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竜宮に棲む人魚(十)

2006-09-16 17:43:24 | 竜宮に棲む人魚
 夏彦は席についた。
 目前のテーブルの上には料理が並んでいる。周囲は見知らぬ男たちが食事をしていた。
 頭が割れそうに痛い。こめかみを押さえると、手が濡れていた。服の裾を絞ると水滴がしたたれ落ちる。
 自分の置かれている状況がさっぱり分からない。
「君は誰かと寝ましたか?」 
 輪をかけて妙な質問を投げかけられた。
 左隣に座る、黒縁メガネの男だ。分け目がくっきりとした髪型で堅物の人物に見えた。
「何のことですか?」
「あっ、君は新入りかい?」
 メガネの奥の目が笑った。
 さっきからこの男は何をいっているのだろう。
 夏彦は困惑の面持ちで、「ここはどこですか?」と尋ねてみた。
「実は私も分からないんです。かれこれ一週間ぐらいはここにいますが……」
 メガネの男は曖昧に返答しながら箸で魚料理をほぐした。
「本当に分からないんですか?」念を押して聞く。
「知っていていわないなんて、そんな意地悪しませんよ」
 男は半笑いで答えた。
「よく平然としていられますね」
 皮肉をいったつもりだが彼は気づかず、聞き流されてしまった。
 誰か一人は事情を知っているはずだ。
 じっとしていられず立ちあがる。
「無駄です。誰に聞いても答えは同じ。へたをすると、女たちに止められてしまいますよ」
 食堂を思わせる空間に男女がたむろしている。男たちは和気藹々と食事を楽しんでいた。
 男は服装も席移動も自由だが、女たちは違うようだ。
 数的には女の方が多かった。年齢層は幅広く、民族衣装に似た装いで、番号めいた呼び名を使っている。
 中でも黒帯をしている女たちはやけに男に媚びを売って、丁重すぎるもてなしをする。ところが同性には酷にあたり、その横暴ぶりには目に余るものがあった。
 女同士では上下関係が成り立っていた。
「最初は取り乱しました」またメガネの男が話しはじめる。「ここがどこなのか、なぜ自分がここにいるのか、誰も教えてくれない。出入り口も分からず、家に帰れなくなった迷子のように不安だった」
 迷子……それにしては食欲旺盛だな。
 指摘したかったがやめて聞き手に回った。
「時間が立つとどうでもよくなってきた。慣れとは恐いものだ」
 痩せた身体を弾ませてメガネ男は笑う。
 笑いごとじゃない。夏彦は彼を見据えた。
「さぁ、座って、君も腹ごしらえといきましょう」
 この状況で食事する気分になれない。男のいうことには同感できなかった。
 だが、ずっと突っ立ていても仕方がないので、ひとまず腰をおろす。
「私は金子秀明、海洋生物学者です。海の水質調査の最中、足を滑らせて海に落ちた。そこまでは覚えています。君も海に落ちたのでしょうね」
「海? 何も思い出せない」
 夏彦はうつむいた。
「かわいそうに肝心な記憶が乏しいようで」
 自分の名前すら出てこなかった。記憶は白に覆われている。
「たぶん、海に落ちたんですよ。ここにいる人たちの共通点はそれなんだ。君も海の付近にいた、もしくは海に落ちたのどれかだ」
 金子はメガネを外し、手元にある布巾でごしごしと拭いた。 
 そうかもしれないし、そうともいい切れない。頷けなかった。 
 真向かいの小太りの男が会話に割り込んできた。「そうそう、俺は漁師で、いつも通り漁船に乗り込んだまではいいが、どういうわけか気づいたらここにいた」
 その場の男たちは顔を見あわせて、頷いている。
 確かに金子のいうことは本当らしい。誰もが茫漠たる境地をさまよっている。
「心配はいらないさ」小太りの男が続ける。「みんな安心していいぞ」
 何を根拠にいっているのだ。その先の言葉が知りたい。
「この世界はまんざら悪くない。男にとっての楽園だから」
「楽園? あんたのいっている意味が全く分からない」
 このおっさんの頭は大丈夫か。真面目に聞いているのがアホらしく思えてきた。
「時期に分かる。君も『赤い部屋』にくるといい。若者にはちょっと刺激が強すぎるかな」
 漁師の小太り男は額を撫でながらにやけていた。
 何か知っているのか?
 意味深な笑みの理由を、夏彦は知る余地もなかった。
 黒帯をした女の一人が目配せをし、手招きしている。顔がほころばせ、席を立ったのは小太り男だった。
 二人は手をつないで、そのままどこかへと姿を消した。
 恋人同士? いや、そうではない。
 夏彦は直感でそう思った。
 視線を移すと、ショートヘアの少女が作業服を着た男に絡まれていた。
 どうして誰も助けてあげないんだ。
 夏彦は助けにいこうと立ちあがる。
「いかなくていい」
 金子に止められた。
「あの子、嫌がっているじゃないか!」
「ここでは正義感を振りかざす必要はないんだ。そういうところだ。好きにやらせておけばいい」
「ふざけるな!」
「君もそのうち分かる」
 金子といい争っている合間に、ショートヘアの少女が側まできていた。夏彦は肩を叩かれた。何かを訴えようと、口をぱくぱくさせている。
 何がいいたい? 助けなかった俺を責めているのか? どうしようもなかった。
 夏彦は目をそらす。
 少女は黒帯の女にたしなめられ、渋々とその場から離れていく。何度もこちらを見返していた。
 今度は白髪まじりの男に話しかけられた。「君、大丈夫かい?」
 夏彦は男を見つめた。
 中肉中背の白髪頭の男は弱々しく会釈する。
「あのとき、バイクに乗っていたのは君だろ? この赤い服が見えたんだ」
「バイク?」夏彦は聞き返した。
「事故のことだ。覚えていないのか?」
 俺はバイクに乗って事故にあったというのか?
 しばらく考え込んだ。
「すまない、人違いだったようだ」
 白髪頭の男はばつが悪そうに身を引く。
「あんた、俺のことを知っているんだろう。詳しく教えてくれないか」
「いや、私は何も知らん。すまなかった」
 男はしどろもどろになって、逃げるように遠ざかっていった。
「おい、待ってくれよ」
 夏彦はむしゃくしゃしていた。
 席に座り、テーブルにあったワイングラスをつかもうとする。そこには赤い飲物が入っていた。手を動かした拍子に激痛が走る。
「痛い」
 なぜか右指が動かない。無理に動かすと痛くて吐き気がした。手の怪我も、身体のだるさも、白髪の男がいっていた事故によるものなのか?
「あなた、大丈夫?」
 突然現れた美しい女性が横の空席に座った。
「指が痛いんだ。折れているかもしれない」
「手伝うわ」
 女は箸を持ち、白身魚の刺身を夏彦の口元に運ぶ。彼は戸惑ったが、口を開けて食べさせてもらった。
「私は李瑠よ。あなたの名前は?」
「夏彦」
 すんなり名前を思い出した。
「夏彦、いい名前ね」
 男たちの側には必ず女がついていた。寄り添い、親しそうに喋っている。
 その中でも、李瑠と名乗る女性がひときわ美しかった。
 彼女はワイングラスを片手に中身を揺らし、口に含んだ。そして、夏彦の頬に触れ、口移しで飲ませた。
「何をするんだ」
 夏彦は驚いて、はねつけた。
 怒った顔を見て、李瑠は声を立てて笑う。「照れ屋さんなのね」
「もういい、近寄らないでくれ」
「あらあら、怒った顔もかわいい。私がいろいろしてあげる」
 李瑠は再び、箸とワイングラスを取った。夏彦の腕に豊満な胸をすり寄せる。
「どういうつもりだ?」
「あなたが気に入ったわ」
 女は頭を夏彦の肩にあてて甘える素振りを見せた。
「やめてくれ」
 夏彦は避けて、嫌悪の目で見た。
「まあ、恐い」
 そのころ、テーブル席の前では、黒帯の女たちが踊り狂い、服を脱ぎ始めていた。