「聖母マリアへのまことの信心」(聖グレニョン・ド・モンフォール著)

読者の皆様、この本は宝であります。
神秘的な働きによってマリア御自身が
あなたを選ばれ手の中に納められたのです。

「聖母マリアへのまことの信心」 第五巻

2022-12-02 14:51:43 | 日記
第二節 マリアへのウソの信心

90.以上述べた五つの真理を前提として、これから、マリアへのまことの信心を、きびしい鑑識眼をもって、選別せねばなりません。マリアへのウソの信心が、異例のペースではんらんしていて、しかもそれがホンモノとごっちゃにされやすいからです。悪魔は、ニセガネ造りの名人、ウソつきの名人です。だから、マリアへのウソの信心によって、すでに多くの霊魂をだまし、地獄におとしています。悪魔は、例の経験にものをいわせて、くる日もくる日も、次から次へと、霊魂を罪のうちに愉快に遊ばせ眠らせて、地獄におとしているのです。口先だけで祈っていても、外面的な信心業をしていても、だいじょうぶ天国に行ける、と信者をだましているのです。

ニセガネ作りは一般には、金貨と銀貨しか作りません。銅貨やほかのカネは、ごくまれにしか作りません。金貨や銀貨ほどねうちが無いからです。悪魔の手口も同じこと。悪魔が偽造するのは、イエズスとマリアへの合同信心、聖体拝領への信心、マリアへの信心―だけです。これらの信心は、ほかのあらゆる信心の中で、特に光っているからです。ちょうど、金と銀があらゆる金属の中で、いちだんと異彩を放っているように。



91.だから、何よりもまず、マリアへのウソの信心とは何か。マリアへのまことの信心とは何か。をハッキリ知ることが、もっともだいじです。ウソの信心を捨て、まことの信心を実行するためです。次に、マリアへのまことの信心の中でも、実行面で、いろいろちがった信心業があるのですが、どれがいちばん完全なのか、どれがいちばんマリアのお気に召すのか、どれがいちばん神に栄光をきすのか、どれがいちばんわたしたちの聖化に寄与するのか、を知ることが、もっとも重要なポイントです。それが分かれば、この信心が好きで好きでたまらなくなるからです。



92.マリアへのウソの信心が七種類、したがってマリアへのウソの信心家も七種類があるようです。すなわち、マリア信心への①よろず評論型信心家、②オドオド型信心家、③チンドン屋型信心家、④ワンマン型信心家、⑤シリ焼け型信心家、⑥パリサイ型信心家、⑦エコノミック・アニマル型信心家。



第①項 よろず評論型信心家

93.よろず評論型信心家とは一般に、高慢な学者、自信過剰の知識人のことです。この先生がたも心のそこには、マリアへの信心をいくらかもってはいます。しかし、かれらは、あまり学のない信者が単純に、敬虔に、マリアにささげている具体的信心のほとんどすべてを、自分たちの気に入らないからといって批判し論難しています。十分に信用にあたいする著者が報道している、奇跡や歴史的事実も疑っています。マリアのあわれみと力づよさを実証する、諸修道会の年代史も信じません。
 神に祈るため、街角にあるマリアのご像や、ご絵の前にひざまづいている単純素朴な、謙虚な人たちを見ると、もう我慢できません。やつらは偶像崇拝者だ、木や石をおがんでいるじゃないか、と盛んに非難します。おれたちはこんなウワベばかりの信心は大きらい。マリアにまつわる、子供だましのオトギばなしや、架空的伝説を信じるほど、おれたちは単純細胞じゃない、とかれらは傲語しています。
 それでも教父たちは、マリアさまに、りっぱな讃辞を呈していますョ、とでも言ってごらんなさい。かれらはオオムがえしに、いや、それは説教の練習に、教父たちがホラを吹いたのだ、というにきまっています。と同時に、教父たちのマリア讃辞に、ちがった解釈をするのです。
 この傲慢で俗っぽく、ウソの信心家に対しては、大いに警戒せねばなりません。マリアへの信心に、大きな実害を与えているからです。おれたちは、マリア信心から、有害な毒素を除き去るのだ、と強弁しながら、じつは人びとを徹底的に、マリアへの信心から遠ざけているのです。


第②項 オドオド型信心家

94.オドオド型信心家とは、御母マリアを尊敬すると、それだけ御子イエズスに対して無礼になるのではないか、御母マリアをたたえると、それだけ御子イエズスをくさすことになるのではないか、といつもクヨクヨ心配している信心家のことです。かれらは、教父たちが丹精こめてマリアにささげた、ごくあたりまえの讃辞を、信者が同じように、聖母にささげるのをがまんできません。ご聖体の祭壇よりも、聖母の祭壇の前に、人が多くひざまついているのを見てもがまんできません。御子イエズスと御母マリアが互に、対立関係にあるとでも思っているのでしょうか。御母マリアに祈ることは、それじたい、御子イエズスに祈らないことだ、と信じ込んでいるのです。かれらは、人がしばしばマリアについて語り、しばしばマリアのもとに馳せていくのを見て、マユをひそめています。

かれらがふだん、もちだす言いぶんはこうです。―そんなにたくさんロザリオをとなえて、そんなにしばしば黙想会にあずかって、そんなにしげしげ聖母に信心をして、いったい何の役に立つのですか。そんなことは、学のない者がすることです。そんなことをすれば、われわれの宗教が笑いものにされますョ。イエズス・キリストへの信心のことばかり話しましょう。イエズス・キリストのもとにこそ、馳せて行かねばならんのです。イエズス・キリストこそ、わたしたちの唯一の仲介者ではありませんか。イエズス・キリストのことだけ、説教しなければなりません。
これが本当の信心というものです。・・・

なるほどかれらの言い分にも一理あります。しかし、かれらは、自分らの理論の応用の面で、まちがいをおかしています。すなわち、イエズス・キリストへの信心促進という、より大きな大義名分のために、マリアへの信心を妨害している、という点が、たいへん危険な思想であって、ここにこそ悪魔がたくみにしかけた、おとし穴があるのです。なぜならマリアを尊べばそれだけ、イエズス・キリストを尊ぶことになるのです。イエズス・キリストをますます完全に尊びたいからこそ、マリアを尊ぶのではありませんか。わたしたちの人生の終着駅は、イエズス・キリストです。終着駅への道がマリアです。マリアのもとに馳せて行くのです。



95.聖なる教会は、聖霊とともに(ルカ1・42)まずマリアを、次にイエズス・キリストを、それぞれ祝します。「あなたは女の中で祝され、またご胎の御子イエズスも祝されたもう」(天使祝詞)それは、マリアがイエズス・キリストよりも偉大だからではありません。イエズス・キリストと平等だからではありません。もしそうだったらこれは大変な異端です。

そうではなく、イエズス・キリストをふさわしく祝するためには、どうしてもその前にマリアを祝させねばならないからです。だから安心して、オドオド型信心家どもの反対をよそに、ホンモノ信心家とともに、マリアを祝して祈りましょう。「ああ、マリア。あなたは女の中で祝され、またご胎の御子イエズスも祝されたもう」

      受胎告知

第③項 チンドン屋型信心家

96.チンドン屋型信心家とは、マリアへの信心をもっぱら、外面的なわざに限定する人たちのことです。かれらは内的精神をもたないのですから、マリアへの信心でも、その外面的わざにしか興味がありません。大いそぎでロザリオをとなえます。心は散らしたままで、幾つものミサにあずかります。漫然と教会の行列にもあずかります。黙想会にもあずかりますが、でたらめな生活をいっこうに改善しません。情欲も自主的に規制しません。マリアの善徳も模倣しません。

信心の感覚的方面だけが好きで、中身を味わうことができません。外面的信心業に感激をおぼえなくなると、もう信心はダメだ、信心なんて愚の骨頂だ、とグチをこぼします。あげくの果ては、信心を全然やめるか、それとも時々思い出したようにかしません。世間にはこんな、チンドン屋型信心家が多いものです。しかもこの人たちぐらい、本当に祈っている人を、きびしく非難する者もありません。本当に祈っている人は、信心の内面的要素を、本質的なものと考えて、これと取組み、それでいて、本当の信心につきものの外面的つつましさも、おろそかにしません。これが、チンドン屋さんにとって、目の上のタンコブです。



第④項 ワンマン型信心家

97.ワンマン型信心家とは、情欲のおもむくままに、自由放題に生活している罪びと、世俗精神の愛好家のことです。口では、おれはキリスト信者だ、聖母信心家だ、と偉そうなことを言いながら、心の中には傲慢、貪欲、不品行、暴欲、憤怒、不正、悪口、不正義などの諸悪をかくし持っています。悪い習慣の中に平気でねむっています。おれはマリアさまに信心をしているのだから、というウマイ口実をもうけて、いっこうに自分の悪徳をたて直そうとはしません。

自分は毎日、ロザリオをとなえているのだから、毎土曜日、聖母をたたえるため断食をしているのだから、ロザリオやスカプラリオの信心会に籍を置いているのだから、聖母崇敬の信心用具を身につけているのだから、ああもしているし、こうもしているのだから、臨終のとき神はきっと、わたしの罪をゆるしてくださるにちがいない、よもや告解の秘跡も受けないで死ぬことはあるまい、とタカをくくっています。





このように、のん気にかまえているかれに向って、いや、あなたの信心はまちがっています、それは悪魔からくる迷いです。あなたを地獄におとす可能性のある、危険な思い上がりです、とでも言ってごらんなさい。絶対に信じはしませんから。反発的にこう言うでしょう。―いや、神さまはお人よしで、あわれみ深いかたです。地獄におとすために人間を、お造りになったのではなりません。だれだって罪はおかすでしょう。まさか告解の秘跡も受けないで死ぬことはあるまい。臨終のときタダ一言、神さま、わるうございました、といえばそれですむのじゃないでしょうか。

それにわたしは、ちゃんとマリアさまに信心をしております。
マリアさまのスカプラリオも、ちゃんと身につけています。毎日、マリアさまのご栄光のために、「主の祈り」を七度、それも忠実に謙虚に、となえています。ときどきは、ロザリオも、聖母の小聖務日課も、となえていますし、断食もしております、などなど。かれらは、自分たちの言い分を確証し強調するため、人から聞いたのか、本で読んだのか知らないが、とにかくウソかマコトか分からぬ“実例”をもち出します。それによるとこうです。ある人が大罪をもちながら、告解もせずに死んだ。だが、かれは生前、いくらか祈りもとなえていたし、また聖母信心のわざも実行していたので、告解するために奇跡的に生き返ったそうな。またある人は本当に息をひきとったが、その霊魂は告解の秘跡を受け終わるまで、からだから離れなかったとか。またある人はマリアさまのお情けによって、痛悔の罪のゆるしを神からいただき、めでたくも大往生をとげたとか。恵みだから、自分たちもマリアさまから、同じ恵みを期待しているんでございますョ、と言っているのです。



98.わがキリスト教において、こうした悪魔的な思い上がりほど、危険なシロものはありません。なぜなら、自分がおかしている罪によって、御子イエズス・キリストを、もう一度ムチ打ち、つき刺し、十字架につけ、情け容赦もなく侮辱している者が、おれは御母マリアさまを愛している、マリアさまを尊敬している、と真実に言えるでしょうか。

もしマリアが、この種の罪を是認している、ということにはなりませんか。つまり、御子イエズスを、もう一度、十字架につけ、侮辱する仕事に、マリアが協力している、ということにはなりませんか。しかし、どうしてそんなことが考えられますか。



99.ご聖体のうちにおられるイエズス・キリストへの信心の次に、いちばん神聖な、いちばん堅実な信心であるべき聖母への信心の、こうした乱用は、まさに、いちばん大きな、いちばんゆるしがたい汚聖であるべき、汚聖の聖体拝領に次ぐ汚聖である、とわたしはあえて断言します。



聖母への本当の信心をするには、望ましいことですが、必ずしもすべての罪をさける大聖人である必要はありません。だが、少なくとも(これからわたしの言うことをまじめに聞いてもらいたい)

第①に、御母マリアと同様、御子イエズスも侮辱するすべての大罪をさける、という誠実な強固な決心をもっていなければなりません。

第②に、罪をさけるために、自分にきびしい規制をほどこさねばなりません。

第③に、ある信心会に加入する、ロザリオの祈り、またその他の祈りをとなえる、土曜日に断食をする、などの具体的信心業を実行せねばなりません。



100.こうした信心業は、どんな罪人にとっても、頑固な罪人にとってさえも、不思議なほど有益です。この本の読者の中に、そうした罪びとがいますなら、また、たとえ片足を地獄の入口に突っ込んでいる罪びとがいましても、わたしはかれらに右の信心業をおすすめします。だが、次の条件をまもらねばなりません。すなわち、これらの善業を実行するその意図は、マリアのお取り次ぎによって、悔い改めと、おかした罪のゆるしの恵みを神からいただくことにあるのであって、絶対に良心のトガに反して、またイエズス・キリストの良い模範、聖人たちのりっぱな手本に眼をつむって、さらにまた福音のとおとい教えに耳をふさいで、安閑といつまでも、罪の状態にふみとどまっているためではないことを強調しておきます。



第⑤項 シリ焼け型信心家

101.シリ焼け型信心家は、散発的に、気まぐれに、マリアに信心をする人たちのことです。かれらは、熱しやすく、さめやすい。おれはマリアさまのためなら、なんでもやってやるぞ、という構えを見せているのですが、しばらくたつと、もとのモクアミにかえってしまいます。最初は、マリアさまに関連のある、ありとあらゆる信心業を片っぱしからやってのけます。いろんな信心会にも入会します。だが、まもなく規約も何も、忠実にまもらなくなります。

かれらは月のように、満ちたり欠けたり。だから、マリアの信用がありません。マリアが、三日月の上に乗っておられるように、かれらの場も、マリアの足の下です。変わりやすいから、マリアのしもべとしては、使いものになりません。マリアのしもべのバッチは、“忠実と堅実”という文字が大書してあります。祈りや信心業は、あんまりたくさんしないほうがいい。むしろ、世間が、悪魔が、肉が、どう言おうと、そんな信心業は量を減らして、かわりに愛と忠誠心をもって、それをしたほうが、はるかにいいのです。



第⑥項 パリサイ人型信心家

102.マリアへの信心をする人びとの中にも、パリサイ型信心家という、ニセモノ信心家がいます。人から聖人と見られたいために、自分の罪とわるい習慣を、聖母のいともきよらかなマントでカバーする、不逞の徒です。



第⑦項 エコノミック・アニマル型信心家

103.エコノミック・アニマル型信心家という者もいます。ふだん、無事平穏のときには、マリアのことなど全然念頭にありません。ただ有事の際だけ、たとえば、訴訟に勝つため、危険から脱出するため、病気をなおしてもらうため、その他、この種の地上的ご利益がほしいときだけ、マリアのもとに馳せていくのです。まったく、あぶないときの神だのみ式信心です。
以上に述べたのは、どれもこれも、ウソの信心家です。かれらは、神のみまえにも、御母マリアのみまえにも、三モンの価値もありません。



104.だから、用心に用心をして、そんな者にならないように気をつけましょう。
なにも信じないで、ただ批評非難ばかりしている、よろず評論家型信心家にならないように。イエズス・キリストへの尊敬をタテにして、マリアにあまり信心しないようにと、いつもクヨクヨしている、オドオド型信心家にならないように。信心のすべてを、ただ外面的信心業にだけ限定している、チンドン屋型信心家にならないように。マリアへのウソの信心を口実に、罪の中に惰眠をむさぼっている、ワンマン型信心家にならないように。軽率にも、信心業をクラクラ変え、わずかな誘惑にもすぐにそれを投げてしまう、シリ焼け型信心家にならないように。人から聖人と思われるために、いろいろな信心会に入会したり、聖母のスカプラリオなどを身につけている、パリサイ型信心家にならないように。さいごにからだの病気や不安から逃してもらうため、または現世的ご利益をもらうためにしか、マリアのもとに馳せいかない、エコノミック・アニマル型信心家にならないように。



第三節 マリアへのまことの信心とその特長

105.マリアへのウソの信心の正体をみぬき、それを断罪したあと、こんどは、マリアへのまことの信心はどうあるべきか、をハッキリさせなければなりません。
マリアへのまことの信心は、①内面的なもの、 ②愛情のこもったもの、 ③聖なるもの、 ④不動なもの、 ⑤無欲なものでなければなりません。




第①項 内面的な信心

106.マリアへのまことの信心の第一の特長は、それが内面的だということです。すなわち、この信心は、精神と心から、でてくるのです。マリアについていだいている尊敬の念から、マリアへの偉大さについての高度の認識から、マリアへの熱く優しい愛から、発生しているのです。



第②項 愛情のこもった信心

107.まことの信心の第二の特長は、それが愛情のこもったものだということです。つまり、マリアに対する信頼に満ちた信心です。

ちょうど子供が、母親に対してもっている信頼のような。まことの信心をもつ人は、からだと精神のあらゆる必要事にさいして、正直に、信頼をもって、愛情をこめて、マリアのもとに馳せていきます。
どんなとき、どんな場所、どんな事がらにおいても、マリアの助けを呼ばわります。
疑惑の雲にとざされたときには、心を照らしていただくため。道に迷ったときには、正道にひきもどしていただくため。誘惑のときには、勇気をささえていただくため。弱いときには、強めていただくため。罪の穴におちこんだときには、ひき上げていただくため。絶望におちいったときには、はげましていただくため。小心でクヨクヨしているときには、自己中心の小さなカラから脱出させていただくため。十字架、苦労、逆境のときには、なぐさめていただくために。

さいごに、からだと精神のあらゆる不順、あらゆるわずらいのとき、まことの信心家は何はともあれ、マリアのもとに馳せて行きます。マリアをうるさがらせる心配もなければ、マリアへの信心のために、御子イエズスに、不愉快な思いをさせるのではなかろうか、との心配も毛頭ありません。



第③項 聖なる信心

108.まことの信心の第三の特長は、それが聖だということです。すなわち、マリアへのまことの信心は、人に罪をさけさせ、マリアの諸徳を模倣させます。
とりわけマリアのふかい謙虚、いきいきとした信仰、目をつぶっての服従、たえまない祈り、あらゆる面での苦業、英雄的な忍耐、天使的な柔和、神々しい純潔、熱烈な愛徳、神的英知、をまねさせます。以上の諸徳は、マリアの十大善徳と呼ばれています。



第④項 不動の信心

109.マリアへのまことの信心の第四の特長は、それが不動だということです。それは人を、善の中に強化し固定し、信心業をかんたんに放棄しない方向へともって行きます。まことの信心は人を、世間に対して、世間のムードとコトワザに対して、勇敢にします。肉に対しても、肉の倦怠と挑戦に対しても、勇敢にします。悪魔とその誘惑にも、勇敢にします。そんな訳で、アリアへのまことの信心をもっている人は、人生の順境においても逆境においても、不変不動です。グチもこぼさねば、泣きもせず、恐れもしません。ときたま、信心の甘美に酔いしれて、失敗をしでかさないともかぎりません。だが、失敗しても、倒れても、御母マリアに手をさしのべて、すぐに立ちあがります。信心が無味乾燥になっても、ちっとも心配しません。マリアの忠実なしもべは、イエズスとマリアへの“信仰に生きる”(ヘブル10・38)のであって、けっしてからだの感覚にささえられて生きるのではないからです。



第⑤項 無欲な信心

110.さいごに、マリアへのまことの信心の第五の特長は、それが無欲だということです。つまり、まことの信心は人に、自分じしんのことを求めるのではなくて、マリアにおいて、ただ神のことだけを求めるように、とすすめるのです。マリアへの本当の信心家は、けっして自分じしんの利益や利害関係から、マリアに仕えるのではありません。自分じしんの地上善獲得のため、または永遠善獲得のためにマリアに仕えるのではありません。それはもっぱら、マリアが自分の奉仕にあたいするからこそ、また、マリアにおいて自分はただ神にだけ仕えているからこそ、マリアに仕えるのです。

マリアへのまことの信心をもっている人が、マリアを愛するのは、マリアから何か、もらうためではありません。マリアに何かもらおうと期待しているからでもありません。マリアを愛さずにはいられないから、マリアを愛するのです。だからこそ、信心において無味乾燥なときも、倦怠を感じているときも、感覚的な甘さや熱心さにひたっているときと同様の忠実さをもって、マリアを愛し、マリアに仕えるのです。はなやかなカナの結婚披露宴でも、凄惨なカルワリオの丘でも、おなじようにマリアを愛するのです。

ああ、このように無私無欲なマリアのしもべ マリアへの奉仕において全然、自分じしんのことを求めないしもべは、神とマリアのまなざしのまえに、どれほど好ましい貴重な存在なのでしょう。同時に、こうした無私無欲なしもべは、どれほど少ないでしょう。こうしたしもべが、ますます少なくなっていかないためにこそ、わたしは今こうして、ペンを取って、自分がこれまで公の場で、とりわけ長年間、自分の宣教の場で、人びとに教えてきたことを書きしるそうとしているのです。



(第六巻につづく)

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「聖母マリアへのまことの信心」 第六巻

2022-12-02 14:51:20 | 日記

         カルメルの聖母

第四節 この完全な信心についての予言的声明

111.わたしは、マリアについては、じつにたくさんのことを書いてまいりました。が、まだ書き足りないと思うのです。わたしは、マリアの本当のしもべ、イエズス・キリストの本格的な弟子を養成したい意図をもっていますので、マリアについてはまだまだたくさんのことを言いたいですし、それだけにまた、自分の学識の不足から、また時間の不足から、書きもらすことがずいぶん多いだろうと思うのです。



112.ああ、もしわたしのこの小さな本が、霊的に氏も育ちも良い人―すなわち「血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく」(ヨハネ1・13)ただ、神とマリアによって生まれた人の手にはいり、さらにこの本が、わたしがこれから書きしるそうとしている、マリアへのまことの堅実な信心の優秀さと価値を、聖霊の恵みによって、この人に見いださせ霊感してくれるなら、わたしの苦労はむくいられてなお余りあるというべきです。

わたしの最も愛する母マリア、わたしの最も尊敬する女王マリア―わたしはマリアの最もツマラヌ子であり、最もいやしいしもべですが―このマリアのみ栄えのために、わたしがこれから書きしるそうとしているもろもろの真理を、読者の心の中にそそぎ入れるために、わたしのけがれた血でも、もし役にたちますなら、わたしは喜んでインキのかわりに、自分の血で、この原稿を書いていきたいものです。読者の中には、わたしが述べる信心の実行に忠実なかたが、きっとおられることと希望しております。

どうか、そういう忠実な読者が、わたしが自分の忘恩と不忠実によって、最も愛すべき母マリア、最も尊敬すべき女王マリアにおかけした、もろもろの莫大な損害をつぐなってくださいますように。



113.わたしが心の奥そこに秘蔵してきたすべての企画―しかもその実行を、何年も前から神に祈り続けてきたすべての企画が、いよいよ近い将来に、達成への糸ぐちを見いだすのではなかろうか、との予感がしきりに、わたしの脳裏をかすめるきのうきょうなのです。この企画が、達成への糸ぐちをつかむとき、マリアはおそかれ早かれ、もっと多くのこども、しもべ、愛のドレイを持つようになるでしょう。そしてこの人たちの活躍のおかげで、イエズス・キリストが今までよりもいっそう強力に、人びとの心の中で、ご自分の支配権を行使されるでしょう。



114.わたしは、こんなことを予測しているのです。すなわち、この小さな本と、それを書くため聖霊がお使いになった人(=著者)を、悪魔的な歯でかみ砕き、八ッ裂きにしようと、多くの敵どもが、怒り狂う野じゅうのように、襲いかかってくるでしょう。すくなくともかれらは、この本を出版させないために、どこかの倉庫の片すみに、やみと沈黙とホコリの中に埋没させるでしょう。そればかりでなく、この本を読んで、まことの信心を実行する人々に対してさえも、迫害の手をのべるでしょう。

かまうもんですか。いや、それで結構。こうした展望は、わたしを大いにはげまし、大成功まちがいなし、との希望さえ与えてくれるのです。つまり、まもなく急テンポでやってくる宇宙ぐるみの超非常事態に際会して、イエズスとマリアの大軍団が、しかも忠勇無双の男女両兵士の大軍団が、世界のずい処に旗あげをし、世俗に対して、悪魔に対して、腐敗した人間性に対して、血みどろの戦いをいどみ、最後には勝利をおさめるのです。

“読者は、よく読み取るように”(マタイ24・15)“それができる者は、それを受け入れなさい”
(マタイ19・12)



第五節 マリアへの信心のうち、どんな信心業を選ぶべきか

115.マリアへのまことの信心の内面的な信心業はたくさんありますが、そのうちの主要なものを簡単に述べましょう。

①マリアを、神の御母として、“崇敬”する。すなわち、マリアを、すべての聖人にまさる者として恩寵の傑作として、神人イエズス・キリストの次に偉大な者として、高く評価し敬慕する。
②マリアの善徳・特権・行為を黙想する。
③マリアの偉大さを観想する。
④マリアに、愛と賛美と感謝の気もちをあらわす。
⑤心からマリアに呼ばわる。
⑥自分のすべてをマリアにささげ、マリアと一つになりきる。
⑦マリアを喜ばせるために、すべてのわざをなす。
⑧自分のすべてのわざを、マリアによって、マリアのうちに、マリアとともに、マリアのために始め、続け、終わる。

それを、わたしたちの、終局の目的であるキリストによって、キリストのうちに、キリストとともに、キリストのために行うためです。この最後の、すなわち⑧番目の信心業については、のちほどくわしく説明します。



116.マリアへのまことの信心には、外面的な信心業もいくつかありますが、そのうちの主要なものを左にしるしましょう。


①マリア関連の信心会、使徒職に加入する。
②マリアの栄光のために創立された修道会に入会する。
③公にマリアをたたえる。
④マリアの栄光のために、ほどこし・断食・精神的・肉体的苦業をする。
⑤ロザリオ、スカプラリオ、などのマリア関連の信心用具を、いつも身につける。






⑥注意して、熱心に、敬虔に、次の祈りを唱える。―イエズス・キリストの主要な十五の奥義をたたえて、十五連のロザリオの祈り。
または、マリアへのお告げ、マリアのご訪問、主の降誕、主の奉献、神殿内での発見、という五つの喜びの奥義をたたえてロザリオ五連。

ゲッセマニの園での主のご心痛、ムチ打ち、イバラの冠、十字架の道、十字架上の死苦、など主の五つの苦しみの奥義を尊んで、ロザリオ五連、主の復活、主の昇天、聖霊降臨、聖母の被昇天、聖母の戴冠式、など五つの栄光の奥義をたたえてロザリオ五連。

マリアのおとしをたたえて“めでたし”六十回、または七十回(マリアは六十歳か七十歳かでおなくなりになったそうです)。マリアの十二の星の冠、すなわち十二の特権をたたえて、“天にまします”を三回、“めでたし”を十二回。

または、全教会に受け入れられ、となえられている「聖母の小聖務日課」。聖ボナベントラ編集の「聖母の小詩篇」。これをとなえると、おとなでも子供の心になり、マリアに対して本当に心が優しく、信心が深くなります。

次にマリアの十四の歓びをたたえて、“天にまします(主の祈り)”と“めでたし(アヴェマリアの祈り”を各十四回。

または教会が推薦する祈り、賛美歌など、たとえば典礼の季節に応じて、となえたり、歌ったりするサルヴェ・レジナ”Salve Regina”(聖霊降臨後節)、アルマ・レデンプトリス・マーテル”Alma Redemptoris Mater”(待降節)、アベ・レジナ・チェローム”Ave Regina coelorum”(降誕節)、レジナ・チェリ”Regina Coeli”(復活節)。その他、祈祷文や聖歌集にいっぱいのっている祈り、または賛美歌。たとえば、聖母の賛美歌といわれるマグニフィカト”Magnificat”又はオ・グロリオーザ・ドミナ”Ogloriosa Domina”

⑦マリアをたたえて、霊的賛美歌を、自分も歌い、ひとにも歌わせる。

     聖歌隊

⑧マリアのみ前に何度も何度も、尊敬のしるしに、ヒザを折ったり、礼をする。

たとえば毎朝、百回も六十回も、“アベ・マリア・ビルゴ・フィデリスAve Maria Virgo Fidelis”(めでたしマリア、忠信なる童貞女よ)といいながら。一日中、神の恩寵に忠実に従うめぐみを、マリアをとおして、神からいただくためです。晩には、”アベ・マリア・マーテル・”Ave Maria Misericordiae”(“めでたしマリア、あわれみの御母よ)といいながら。その日おかした罪のゆるしを、マリアをとおして、神からいただくためです。

⑨マリアの信心会のために働き、マリアの祭壇をかざりマリアのご像や、ご絵を美化する。
⑩マリアのご像やご絵を、行列のとき、自分も持ち、ひとにも持たせる。マリアのご絵を、少なくとも一枚、いつも身につけておく―悪魔への精強な武器として。
⑪マリアのご絵や、マリアのみ名を大書したカンバンを作らせる。それを教会や、家の中に置く。または町・教会・家の門や戸口にかかげる。
⑫マリアの特別な、荘厳な儀式で、自分じしんを、マリアに奉献する。



117.マリアへのまことの信心の具体的信心業の中には、まだまだ、たくさんあります。どれもこれも、聖霊が、聖なる霊魂たちに霊感してくださったもので、聖性の進歩に、たいへん役立ちます。また、イエズス会員のポール・バリ神父が書いた「フィラジに開かれた天国」という本の中には、聖人たちがマリアの栄光のために実行したいろんな信心が、たくさんのっています。こうした信心は、わたしたちを聖化するために、ふしぎなほど効果があります。しかし、次の要領でそれを実行せねばなりません。

①ただ神だけをお喜ばせしたい、自分の終局の目的であるイエズス・キリストとまったく一つになりきりたい、隣人にとっても良い手本となりたい、との善良な、まっすぐな意向をもって。
②意識的に気を散らさず、細心の注意を払いながら。
③あんまり急がず、持続した信心の念をもって。
④謹厳な態度、すなわち神への尊敬に満ち、隣人に良い模範となる態度をもって、それを実行せねばなりません。



118.何はさておき、わたしは声を高めて、次のように宣言する者です。わたしは、マリアへの信心を論じている本は、ほとんどみな読みました。今日の世界で、学徳ともに優秀な、いろんな人物とも親しくつき合い、かれらの言いぶんも聞きました。だが、そのあと、わたしが現在、実感としてもっていることは、マリアへの信心業のうち、わたしがこれから公開しようとしている信心業に比肩するものは、今のところ、知ってもいないし、聞いてもいない、ということです。わたしが、これから述べようとしているマリアへの信心は、ざいらいの信心にくらべて、神のため、霊魂からもっと多くのギセイを要求します。霊魂を自分自身から、また自愛心から、もっと空虚にし、浄化します。
霊魂を恩寵のうちに、また、恩寵を霊魂のうちに、もっと忠実に安全に保ってくれます。
霊魂をもっと完全に、もっと容易に、イエズス・キリストと一致させてくれます。
さいごに、神にとってはもっと栄光となり、霊魂にとってはもっと聖化能力を発揮し、隣人にとってはもっと有益となるのです。



119.この信心は、その精髄がもともと、霊魂の内面に存するのですから、すべての人が、おなじように理解できる性質のものではありません。ある人たちは、この信心の外郭でストップし、それ以上の進歩は望めないでしょう。そして大部分の人がこの部類でしょう。ごく少数の人が、内面にまで立ち入ることができましょうが、そこから信心の段階を、ただ一段しか登れないでしょう。
二段まで登れる人がいましょうか。

さらに三段まで登れる人がいましょうか。さいごに、そこで、信心の状態にふみとどまっておれる人がいましょうか。いるとしたら、それは、イエズス・キリストの聖霊から、この新しい信心のヒミツをおしえていただいた霊魂だけなのです。聖霊は、ごじしんで、この忠実な霊魂を、信心の状態へとお導きになるのです。こうした中で、この霊魂は、徳から徳へ、恩寵から恩寵へ、光から光へと、向上進歩し、ついには自分の全存在をあげてイエズス・キリストに変容し、聖性においてはすでにこの世で、キリストの背たけに達し、のちの世では、キリストの栄光の度合いに達するのです。


       キリストの栄光


第Ⅲ章 マリアへのまことの信心の本質


第一節 それは自分自身を、マリアをとおして、イエズス・キリストにまったくささげ尽くすこと

120.わたしたちの完徳のすべては、わたしたちが、イエズス・キリストに変容すること、つまり、イエズス・キリストとまったく一つになり、イエズス・キリストにまったくささげ尽くされることに存します。だから、あらゆる信心の中で、いちばん完全なのは、うたがいもなく、わたしたちをいちばん完全に、イエズス・キリストに変容させてくれるもの、かれとまったく一つにしてくれるもの、かれにまったく自分をささげ尽くさせてくれるもの―でなければなりません。

ところで、マリアは、あらゆる被造物の中で、イエズス・キリストにいちばん変容しておいでになるのですから、当然の帰結として、あらゆる信心のなかで、いちばん霊魂をイエズス・キリストに変容させ、ささげ尽くさせる信心は、その御母マリアへの信心なのです。また、霊魂が、マリアにささげ尽くされれば、それだけイエズス・キリストにも同様にささげ尽くされるのです。

だから、イエズス・キリストへの完全な自己奉献は、マリアへの完全な、全面的な自己奉献と表裏一体をなすものです。ことばを変えて申せば、それは、洗礼の約束の更新にほかなりません。そういう信心を公開したいのです。



121.そんなわけで、この信心は、自分自身をすべて、イエズス・キリストにささげ尽くすために、まず自分じしんをすべて、マリアにささげ尽くすことに存します。どんなものを、マリアにささげねばなりませんか。

それは次のとおりです。

①わたしたちのからだ、からだのすべての感覚、機能、からだのすべての部分。
②わたしたちの霊魂と、霊魂のすべての能力。
③わたしたちの外的善、すなわち、現在所有している、また未来に取得可能な、すべての地上的善。
④わたしたちの内面的精神的・霊的善、すなわち、わたしたちが過去・現在・未来をつうじて蓄積するすべてのクドク、善徳、善行。これは要するに、わたしたちが自然界と恩寵界において、現在所有しているすべてのもの、さらにまた将来、自然界、恩寵界、光栄界において、所有できるすべてのもの。それも最後の一セン一リン、一本の髪の毛、極微の善行にいたるまで、残りくまなく、しかも一時的ではなく、永遠にわたって、ささげ尽くさねばなりません。

そのうえ、これらの奉献、これらの奉仕のむくいとしては、自分は、マリアをとおして、マリアにおいて、イエズス・キリストに隷属しているのだ、というプライドと光栄のほかにはどんなむくいも要求せず、期待してもなりません。たとえマリアが―実際は絶対にそうではないのだが―被造物の中で、いちばん大らかでもなく、いちばん恩に感じやすいかたでもないと仮定してでもです。



122.ここで、注目していただきたいことがあります。それは、わたしたちがする善行には、二種類があるということです。すなわち、罪のつぐないとなる善行と、クドク(功徳)となる善行。別のことばで申せば、罪をつぐなう価値、または神に何かを祈求できる価値をもつ善行と、クドクとなる価値をもつ善行。

ある善行の、罪をつぐなう価値、または神に何かと祈求できる価値とは、つまり、おかした罪に相応する罰をつぐなう善行、または神から新規な恩寵を取得できる善行のことです。クドクとなる価値、または単にクドクとは、恩寵と永遠の栄光にあたいする善行のことです。

 ところで、わたしが今さっき述べた、マリアへの自己奉献によって、わたしたちはマリアに、自分がもっているすべての、つぐない価値、祈求価値、クドク価値―つまりは、自分のすべての善行のつぐないとクドクを、ささげ尽くしてしまうのです。こうした自己奉献によって、わたしたちはマリアに、自分のクドク、自分の恩寵、自分の善徳をささげるのです。それを、ほかの人に流通するためではありません。(なぜなら、わたしたち自身のクドク、恩寵、善徳は、ほかの人に流通できないものです。ただイエズス・キリストだけが、御父のみ前における、わたしたちの仲介者として、ご自分のクドクを、わたしたちに流通することが、おできになったのです。)

そうではなく、わたしがのちほど申しますように、わたしたちが自分のために、それを保ち、ふやし、美化するためなのです。わたしたちがマリアに、つぐないをおささげするのは、マリアがそれをおのぞみの人に、また神の最大の栄光のために、流通してくださるためなのです。



123.以上述べてきたことから、次の結論が出てまいります。

①この新しい信心によって、わたしたちはイエズス・キリストに、いちばん完全な仕方で―なぜなら、それはマリアのみ手をとおしてなされますから―自分が、かれにささげることのできる、すべてのものをささげるのです。しかも、ほかのざいらいの信心によってそうするよりも、はるかに多くのものをささげるのです。ほかの信心だと、自分の時間、自分の善行、自分のつぐない、自分の苦業のタダ一部分しか、イエズスにはささげません。

この信心では、自分のもっているすべてのものが、自分のもっている内面的善の使用権までが、また自分がくる日もくる日も、善行をおこなって取得したつぐないまでがすべて、イエズスにささげられ、聖別されるのです。こんなことは、おそらくどんなに神聖な修道会でも、メッタに見られない風景かと思います。

修道者は、清貧の誓願によって、自分の地上財産を神にささげます。貞潔の誓願によって自分のからだを神にささげます。従順の誓願によって、自分の意志を神にささげます。ときたま、閉居の誓願によって、自分のからだの自由移動を、神にささげることもあります。しかし、かれは、そんなことによって自分の善行の価値の自由処理権までも神にささげるのではありません。この信心ほどキリスト信者の精神を、かれのいちばん貴重な、いちばん愛すべき霊的資産である、自分自身のクドクとつぐないへの愛着から、離脱させるものはありません。


               修道士たち

124.②当然の結果として、このように自発的に、マリアをとおして、自分じしんを、イエズス・キリストにささげ尽くし、ギセイにした人は、もはや自分の善行の価値は一つも、自分勝手に、処理することができなくなります。この人が苦しみ、考え、語り、おこなうすべての善は、そっくりそのまま、マリアのものとなります。マリアはそれを、御子イエズスのお望みにしたがって、かれの最大の栄光のために、ご自由に処理されるのです。しかし、自分の善行のマリアへの帰属は、けっして身分上の義務に抵触しません。―現在、自分が果さねばならない義務にも、また将来果たさねばならない義務にも。

たとえば、司祭は義務として、または他の何かの理由で、自分がたてるミサの、つぐない価値と祈求価値を、ある特定の人の意向に従って神にささげねばなりません。こんな場合、司祭は神の命令により、また身分上の義務によって、そうするのだから、そうした奉献は、自分の善行の、マリアへの帰属を、絶対に妨害するものではありません。


125.③さらに、こういう結果も出てまいります。すなわち、わたしが提唱する信心によれば、わたしたちは自分自身を、御母マリアとイエズスとに、同時にささげ尽くすことになります。御母マリアに。すなわち、イエズスが、わたしたちと一体になるため、またわたしたちをご自分と一体にするためにお選びになった、完全な手段としてのマリアに。と同時に、イエズスにも。なぜなら、イエズスこそ、わたしたちの終局の目的であり、イエズスこそ、わたしたちのあがない主、わたしたちの神なのですから、わたしたちはイエズスに、すべてを負っているからです。



第二節 完全な信心による自己奉献は、洗礼の約束の完全な更新

126.前にも申しましたように、この信心はまさしく、洗礼のちかい、洗礼の約束の完全な更新だといっても、差し支えないのです。

キリスト者はすべて、洗礼を受ける前には、悪魔のドレイでした。悪魔に隷属していたからです。しかし、洗礼のとき、自分じしんの口でか、または代父・代母の口をかりて、公式に、悪魔と、その栄華と、そのわざを捨て、以後はイエズス・キリストを、自分の主、自分の神とすることを、そうごんにちかったのです。これからは愛のドレイとして、イエズス・キリストに隷属し、仕えることを、おごそかに約束したのです。


        洗礼式

それはまさしく、この信心がすることとまったく同じものです。この信心によって、(奉献文にしるされているように)わたしたちは、悪魔と、世俗と、罪と、自分自身とを捨て、マリアのみ手をとおして自分自身をまったく、イエズス・キリストにささげ尽くすのです。そのうえ、この信心にはプラス・アルファがついています。

洗礼のとき受洗者は通常、ほかの人の口、つまり代父、代母の口をかりて神に申し上げ、こうして、ほかの人を代理人に使って、自分自身をイエズス・キリストにささげます。しかし、この信心では、自分自身が自発的に、しかも事がらの内容を十分わきまえた上で、それをするのです。

 洗礼のとき、受洗者は、マリアのみ手をとおして、という明白な表現を使って、自分自身をイエズス・キリストにささげるのではありません。また、自分の善行の価値を、イエズス・キリストにささげ尽くすのでもありません。洗礼のあと、それを、好きな人に流通しようと、自分自身のためにたくわえておこうと、まったく本人の自由なのです。

だが、この信心では、ハッキリした表現を使って、自分を、マリアのみ手をとおして、イエズス・キリストにささげ、そのうえ、自分のすべての善行の価値までも、イエズス・キリストにささげ尽くすのです。



127.聖トマス・アクイナスが言っているように、人は洗礼のとき、悪魔とその栄華を捨てる、と神にちかいます。そして聖アウグスティヌスが言っているように、このちかいは、人間が立てるちかいの中で、いちばん大きな、いちばん免除不可能なちかいなのです。教会法学者も言っているとおり、わたしたちが洗礼のとき、神にたてるちかいこそ人間のちかいの中で、いちばん重大なちかいなのです。


 聖トマス・アクィナス


  聖アウグスティヌス

ところで、このいちばん大きなちかいを、完全にまもっている人はいますか。この洗礼の約束を、忠実に守っている人がいますか。ほとんど全てのキリスト信者が、洗礼のときイエズス・キリストに約束した忠誠を、破棄しているではありませんか。この世界的乱脈は、どこからくるのでしょうか。洗礼の約束とちかいの忘却からこそ。洗礼のとき、代父・代母をとおして、神と結んだ契約を、ほとんどだれでもが是認しないからこそ。



128.ルイ・デボネールの命令によって、当時キリスト教社会で暴威をふるった道義的無秩序をたてなおすために召集されたサンスの公会議(829年)は、この全教会的風俗壊乱の主要原因が、洗礼の約束の忘却と認識不足に起因する事実をつきとめました。これはしごく、もっともなことです。そんなわけで、サンスの公会議は、この大きな不幸の防止手段としては、キリスト信者一同に、洗礼のちかいと約束を更新するように呼びかけるのが、最善の策だと議決したのです。



129.「トリエント公会議のカトリック要理」も、このサンス公会議の意向を忠実に汲みとって、主任神父に、おなじことをするようにと命じています。すなわち、信者たちが、自分らのあがない主、神であるイエズス・キリストに、洗礼によって、結ばれ、ささげ尽くされた者であることを再認識し、再確認する方向に、かれらを指導せねばならぬ、と言っているのです。



130.公会議、教父、歴史の経験が声をそろえて、キリスト信者の乱脈矯正への最良手段は、かれらに洗礼の義務を思いおこさせ、洗礼のとき神にたてたちかいを更新させることだ、と言っているからには、今こそ完全な仕方で、すなわち、マリアをとおして、イエズス・キリストに自分自身をささげ尽くす、というこの信心によって、洗礼の義務を思いおこし、洗礼の約束を更新することは、あたりまえではないでしょうか。完全な仕方で―と、わたしは言います。なぜなら、自分自身をイエズス・キリストに、ささげ尽くすための手段として、あらゆる手段の中でいちばん完全である御母マリアを、お使い申しているからです。


     トリエント公会義



(第七巻につづく)

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「聖母マリアへのまことの信心」 第七巻

2022-12-02 14:50:59 | 日記
第三節 質疑と応答

131.この信心は、新発売だ、おれには関係ナイ、と言われるかたがいましたら、それはまちがっています。この信心はけっして、新発売ではありません。ちゃんと公会議も、教父たちも、古今東西の著述家たちも、声をそろえて、イエズス・キリストへの自己奉献が、洗礼の約束の更新がずっと昔から実行されてきたことだ、と言っているではありませんか。

この信心は、おれたちは関係ないとおっしゃるのですか。とんでもない、大いに関係があるのです。なぜなら、キリスト信者のダラクの、したがって地獄行きの、主要原因がどこにあるのか、を考えてごらんなさい。それは、洗礼の約束の実行を忘れ去るか、またはそれに対して関係ナイ態度をとるか、そのどちらかにあるのです。



132.ある人たちは、こうも言います。この信者はわたしたちに、マリアのみ手をとおして、わたしたちのすべての苦業、すべての祈り、すべての苦業とほどこしの価値を、ただイエズス・キリストにだけささげさせるのだから、わたしたちは、自分の両親・友人・恩人らの霊魂を助けるため、まった何もできないのではないか。この疑問への解答は次のとおりです。

①わたしたちが、イエズス・キリストとその御母マリアへの奉仕に、自分自身を残りくまなくささげ尽くしたがために、わたしたちの友人・両親・恩人が損をするということはとても信じられません。そう考えるのは、イエズスとマリアの全能と慈悲に対して、侮辱を加えることになります。イエズスもマリアもわたしたちの小さな霊的収入で、またはほかの方法で、わたしたちの両親・友人・恩人を助ける方法を、ちゃんとごぞんじなのです。


        扶助者聖母

②次に、この信心の実行は、わたしたちがほかの人のため、すなわち死者のため生者のために祈ることを、けっしてさまたげません。ただし、わたしたちの善行の配分は、マリアのお心しだい、ということは忘れてはいけません。ほかの人のために祈ることをさまたげるどころか、かえってこの信心は、もっと大きな信頼をもって祈るように仕向けてくれます。たとえば、ここに金持ちがいて、自分の殿様にもっと敬意を表すため、全財産を提供すると仮定します。たまたま、ひとりの友人がかれに、ほどこしをねがいます。そのときこの人は、その友人になにがしのほどこしをしてくださるまいかと、もっと大きな信頼をもって殿様に願えるでしょう。殿様は喜ぶにきまっています。なぜなら、自分にもっと敬意を表すため素寒貧となったこの人に、恩返しをするチャンスが与えられたからです。おなじことが、イエズスとマリアにかんしても言えるのです。恩返しの点では、おふたりとも、だれにもヒケをとりません。



133.ある人は、こう考えているかも知れません。もしわたしが、自分のすべての善行の価値を、お望みの人に上げてくださいとマリアさまにささげたら、自分は霊的に無一物となって、煉獄で長く苦しまねばならないでしょう。

こうした質問は、自愛心からも、また神と御母マリアの大らかさについての認識不足からも来ています。だから、まった愚問です。こんなに神の奉仕に熱心で、こんなにおしみない心を持った人が、自分の利益よりも神の利益を優先する人が、これ以上何もできないというほど、神にすべてをささげきっている人が、マリアをとおして、イエズス・キリストの栄光と御国の到来しか祈求していない人が、そのために自分のすべてをギセイにしている人が、このように広い心をもった人が、この世で神への奉仕に、ほかの人たちよりも、もっと大らかで、もっと無私無欲だったというタッタひとつの理由で、のちの世ではほかの人よりも重く罰されねばならないとしたら、どういうことになりますか。そんなことは絶対にあってはならないはずです。


       キリストの栄光

あとで述べるように、こういう人こそ、イエズスとマリアは、この世においても、のちの世においても、自然界でも恩寵界でも、また天国という栄光界でも、最高に大らかな報いをくださるのです。



134.いま、できるだけ簡潔に、この信心を推奨せねばならぬ理由、この信心が忠実な霊魂に生じる感嘆すべき効果、この信心の実行を述べることにしましょう。



第Ⅳ章 この完全な自己奉献の理由


第一節 第一の理由―この完全な自己奉献の優越性

135.マリアのみ手をとおして、自分自身をまったく、イエズス・キリストにささげ尽くすことが、いかにすぐれたわざであるか、を示す第一の理由が、ここにあります。それはこうです。

この世には、神への奉仕にもまして高尚な職務がないとすれば、また神のいちばんつまらないしもべでも、神のしもべでもない地上のすべての王、すべての皇帝にもまして、はるかに富んだ者、はるかに勢力ある者、はるかに高貴な者であるとすれば、いわんや神への奉仕に、可能な限り自分自身をまったく、残りくまなくささげ尽くした忠実な、完全な神のしもべが持つ富と勢力と尊厳は、いかばかりなのでしょうか。

これが、マリアのうちにおける、イエズスの衷心で愛のふかいドレイの本領なのです。かれこそは、マリアのみ手をとおして、王たちの王であるイエズス・キリストへの奉仕に、自分をまったくささげ尽くし、自身のためには一物も取って置かない人なのです。
こんな人は、全世界のすべての黄金よりも、天上界のすべての美しさよりも、はるかに価値のある人なのです。



136.イエズス・キリストとその御母マリアの栄光のために創立された修道会、信心会、友の会などは、なるほど教会のために、偉大な業績を記録していますが、しかし会員たちに、イエズスとマリアへの奉仕にすべてを、残りくまなく捨てさせてはいません。ただ自分の義務を果させるため、各会員に、いくらかの信心業または善行をなすように、と規定しているに過ぎません。そのほかのわざ、また時間割にかんしては、まったく会員の自由裁量にまかせています。


 絶えざる御助けの聖母(信心会)

しかし、この信心ですと、すべての考え、ことば、行ない、苦しみ、および一生のすべての時間を、イエズスとマリアに、残りくまなくささげ尽くさせます。その結果、この自己奉献を明白に取り消さない限り、かれが目ざめていようと眠っていようと、なにか飲もうと食べようと、大きなわざをしようと小さなわざをしようと、たとえいちいちそのことを考えなくても、それはいつもイエズスのもの、マリアのものとなることは明らかです。マリアをとおしてのイエズスへのこの自己奉献が、こんなすばらしい効果を生みだすのです。なんとなぐさめに満ちた真理なのでしょう。



137.そればかりではありません。前にも述べたとおり、わたしたちのいちばん神聖な行ないにさえ、しらずしらずのうちに、高慢な自我が混入するものですが、この自愛心をこうまで容易に取り除いてくれる信心業は、ほかに一つもありません。これは大きなお恵みです。そしてイエズスは、自分の善行のすべての価値を、マリアのみ手をとおして、ご自身にささげる信心家の、英雄的な、無私無欲な行為に対しては、百倍のむくいをもって、ご返礼なさるのです。

このようにイエズスは、すでにこの世においてさえ、ご自分を愛するために、自分のもっている外部的、現世的、朽ち果つべき財産を捨てる人に、百倍のむくいをもってご返礼なさるのですから、いわんやご自分のために、内面的・霊的たからを捨てる人には、天国で、どんなにすばらしいむくいをくださるのでしょうか。



138.わたしたちの親友イエズスは、ご自分のからだも霊魂も、徳も恩寵も、功徳もみんな、残りくまなく、わたしたちに与えてくださいました。聖ベルナルドが言っているとおり、イエズスは、ご自分をすべて、わたしにお与えになることによって、わたしをすべて、ご自分のものとなさいました。だから、わたしたちが、自分の与えることのできるすべてのものを、イエズスに与え尽くすことは、正義と感謝の義務ではないでしょうか。


    イエズスの肖像


イエズスがまず、わたしたちに対して、大らかでいらしたのですから、わたしたちもおくればせながら、イエズスに対して大らかでありましょう。そうしたら、こんどはまたイエズスがわたしたちに対して、生存中も、臨終のときも、また永遠にわたって、もっともっと大らかでいらっしゃることが、体験的に分かるでしょう。イエズスは、大らかな者に対しては、ご自分も大らかです。



第二節 第二の理由―この自己奉献の正当性と利益


139.もっと完全に、イエズス・キリストのものとなりきるため、この信心の実行によって、自分自身をまったくマリアにささげ尽くすことは、それ自体が正しいことであり、キリスト信者にとっては益あることです。

イエズスは九ヵ月間、マリアのご胎内に、ご自分がちょうど囚人のように、または愛深いドレイのように、閉じこめられていることをおいといになりませんでした。そのうえ、三十年間も、マリアに従うことを、おいといになりませんでした。くり返し申し上げますが、人となられた永遠の知恵のこうした行動を、まじめに反省するとき、人間のあさはかな知恵は、完全に呆然自失します。

人となられた神は、それができたにもかかわらず、ご自分を直接に人びとに与えることを、おのぞみになりませんでした。マリアをとおして、はじめて人びとにご自分を与えることを、おのぞみになったのです。だれにもたよる必要のない、完全なおとなの年齢に達した人としてではなく、よわよわしい小さな赤ちゃんとして、御母マリアのお世話と養育にすがらねば生きていけない幼な子として、この世にくることをおのぞみになったのです。


      聖家族

神なる御父の栄光を現わし、人びとを救おうとの果てしない望みをもっていらした、この永遠の知恵イエズスは、ご自分の望みを達成するための最も完全な、最も手っ取り早い手段として、万事において、マリアに従う、という方法を選ばれました。それも、ほかの子供たちのように、生涯の初めの八年か、十年か、十五年間だけではありません。じつに、三十年間もです。

そしてイエズスは、このようにただマリアへの服従と隷属に明け暮れた三十年間に、マリアからまったく独立して、もろもろの奇跡をおこないながら、全世界をかけめぐり、福音をのべ伝え、すべての人を回心させることに費したであろう三十年間よりも、はるかに多くの栄光を、神なる御父に与えたのです。もしそうでなかったとしたら、かれはよろこんで後者の行き方を、えらんだにちがいありません。ああ、イエズスのお手本にしたがって、自分自身をマリアに隷属させることは、どれほど大きな栄光を神に与えることでしょう。

これほど鮮やかな、これほど有名なお手本が、眼の前にあるのです。それなのに、まだわたしたちは、イエズスのお手本にしたがって、マリアに自分自身を隷属させることが、神の栄光を最高に発揮するための最も完全な、最も手っ取り早い手段だと信じきれないほど愚かなのでしょうか。



140.わたしたちが、マリアに対して、どれほど隷属的態度をとらなければならないかということの証拠として、前にも述べたとおり、御父と御子と聖霊がそれぞれ、マリアに対してとられる隷属的ご態度のお手本を、もう一度ここで、思いおこす必要があります。御父は、マリアをとおしてでなければ、御子を世に与えなかったし、また与え続けません。マリアをとおしてでなければ、ご自分の子どもたちを造りません。マリアをとおしてでなければ、ご自分の恩寵を流通しません。

神なる御子も、マリアをとおしてでなければ、全人類の救いのために受肉されなかったし、またマリアをとおしてでなければ、今でも毎日、聖霊の交わりの中で、人びとの霊魂の中につくられ、生まれません。マリアをとおしてでなければ、ご自分のクドクも善徳も流通しません。


       受胎告知

聖霊も、マリアをとおしてでなければ、イエズス・キリストを形造らなかったし、またマリアをとおしてでなければ、キリストの神秘体の成員も造りません。マリアをとおしてでなければ、ご自分の賜物も恵みも流通しません。
聖なる三位一体のこうした数々の、顕著なお手本があるにもかかわらず、マリアを無用視したり、また神にいたるため、神に自分をささげるために、まず自分をマリアにささげ、マリアに隷属させることができないほど、わたしたちはメクラなのでしょうか。



141.今さき言ったことを証明するため、わたしが選びだした教父たちのことばを、左にかかげます。
「マリアには、二人の子どもがあります。一人は、人間であって同時に神。もう一人は、タダの人間です。マリアは、前者の肉体的母親であり、後者の霊的母親です」(聖ボナベントラ/オリゲネス)
「わたしたちが、マリアをとおして、救霊に必要なすべてのものを所有することが、神のみこころです。だから、もしわたしたちが何かの希望、何かの恩寵、何か救いに役立つ賜物をもっているとしたら、それはマリアのみ手をとおして、神からいただいたことを忘れてはなりません」(聖ベルナルド)


     聖ベルナルドと聖母


「聖霊のすべての賜物、すべての徳、すべての恩寵は、マリアのみ手によって、マリアが望む人に、望むとき、望むだけ、望む方法で、分配されるのです」(聖ベルナルジノ)「あなたがたは、神の恩寵を受ける資格がありませんでした。だから、それはまず、マリアに与えられたのです。マリアをとおして、あなたがたが必要なだけ、それをいただくのです」(聖ベルナルド)



142.なるほど、聖ベルナルドが言っているとおり、神はわたしたちが直接ご自分の手から、恩寵をいただく資格がない者だということを見て取って、それをマリアに、お与えになります。マリアをとおして、わたしたちに、ご自分が与えたいだけ、お与えになるためです。神はご自分が、お与えになる恩寵のために、わたしたちが神にささげる感謝と尊敬と愛を、マリアのみ手をとおして、お受けになることにおいて、ご自分の栄光を見い出されるのです。

だから、おなじく聖ベルナルドが言っているように、わたしたちが、神のこの行動を、マネることは、まったく正しいことです。なぜなら、神の恩寵は、それが、わたしたちに達するために通過した同じ運河をとおって、再びその与え主にかえっていくからです。

わたしの提唱する信心が、右とまったく同じことをしてくれるのです。
わたしたちは自分自身と、自分がもっているすべてのものを、マリアにささげ尽くします。それは、わたしたちがイエズス・キリストに負っている栄光と感謝を、マリアの仲介をとおして、かれがお受けになるためです。
わたしたちは自分が、自身の力だけでは、限りなきみいずの神に近づく資格もなければ、能力もないことを知っています。だからこそ、マリアの取り次に、たよる必要を痛感するのです。



143.そればかりか、この信心は、大いなる謙虚の徳の実行でもあるのです。神は、ことのほか、この謙虚の徳をお愛しになります。自ら高ぶる人は、神をはずかしめ、自らへりくだる人は、神に栄光をきします。「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みをお授けになります」(ヤコブ4・6)

だから、もしあなたがへりくだるなら、もしあなたが、自分は神のみまえに出る資格のない者だ、神に近づく資格もない者だ、と考えるなら、こんどは神が、ご自分からへりくだり、ご自分からあなたのもとにおいでくださるのです。そしてあなたとともにいることを喜ばれ、どんなに卑しくても、あなたを高めてくださるのです。これに反して、おこがましくも、仲介者なしに神に近づこうとするなら、神は逃げてしまい、どんなに探しても見いだすことはできません。

ああ、神はどんなに心の謙虚を、愛しておいでになるでしょう。この信心を実行しさえすれば、この心の謙虚を身につけることができるのです。なぜなら、この信心は、自分の力だけでは絶対にイエズスに―たとえかれが、どれほど柔和で、慈悲深いかたにしろ近づいてはいけない、ということを教えてくれるからです。そればかりか、神のみまえに出るときも、神に近づくときも、神に何かお話するときも、神に何かおささげするときも、神と一致したいときも、神に自分自身をささげ尽くしたいときも、とにかくいつなんどきでも、マリアの取り次を求めねばならぬ、と教えてくれるからです。



第三節 第三の理由―この完全な自己奉献のすばらしい効果

第①項 マリアは愛のドレイに、ご自分をお与えになる

144.マリアは、甘美な母、慈悲深い母です。マリアは、ご自分の子らに対する愛と大らかさの点では、天上天下、だれにもヒケをとりません。このマリアが、ご自分を尊びご自分に仕えるため、自らをまったくご自分にささげ尽くしている人をごらんになるとき、また、ご自分をかざってくれるため、自分のいちばんだいじなものをいさぎよく脱ぎ捨てている人をごらんになるとき、ご自分のほうからも同様にこの人に、ご自分にすべてをささげ尽くしているこの人に、ご自分のすべてを、しかもすばらしい仕方でお与えになるのです。

マリアはこの人を、ご自分の恩寵の深いふちに沈めてくださるのです。この人を、ご自分のクドクで美々しくかざってくださるのです。

ご自分の権能でささえてくださるのです。
ご自分の光で照らしてくださるのです。
ご自分の愛で燃やしてくださるのです。

この人にご自分の徳を、すなわち、謙虚、信仰、純粋、その他の善徳を、流通してくださるのです。マリアはこの人のために、イエズスに対しては、保証人、補充、すべてとなってくださるのです。
さいごに、この人は自分のすべてを、マリアにささげ尽くし、全くマリアのものとなりきっているのですから、マリアも同様に、全くこの人のものとなりきっておられるのです。マリアの完全なしもべ、マリアの本当の子どもであるこの人こそ、福音記者ヨハネが自身について言っているように、「彼は、彼女をわが家に引きとった」(ヨハネ19・27)といえる人なのです。



145.こうした中で、もしこの人が、マリアに忠実に仕えるならば、その心の中では、自分自身への不信、軽べつ、憎しみの気もちが、油のようにわき出ます。と同時に、自分の良き女王マリアへの大いなる信頼心と、おまかせの精神がめばえてまいります。もはや以前のように、自分自身の心構え、意向、クドク、善徳、善行をたよりにしません。かれは、良き母マリアのみ手をとおして、これらをみな、イエズス・キリストにささげ尽くしたのですから、今では、自分の全財産である、タッタ一つのタカラしかもっていません。しかもこのタカラをかれは、天にたくわえているのです。それはマリアという名のタカラです。

マリアこそ、この人を、オドオドしたドレイの恐れもなく、クヨクヨした小心の迷いもなく、安心して、イエズス・キリストに近づかせてくださるのです。マリアこそ、この人に、大いなる信頼をもって、イエズスに祈らせてくださるのです。マリアこそ、かれを、信心あつく学徳のほまれ高いルペール師の気もちに、さそってくださるのです。同師は、旧約のヤコブが、天使を負かした故事を引き合いにして、マリアに次のように申し上げています。

「ああ、マリア。わたしのプリンセス。神人イエズス・キリストをお産みになった無原罪の母よ、わたしも、この“人”と、すなわち神の“ミコトバ”と一対一で戦いたいものです。わたし自身のクドクではなく、あなたご自身のクドクで武装して・・・」ああ、人がこのように、神の御母マリアのクドクと取り次で武装するとき、かれはイエズス・キリストのみまえで、どれほど精強な、どれほど勇敢な戦士となるのでしょう。
聖アウグスティヌスが言っているとおり、マリアは愛をもって、全能の神に勝ったのです。



第②項 マリアはわたしたちの善行を清め、飾り、御子に受け入れさせてくださる

146.この信心の実行によって、人は自分のすべての善行を、マリアのみ手をとおして、イエズス・キリストにささげるのですから、マリアは事前にそれを清め、飾り、御子イエズスに受け入れさせてくださるのです。

①わたしたちのいちばんりっぱな善行の中にさえも、しらずしらずのうちに、自愛心と、被造物への愛着心が忍び込み、そのために、せっかくの善行が台なしになったり、けがれ果てたりします。マリアは、これらすべてのけがれから、善行を清めてくださいます。
マリアのみ手は、まったく清らかで、そのうえ豊かです。マリアのみ手は、けっして何もせずにいるのでもなければ、また何も作りだせないものでもありません。マリアのみ手は、それにふれるものをみな清め尽くします。だから、こうしたマリアのみ手に、ひとたび贈り物がのせられますと、マリアはすでにこの贈り物から、すべてのけがれや不完全さを取り除いてくださるのです。



147.②次にマリアは、わたしたちの善行という名の、キリストへの贈り物を、ご自分のクドクと善徳で美化し、かざってくださいます。ここに一人のお百姓さんがいて、王様の友情と厚意を取りつけるため、自分の全財産である一個のリンゴを、王様に献上してくださるようにと、皇后様のところにもっていったとします。皇后様はそれをどうするのでしょうか。すぐに、お百姓さんのおそまつな贈り物を、大きな美しい黄金の皿にのせ、誰々某というお百姓さんからの贈り物でございます、といって王様にさしあげるでしょう。
ところで、リンゴは、それ自身だけでしたら、けっして王様に献上されるほどねうちのあるものではありません。しかし、それをのせている黄金の皿と、それを王様にささげる皇后様の威厳のおかげで、王様にふさわしい献上物となるのです。



148.③マリアは、ご自分に委託されるわたしたちの善行をみな、イエズス・キリストにささげてくださいます。終局の目的として、イエズスにささげられるものを、マリアは、絶対にご自分のものとして取っておかれません。マリアは、すべての善行を、正直にイエズスにささげてくださるのです。マリアに何かささげると、それは必然的に、自動的にイエズスにささげられるのです。マリアをほめたたえ、マリアの光栄を現わす者は、同時にイエズスをほめたたえ、同時にイエズスの栄光を現わす者です。そのむかし、エリザベトからほめたたえられたときそうなさったように、今もいつもマリアは、人からほめたたえられ、祝福されるときには必ず、神をたたえてお歌いになるのです。
「わがたましいは“主”をあがめ、わが霊は、わが救い主なる“神”を喜びたたえます」(ルカ1・47)



149.④マリアは、わたしたちの善行―たとえそれが、聖の聖なる者、王の王なる者にとって、どれほどささいな、どれほどそまつなおくりものであっても―を、イエズスに受け入れさせてくださいます。わたしたちが何かイエズスに、おくりものをするとき、それをただ、自分自身の努力や、善意だけにたよってするとき、イエズスはこのおくりものを、綿密におしらべになります。そしてしばしば、それがわたしたちの自愛心で汚染されているのをごらんになって、お受けになりません。ちょうどその昔、我意に満ちたユダヤ人の供え物やイケニエを、拒否されたように。

しかし、何かイエズスに、その最愛の御母マリアの清らかなみ手をとおして、おくりものをしますと、こんな言い方はおそれ多いことですが、イエズスは、いわばベンケイの泣きどころを突かれたようなものです。イエズスは、だれが、何を、ご自分にプレゼントしたかは詮索されません。このプレゼントを、ご自分にお渡しになる御母マリアのみ手しか、ごらんにならないのです。

そんなわけで、御子イエズスから一度も拒否されたことがなく、そのつどいつも嘉納されておいでになる御母マリアは、大小を問わず、どんなおくりものでも、イエズスにお手渡しになるものは、イエズスが喜んで受け納めてくださるように取りはからってくださるのです。わたしたちのささげものが、イエズスに喜んで受け納めていただくためには、それがマリアのみ手をとおりさえすれば十分なのです。これこそ、聖ベルナルドが、完徳への道に指導していた人びとに与えた、偉大な教訓なのです。
「あなたがたが何か、神にささげものをするときには、それをマリアのみ手をとおして、神にささげるように、くれぐれも注意しなさい。もしもみなさんが、神からそれを拒否されたくなければ・・・」(「主の降誕の説教」18)



150.人間の世界でも、つまらない人が、エライ人に何かたのむとき、必ずそうしているではありませんか。どうして恩寵の世界でも、々ことをしてはいけないのでしょうか。神はわたしたちよりも無限に偉大なかたです。神のみ前ではわたしたちは、一個の原子よりもはるかに小さな者です。いわんやわたしたちには、神はいちども拒否されたこともない、マリアという有力な弁護者がついておられるのではありませんか。

神のみ心にかなうためのあらゆる秘けつをごぞんじになるマリア、どんなつまらない者でも、どんな悪い者でも、絶対にお見捨てにならない、このうえなく慈悲深い御母マリアが、ついておられるのではありませんか。

わたしが今述べている真理の予型を、これからお話する旧約聖書の、ヤコブとレベッカの物語の中にごらんになって頂きたいのです。


   ヤコブとレベッカ

(第八巻につづく)
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「聖母マリアへのまことの信心」 第八巻

2022-12-02 14:50:39 | 日記
第四節 第四の理由―この信心は、神に最大の栄光を与えるための最もすぐれた手段

151.この信心の忠実な実行は、わたしたちのすべての善行の価値を、神の最大の光栄のために使用するための、いともすぐれた手段なのです。キリスト信者のほとんどだれもが、その義務を負わされているにもかかわらず、この高尚な目的にしたがって行動しないのは、どういうわけなのでしょうか。神の最大の栄光が、どこにあるかを知らないためか、それとも神の最大の栄光の発現を望まないためか、そのどちらかでしょう。

わたしたちはマリアに、自分の善行の価値のクドクもみな、ささげ尽くしてしまいました。このマリアこそ、神の最大の栄光がどこにあるかを完全にごぞんじなのです。また、マリアは、神の最大の栄光のためにでなければ、何ひとつなさいません。だから、マリアに、すべてをささげ尽くした忠実なしもべは、マリアへの自己奉献を公式に取り消さないかぎり、自分のすべての行い、考え、ことばの価値が、神の最大の栄光のために使われているのだ、とあえて断言することができるのです。このことは、神を純すいな、無私無欲な愛で愛している霊魂にとって、また神の栄光と利益を、自分自身のそれよりも優先している霊魂にとって、どれほどなぐさめになる真理なのでしょう。




第五節 第五の理由―この信心は、神との一致に通じる道


152.この信心はわたしたちをイエズス・キリストとの一致にみちびく平坦で最短、完全で確実な道なのです。

第①項 この信心は、平坦な道

それは、イエズス・キリストが、わたしたちのもとにおいでになるため、ご自身がたどられた道です。同時に、わたしたちが、イエズス・キリストのみもとにいたるために、なんの障害もない道なのです。
たしかに、ほかの道をたどっても、神との一致には到達できるでしょう。しかし、そんな道には途中、たくさんの十字架や、越えがたい峠や、多くの困難があるので、それを通り越すのはなかなか大変です。
くらい夜道も通らねばならず、外敵との激しい戦い、内面の心痛、けわしい山、イバラやトゲ、おそろしい沙漠もひかえています。しかし、マリアという名の道ですと、きわめて快適な、きわめて平穏な旅ができるのです。

実際に言って、そこにはなすべき大きな戦いもあり、うち勝たねばならぬ困難もあります。しかし、良き母、良き女王、マリアは、ご自分のしもべのごく近くにいてくださいます。かれが、やみ路をたどっているときには、照らしてくださいます。疑惑の雲にとざされているときに啓発してくださいます。恐れおののいているときには強めてくださいます。戦いのとき、困難のときには勇気をささえてくださいます。
真実にいって、この道こそは、イエズス・キリストを見いだすための道です。ほかの道にくらべたら、バラの道、蜜のしたたる道です。

ごく少数ながらも、この道をたどった聖人がいます。聖エフレム、聖ヨハネ・ダマスコ、聖ベルナルド、聖ベルナルジノ、聖ボナベントラ、聖フランシコ・サレジオ、その他です。

          聖フランシコ・サレジオ司教


聖フランシコ・サレジオかれらはみな、この甘美な道を通って、めでたくイエズス・キリストにたどり着きました。マリアの忠信な夫であられる聖霊が、特別のお恵みで、この道をかれらに指示してくださったからです。
しかし、数においてもっと多いほかの聖人も、なるほどマリアの信心はみんながもってはいましたが、それでもこの道をたどろうとはしなかったのです。だからこそ、もっと苛烈な、もっと危険な試練に見舞われねばならなかったのです。



153.マリアの忠実なしもべであっても、だれかが次のようなグチをこぼすかも知れません。聖母の忠実なしもべにかぎって、いろいろな苦しみにさいなまれている、しかも聖母にさほど信心をしない人たちよりも、もっともっと苦しみの機会に出くわしている。これはいったい、どういうことなのか。聖母の忠実なしもべほど、人からさんざん反対され、迫害され、悪口雑言を言われ、これでもか、これでもかと、いやがらせをされている。そのうえ、かれらは精神的にも、くらい夜道をたどり、荒涼たる砂漠をとおっている。そこには、天からのなぐさめの露一滴すらもない。もしマリアへのこの信心が、イエズス・キリストを見いだすための最も平坦な道だったとしたら、どうしてマリアの忠実なしもべが、これほどまで苦しまねばならないのか。



154.答えて言いましょう。―マリアの最も忠実なしもべは、マリアのお気に入りですから、とうぜんマリアから、いちばんりっぱなごほうびをいただかねばなりません。それは“十字架”という名のごほうびです。しかし、マリアの忠実なしもべにかぎって、自分たちの十字架を、やすやすと、しかも永遠のクドクとなり、栄光となるような仕方で、になっていることは事実です。ほかの人が、こんな十字架をになったら、きっと千たびも万たびもたおれ、あげくの果ては、神への巡礼をなげうったかもしれません。だが、さすがはマリアの忠実なしもべです。いちどだって、十字架のために、神への前進をはばまれたこともなければ、またそれを投げうつもしないのです。

神のお恵みに満ち、聖霊の油そそぎにみなぎる御母マリアが、ちゃんとそばにいらしてかれらの十字架に、ご自分の限りない母性愛と純すい愛の砂糖をまぜて、それをおいしいお菓子にしてくださるからです。中味はたいへんにがいのですが、口には甘い砂糖菓子のようなものが十字架なのです。

マリアの忠実なしもべとなり、「イエズス・キリストにあって信心深く生きようとする人は皆迫害を受け」(Ⅱテモテ3・12)ながら、くる日もくる日も、自分の十字架をにないたい、と考えている人は、マリアへの特別の信心がなければ、とうてい、大きな重い十字架を終りまでになうことができなければ、よろこんでになうこともできますまい。マリアだけが、十字架とう銘菓の製造人だからです。砂糖漬けにしていないナマのクルミを、根気よく食べ続ける勇気のある人がいないのと同様です。



第②項 この信心は、最短の道


155.マリアへのこの信心は、イエズス・キリストを見いだすための、最短の道です。この道をとおりさえすれば、迷う心配がないからです。また、今さき申しましたとおり、この道は、喜び勇んで、やすやすと、したがって早いテンポで歩けるからです。

ごく短い期間でも、マリアに服従し、マリアに隷属してさえいれば、長い期間、自分勝手に、自分の能力にだけたよって信心するよりも、いっそう早く目的地に近づくことができます。マリアに従っている人、マリアに隷属している人は、あらゆる敵にうち勝ち、がい歌を奏するからです。じじつ、敵どもが途中で、マリアの忠実なしもべの前面に立ちふさがり、その前進をはばみ、かれを後退させ、転倒させるため、いろんな工作をめぐらします。しかし、かれはマリアの支え、助け、先導のもとに、転倒もせず、後退もせず、おくれもせず、イエズス・キリストめざして、ゆうゆうと巨人の歩調で前進するのです。かれが今たどっているマリアという名の道―それはかって、イエズス・キリストが、わたしたちのもとにおいでになるため、まっさきに巨人の歩調をもって、短日月にたどり終えられた、おなじ道なのです。



156.なぜ、イエズス・キリストのご一生は、あれほど短命だったのでしょうか。また、なぜ、イエズスはあれほど短命だったご一生のほとんどを、マリアへの隷属と服従のうちにお過しになったのでしょうか。ああ、これこそは二律背反のミステリー。だが、イエズスは「短い期間に完全なものとなったからこそ、実は長く生きたのです」(知恵の書4・13)。イエズスは、その罪をつぐなってあげたアダムよりも、九百年以上も生ながらえたアダムよりも、もっと長く生きたのです。イエズスがそれほど長く生きたのは、神なる御父に従うために、御母マリアに完全に隷属し、御母マリアと完全に一致して生きたからです。なぜマリアへの隷属の生涯が、これほど充実した内容をもつのでしょうか。理由は、左のとおりです。

①「母親を尊ぶ人は、タカラものを積む人と同じである」(集会3・4)と、聖霊が言っておられます。つまり、御母マリアを尊ぶあまり、彼女に隷属し、万事において彼女に服従する人は、やがて霊的に大いに富める者となり、毎日、タカラものを積み重ねていくのです。

②右のことばは、霊性生活において、こうも解釈できます。「わたしの老成は、母胎のいつくしみのさ中にある」(詩篇91・16)。すなわち、マリアのご胎のさ中にある、というのです。マリアのご胎こそ、「全く人間を生んだ」(エレミヤ31・22)のであり、また、「広大無辺の全宇宙でさえもが包容できないおかたを、自分のうちに宿す能力をもっているのです」(聖母の土曜日の典礼)。

信心生活においてまだ若い人も、マリアのご胎において、いつくしみはぐくまれていくうち、やがて天からの光と聖性、経験と知恵の面で大成し、「完全におとなとなって、キリストの満ちみちた背たけにまで達するのです」(エペソ4・13)。



第③項 この信心は、完全な道

157.このマリアへの信心の実行は、イエズス・キリストにいたるため、また、かれと一致するための、完全な道です。マリアが、被造物の中でいちばん完全なかた、いちばん聖なるかただからです。またわたしたちのもとにつつがなくおいでになったイエズス・キリストが、御父のふところから地上世界への大旅行のさい、お取りになったルートは、これ以外にないからです。

いと高き者、人間の理解を無限に超える者、だれも近づくことのできない者、有りて有る者―この永遠無限の神が、地上の小さなウジ虫にすぎない、いや、無にすぎないわたしたち人間のもとに、なんとかしてたどりつきたいものだ、とお考えになりました。神はどのようにして、このお望みをとげられたのでしょうか。
いと高き者は、マリアという謙虚な女性をとおって、わたしたちのもとに、完全な、神聖なお姿で着地されました。―ご自分の神性からも聖性からも、何ひとつ失わないで。だから、マリアをとおってこそ、ごくつまらないわたしも安心して、完全な、神聖な姿で、いと高き者に向ってのぼっていかねばならないのです。

人間の理解を無限に超える者は、小さきマリアをとおしてこそ、わたしたちにも理解され、またその無辺性を少しも失わないで、完全にマリアに規制されるままになられました。だから、小さきマリアからこそ、わたしたちも完全に規制され、みちびかれねばならないのです。

だれも近づくことのできない者は、ご自分のみいずを少しも失うことなく、マリアをとおして、わたしたちの人間性に近づき、これと密接に、完全に、しかもパーソナルに、一致されました。だから、マリアをとおしてこそ、わたしたちも神に近づき、安心して、完全に、密接に、神と一致せねばならないのです。

さいごに、有りて有る者は、無くて無い者のところにおいでになって、無くて無い者を有りて有る者に、すなわち神にしようとお望みになりました。有りて有る者は、ご自分を、おとめマリアに与えることにより、ご自分をまったく彼女に隷属させることによってこの世紀の大偉業を、めでたく完成されたのです。―永遠の昔からそうだったように、時間と空間の規制を受けてからも依然として、有りて有る者であることを失わないで。

だから、マリアをとおしてこそ、わたしたちも、たとえ自分が無くて無い者ではあっても、マリアにあってすべてをもっているのだから、恩寵と栄光とによって、まちがいなく、神に似た者となることができるのです。


158.イエズス・キリストにいたるため、だれかがわたしに、もうひとつ新しい道を作ってくれたと仮定します。さらにこの道は、聖人たちのあらゆるクドクで舗装され、かれらのあらゆる英雄的善徳でかざられ、天使たちのあらゆる光と美で照明され、色どられています。さらにまた、すべての天使、すべての聖人が、道の両側に人がきを造り、そこを通る人々を案内し、敵からまもり、勇気をささえてくれる―そういった新しい道が、ここにあるとします。

       聖人に囲まれる聖母マリア


しかし、わたしだったら絶対に、この道は通りません。なるほど、この道はそれなりに、完全な道ではあるでしょう。だが、わたしが選ぶのは、この道ではなくて、マリアという名の“けがれなき道”(詩篇18・30)です。一点のシミもなく、よごれもなく、原罪もなく自罪もなく、影もなくヤミもない“マリア”という道です。

イエズスが、その栄光を帯びて、世をさばくため、再び地上においでになるとき(そしてそれは確かな事実だが)かれは旅路として、マリア以外のいかなるルートもお選びにならないでしょう。マリアというルートをとおってこそ、イエズスは最初の地上来臨のとき、最も確実に、この世においでになったからです。最初の地上来臨と最後の来臨との間にはムードの面でむろん相違があるでしょう。最初の地上来臨は、人目にかくれて、ひそかに行われました。最後の地上来臨(キリストの再臨)は、栄光に満ち、人目にもサン然たるものでしょう。

だが、キリストの地上来臨は両方共、完全なものです。両方共、マリアをとおして、行われるからです。これこそは、人間の理解を超える神秘なのです。ここにおいてか、すべての舌は黙すべし。



第④項 この信心は、確実な道


159.マリアへのこの信心は、イエズス・キリストにいたるための確実な道です。また、わたしたちに、自分をイエズス・キリストに一致させ、完徳を獲得させてくれるための、確実な道でもあります。

①わたしが今述べているこの信心は、けっして新発売ではないからです。しばらく前、聖徳のかおりのうちになくなったブードン師が、この信心について書き残した本の中で言っているように、この信心の起源が、いつごろにさかのぼるかが正確にわからないほど、この信心は古いのです。それでも、七百年以上の伝統をもっていることは明白です。当時すでに教会の中で、この信心が行われていたという形跡があるからです。
1040年ごろの人である、クリュニ大修道院長・聖オディロンは、この信心をフランスで公に実行した者のひとりであることが、その伝記に見えています。

ぺトロ・ダミヤノ枢機卿の記録によれば、その兄弟福者マリノが1076年、かれらの聴罪師の面前で、たいへん感動的な仕方で、自分をマリアのドレイとして奉献しています。かれは自分の首にくさりをつけ、身をムチ打ち、祭壇の上に金一封を置いて、マリアへの自己奉献と忠誠のしるしとします。一生涯、忠実にマリアに仕えたので、臨終のときにはマリアのご訪問となぐさめのおことばを頂き、永遠の奉仕の報いとして必ず天国に行くという保証を、マリアのお口から賜ったのです。

チェザリウス・ボランドスの記録によりますた、ルーバン侯の近親にあたる有名な騎士ボーチェ・ド・ビルバックが、1300年ごろ、マリアに自己奉献をしています。
この信心は、十七世紀までは、個人的信心業として、若干の人たちに実行されてきましたが、それ以後は、公の信心業として、あまねく普及していったのです。



160.「捕虜のあがない」修道会という別名のある、三位一体修道会のシモン・ド・ロイアス師は、フィリップ三世専属の説教師でしたが、この信心を、全イスパニヤおよびドイツに広めました。そしてフィリップ三世の切なる願いにより、この信心を実行している人たちのために、教皇グレゴリオ十五世から、大きな免償を得ました。

聖アウグスチノ修道会のト・ロス・リオス師は、親友のロイヤス師と協力して、ことばでも書き物でも、この信心をイスパニヤ及びドイツに広めるために尽力しました。かれは「ヒエラルキヤ・マリヤーナ」という部厚い本を書きましたが、その中には、この信心の古い起源、優秀さ、堅実さが、信心深く学問的に述べられています。
前世紀ごろ、テアチノ修道会の神父たちが、イタリア、シチリヤ、サボアなどに、この信心を根強く普及させました。

        聖アウグスチノ修道院



161.イエズス会のスタニスラス・ファラチウス神父は、この信心をみごとに、ポーランドに広めました。
ド・ロス・リオス神父は、前掲の本の中で、この信心を実行した諸国の王、王妃、司教、枢機卿の名前を列挙しています。

その敬けんと深遠な学識でコルネリウス・ア・ラピデ神父は、多くの司教、神学者から、この信心への検討を依頼されました。くわしく調べた結果、かれはこの信心に、最大限の賞賛を与えました。それでほかの偉い人たちも、この神父に共鳴して、マリアの信心家となりました。

いつもマリアへの信心に熱烈なイエズス会の神父たちは、ケルンの信心会連合の名で、当時ケルン大司教であったババリヤ公フェルディナンドに、この信心の小さな説明書を贈呈しました。大司教はすぐにそれを是認し、出版許可を与え、自教区のすべての司祭、すべての修道者に、この信心の推進を勧誘しました。



162.フランス全国にまだ記憶めでたきド・ベリュル枢機卿は、この信心をフランス国内に広めるため、モーレツに活動した人びとの一人ですが、そのため批評家や不逞の徒輩から大へん迫害され、悪口ぞうごんをあびせられたものです。枢機卿は、新しがり屋、迷信家だ、と非難されます。敵どもは枢機卿に反対するため、一冊の不穏文書を出版し、枢機卿がフランス国内にこの信心を普及させることを妨害するため、あらゆる卑劣な手段を駆使します。

しかし、この偉大な、聖なる人物は、かたく口をとざして、敵どもの非難には何も答えません。ただ自分も敵どもの反論を粉砕するため、一書をあらわし、その中で、かれらの誤りをつぎつぎと論破し、さらに積極的に議論を展開して次のように述べています。

すなわち、この信心は、イエズス・キリストのお手本に基づいていること、また、わたしたちがキリストに負っている義務に、わたしたちが洗礼のとき神にした約束に、それぞれ基づいている、といっているのです。
とりわけ、この最後の理由のためにこそ、枢機卿はかたく口をとざして敵どもに、マリアへの自己奉献が、またマリアのみ手をとおしてのイエズス・キリストへの自己奉献が洗礼のちかい、洗礼の約束の完全な更新にほかならない、ということを、見せつけたのです。



163.前に述べたブードンの本の中には、この信心を認可して諸教皇の名、この信心を詳細に検討した神学者たちの名、およびこの信心が受け、それにうち勝った迫害、この信心をおこなったいろいろな人物の名が列記されています。この信心を断罪した教皇は、一人もいません。そんなことでもしたら、キリスト教の根底をゆさぶることになる、と考えたからでしょう。

そんなわけで、この信心がけっして新奇なもの、新発売でないことが、以上の説明で、おわかりになったと思います。では、この信心は、なぜ大衆化されないのでしょうか。それは、すべての人に賞味され実行されるには、この信心があまりに貴重、あまりに高次元だからです。



164.②この信心は、イエズス・キリストにいたるための確実な手段です。なぜなら、マリアの特長は、わたしたちを確実に、イエズス・キリストにみちびくことだからです。ちょうどイエズス・キリストの特長が、わたしたちを確実に、永遠の御父にみちびくことであるように。霊性生活をいとなんでいる人は、神との一致に達するために、マリアが障害となっているとは、だれも信じていません。

考えてもごらんなさい。すべての人のために、また一人びとりのために、神のみまえに恵みを得たマリアが、ある人にとって、神との一致の大きな恵みを見いだすためのじゃま者となっているということは、とうていあり得ないことです。神の恵みに満ちあふれているマリアが、そのご胎に神が受肉されたほど密接に神と一致し、それほど神に変容し尽くされたマリアが、ある人にとって神とお完全な一致へ妨げとなっているとは、とうてい考えられないことです。

たしかに、それがどんなに神聖なものであっても、ある被造物をつらつらうち眺めると、それがために神との一致を、ある期間、おくらせることもたぶんありえるでしょう。
だが、前にも申しましたとおり、マリアにかんしてだけは、そんなことは絶対にございません。

では、なぜ、聖性において、イエズス・キリストに背たけにまで達する人が、そんなに少ないのでしょうか。それは、イエズス・キリストの御母マリアが、聖霊の妻マリアがかれらの心に、まだまだ十分に形造られていないからです。

よく熟した果物を得たいのなら、まずそれを生じる木を手に入れねばなりません。生命の実なるイエズス・キリストを得たいのなら、まず生命の木なるマリアを手に入れねばなりません。自分のうちに聖霊の働きが欲しい人は、まず自分のうちに、聖霊の忠実な妻、聖霊と不解消のキズナで結ばれているその妻マリアを、内住させねばなりません。マリアがあって初めて聖霊は、霊魂の中で、みのりある働きをすることができるのです。このことは、すでに述べたとおりです。



165.だから、黙想のあいだ、念祷のあいだ、仕事のあいだ、苦しみ悩みのとき、マリアをながめればながめるほど、それだけ完全にイエズス・キリストを見いだすのです。マリアをながめるといっても、お顔に穴のあくほどながめなくてもいいのです。ただグローバルに、それとなく、意識の深層でながめたらいいのです。なぜ、マリアをながめればながめるほど、それだけ完全にイエズス・キリストを見いだすのでしょうか。
イエズス・キリストはいつも、マリアとともにいらっしゃるからです。マリアとともにいらっしゃるときこそ、イエズスは天国におられるときよりも、また宇宙の他のいかなる被造物の中におられるときよりも、もっと偉大だからです。もっと力づよく、もっと行動的、もっとかくれておいでになるからです。



そんなわけで、神にまったく浸透し尽くされているマリアが、完全な人たちにとって、神との一致にいたるための障害となっているどころか、マリアほど、神との一致というこの大事業において、わたしたちを効果的に助ける者は、今まで一人もいなかったし、これからだって一人もいないでしょう。
マリアは、ご自分の恩寵を、あなたに流通されることによって、この世紀の大偉業をなしとげて下さるのです。

ある聖人(聖ジェルマノ司教)が言っていますように、マリアによらなければ、わたしたちの頭には、神についての考えすら浮かんでこないのです。
さらにマリアは、完徳の修業に、えてしてありがちな、悪魔からの迷いとウソから、あなたがたをまもってくださるのです。

   聖ジェルマノ司教




166.マリアがいらっしゃる処―そこには絶対、悪霊がいません。ある人が、熱心にマリアに信心し、しばしばマリアのことを考え、しばしばマリアについて話していれば、それは、この人が、聖霊にみちびかれているとの、いちばんたしかなしるしなのです。聖ジェルマノが言っているとおり、からだが死んでいないとのたしかなしるしが、呼吸であるように、霊魂が罪によって死んでいないとのたしかなしるしは、マリアのことをしばしば考え、愛情こめてマリアのみ名を呼ばわることなのです。



167.教会と聖霊が、共同で声明しているように、「マリアは、ご自分がタッタひとりで、全世界のすべての異端を粉砕されました」(聖母マリアの典礼)。敵どもが、どんなに言おうと、マリアの忠実な信心家は絶対に、異端や邪説におちこむことはありません。なるほど外面上、無意識的に、ウソを真理と取りちがえたり、悪霊のささやきを聖霊のそれとごっちゃにして迷うことはありえるでしょう。

      聖霊の教会


しかし、かれはおそかれ早かれ、自分のあやまちと表面的な、無意識的な過誤に気づくでしょう。それに気づいたら最後、以前にマコトだと信じ込んでいたウソを、絶対に信じもしなければ固守もしません。



168.だから、祈りの人にありがちな、迷いにおち入る心配もなく、完徳の道に前進したい、確実に完全にイエズス・キリストを見いだしたい、と望んでいる人はだれでも、たとえ自分にはまだそれがよくわかっていなくても、「大きな広い心をもって」(Ⅱマカベ1・3)マリアに対するこの信心を実行してもらいたいものです。イエズス・キリストへのこの最もすぐれた道を、たどってもらいたいものです。―わたしが現に「あなたに示している、このすべてにまさる道」(Ⅰコリント12・31)を。

この道を開発し、まっさきにたどられたかたは、人となられた永遠の知恵、全人類の唯一のかしら、イエズス・キリストなのですから、その神秘体の成員がとおっても、絶対に迷うことはないはずです。この道は、平坦な道です。

恩寵に満ちあふれ、聖霊の油そそぎで舗装されているからです。この道さえたどれば、疲れることもなく、後退することもありません。

この道は最短です。わずかの時間で、イエズス・キリストのみもとに達することができるからです。この道は、完全です。

そこにはチリもドロもなく、罪のけがれのひとかけらすらないからです。
さいごに、この道は、確実です。安全です。この道は、わたしたちを、イエズス・キリストのみもとに、また永遠の生命に、まっすぐに確実に、右にも左にもそれないで、みちびいてくれるからです。

だから、この道からスタートしましょう。
昼も夜も、この道を歩き続けましょう。―イエズス・キリストの背たけに達するまで。




(第九巻につづく)

(注)

免償とは「赦された罪に対する現世での罰が神から許されること。正しい心がまえと定められた条件を満たすキリスト信者はこの許しを教会の取り次ぎによって得る。教会は救いの奉仕者として、キリストと聖人たちが得た償いの宝庫から権威をもって分配し適用する」ことである。

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「聖母マリアへのまことの信心」 第九巻

2022-12-02 14:49:38 | 日記
第六節 第六の理由―この信心は大いなる内面的自由を与える

169.この信心をまじめに実行する人は、大いなる内面的自由、すなわち「神の子どもたちの栄光の自由」(ローマ8・21)をいただきます。なぜなら、この信心によって、イエズス・キリストに愛のドレイとして、自分自身をまったくささげ尽くすのですから、イエズス・キリストも、ご自分の愛のドレイに、次のようなむくいをくださるのです。

①その人のたましいから、かれをとりこにし、偏狭にし、混乱さす、オドオドしたドレイ的恐怖や、小心を取り除いてくださいます。
②神は自分の父親だと信じ込ませる、神への信頼をますますふやしてくださいます。
③神への孝情に満ちた愛を霊感させてくださいます。



170.いろんな理由をあげて、この真理を照明することもいいことだが、わたしは次に一つのエピソードをかかげましょう。それはわたしが、オーベルニュのランジャックにある女子ドミニコ会修道院の「イエズスのアグネス修道女」の伝記の中で読んだものです。この修道女は1634年、聖徳のかおりの中で、同地でなくなりましたが、まだ七つにもならないのに、信心の過熱のため、ひどいノイローゼにかかりました。

そうした中で、ある声を聞いたのです。「もしおまえがノイローゼから救われたいのなら、また信心の敵どもから保護してもらいたいなら、さっそく、イエズスさまのドレイに、マリアさまのドレイになりなさい。」

彼女は家に飛んで帰り、イエズスとその御母マリアに、自分自身をまったくささげます。この信心がどんなものかは、まだ知っていないのです。しかし、鉄のくさりを見つけて、それを腰にはめ、死ぬまで取らなかったのです。マリアへのこうした自己奉献のあと、さしもの精神的な闇もオドオドした小心もスッカリなくなり、心には大きな歓びと安らぎがもどりました。彼女がこの信心を広めようと決心したのは、こんなことがあったからです。

彼女の指導で、この信心に長足の進歩をとげた人びとの中に、サンスルピス大神学校の創立者オリエ師(神父=訳者)がいます。その他、同神学校の司祭、教授たちも大勢います。・・・ある日、マリアさまが彼女に現われ、彼女の首に黄金のくさりをかけながら、あなたが自分を愛のドレイとして、御子イエズスとわたしにささげ尽くしたのは大変うれしい、と仰せになって、心からその歓びをおあらわしになりました。また、マリアのおともをしていた聖女チェチリヤも、彼女にこう言います。「天の元后の忠実なドレイは、さいわいです。かれらは本当の自由を楽しむからです。“マリアよ、あなたに仕えることは、わたしたち人間にとっては解放です。まことの自由の享受です。”」




第七節 第七の理由―この信心は、隣人に大きな善をもたらす

171.この信心を推薦するもう一つの理由は、この信心の実行が、隣人に大きな善をもたらす、ということです。事実、この信心によって、わたしたちは最もすぐれた方法で、隣人愛を実行することができるのです。すなわち、わたしたちはマリアのみ手をとおして、自分のもっている最も貴重なもの―つまり、わたしたちのすべての善行のつぐない価値と祈求価値を、隣人にほどこすのです。どんなに小さな良い考え、どんなにわずかな苦しみでも、例外ではありません。わたしたちがすでに獲得している、また死ぬ日まで獲得できる、すべてのつぐないのクドクは、マリアのお望みのままに、あるいは罪びとの回心のため、あるいは煉獄の霊魂のすくいのために、使われるのです。

これこそ、隣人を完全に愛することではないでしょうか。これこそは、キリストの本当の弟子であることを実証するしるしではないのでしょうか。「もしあなたがたの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることをすべての人が認めるのです」(ヨハネ13・35)と、イエズスが仰せになったからです。

これこそはまた、虚栄心の心配もなしに、罪びとを回心させる手段ではないでしょうか。これこそは、自分の身分上の義務を果す以外に、ほとんど何もしないで、りっぱに煉獄の霊魂をすくう手段ではないでしょうか。



172.この第七の理由が、いかにすぐれているかを理解するためには、罪びとを回心させ、煉獄の霊魂をすくうことが、いかにすぐれた善であるかを理解する必要があります。罪びとを回心させ、煉獄の霊魂をすくうことは、無限の善です。天地を創造するよりも偉大な善です。なぜなら、それは霊魂に“神”を与えるからです。

この信心の実行によって、ある人が一生かかって、タッタ一人の罪びとしか回心させず、タッタ一人の煉獄の霊魂しかすくわなかったとしても、タダこの一事だけでも、すべて隣人愛にもえる人にとっては、この信心の信奉家になるための、十分な理由とはならないでしょうか。だが、ここに注目すべきことがあります。それは、わたしたちの善行は、マリアのみ手をとおして、ほかの人に与えられるとき、ますます清さを増すということ、従ってますますクドクも増し、つぐない価値、祈求価値も増すということです。だから、それはマリアのみ手をとおさないで与えられるときにくらべて、煉獄の霊魂をすくい、罪びとを回心させる上において、はるかに大きなキキメがあるのです。

自分自身の望みを捨て、まったく没我的な愛徳から、ひとに与えるわずかな善行でも、神の怒りをなだめ、神のあわれみをよびくだすには、十分ちからがあるのです。この信心の実行にたいへん忠実だった人が、こうした手段によって、煉獄の霊魂を何人もすくい、罪びとを何人も回心させた―しかも、ごく平凡な身分上の義務しか果さなかったのに、そういう偉大なことをした、ということを臨終のときさとるでしょう。それはかれにとって、神のさばきのとき、どれほど大きな歓びとなるでしょう。それはまたかれにとって、永遠にわたって、どれほど大きな栄光となるでしょう。



第八節  第八の理由―この信心は、堅忍への感ずべき手段

173.さいごに、わたしがマリアへのこの信心を特に強くすすめる理由は、この信心が徳のうちに堅忍し、神への忠誠をつらぬくための、感ずべき手段だからです。どんなわけで、罪びとの回心が、多くの場合、長続きしないのでしょうか。どんなわけで、そんなにたやすく、再び罪におちいるのでしょうか。どんなわけで、多くの正しい人が、徳から徳へと前進するかわりに、また新しい恩寵を受けるかわりに、せっかく自分がもっているわずかな徳、わずかな恩寵までも失うことがしばしばあるのでしょうか。
こうした不幸は、先に述べたとおり(本書87~89)、人が、それほど腐敗し、それほど弱く、それほど変わりやすい人間性のもち主であるにもかかわらず、それを無視して、ただ自分自身にだけたよるからです。ただ自分自身の力だけをあてにし、自分がもっている恩寵、徳、クドクの宝を、自分の力だけでまもれる、と信じ込んでいるからです。

この信心を実行する人は、自分のもっているすべてのものを、忠信なおとめマリアに委託します。自分がもっている自然界・恩寵界のすべての善をマリアに一任し、マリアをその保管者とあおぎます。マリアの忠信をこそ、たよりにしているのですマリアの力づよさにこそ、信頼しているのです。マリアのあわれみといつくしみにこそ、すがっているのです。悪魔と世間と肉が結束して、わたしたちからそれを奪おうと、どんなに努力しても、マリアは、ご自分に委託されたわたしたちの徳とクドクを無キズに保管し、ふやしてすらくださるのです。

ちょうど、よい子供が母親に、忠実なしもべが女主人にそう言うように、わたしたちもマリアに、「ゆだねられたものを守ってください」(Ⅰテモテ6・20)と申し上げることができるのです。
ああ、マリア。わたしの母、わたしの女王よ。わたしは今まで、その資格もないのに、あなたのお取り次ぎによって、神さまから、身にあまる恩寵をいただきました。ところがわたしのにがい経験によって、わたしはこの宝を、たいへんもろい土器の中に、たずさえていることがよく分かります。わたしは自分で、この宝を安全に保管していくには、あまりに弱い者、あまりにみじめな者だということを痛感しています。
「わたしはつまらない者で、さげすまれています」(詩篇119・141)

どうか、わたしがもっている、すべての宝の保管者となってください。どうかそれを、あなたの忠実さ、力づよさによって、無キズに保管してください。あなたが守ってくださるなら、わたしは何も失いません。わたしをささえてくださるなら、絶対にたおれません。保護してくださるなら、どんな敵の攻撃に対しても安全です。(Mis17)



174.こうした信心をすすめて、聖ベルナルドがすでに明言しているとおりです。「マリアにささえて頂きさえすれば、絶対にたおれません。マリアにまもって頂きさえすれば、絶対に何もこわがる必要はありません。マリアにみちびいて頂きさえすれば、絶対に疲れません。

マリアに可愛いがって頂きさえすれば、安全に救いの港にたどり着くことができるのです」(in Spec.BMV.)
聖ボナベントラも、おなじことを、もっとハッキリと言い切っています。「マリアは、聖人たちの充満の中に閉じ込められているだけではありません。

マリアこそ、聖人たちを、かれらの充満の中に閉じ込め、かれがそこから出ないように守ってくださるのです。マリアは、聖人たちの徳が散り失せないように、かれらのクドクがなくならないように、かれらの恩寵が失われないように、悪魔から傷つけられないように、罪をおかしたときはキリストから罰せられないように、聖人たちを守ってくださるのです」



175.マリアは、忠信なおとめです。不信なエバが、神への不信によって、人類にもたらした損害を、マリアは、神への忠信によって、つぐなってくださいます。そればかりか、マリアは、ご自分を愛する人々のために、神への忠信と、信仰における堅忍の恵みを乞い求めてくださいます。




そんなわけで、ある聖人はマリアを、丈夫なイカリにたとえています。この世の荒れ狂う海の中で、マリアがイカリとなって、ご自分を愛する人びとを、難破の危険から救ってくださるからです。多くの人が難破しているのは、マリアという名のこの丈夫なイカリに、しがみついていないからです。「わたしたちは、丈夫なイカリのようなあなたに、自分の司牧する人びとを結びつけます」とダマスコの聖ヨハネは、マリアに向って言っています。天国に行った聖人は、この丈夫なイカリに、いちばん強くしがみついていた人たちです。また、自分ばかりでなく、ほかの人をも、善徳への道に堅忍さすために、しがみつかせたのです。この世で、マリアという丈夫なイカリに絶えまなくしがみついて、はなさない信者はさいわいです。この世のあらしがどんなに荒れ狂っても、かれらをおぼれ死にさせることもできなければ、かれらの宝を奪うこともできないからです。

ノアの箱舟にはいるように、マリアのうちにはいる人はさいわいです。多くの人を、おぼれ死にさせている罪の洪水が襲ってきても、かれらには何の危害も加えることができないからです。実際、聖霊が言っておられるように、「救霊のために働くため、マリアのうちにいる者は、けっして罪をおかさないでしょう」(集会書24・22)

不幸なエバの不信な子どもたちでも、もしかれらの本当の母であり、忠信なおとめであるマリアをさえ愛すれば、かれらはさいわいです。マリアは「どこまでも忠信なかたで、ご自分をあざむくことが絶対におできにならないからです」(Ⅱテモテ2・13)。そのうえマリアは、「ご自分を愛する者を、お愛しになる」(格言8・17)からです。それも、ただ情緒的な愛ばかりでなく、行動的な、実効的な愛で、愛しかえされるのです。すなわち、かれらに大いなる恩寵をそそいで、かれらが善徳の道において後退したり、たおれたりするのをふせいでくださるのです。



176.この良き母マリアはいつも、ご自分に委託されるものをすべて、純然たる愛徳の精神から、よろこんで引き受けられます。委託されたものを、ひとたび引き受けたからには、マリアは双務契約によって、それを無キズに保管する、という義務があります。たとえていえば、わたしがある銀行に百万円を預金するとします。この銀行は、わたしの百万円を、安全に保管する義務があるのです。それでもし、銀行側の不注意によって、わたしの百万円が紛失されるなら、銀行側は正義上、それについて責任を負わねばなりません。ところで、こおうえもなく忠信なマリアが、ご自分に委託されたものを、ご自分の不注意によってなくすことは、こんりんざい、ありえないことです。天地は過ぎ去っても、マリアが、ご自分に信頼する人びとに対して、不信であったり不忠実であることは、絶対にありえません。



177.マリアの子どもたちよ。あなたがたのかよわさは極限に達しています。あなたがたの変わりやすさも最大。あなたがたの精神的土壌もスッカリ汚染されています。ありていにいえば、あなたがたもダラクしたアダムとエバの子ども衆の同類です。
だか、それだからといって、失望するには及びません。気をおとしてはいけません。かえって、よろこびなさい。よろこびの秘けつが―わたしがいま、あなたにお伝えする秘けつがここにあります。この秘けつは、ほとんどすべての信者が、いや、いちばん熱心な信者さえも知っていないのです。

あなたの金銀財宝を、あなたの宝石箱の中にしまっておいてはいけません。それはすでに、ドロ棒の悪霊が、穴をあけているではありませんか。それはまた、これほど偉大、これほど貴重な宝をしまっておくには、あまりに小さく、あまりにもろく、あまりに古くはありませんか。

罪のために汚染し、腐敗したあなたの水ビンの中に、泉から汲み取ってきた清らかな、透明な水を入れてはいけません。たとえ水ビンの中に罪はもうなくても、罪のわるいにおいはまだ残っているはずです。そのためにこそ、せっかくの泉の水が汚染されているのです。特級ぶどう酒を、くさったぶどう酒がまだいっぱいはいっている、古いぶどう酒だるに入れてはいけません。入れたらすぐにくさります。そればかりか、そのまま売り出される危険もありましょう。



178.救われるべきかたがたよ。もうこれで十分だと思いますけれど、もっと強調させて頂きます。愛徳の黄金を、純潔の銀を、恩寵の水を、クドクと善徳の美酒を、穴のあいた袋に、古くてこわれた箱に、人間性の腐敗した器物に入れて、安心しきっていてはなりません。そんなことをすると、ドロ棒にやられます。すなわち悪魔が、昼も夜も、ぬすみの好機をさがしながら、ねらっているからです。そんなことをすると、自愛心のわるいにおいのために、自分自身への過信、我意の悪臭のために、せっかく神から頂いた最も清いものを汚染してしまうからです。

マリアのご胎に、マリアのみ心に、あなたのすべての宝、すべての恩寵、すべての善徳をしまっておきなさい。マリアこそ、“霊妙な器”です。“あがむべき器”です。“信心のすぐれた器”です。神ご自身が、そのすべての完徳とともに、その中に閉じこもって以来、この器は、このうえもなく霊妙となったのです。最も霊妙な霊魂の、霊妙な住まいとなったのです。

この器は、信心のすぐれた器―柔和・恩寵・善徳において、最もすぐれた霊魂が住まう、永遠の住み家です。さいごに、マリアおいう名のこの器は、“黄金の堂”のように高価です。“ダビデの塔”のように強く“象牙の塔”のように清純です。



179.そんなわけで、マリアの忠実なしもべたちは、ダマスコの聖ヨハネとともに、マリアにあえて次のように申し上げることができるのです。
「ああ、神の御母マリア。わたしはあなたに信頼していますから、きっと救われます。あなたのご保護によりすがっていますから、だれも恐れません。あなたの助けを求めていますから、どんな敵とも勇ましく戦い、どんな敵をも敗走さすことができます。あなたへの信心こそ、あなたが救おうと望んでおいでになる人びとに、あなたがお与えになる、精強な救いの武器だからです」(「お告げの祝日」の説教)






第Ⅴ章 レベッカとヤコブ マリアとその愛のドレイ

第一節 レベッカとヤコブ

180.マリアと、その子ども、そのしもべとの間の関係が、どんなものかについて、わたしはこれまで述べてきましたが、そのみごとな予型が、旧約聖書のヤコブの話の中で、聖書によって示されています。ヤコブが母レベッカの心づかいと創意工夫によって、父イザアクから祝福をもらった、というお話です。まず聖書が報道するヤコブの話をそのままここにのせ、次に聖霊の解説をつけ加えたいと思います。



第①項 ヤコブの話

181.長男のエザウは、次男のヤコブに長子権を売り渡していましたが、ふたりの子どもの母であるレベッカは、ヤコブのほうを特に可愛がっていましたので、何年か後で、まったく神聖な、まったく神秘にみちた創意工夫によって、エザウの長子権をヤコブの手に入れさすことに、まんまと成功した―という話です。

父親のイザアクは、自分が余命いくばくもないと思ったので、死ぬ前に子どもたちを祝福しておこうと、まず特に愛していた長男のエザウを呼び「狩に出かけて行って、わたしの好きなおいしい食べ物を作り、もって来て食べさせておくれ。わたしは死ぬ前に、おまえを祝福したいから」と言います。

レベッカはすぐに、事の次第をヤコブに知らせ、群れの所に行って、そこからヤギの子の良いのを二ヒキ取ってくるようにと、いいつけます。ヤコブがそれを母のところにもっていくと、母はそれで父の好きなように、おいしい料理を作ります。レベッカは、家にあった長男エザウの晴着をとって、弟ヤコブに着せ、また子ヤギの皮を、手と首のなめらかな所につけさせます。



182.父はもう目が見えなかったので、ヤコブの声をきいても、その両手が毛ぶかいので、ヤコブをてっきりエザウだと信じるにちがいないと思ったからです。
案のじょう、イザアクは、声をきいてビックリします。ヤコブの声にまちがいないからです。それでヤコブを、もっと自分に近寄らせ、ヤコブの両手をおおっていた子ヤギの皮を、手でさわりながら、「声はヤコブの声だが、手はエザウの手だ」と言います。ヤコブが運んできた料理を食べ、ヤコブに口づけし、かれが着ていた晴着のかおりをかいだのち、かれを祝福してこう言います。


「どうか、神が、天の露と、
地の肥えたところと、多くの穀物と、
新しいぶどう酒とおまえに賜るように。
もろもろの民はおまえに仕え
もろもろの国はおまえに身をかがめる。
おまえは兄弟たちの主となり、
おまえの母の子らは、
おまえに身をかがめるであろう。
おまえをのろう者はのろわれ
おまえを祝福する者は祝福される」(創世記27・29)



183.イザアクが、ヤコブを祝福し終わって、ヤコブが、父イザアクの前から出て行くとすぐ、兄エザウが狩から帰ってきます。かれもまたおいしい食べ物を作って、父のところにもってきて、「父よ。起きてあなたの子の料理を食べ、わたしを祝福して下さい」と言います。聖なる太祖は、とんだまちがいをしでかしたものだ、とビックリ仰天。しかしそれでも、前言を取り消さないのみか、かえってそれを強化確認します。神がこの事件に介入しておられる様子が、あまりに顕著だからです。

そこでエザウは、聖書が記録するとおり、身ぶるいして怒り、弟の権謀術策を大声でののしり、父に向かって、「あなたの祝福は、ただ一つだけですか」と言います。この点、エザウは、教父たちが指摘するとおり、神と世間とにふた股かけて、天のなぐさめも楽しみたいし、同時に地上のなぐさめも享楽したいと望んでいる人たちのかたどりです。



184.父イザアクは、泣きしゃくっているエザウを気の毒に思い、祝福を与えることは与えましたが、それは地上的な祝福でしかなく、しかも末代にいたるまで、弟ヤコブに仕えるという運命の逆転です。これがエザウの頭にきたのです。ヤコブに対する憎悪心が、炎のようにもえ上ります。エザウは心の中で言います。「父の喪の日も遠くはなかろう。そのときこそ、弟ヤコブを殺してやる。」(以上創世記27章)

もしヤコブが、母レベッカの特別のはからいがなかったら、また母の良いすすめにしたがっていなかったら、かれはとうてい死をまぬがれることはできなかったでしょう。



第②項 亡びる人の予型エザウ

185.この興味深い話の意味を説明する前に一言、注意しておきたいことは、すべての教父、すべての聖書解釈者が異口同音に言っていますように、ヤコブは、イエズス・キリストと救われる人の予型であり、エザウは、亡びる人の予型だということです。なるほど二人の行動と態度を比較対照してみると、そのことがうなずけます。

 ①エザウは、兄で、力がつよく、たくましい体格。弓術にすぐれ、狩が巧み。
 ②かれは滅多に家にはいません。自分のウデに自身満々。外でしか働きません。
 ③母レベッカを喜ばすためには、何もしません。
 ④一皿のあじ豆のスープと交換に、ヘイキで長子権を売り飛ばす大食漢。
 ⑤カインのように、弟をねたみ、徹底的に迫害。




186.これこそは、亡びる人が毎日、人まえで示している態度であり行動ではありませんか。
①亡びる人は、世俗的業務における自分たちの能力やウデ前に、たいへん自信をもっています。地上的事がらに関しては、たいへん強く、たいへん上手、たいへん目先もききますが、天上的事がらに関しては正反対に、たいへん弱く、たいへん無知です。
そんなわけで―



187.②かれらはけっして、またほとんど、自分のうちに、つまり自分自身の内面に住んでいません。自分自身の内面こそ、神が人間ひとりひとりに、そこに住みつくようにとお与えになった自分自身の家 実質的な・内面的家なのです。神がいつも、ご自分のうちに住んでおられるように、わたしたちにも、ご自分のやりかたを真似なさい、といってお与えになった家なのです。

亡びる人はけっして、黙想や、霊性生活や、内面的信心を好みません。かえって、内面的な人や、世間から離脱している人、外面的事業よりもむしろ内面的わざに没頭している人のことを低能児だ、売名信心家だ、イナカ者だ、とけなしています。



188.③亡びる人は、救われる人の母であるマリアへの信心に対して、ぜんぜん関心をもっていません。たしかに公には、マリアを憎んではいません。ときには、マリアのことをほめることさえあります。口では、マリアを愛している、と言っています。マリアへのある種の信心業を、実行してもいます。しかしそれでも、人が優しい心でマリアを愛しているのを見ると、もう我慢できません。マリアに対してヤコブのような優しい心をもっていないからです。

マリアの良い子どもや忠実なしもべが、御母マリアの愛情をかち得ようと、こまめに果している信心家に、とやかくケチをつけます。こうした信心が、マリアの子やしもべにとって、救霊の必要手段だということを信じないからです。マリアを正式に憎んでさえいなければ、マリアへの信心を公に軽べつさえしなければ、それで十分だと、かれらは信じこんでいるのです。オレたちは、マリアのお気に入りだ、オレたちも、マリアの忠実なしもべだ、と高言しています。「聖母に祈る文」をいくつか、となえたり、ブツブツ口の中で祈ったりしています。だが聖母への優しい愛は全然もっていません。自らの行いも全然あらためません。



189.亡びる人は、自分らの長子権、すなわち天国の幸福を、レンズ豆の一皿、すなわち地上的快楽のために、おしげもなく売り飛ばします。かれらは笑い、飲み、食い、遊び、おどったりはねたりして、わが世の春を謳歌します。旧約のエザウよろしく、天の御父の祝福を得るのにふさわしい者となるために少しも努力しません。いいかえれば、かれらはただ地上のことしか考えません。ただ地上のことしか愛しません。ただ地上のこと、ただ地上の快楽のことしか口にしません。ただそのためにしか行動しません。
一瞬の快楽のため、けむりのようにはかない名誉のため、ひとにぎりの金貨銀貨のために、おしげもなく洗礼の恩寵を、成聖の恩寵の純白な礼服を、永遠不朽の天国の家督を、売り飛ばしているのです。



190.⑤最後に、亡びる人は、くる日もくる日も公々然と、または、かげにかくれて、救われる人を憎み、また迫害しています。救われる人を圧迫し、軽べつし、非難し、反対し、侮辱し、強奪し、だまし取り、丸裸にし、土足でふみにじっています。しかるに自らは、巨億の富をたくわえ、あらゆる快楽にふけり、商売は繁昌、家内は安全、経済はますます高度成長、名声は天下にとどろきわたり、栄よう栄華をきわめています。


(第十巻につづく)
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第1部 信経
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第2部 秘跡
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