「聖母マリアへのまことの信心」(聖グレニョン・ド・モンフォール著)

読者の皆様、この本は宝であります。
神秘的な働きによってマリア御自身が
あなたを選ばれ手の中に納められたのです。

「聖母マリアへのまことの信心」 第九巻

2022-12-02 14:49:38 | 日記
第六節 第六の理由―この信心は大いなる内面的自由を与える

169.この信心をまじめに実行する人は、大いなる内面的自由、すなわち「神の子どもたちの栄光の自由」(ローマ8・21)をいただきます。なぜなら、この信心によって、イエズス・キリストに愛のドレイとして、自分自身をまったくささげ尽くすのですから、イエズス・キリストも、ご自分の愛のドレイに、次のようなむくいをくださるのです。

①その人のたましいから、かれをとりこにし、偏狭にし、混乱さす、オドオドしたドレイ的恐怖や、小心を取り除いてくださいます。
②神は自分の父親だと信じ込ませる、神への信頼をますますふやしてくださいます。
③神への孝情に満ちた愛を霊感させてくださいます。



170.いろんな理由をあげて、この真理を照明することもいいことだが、わたしは次に一つのエピソードをかかげましょう。それはわたしが、オーベルニュのランジャックにある女子ドミニコ会修道院の「イエズスのアグネス修道女」の伝記の中で読んだものです。この修道女は1634年、聖徳のかおりの中で、同地でなくなりましたが、まだ七つにもならないのに、信心の過熱のため、ひどいノイローゼにかかりました。

そうした中で、ある声を聞いたのです。「もしおまえがノイローゼから救われたいのなら、また信心の敵どもから保護してもらいたいなら、さっそく、イエズスさまのドレイに、マリアさまのドレイになりなさい。」

彼女は家に飛んで帰り、イエズスとその御母マリアに、自分自身をまったくささげます。この信心がどんなものかは、まだ知っていないのです。しかし、鉄のくさりを見つけて、それを腰にはめ、死ぬまで取らなかったのです。マリアへのこうした自己奉献のあと、さしもの精神的な闇もオドオドした小心もスッカリなくなり、心には大きな歓びと安らぎがもどりました。彼女がこの信心を広めようと決心したのは、こんなことがあったからです。

彼女の指導で、この信心に長足の進歩をとげた人びとの中に、サンスルピス大神学校の創立者オリエ師(神父=訳者)がいます。その他、同神学校の司祭、教授たちも大勢います。・・・ある日、マリアさまが彼女に現われ、彼女の首に黄金のくさりをかけながら、あなたが自分を愛のドレイとして、御子イエズスとわたしにささげ尽くしたのは大変うれしい、と仰せになって、心からその歓びをおあらわしになりました。また、マリアのおともをしていた聖女チェチリヤも、彼女にこう言います。「天の元后の忠実なドレイは、さいわいです。かれらは本当の自由を楽しむからです。“マリアよ、あなたに仕えることは、わたしたち人間にとっては解放です。まことの自由の享受です。”」




第七節 第七の理由―この信心は、隣人に大きな善をもたらす

171.この信心を推薦するもう一つの理由は、この信心の実行が、隣人に大きな善をもたらす、ということです。事実、この信心によって、わたしたちは最もすぐれた方法で、隣人愛を実行することができるのです。すなわち、わたしたちはマリアのみ手をとおして、自分のもっている最も貴重なもの―つまり、わたしたちのすべての善行のつぐない価値と祈求価値を、隣人にほどこすのです。どんなに小さな良い考え、どんなにわずかな苦しみでも、例外ではありません。わたしたちがすでに獲得している、また死ぬ日まで獲得できる、すべてのつぐないのクドクは、マリアのお望みのままに、あるいは罪びとの回心のため、あるいは煉獄の霊魂のすくいのために、使われるのです。

これこそ、隣人を完全に愛することではないでしょうか。これこそは、キリストの本当の弟子であることを実証するしるしではないのでしょうか。「もしあなたがたの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることをすべての人が認めるのです」(ヨハネ13・35)と、イエズスが仰せになったからです。

これこそはまた、虚栄心の心配もなしに、罪びとを回心させる手段ではないでしょうか。これこそは、自分の身分上の義務を果す以外に、ほとんど何もしないで、りっぱに煉獄の霊魂をすくう手段ではないでしょうか。



172.この第七の理由が、いかにすぐれているかを理解するためには、罪びとを回心させ、煉獄の霊魂をすくうことが、いかにすぐれた善であるかを理解する必要があります。罪びとを回心させ、煉獄の霊魂をすくうことは、無限の善です。天地を創造するよりも偉大な善です。なぜなら、それは霊魂に“神”を与えるからです。

この信心の実行によって、ある人が一生かかって、タッタ一人の罪びとしか回心させず、タッタ一人の煉獄の霊魂しかすくわなかったとしても、タダこの一事だけでも、すべて隣人愛にもえる人にとっては、この信心の信奉家になるための、十分な理由とはならないでしょうか。だが、ここに注目すべきことがあります。それは、わたしたちの善行は、マリアのみ手をとおして、ほかの人に与えられるとき、ますます清さを増すということ、従ってますますクドクも増し、つぐない価値、祈求価値も増すということです。だから、それはマリアのみ手をとおさないで与えられるときにくらべて、煉獄の霊魂をすくい、罪びとを回心させる上において、はるかに大きなキキメがあるのです。

自分自身の望みを捨て、まったく没我的な愛徳から、ひとに与えるわずかな善行でも、神の怒りをなだめ、神のあわれみをよびくだすには、十分ちからがあるのです。この信心の実行にたいへん忠実だった人が、こうした手段によって、煉獄の霊魂を何人もすくい、罪びとを何人も回心させた―しかも、ごく平凡な身分上の義務しか果さなかったのに、そういう偉大なことをした、ということを臨終のときさとるでしょう。それはかれにとって、神のさばきのとき、どれほど大きな歓びとなるでしょう。それはまたかれにとって、永遠にわたって、どれほど大きな栄光となるでしょう。



第八節  第八の理由―この信心は、堅忍への感ずべき手段

173.さいごに、わたしがマリアへのこの信心を特に強くすすめる理由は、この信心が徳のうちに堅忍し、神への忠誠をつらぬくための、感ずべき手段だからです。どんなわけで、罪びとの回心が、多くの場合、長続きしないのでしょうか。どんなわけで、そんなにたやすく、再び罪におちいるのでしょうか。どんなわけで、多くの正しい人が、徳から徳へと前進するかわりに、また新しい恩寵を受けるかわりに、せっかく自分がもっているわずかな徳、わずかな恩寵までも失うことがしばしばあるのでしょうか。
こうした不幸は、先に述べたとおり(本書87~89)、人が、それほど腐敗し、それほど弱く、それほど変わりやすい人間性のもち主であるにもかかわらず、それを無視して、ただ自分自身にだけたよるからです。ただ自分自身の力だけをあてにし、自分がもっている恩寵、徳、クドクの宝を、自分の力だけでまもれる、と信じ込んでいるからです。

この信心を実行する人は、自分のもっているすべてのものを、忠信なおとめマリアに委託します。自分がもっている自然界・恩寵界のすべての善をマリアに一任し、マリアをその保管者とあおぎます。マリアの忠信をこそ、たよりにしているのですマリアの力づよさにこそ、信頼しているのです。マリアのあわれみといつくしみにこそ、すがっているのです。悪魔と世間と肉が結束して、わたしたちからそれを奪おうと、どんなに努力しても、マリアは、ご自分に委託されたわたしたちの徳とクドクを無キズに保管し、ふやしてすらくださるのです。

ちょうど、よい子供が母親に、忠実なしもべが女主人にそう言うように、わたしたちもマリアに、「ゆだねられたものを守ってください」(Ⅰテモテ6・20)と申し上げることができるのです。
ああ、マリア。わたしの母、わたしの女王よ。わたしは今まで、その資格もないのに、あなたのお取り次ぎによって、神さまから、身にあまる恩寵をいただきました。ところがわたしのにがい経験によって、わたしはこの宝を、たいへんもろい土器の中に、たずさえていることがよく分かります。わたしは自分で、この宝を安全に保管していくには、あまりに弱い者、あまりにみじめな者だということを痛感しています。
「わたしはつまらない者で、さげすまれています」(詩篇119・141)

どうか、わたしがもっている、すべての宝の保管者となってください。どうかそれを、あなたの忠実さ、力づよさによって、無キズに保管してください。あなたが守ってくださるなら、わたしは何も失いません。わたしをささえてくださるなら、絶対にたおれません。保護してくださるなら、どんな敵の攻撃に対しても安全です。(Mis17)



174.こうした信心をすすめて、聖ベルナルドがすでに明言しているとおりです。「マリアにささえて頂きさえすれば、絶対にたおれません。マリアにまもって頂きさえすれば、絶対に何もこわがる必要はありません。マリアにみちびいて頂きさえすれば、絶対に疲れません。

マリアに可愛いがって頂きさえすれば、安全に救いの港にたどり着くことができるのです」(in Spec.BMV.)
聖ボナベントラも、おなじことを、もっとハッキリと言い切っています。「マリアは、聖人たちの充満の中に閉じ込められているだけではありません。

マリアこそ、聖人たちを、かれらの充満の中に閉じ込め、かれがそこから出ないように守ってくださるのです。マリアは、聖人たちの徳が散り失せないように、かれらのクドクがなくならないように、かれらの恩寵が失われないように、悪魔から傷つけられないように、罪をおかしたときはキリストから罰せられないように、聖人たちを守ってくださるのです」



175.マリアは、忠信なおとめです。不信なエバが、神への不信によって、人類にもたらした損害を、マリアは、神への忠信によって、つぐなってくださいます。そればかりか、マリアは、ご自分を愛する人々のために、神への忠信と、信仰における堅忍の恵みを乞い求めてくださいます。




そんなわけで、ある聖人はマリアを、丈夫なイカリにたとえています。この世の荒れ狂う海の中で、マリアがイカリとなって、ご自分を愛する人びとを、難破の危険から救ってくださるからです。多くの人が難破しているのは、マリアという名のこの丈夫なイカリに、しがみついていないからです。「わたしたちは、丈夫なイカリのようなあなたに、自分の司牧する人びとを結びつけます」とダマスコの聖ヨハネは、マリアに向って言っています。天国に行った聖人は、この丈夫なイカリに、いちばん強くしがみついていた人たちです。また、自分ばかりでなく、ほかの人をも、善徳への道に堅忍さすために、しがみつかせたのです。この世で、マリアという丈夫なイカリに絶えまなくしがみついて、はなさない信者はさいわいです。この世のあらしがどんなに荒れ狂っても、かれらをおぼれ死にさせることもできなければ、かれらの宝を奪うこともできないからです。

ノアの箱舟にはいるように、マリアのうちにはいる人はさいわいです。多くの人を、おぼれ死にさせている罪の洪水が襲ってきても、かれらには何の危害も加えることができないからです。実際、聖霊が言っておられるように、「救霊のために働くため、マリアのうちにいる者は、けっして罪をおかさないでしょう」(集会書24・22)

不幸なエバの不信な子どもたちでも、もしかれらの本当の母であり、忠信なおとめであるマリアをさえ愛すれば、かれらはさいわいです。マリアは「どこまでも忠信なかたで、ご自分をあざむくことが絶対におできにならないからです」(Ⅱテモテ2・13)。そのうえマリアは、「ご自分を愛する者を、お愛しになる」(格言8・17)からです。それも、ただ情緒的な愛ばかりでなく、行動的な、実効的な愛で、愛しかえされるのです。すなわち、かれらに大いなる恩寵をそそいで、かれらが善徳の道において後退したり、たおれたりするのをふせいでくださるのです。



176.この良き母マリアはいつも、ご自分に委託されるものをすべて、純然たる愛徳の精神から、よろこんで引き受けられます。委託されたものを、ひとたび引き受けたからには、マリアは双務契約によって、それを無キズに保管する、という義務があります。たとえていえば、わたしがある銀行に百万円を預金するとします。この銀行は、わたしの百万円を、安全に保管する義務があるのです。それでもし、銀行側の不注意によって、わたしの百万円が紛失されるなら、銀行側は正義上、それについて責任を負わねばなりません。ところで、こおうえもなく忠信なマリアが、ご自分に委託されたものを、ご自分の不注意によってなくすことは、こんりんざい、ありえないことです。天地は過ぎ去っても、マリアが、ご自分に信頼する人びとに対して、不信であったり不忠実であることは、絶対にありえません。



177.マリアの子どもたちよ。あなたがたのかよわさは極限に達しています。あなたがたの変わりやすさも最大。あなたがたの精神的土壌もスッカリ汚染されています。ありていにいえば、あなたがたもダラクしたアダムとエバの子ども衆の同類です。
だか、それだからといって、失望するには及びません。気をおとしてはいけません。かえって、よろこびなさい。よろこびの秘けつが―わたしがいま、あなたにお伝えする秘けつがここにあります。この秘けつは、ほとんどすべての信者が、いや、いちばん熱心な信者さえも知っていないのです。

あなたの金銀財宝を、あなたの宝石箱の中にしまっておいてはいけません。それはすでに、ドロ棒の悪霊が、穴をあけているではありませんか。それはまた、これほど偉大、これほど貴重な宝をしまっておくには、あまりに小さく、あまりにもろく、あまりに古くはありませんか。

罪のために汚染し、腐敗したあなたの水ビンの中に、泉から汲み取ってきた清らかな、透明な水を入れてはいけません。たとえ水ビンの中に罪はもうなくても、罪のわるいにおいはまだ残っているはずです。そのためにこそ、せっかくの泉の水が汚染されているのです。特級ぶどう酒を、くさったぶどう酒がまだいっぱいはいっている、古いぶどう酒だるに入れてはいけません。入れたらすぐにくさります。そればかりか、そのまま売り出される危険もありましょう。



178.救われるべきかたがたよ。もうこれで十分だと思いますけれど、もっと強調させて頂きます。愛徳の黄金を、純潔の銀を、恩寵の水を、クドクと善徳の美酒を、穴のあいた袋に、古くてこわれた箱に、人間性の腐敗した器物に入れて、安心しきっていてはなりません。そんなことをすると、ドロ棒にやられます。すなわち悪魔が、昼も夜も、ぬすみの好機をさがしながら、ねらっているからです。そんなことをすると、自愛心のわるいにおいのために、自分自身への過信、我意の悪臭のために、せっかく神から頂いた最も清いものを汚染してしまうからです。

マリアのご胎に、マリアのみ心に、あなたのすべての宝、すべての恩寵、すべての善徳をしまっておきなさい。マリアこそ、“霊妙な器”です。“あがむべき器”です。“信心のすぐれた器”です。神ご自身が、そのすべての完徳とともに、その中に閉じこもって以来、この器は、このうえもなく霊妙となったのです。最も霊妙な霊魂の、霊妙な住まいとなったのです。

この器は、信心のすぐれた器―柔和・恩寵・善徳において、最もすぐれた霊魂が住まう、永遠の住み家です。さいごに、マリアおいう名のこの器は、“黄金の堂”のように高価です。“ダビデの塔”のように強く“象牙の塔”のように清純です。



179.そんなわけで、マリアの忠実なしもべたちは、ダマスコの聖ヨハネとともに、マリアにあえて次のように申し上げることができるのです。
「ああ、神の御母マリア。わたしはあなたに信頼していますから、きっと救われます。あなたのご保護によりすがっていますから、だれも恐れません。あなたの助けを求めていますから、どんな敵とも勇ましく戦い、どんな敵をも敗走さすことができます。あなたへの信心こそ、あなたが救おうと望んでおいでになる人びとに、あなたがお与えになる、精強な救いの武器だからです」(「お告げの祝日」の説教)






第Ⅴ章 レベッカとヤコブ マリアとその愛のドレイ

第一節 レベッカとヤコブ

180.マリアと、その子ども、そのしもべとの間の関係が、どんなものかについて、わたしはこれまで述べてきましたが、そのみごとな予型が、旧約聖書のヤコブの話の中で、聖書によって示されています。ヤコブが母レベッカの心づかいと創意工夫によって、父イザアクから祝福をもらった、というお話です。まず聖書が報道するヤコブの話をそのままここにのせ、次に聖霊の解説をつけ加えたいと思います。



第①項 ヤコブの話

181.長男のエザウは、次男のヤコブに長子権を売り渡していましたが、ふたりの子どもの母であるレベッカは、ヤコブのほうを特に可愛がっていましたので、何年か後で、まったく神聖な、まったく神秘にみちた創意工夫によって、エザウの長子権をヤコブの手に入れさすことに、まんまと成功した―という話です。

父親のイザアクは、自分が余命いくばくもないと思ったので、死ぬ前に子どもたちを祝福しておこうと、まず特に愛していた長男のエザウを呼び「狩に出かけて行って、わたしの好きなおいしい食べ物を作り、もって来て食べさせておくれ。わたしは死ぬ前に、おまえを祝福したいから」と言います。

レベッカはすぐに、事の次第をヤコブに知らせ、群れの所に行って、そこからヤギの子の良いのを二ヒキ取ってくるようにと、いいつけます。ヤコブがそれを母のところにもっていくと、母はそれで父の好きなように、おいしい料理を作ります。レベッカは、家にあった長男エザウの晴着をとって、弟ヤコブに着せ、また子ヤギの皮を、手と首のなめらかな所につけさせます。



182.父はもう目が見えなかったので、ヤコブの声をきいても、その両手が毛ぶかいので、ヤコブをてっきりエザウだと信じるにちがいないと思ったからです。
案のじょう、イザアクは、声をきいてビックリします。ヤコブの声にまちがいないからです。それでヤコブを、もっと自分に近寄らせ、ヤコブの両手をおおっていた子ヤギの皮を、手でさわりながら、「声はヤコブの声だが、手はエザウの手だ」と言います。ヤコブが運んできた料理を食べ、ヤコブに口づけし、かれが着ていた晴着のかおりをかいだのち、かれを祝福してこう言います。


「どうか、神が、天の露と、
地の肥えたところと、多くの穀物と、
新しいぶどう酒とおまえに賜るように。
もろもろの民はおまえに仕え
もろもろの国はおまえに身をかがめる。
おまえは兄弟たちの主となり、
おまえの母の子らは、
おまえに身をかがめるであろう。
おまえをのろう者はのろわれ
おまえを祝福する者は祝福される」(創世記27・29)



183.イザアクが、ヤコブを祝福し終わって、ヤコブが、父イザアクの前から出て行くとすぐ、兄エザウが狩から帰ってきます。かれもまたおいしい食べ物を作って、父のところにもってきて、「父よ。起きてあなたの子の料理を食べ、わたしを祝福して下さい」と言います。聖なる太祖は、とんだまちがいをしでかしたものだ、とビックリ仰天。しかしそれでも、前言を取り消さないのみか、かえってそれを強化確認します。神がこの事件に介入しておられる様子が、あまりに顕著だからです。

そこでエザウは、聖書が記録するとおり、身ぶるいして怒り、弟の権謀術策を大声でののしり、父に向かって、「あなたの祝福は、ただ一つだけですか」と言います。この点、エザウは、教父たちが指摘するとおり、神と世間とにふた股かけて、天のなぐさめも楽しみたいし、同時に地上のなぐさめも享楽したいと望んでいる人たちのかたどりです。



184.父イザアクは、泣きしゃくっているエザウを気の毒に思い、祝福を与えることは与えましたが、それは地上的な祝福でしかなく、しかも末代にいたるまで、弟ヤコブに仕えるという運命の逆転です。これがエザウの頭にきたのです。ヤコブに対する憎悪心が、炎のようにもえ上ります。エザウは心の中で言います。「父の喪の日も遠くはなかろう。そのときこそ、弟ヤコブを殺してやる。」(以上創世記27章)

もしヤコブが、母レベッカの特別のはからいがなかったら、また母の良いすすめにしたがっていなかったら、かれはとうてい死をまぬがれることはできなかったでしょう。



第②項 亡びる人の予型エザウ

185.この興味深い話の意味を説明する前に一言、注意しておきたいことは、すべての教父、すべての聖書解釈者が異口同音に言っていますように、ヤコブは、イエズス・キリストと救われる人の予型であり、エザウは、亡びる人の予型だということです。なるほど二人の行動と態度を比較対照してみると、そのことがうなずけます。

 ①エザウは、兄で、力がつよく、たくましい体格。弓術にすぐれ、狩が巧み。
 ②かれは滅多に家にはいません。自分のウデに自身満々。外でしか働きません。
 ③母レベッカを喜ばすためには、何もしません。
 ④一皿のあじ豆のスープと交換に、ヘイキで長子権を売り飛ばす大食漢。
 ⑤カインのように、弟をねたみ、徹底的に迫害。




186.これこそは、亡びる人が毎日、人まえで示している態度であり行動ではありませんか。
①亡びる人は、世俗的業務における自分たちの能力やウデ前に、たいへん自信をもっています。地上的事がらに関しては、たいへん強く、たいへん上手、たいへん目先もききますが、天上的事がらに関しては正反対に、たいへん弱く、たいへん無知です。
そんなわけで―



187.②かれらはけっして、またほとんど、自分のうちに、つまり自分自身の内面に住んでいません。自分自身の内面こそ、神が人間ひとりひとりに、そこに住みつくようにとお与えになった自分自身の家 実質的な・内面的家なのです。神がいつも、ご自分のうちに住んでおられるように、わたしたちにも、ご自分のやりかたを真似なさい、といってお与えになった家なのです。

亡びる人はけっして、黙想や、霊性生活や、内面的信心を好みません。かえって、内面的な人や、世間から離脱している人、外面的事業よりもむしろ内面的わざに没頭している人のことを低能児だ、売名信心家だ、イナカ者だ、とけなしています。



188.③亡びる人は、救われる人の母であるマリアへの信心に対して、ぜんぜん関心をもっていません。たしかに公には、マリアを憎んではいません。ときには、マリアのことをほめることさえあります。口では、マリアを愛している、と言っています。マリアへのある種の信心業を、実行してもいます。しかしそれでも、人が優しい心でマリアを愛しているのを見ると、もう我慢できません。マリアに対してヤコブのような優しい心をもっていないからです。

マリアの良い子どもや忠実なしもべが、御母マリアの愛情をかち得ようと、こまめに果している信心家に、とやかくケチをつけます。こうした信心が、マリアの子やしもべにとって、救霊の必要手段だということを信じないからです。マリアを正式に憎んでさえいなければ、マリアへの信心を公に軽べつさえしなければ、それで十分だと、かれらは信じこんでいるのです。オレたちは、マリアのお気に入りだ、オレたちも、マリアの忠実なしもべだ、と高言しています。「聖母に祈る文」をいくつか、となえたり、ブツブツ口の中で祈ったりしています。だが聖母への優しい愛は全然もっていません。自らの行いも全然あらためません。



189.亡びる人は、自分らの長子権、すなわち天国の幸福を、レンズ豆の一皿、すなわち地上的快楽のために、おしげもなく売り飛ばします。かれらは笑い、飲み、食い、遊び、おどったりはねたりして、わが世の春を謳歌します。旧約のエザウよろしく、天の御父の祝福を得るのにふさわしい者となるために少しも努力しません。いいかえれば、かれらはただ地上のことしか考えません。ただ地上のことしか愛しません。ただ地上のこと、ただ地上の快楽のことしか口にしません。ただそのためにしか行動しません。
一瞬の快楽のため、けむりのようにはかない名誉のため、ひとにぎりの金貨銀貨のために、おしげもなく洗礼の恩寵を、成聖の恩寵の純白な礼服を、永遠不朽の天国の家督を、売り飛ばしているのです。



190.⑤最後に、亡びる人は、くる日もくる日も公々然と、または、かげにかくれて、救われる人を憎み、また迫害しています。救われる人を圧迫し、軽べつし、非難し、反対し、侮辱し、強奪し、だまし取り、丸裸にし、土足でふみにじっています。しかるに自らは、巨億の富をたくわえ、あらゆる快楽にふけり、商売は繁昌、家内は安全、経済はますます高度成長、名声は天下にとどろきわたり、栄よう栄華をきわめています。


(第十巻につづく)
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