今朝の各新聞トップは、JR西日本の山崎社長の起訴です。
これまで大事故で企業が起訴されることはほとんどなかったので、これは検察がそうとうがんばったということだそうです。
1人でも被告人席に立たせることができる…まずは第一歩ということで評価しなければいけないのでしょう。
毎日新聞が12~13面の見開きで特集記事を組んでいます。
神戸地検の見解や鉄道事故調査委員会の07年6月当時の最終報告を紹介し、編集時局長の若菜秀晴氏による総括的な一文を掲載しています。
若菜氏は、私と同様、偶然あの列車に乗り合わせなかったそうです。
少し、引用させていただきたいと思います。
「私は偶然、難を逃れた。そうでなかった人とを分けたのは運、で済ませていいはずがない。」
私も同感です。自分は運がよかった、とはとても思えません。そういう問題ではないと思うのです。
JRの体質が事故後、大きく変わったという実感はありません。
確かに、尼崎駅の前後での激しい揺れや乱暴な運転は減ったように思います。
でも、それ以外に変わったことは見当たりません。
通勤にJRを使わなくなり、めったに乗らなくなったのですが、たまに乗ってもそれほど変化を感じられないので、乗るたびにとても残念な思いをしています。
事故はこれからもいつでもあり得る、誰もが乗り合わせる、その可能性は今だってあるんじゃないか、そう思わずにはいられない現実があります。
「何が原因か。なぜ防げなかったのか。それを明らかにする作業が、裁判所という公開の場で行われることになった」
事故がおきた当時は、バブル崩壊後に「負け組み」を切り捨て、犠牲にしながら一部で経済が持ち直したかのような錯覚と錯乱に日本中が陥っていたようなときでもありました。
マネーゲームやグローバル競争が過熱し、格差が顕在化しながら、効率が重視されていたと思います。JRに乗ると、ものすごいスピードで列車は走り、揺れが激しくて毎日、嫌な思いをしながら通勤で乗っていたことを私もよく覚えています。
ホームに駅員・係員の姿はなく、時間が来たら、乗客が乗ろうとしていても容赦なくドアを閉め、「危険ですから、駆け込み乗車はおやめください」のアナウンス。
人があふれているホームを電車がスピードをあげて通過する。
家族や友人には「怖いよ、そのうち事故になるよ、JRは事故にならんとわからないんやろうけど。事故になってもわからんかもしれへんけど」ともよく言っていました。
そして、その事故が起こってしまった…。
若菜氏は書いています。
「事故が時代を映す鏡だとすれば、被告席の背後には、私たちの生き方、幸せの物差し、価値観もあると考えるべきなのだろう。」
法廷で裁かれるのは、被告人だけではありません。
法廷は、すべてを社会全体、市民一人一人で共有し、事故が教えてくれることすべてをこれからに生かしていくためにあります。
事故は社会の中の企業組織の仕事と結果のはずです。
たった1人の被告人に、すべての責任と罪を負わせるなんて、あり得ないのです。
遺族は検察審査会に不服申し立てをするそうですが、私も注視していきたいと思います。
これまで大事故で企業が起訴されることはほとんどなかったので、これは検察がそうとうがんばったということだそうです。
1人でも被告人席に立たせることができる…まずは第一歩ということで評価しなければいけないのでしょう。
毎日新聞が12~13面の見開きで特集記事を組んでいます。
神戸地検の見解や鉄道事故調査委員会の07年6月当時の最終報告を紹介し、編集時局長の若菜秀晴氏による総括的な一文を掲載しています。
若菜氏は、私と同様、偶然あの列車に乗り合わせなかったそうです。
少し、引用させていただきたいと思います。
「私は偶然、難を逃れた。そうでなかった人とを分けたのは運、で済ませていいはずがない。」
私も同感です。自分は運がよかった、とはとても思えません。そういう問題ではないと思うのです。
JRの体質が事故後、大きく変わったという実感はありません。
確かに、尼崎駅の前後での激しい揺れや乱暴な運転は減ったように思います。
でも、それ以外に変わったことは見当たりません。
通勤にJRを使わなくなり、めったに乗らなくなったのですが、たまに乗ってもそれほど変化を感じられないので、乗るたびにとても残念な思いをしています。
事故はこれからもいつでもあり得る、誰もが乗り合わせる、その可能性は今だってあるんじゃないか、そう思わずにはいられない現実があります。
「何が原因か。なぜ防げなかったのか。それを明らかにする作業が、裁判所という公開の場で行われることになった」
事故がおきた当時は、バブル崩壊後に「負け組み」を切り捨て、犠牲にしながら一部で経済が持ち直したかのような錯覚と錯乱に日本中が陥っていたようなときでもありました。
マネーゲームやグローバル競争が過熱し、格差が顕在化しながら、効率が重視されていたと思います。JRに乗ると、ものすごいスピードで列車は走り、揺れが激しくて毎日、嫌な思いをしながら通勤で乗っていたことを私もよく覚えています。
ホームに駅員・係員の姿はなく、時間が来たら、乗客が乗ろうとしていても容赦なくドアを閉め、「危険ですから、駆け込み乗車はおやめください」のアナウンス。
人があふれているホームを電車がスピードをあげて通過する。
家族や友人には「怖いよ、そのうち事故になるよ、JRは事故にならんとわからないんやろうけど。事故になってもわからんかもしれへんけど」ともよく言っていました。
そして、その事故が起こってしまった…。
若菜氏は書いています。
「事故が時代を映す鏡だとすれば、被告席の背後には、私たちの生き方、幸せの物差し、価値観もあると考えるべきなのだろう。」
法廷で裁かれるのは、被告人だけではありません。
法廷は、すべてを社会全体、市民一人一人で共有し、事故が教えてくれることすべてをこれからに生かしていくためにあります。
事故は社会の中の企業組織の仕事と結果のはずです。
たった1人の被告人に、すべての責任と罪を負わせるなんて、あり得ないのです。
遺族は検察審査会に不服申し立てをするそうですが、私も注視していきたいと思います。