんなことはない、マリアをそんなにほめそやしてはいかん、マリアへの信心には、本質的に大きな欠陥がある、この欠陥を取り除くために大いに努力せにゃいかん、信者大衆を、マリアへの信心に投入するために説教するよりも、むしろイエズス・キリストについてこそ説教すべきだ、と。そして自らの説を証明するために、あらゆるウソの理論を展開しているのでございます。

イエズスよ。ときたまかれらは、あなたのお母さまへの信心について話しているようですが、それはマリアへの信心を強め、深め、納得させるためではなく、かえってそれを、ぶッこわすためなのです。この先生がたは、マリアへの信心をもっていないのですから、とうぜんあなたに対しても、本当の、心からの信心をもっていません。
かれらは、ロザリオ、聖母の肩衣などの信心用具を、それは女・子供の信心だ、無学信徒専用の特許品だ、そんなものがなくても、天国へはちゃんと行ける、などとクサしています。ロザリオをとなえたり、または何か聖母に対して信心の務めを果している者が、不幸にもかれらの手に落ちますと、かれらはすぐに、この聖母信心家の洗脳にとりかかります。ロザリオのかわりに、痛悔の七つの詩篇をとなえたらどうか、とすすめるのでございます。

マリアへの信心をやめて、かわりにイエズス・キリストへの信心を増強するように、とすすめるのでございます。愛すべきイエズスよ。この人たちは果たして、あなたの精神をもっているのでしょうか。このように行動することが、本当にあなたを喜ばせることなのでしょうか。あなたのごきげんをそこなうのではなかろうかと恐れて、あなたのお母さまを喜ばせるために、ありったけの努力を投入しないことが、果たしてあなたを喜ばせることなのでしょうか。

あなたのお母さまへの信心が、あなた自身への信心にとって、ほんとうにさまたげとなっているのでございましょうか。あなたのお母さまは、ご自分にささげられる栄光と賛美を、ひとり占めにしていらっしゃるのでしょうか。あなたのお母さまは、天上天下、まったくひとりぼっちなのでしょうか。あなたにとっては縁もゆかりもない、赤の他人なのでしょうか。あなたのお母さまを喜ばそうと努力することは、それだけあなたを不愉快にすることなのでしょうか。あなたのお母さまへの奉仕に献身し、あなたのお母さまを心から愛することが、そのまま、あなたへの愛から自分を引き離し、遠ざけることにつながるのでしょうか。



65.それなのに、愛すべき主よ。学者先生の多くが、その高慢の罰として、わたしが今さき書いたことがみんな事実でもあるかのように、マリアさまへの信心からまったく遠ざかり、まったく無関心をきめこんでいるのでございます。どうか、主よ、マリアさまに対するこの人たちの悪感情と冷淡な態度から、わたしをまもってください。かわりに、あなたがお母さまマリアに対していだいておられる感謝、尊敬、愛のお気持ちを、わたしにも分け与えてください。わたしがもっと近くからあなたを模倣し、あなたにつき従うようになれば、それだけいっそうあなたを愛し、あなたの栄光をあらわすことができるからです。



66.これまでいろいろ書いてまいりましたが、あなたの聖なるお母さまのほまれのためには、まだひとことも言っていないような気がいたしますので、どうか主よ、マリアさまをふさわしくたたえるお恵みを、わたしに与えてください。マリアさまへの賛美を妨害する敵それは同時にあなたの敵が、どんなに多くてもかまいません。わたしは、敵の頭上に、聖人たちとともに、大声を張り上げて次の聖句を投げつけてやりたいのです。「神の御母を侮辱する者が、どうして神のあわれみを期待できますか」(パリのギョーム)


67.主よ、あなたのあわれみによって聖母マリアへのまことの信心の恵みをいただくことができるため、またこの信心を全世界に広めることができるため、どうかわたしに、あなたを熱烈に愛させてください、そしてこの目的を達するため、わたしが聖アウグスチノ、およびあなたのまことの友らとともにささげる熱い祈りを、お受けください。「ああ、キリスト。あなたは、わたしの聖なる父、慈悲にあふれるわたしの神、かぎりなく偉大なわたしの王。あなたは、わたしのよき牧者、わたしの唯一の主、親切な援助者、永遠の美にかがやく最愛の友、生命の糧、永遠の司祭。

 あなたは、わたしにとって、天国への道案内者、まことの光、心の甘美、まっすぐな道。  
 あなたは、わたしにとって、光りかがやく知恵、ふたごころのない正義、平安といこい。
 あなたは、まったく頼りになるわたしの保護者、この上もなく貴重な相続財産、永遠の救い。
 ああ、イエズス・キリスト、愛すべき主よ。なぜ、わたしは今まで、あなた以外のものを愛してきたので しょう。なぜわたしはあなたのことを念頭に置いていなかったとき、わたしはいったいどこにいたので  しょう。

ああ、しかし、今からでもおそくはありません。わたしの心は、主イエズスよ、あなた以外に何も望まず、あなた以外の何ものにも意欲をもやしません。あなただけを愛するために、心がますます大きくなっていきますように。
わたしの心の願望よ、イエズスへの愛に駈られて走れ。神愛のバスに乗りおくれてはならぬ。おまえが追求している目的、おまえが目ざしている終着駅に向かって急げ、さあ急げ。おまえがさがし求めているイエズスを、一心不乱にさがし求めなさい。

ああ、イエズスよ。あなたを愛さない者にわざわいあれ。あなたを愛さない者には生の苦渋あれ。イエズスよ。あなたの栄光の発揚に献身しているすべての人にとって、あなた自身が、かれらの心をもやす愛、かれらの心をとかす歓び、かれらの心を忘我の境にさそう賛嘆のマトとなってください。
ああ、イエズス、わが心の神、わが永遠の分け前よ。どうか、わたしの心が聖なる歓喜のうちにとけてなくなり、かわりにあなた自身が、わたしのうちに生きてくださいますように。どうか、わたしのたましいが、あなたの愛にもえさかり、やがてそれが全世界を、神愛の火事で類焼させる火元となりますように。
どうか、あなたの愛が、わたしの心の祭壇で絶まなく燃えさかり、さらにわたしのたましいの最深奥にもえうつり、わたしの全存在を焼き尽くしますように。
こうした中で臨終のときがまいりましたら、わたしもあなたの愛にスッカリ変容し尽くされた姿で、みまえに現れることができますように。アーメン」(Operum meditat.Vol. IX)


  イエズスの聖心

(第四巻につづく)

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「聖母マリアへのまことの信心」 第四巻

2022-04-28 12:53:00 | 日記
第②項 第二の真理―わたしたちは、イエズスのものマリアのもの

68.イエズス・キリストとわたしたち人間との間には、どんな関係があるのでしょうか。この問題には聖パウロが明確に答えています。(コリント6・19/22・27?)すなわち、わたしたちは絶対に自分じしんのものではなく、まったくイエズス・キリストのものです。わたしたちはキリストのからだ、キリストのドレイです。しかも、キリストが、ご自分の血を全部流し尽くして、悪魔から買いもどしてくださった、無限に高価な存在です。わたしたちは、洗礼を受ける前は、悪魔のものでした。

悪魔のドレイでした。洗礼はわたしたちを、イエズス・キリストのまことのドレイにしてくれたのです。
ひとたびキリストのドレイとなったからにはわたしたちはこの神にして人でもあられるかたのために実を結び、自分のからだをもって、このかたの栄光をあらわし、自分のたましいの中で、このかたに支配させるためにのみ、生き、働き、死なねばなりません。わたしたちは、キリストの戦利品、キリストの所有とされた民、キリストの相続財産だからです。

おなじ理由によって、聖霊はわたしたちのことを、次のようになぞらえています。

① 教会の園の中、恩寵の泉のほとりに植えられた木。しかも季節がくれば実を結ばねばならない木。
② イエズス・キリストをぶどうの木とするその枝。しかも良い実を結ばねばならない枝。
③ イエズス・キリストを牧者とする羊の群れ、しかも数をふやし、乳を出さねばならない羊の群れ。
④ 神を農夫とする良い畑。しかもそこに種をまくと、それが発育成長して、三十倍、六十倍、
  百倍の実を結ぶ畑。


イエズス・キリストは、実を結ばないイチジクの木をのろい、もらったタレントをふやさなかった無益なしもべを、地獄におとしておられます。
以上すべてのことからお分かりのように、イエズス・キリストは、ごくつまらないわたしたち人間からさえ、なにがしかの実、つまり良い行いを期待しておいでになるのです。良い行いは、ただキリストだけのものだからです。

「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするために、キリスト・イエズスにあって造られたのです」。(エペソ2・10)聖霊のこれらのことばは、どんなことを示しているのですか。それは、イエズス・キリストこそ、わたしたちあらゆる良い行いの唯一の源であり、唯一の目的であらねばならないということです。したがって、わたしたちは、サラリーをもらうしもべとしてだけでなく、無料奉仕をする愛のドレイとしても、キリストに仕えねばならない、ということです。以下、それを説明しましょう。



69.この世では、他人のものとなり、他人の権威に従属するために、三種類の様式があります。すなわち、雇用制度とドレイ制度です。雇用制度によって、他人の権威に従属する者を、使用人と呼び、ドレイ制度による者をドレイと呼んでいます。

雇用制度によって人は、ある一定期間、ある一定の賃金、または報酬を受けるという契約のもとに、自分をある特定の人の権威に従属させます。
ドレイ制度によって人は、一生涯、ある特定の人の権威に全面従属します。したがって、いかなる賃金も報酬も要求できず、ひたすら主人に仕えねばなりません。だから、人間とはいうものの、まったく家畜同様で、生かそうと殺そうと、主人の勝手です。



70.ドレイには、三種類があります。すなわち、生まれつきのドレイ(第一種ドレイ)強制されてやむをえずドレイとなった(第二種ドレイ)、自分からすすんでなったドレイ(第三種ドレイ)すべての造られた物は、神の第一種ドレイです。「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものです。」(詩篇24・1)。

悪魔と、地獄におちた人は、第二種ドレイ。義人とか聖人が、第三種ドレイです。
自分からすすんでなったドレイが、いちばん完全で、いちばん神に栄光をきします。
神は人の心をごらんになり、人の心を要求されます。だから、“心の神”すなわち、愛にもえさかる人の意志の神と呼ばれているのです。自分からすすんでなったドレイが、なぜ、いちばん完全で、いちばん神に栄光をきすかというと、かれはそれが本来の義務ではないにもかかわらず、すべてのものにこえて、神と神への奉仕を選ぶからです。



71.使用人とドレイとの間には、ハッキリした区別があります。

①使用人は、自分の全存在、自分がもっているすべての物、自分が他人をとおして、または自分で取得できるすべての物を、主人に与えません。しかし、ドレイは、自分の全存在、自分がもっているすべての物、自分が取得できるすべての物を、例外なしに、主人に与えます。
②使用人は、自分が主人のためにした仕事のために、報酬を要求できます。しかし、ドレイは、主人のために、どんなに勤勉に、どんなに誠実に、どんなに一生けんめいに働いても、いかなる報酬も要求できません。
③使用人は、自分が希望する時、また雇用期間が切れた時、主人のもとを去ることができます。しかし、ドレイは希望しても、主人のもとを去ることはできません。
④主人は使用人に対して、生殺与奪の権利をもっていません。だから、もし主人が、まるで家畜のように、使用人を殺しでもしたら、主人は殺人罪の犯人として起訴されます。これに反して、主人は国家の法律によって、ドレイに対して、生殺与奪の権利をもっています。だから、主人はかれが望む人に、ドレイを売り飛ばすこともできるし、またはウマでも殺すように、容赦なく殺すこともできます。
⑤最後に、使用人は一定期間、主人に使われますが、ドレイは死ぬまでです。



72.一般社会の通念では、ドレイ制度にもまして、ひとりの人間を、ほかの人間に隷属させるものはありません。キリスト者の社会でも同じことです。自分からすすんで引き受ける、愛のドレイ制度にもまして、わたしたちを、イエズス・キリストおよびその母マリアに隷属させるものはほかにありません。イエズス・キリストご自身が、その良いお手本です。わたしたちを愛すればこそ、“ドレイの姿”(ピリピ2・7)を、おとりになったのです。マリアも、良いお手本です。

マリアは、ご自分のことを、“主のはしため”“主の女ドレイ”(ルカ1・38)と、呼んでおられます。
キリスト者はしばしば、聖書の中では、“キリストのドレイ”と呼ばれています。


現代訳では“キリストのしもべ”となっていますけれども、あるエライ学者の信用すべき翻訳によりますと、“しもべ(SERVUS)ということばは、当時では、“ドレイ”の意味に限定されていたのです。当時はまだ、今日のような雇用制度はなかったのですから、主人が使っていたのは、ただドレイか、または以前にドレイだった人に限られていたのです。「トリエント公会議のカトリック要理」も、わたしたちが、キリストのドレイであるという事実に、一点の疑念も残らないため、あいまいな表現をさけて、わたしたちのことをハッキリ“キリストのドレイ”(mancipia Christi)
と呼んでいます。それはさておき―



73.わたしたちは、イエズス・キリストに隷属し、イエズス・キリストにこそ仕えねばなりません―それも、サラリーをもらう使用人としてではなく、愛のドレイとして。つまり、キリストへの熱烈な愛にかられて、自分をドレイの資格でキリストに与え、キリストの手に渡さねばなりません。しかも、自分はキリストのものだ、という唯一のプライドをもって、そうせねばなりません。
洗礼を受けるまでは、わたしは悪魔のドレイでした。洗礼はめでたくわたしたちを、キリストのドレイにしてくれたのです。キリスト者は悪魔のドレイか、それともイエズス・キリストのドレイか、そのどちらかでなければなりません。



74.わたしが今さき、絶対的な表現を使って、イエズス・キリストについて述べたことは、マリアにかんしても、相対的に言えるのです。イエズス・キリストは、ご自分の生涯・ご死去・ご栄光・天国における権能・また地上における権威とそれぞれ離れることのできない伴侶として、マリアを選ばれました。だから、ご自分が本性上、もっておいてになるすべての権利、すべての特権を、恩寵によって、ご自分の稜威(みいず)が許すかぎり、マリアにもお与えになったのです。聖人たちが言っていますように、すべて神が本性上、もっておいでになるものは、マリアも、恩寵によって、もつことができるのです。
そんなわけで、イエズスもマリアもタッタ一つの同じ意思、同じ権能しかもたないのですから、おふたりは当然おなじケライ、おなじ使用人、おなじドレイしかもたないことになるのです。

    栄光の聖母



75.だから、聖人たちや、その他エライ人たちの意見どおり、わたしたちは自分自身を、マリアの愛のドレイだと宣言し、それを行動にうつすことができるのです。マリアのドレイとなることによって、いっそう完全に、キリストのドレイとなるためです。

キリストは、マリアを手段に使って、わたしたちのところにおいでになりました。だから、わたしたちも当然、マリアを手段に使って、キリストのもとに行かねばならないのです。この世の被造物の中には、それに愛着すれば、わたしたちを神に近づけるよりも、むしろ神から遠ざけるものがあります。しかし、マリアはけっして、そんなかたではありません。かえって、マリアのもっとも強いお望みは、ご自分の子であるイエズス・キリストに、わたしたちを一致させることです。御子イエズスのもっとも強いお望みは、わたしたちが、御母マリアをとおして、ご自分のもとに来ることです。それが、ご自分にとっては、ほまれであり、歓びだからです。王のもっと完全なケライ、もっと忠実なドレイになるため、まず王妃のドレイになることは、どれほど王にとって誉れと歓びなのでしょう。だから、教父たちは、また聖ボナヴェントラもかれらのあとをうけて、マリアこそイエズス・キリストにいたる道だと言っているのです。



76.そればかりではありません。先に言ったとおり、マリアは天地の女王なのですから、また聖アンセルモ、聖ベルナルド、聖ベルナルジノ、聖ボナベントラも言っているように、「マリアも含めてすべての被造物は、神の支配に服し、神も含めてすべての被造物は、マリアの支配下にある」のだから、マリアは当然、被造物と同じ数のケライとドレイをもっているはずではないでしょうか。仕方なくドレイになった者がずいぶん多いのだから、その中には、自発的にマリアを自分の女王に選び、そのドレイ、しかも愛のドレイとなる者がいることは当然ではないでしょうか。

  聖ボナベントラ


自分からすすんで、人間のドレイとなり、悪魔のドレイとなる者が多い世の中に、マリアのドレイとなる者はひとりもいないというのは、いかにも理不尽ではないでしょうか。王さまは自分の王妃が、その上に生殺与奪の権をもつドレイをもっていることは、自身の栄光だからです。すべての人の子らの中で、最も優秀な子であるイエズス・キリストは、ご自分の権能を、御母マリアにも分け与えたのに、その御母マリアが愛のドレイをもつことに腹をお立てになるのでしょうか。
 イエズスが、その御母マリアに対してもっておられる尊敬と愛は、旧約時代のアッスェルス王がその王妃エステルに対し、またソロモン王がその王妃ベッサベに対して、それぞれもっていた尊敬と愛にくらべて、劣っているとでもいうのでしょうか。そんなことをだれが言えるのでしょう。だれがそんなことを考えることすらできるのでしょう。



77.これ以上、わたしに何が言えるというのですか。これほどハッキリした自明の理を、証明する必要があるのでしょうか。自分はマリアのドレイだ、と言いたくない人は、言わなくてもよろしい。自分がイエズス・キリストのドレイであれば、またそう言明していれば、それでいいのです。あなたはりっぱに、マリアのドレイとなっているのです。
イエズスはマリアのご胎の実であり、マリアの光栄だからです。わたしがこれから述べる信心を実行すれば、あなたは完全にキリストのドレイとなることができます。



78.わたしたちの行いは、たとえ最良のものではあっても、わたしたちの内奥にあるわるいモノによって、シミがつき、品質がさがります。清くすきとおった水でも、それをわるいにおいがしている容器に入れてごらんなさい。また良いぶどう酒でも、すっぱくなったぶどう酒がそこに残っているビンの中に入れてごらんなさい。たちまち、清い水も良いぶどう酒も、台なしになって、そのうえ容器のわるいにおいまでが、しみついてしまいます。同様に、原罪と自罪によって汚染された、わたしたちの霊魂の容器の中に、神がどれほどすばらしい恩寵や天の甘露、またはご自分の愛のおいしいぶどう酒をお入れになってもせっかくの賜物が、普通ですと、わたしたちのうちにかくれひそんでいる罪の残りカスであるわるい酵素や、わるい土壌のために汚染されているのです。わたしたちの行いは、たとえそれが、崇高な善徳であっても、心奥に沈潜している罪の公害にさらされているのです。だから、イエズスとの一致によってのみ、獲得できる完徳に達するためには、自分の心奥に沈潜しているわるいモノから自身を浄化することが、最大の重要性をおびてくるのです。さもなければ、無限に清らかなイエズス、霊魂の中のごく小さいシミまでも無限におきらいになるイエズスは、わたしたちをみ前から遠ざけ、絶対にわたしたちと一致してはくださらないでしょう。



79.心奥(心の奥底)のわるいモノから、自身を浄化するためのプログラム

①何はさておき、聖霊の光のもとに、わたしたちの心奥にひそんでいるわるい酵素、わるい土壌の正体を見きわめることです。わたしたちは、救霊に必要な善は何ひとつできません。あらゆる面で弱い。いつも変わりやすい。神から恩寵を受ける資格は全然ない。どこでもわるいことばかりしている。原罪という名の人祖の罰が、その子孫であるわたしたちすべてを、霊肉ともほとんど全面的に、汚染してしまったのです。ちょうど、くさったパン種が、ねり粉全体を腐らせるように。

そのうえ、わたしたち各自がおかした自罪が、一役も二役も買って出ます。それが大罪だろうが、小罪だろうが、また、たとえゆるされるものではあっても、自罪はわたしたちの邪欲、弱さ、変わりやすさ、道徳的退敗を増強し、霊魂の奥深にわるいカスを残します。わたしたちの身体は、聖霊が“罪のからだ”(ローマ6・6)とお呼びになっている、罪の公害で汚染しているのです。わたしたちのからだは、罪のうちに受胎され、罪のうちにはぐくまれたのです。だから、どんな罪でもおかすことができます。種々さまざまな病気におかされるべき宿命をせおい、日いちにちと死の腐敗が近づいていき、死んだらウジ虫にくわれ、くさり、チリに還元します。

こんなはかない身体に合わされた、わたしたちの霊魂ですが、それは聖書に“肉”と呼ばれているほど、肉の支配下にあるのです。「すべての肉が、地の上で、その道をみだした」(創世記6・12)。わたしたちの分け前としてはただ、精神の高慢と盲目、心のかたくなさ、たましいの弱さと変わりやすさ、よこしまな欲望、霊に反抗する欲情、からだの病気だけです。
わたしたちは、本能的に、クジャクよりも高慢、ガマよりも地上のものに愛着、雄ヤギよりも劣情、ヘビよりもネタミ深く、ブタよりも食いしん坊、トラよりも怒りっぽく、カメよりも怠け者、葦よりも弱く、風車よりもクラクラ変わります。わたしたちの霊魂の奥深にあるものはただ、無と罪だけ。わたしたちが当然受けねばならないものはただ、神の怒りと永遠の苦罰だけ。



80.だからこそ、わたしたちの主イエズス・キリストが、ハッキリ言っておられるのです。「だれでも、わたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分のいのちを憎まねばなりません。自分のいのちを愛する者は、それを失い、わたしのために自分の命を憎む者はそれを救うのです。」(マタイ16・24、ルカ9・23)

永遠の知恵であるイエズス・キリストが、理由もなしに、そんなことをお命じになるはずはありません。わたしたちが大いに、みにあたいする者だからこそ、自分自身を憎め、とお命じになるのです。愛する値打ちのあるものはタダ神だけです。憎んでも憎み足りない者は、自分自身よりほかに、だれもいません。



81.②次に、自分自身を浄化するためには、わたしたちは毎日、自分自身に死なねばなりません。別のことばで申せば、神の恩寵からではなく、わたしたち自身のエゴから出る霊肉の活動を封じなければなりません。見ても見えず、聞いても聞こえず、この世の事物を用いても、用いないかのよう。つまり、聖パウロが言っているとおり、「わたしたちは毎日、死ななければなりません」(コリント1・15・31)
「一粒の麦がもし、地に落ちて死ななければ、それはいつまでたっても一つのままです」(ヨハネ12・24)。

もしわたしたちが、自分自身に死ななければ、わたしたちのどんなりっぱな信心でも、もしそれが自分自身への死につながらなければ、天国のためにはいかなる実も結ぶことができません。せっかくの信心も、骨折り損のクタビレもうけとなるだけ。どんなりっぱな善業を行っても、それはわたしたちの自愛心と我意に汚染されてしまうのです。この自愛心と我意こそ、わたしたちが行うことのできるどんなに偉大な犠牲行為、どんなに偉大な事業でも、それを神のみまえに憎むべきものとなすのです。そうした中で臨終のときがまいりましたら、わたしたちは一かけらの善徳もクドクもなく、また純粋愛の一閃もなく、まったく素寒貧で、神のみまえに出なければならないのです。この純粋愛ですが、それは「完全に自分自身に死んでいる人、しかもそのいのちがキリストとともに、神のうちにかくされてある人」(コロサイ3・3)にしか与えられません。



82.さいごに、あらゆる種類の聖母信心のうち、いちばんりっぱで、いちばんわたしたちを聖化するものは、わたしたちを自分自身に死なせるために、いちばん都合よくできた信心なのです。こうした聖母信心を選ばねばなりません。光りかがやいているものがみな、黄金だと考えてはいけません。甘いものがみな、ハチミツとはきまっていません。いちばん多くの人が実行しやすいから、それがいちばん霊魂の聖化の信心だと思ってはなりません。

わずかな時間、わずかなカネで、やすやすと生産性の効率を高める秘けつが人間世界にあるように、恩寵の世界でも、わずかな時間で、ニコニコしながら、やすやすと、超自然的仕事をやってのける秘訣がちゃんとあるのです。その秘訣というのは、自分自身を空にすることです。自分自身に死ぬことです。こうして神に満たされ、完徳に達するのです。
わたしが、これから公開しようとしている恩寵の秘けつは、まだ大部分のキリスト信者にとって親展極秘です。少数の信心家が、ちょっぴり知っているようです。それを実行して、そのダイゴ味に舌つづみを打っているのは、ごくわずかなベテラン信心家だけです。この新しい信心法を公開する前に、先に述べた第三の真理の続きともいうべき、第四の真理に移りましょう。



第④項 第四の真理―仲介者イエズス・キリストのそばには、もう一人の仲介者が必要


83.わが身のいやしさを反省して、仲介者なしには神に近づかない―これは、わたしたちにとって、謙遜なやりかたです。だから神のみまえでも、いっそう完全なやりかたです。先に述べたとおり、わたしたちの霊魂の精ずいは、たいへん腐敗していますので、神にいたるため、もしわたしたちが、自分自身の働き、努力、準備にだけたよるなら、どんなに良い行いをしても、それはみんな罪の公害に汚染されているのです。そうした中で、どんなに良いことをしても、神のみまえではたいしたねうちもなく、したがって神との一致もできねば、神から祈りを聞きいれていただくこともできません。

神は、そんなわけで、わたしたちのことを思えばこそ、前もって、ご自分のそばに、仲介者を置いてくださるのです。神は、わたしたちの無資格と無能をごぞんじです。神は、そうしたわたしたちを、あわれんでくださいます。だからこそ、わたしたちが、ご自分のあわれみの座に近づくことができるようにと、ご自分のそばに、有力な仲介者を指名してくださるのです。当然の結果として、もしわたしたちが、これらの紹介者を無視して、だれの紹介状もなく、じかに神と接触するなら、それは思い上がりです。謙遜さが足りない証拠です。かくも偉大、かくも聖なる神への尊敬の欠如です。それは、王たちの王である神を、この世のちっぽけな王さまよりも、低く見ることです。どんなちっぽけな王さまでも、側近の紹介なしには、だれとも会わないからです。



84.わたしたちの主イエズス・キリストは、父なる神のみまえにおける、わたしたちの弁護者・仲介者です。キリストによってこそ、わたしたちは、天上・地上の全教会とともに祈らねばならないのです。キリストによってこそ、わたしたちは稜威あまねき神に近づくことができるのです。キリストのあがないのクドクに支えられ、キリストのあがないのクドクを着ないでは、絶対に父なる神のみまえに出てはならないわたしたちののです―あたかもその昔、若きヤコブが父の祝福を受けるために、子ヤギの毛皮を首と両手に着けて、父イザアクの前に出たように。



85.だが、しかし、仲介者イエズス・キリストに取り次いで頂くため、もう一人の仲介者が、わたしたちには必要ではないのでしょうか。わたしたち人間には、キリストにじかに一致できるほど、またそれが自力でできるほど純粋なのでしょうか。キリストは、万事において御父と同等な、神ご自身ではないのですか。したがって、聖の聖なる者、御父と同じ尊敬にあたいするかたではないのですか。

キリストは、わたしたちを限り無く愛すればこそ、神なる御父のみまえに、わたしたちの保証人となり、仲介者となってくださいました。御父のお怒りをやわらげ、わたしたちが御父に支払うべき負債を返してくださるためです。だからといって、キリストの無限の稜威(みいず)、無限の聖性に対して、尊敬と畏敬の念をミニ化してもいいのでしょうか。

とんでもない。聖ベルナルドにご登場ねがいましょう。かれらはこう言っています。
ーわたしたちにはどうしても、仲介者イエズス・キリストに取り次いでもらうために、もう一人の仲介者が必要です。そしてマリアこそ、この仲介者です。マリアこそ、この愛の役務を果すのに最適任者です。マリアをとおってこそ、イエズス・キリストは、わたしたちのほうにやって来られたのです。だから、わたしたちはマリアをとおしてこそ、イエズス・キリストのもとに行かねばなりません。

神であるイエズス・キリストの無限の偉大さのために、またはわたしたちの卑しさ惨めさ罪深さのために、直接かれのもとに行くのが恐いのなら、勇気をふりしぼって、わたしたちの母なるマリアの助けと取り次ぎをねがいましょう。マリアは、よいかたです。マリアは、優しいかたです。マリアは近づき難いかたではなく、たのまれたことをすげなくことわるかたでもありません。お高くとまってもいず、まぶしくて顔もあげられないかたでもありません。マリアは、わたしたち人間とちっともちがわないかたです。

マリアは、太陽ではありません、その先があまり強すぎて、わたしたちの弱い眼を眩惑させる太陽ではありません。マリアは、月です。美しくやわらかい光を、おだやかに地上にそそぐ月です。マリアはキリストという名の太陽から強烈な光を受けてそれをご自分において、わたしたちの弱い眼にかなうように調整してくださる月です。マリアはたいへん、いつくしみ深いかたです。


ご自分に取り次ぎをねがう人を、だれひとり拒みません―どんなに大きな罪びとでも。聖人たちが言っているように、マリアのご保護によりすがり、辛抱強く祈った者が捨てられたことは、昔から今にいたるまでいちども聞いたことはありません。
マリアは、神のみまえに、たいへんな勢力をもっておられます。神におねがいしてことわられたことは、タダの一度もありません。御子イエズスのみまえに出るだけで、それがすなわち祈りにつながるのです。だからイエズスは、すぐにマリアのねがいにこたえ、すぐにマリアのたのみを聞いてくださるのです。御子イエズスは、ご自分がかって吸った御母マリアの乳房、ご自分がかって宿ったマリアのご胎をひと目みるだけで、いつもマリアのねがいにわざと負けてくださるのです。



86.右に言ったことはみな、聖ベルナルドと聖ボナベントラの本から取ったものです。この二人の聖人によると、わたしたちは神に達するには、三つの段階を、つぎつぎにのぼらねばなりません。

第一の段階は、わたしたちにいちばん近く、わたしたちの登はん能力にいちばん適しているもの、それは、
マリアです。

 第二の段階は、イエズス・キリスト。
 第三の段階が、神である御父です。

イエズスに達するには、マリアをとおらねばなりません。マリアこそ、わたしたちのことを、イエズスに取り次いでくださる仲介者です。永遠の御父に達するにはイエズスをとおらねばなりません。イエズスこそ、あがないにおけるわたしたちの仲介者です。ところで、わたしがこれから公開しようとしている信心は、この秩序を正確にふまえたものです。



第⑤項の真理―神の賜物を安全にしまっておくことはたいへんむずかしい

87.わたしたちは弱く、もろいものですから、神からいただいた恩寵や宝を、自分のうちに安全にしまっておくことは、たいへんむずかしいのです。そのわけは、こうです。 ①天地にまさる「この宝を、わたしたちは土の器の中に入れているのです。」(Ⅱコリント4・7)すなわち、腐敗すべきからだの中に、弱く不安定な、変転きわまりない霊魂の中に入れているのです。



88.②悪魔が、ウデききのスリのように、不意にわたしたちを襲って、この宝をかっぱらおうとたくらんでいます。悪魔は、夜となく昼となく、チャンスをねらっています。悪魔はまた、「ほえたけるライオンのように、わたしたちを食いつくそうと、歩きまわっています。」(Ⅰペテロ5・8)好機到来。タッタ一つの罪で、アッというまに、悪魔はわたしたちの宝を、わたしたちが何年何十年もかかってたくわえた恩寵とクドクの宝を、みごとにかっぱらってしまうのです。

悪魔(蛇)を踏みつける聖母像


なんという不幸なのでしょう。悪魔のずるがしこさ、その長年の経験、そのたくみな手腕、そのウンカのような頭数―それを考えれば、どうしてこの不幸を恐れないでいられましょうか。いわんや、わたしたちよりも、もっと恩寵においてもっと卓絶していた人びとが、不幸にも悪魔の強盗に襲われて、何もかもはぎとられてしまったのです。ああ、どれほど多くのレバノンの大杉が、どれほど多くの大空の巨星が、一瞬のうちに、地にたおれ、地において、その見上げるほどの聖性の高さと、かがやきを失ったことでしょう。

このサンタンたる不幸は、どこから来たのでしょうか。神の恩寵が足りなかったのでしょうか。いいえ。神の恩寵はだれにも不足していません。この不幸は、かれらの謙遜さの不足から生じたのです。かれらは自分の力を過信したのです。自分の宝は自力でまもれる、と信じ込んでいたのです。あまりにも自分自身にたよっていたのです。自信過剰だったのです。自分の家は十分戸じまりがしてあるから、自分の金庫にはちゃんとカギがかけてあるから、神からいただいた恩寵の貴重品は大丈夫だ、と安心しきっていたのです。意識の深層にひそかにかくれひそんでいたこの自己満足、このウヌボレのためにこそ、神は罰として、かれらを自身の力だけに打ちまかせ、こうしてかれらが盗難に会うことをおゆるしになったのです。ああ、もしかれらが、わたしがこれから公開しようとしている信心を知っていたら、きっと自分の宝を、力づよく正直なマリアさまに、あずけたでしょうに。マリアさまはあずかった宝はご自分の宝のように保管されたはずです。―しかも、そうすることが、ご自分の重い義務でもあるかのように。



89.③世の中が道義的にたいへん腐敗していますので、教えをまもりとおすことが困難になってまいりました。このごろ、社会のモラルが地におちましたので、信心家でさえまるで必然の運命でもあるかのように、心がドロにではないが少なくともチリにまみれています。こうした中で、激流におしながされず、あらしの吹きすさぶ大海にも難破せず、また海賊の難にも会わず、風俗びん乱の公害にもめげず、毅然として信仰をまもりとおすことは、なんといっても奇跡です。

だれが、この奇跡を行ってくださるのでしょうか、まだ一度もヘビにかまれたことのない“忠実なおとめ”
マリアこそ。マリアは、ご自分を優しく愛する人々に対して、こうした奇跡を行ってくださるのです。


(第五巻につづく)

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