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新・きものの基

絹や木綿、麻など素材から染織の歴史、技法、デザイン、そしてきものと暮らしの多様な関係までを紹介します!

草木布⑤葛布2

2007-03-24 16:14:01 | きものの歴史

■葛布②貴族、武士の好まれた草木布

“木綿(ゆふ)”といわれる草木布は、もっぱら庶民や農民の衣類でしたが、葛布は、織りあがった布に艶やかな光沢があり、ひときわは美しく、養老律令には葛布を皇太子の色である黄丹に染めたとあり、かなり身分の高い人の衣服として用いられたようです。また葛布は貴族の間では喪服や袴に用いられ、特に「けまり」の時には葛布で作った指貫(さしぬき、裾を紐でくくるようになっている袴)に用いられました。さらに鎌倉時代から戦国時代には、葛布は軽くて通気性が良く、また武士の好んだ直線が出せるところから、多くの武将たちに着用され、江戸時代には、袴、裃、陣羽織、乗馬用袴等に用いられていました。葛布の産地としては、東海道の要所であった遠州(静岡県西部)掛川が鎌倉時代から製法を受け継ぎ、特産品として裃や袴、合羽などに大変珍重され、有名でした。

葛布作りの工程

1・生蔓を採る 葛はどこにでも生えますが、生える場所によって質が異なるため、山の平地に這い、互いに絡み合っていない「這い蔓」といわれるものの中で、その年新しく根から直接発育した蔓が良質で「一番蔓」といわれています。女性の小指ぐらいの太さで、日陰から日向を求めて真っ直ぐに伸びたものを6月下旬までに刈り取ります。刈り取った蔓は葉を取り、蔓が14,5本くらいになったら、蔓の根本をまとめて縛り、束を丸い輪につくって、数箇所を括っておきます。

2・生葛を煮る 刈った葛は、あまり時間をおかないで、野天で葛束が十分入る大きさの釜に水を入れ、よく沸騰させ、この中に葛束を入れ、時々上下を返しながら15~20分ほど煮ます。このとき火加減を注意しないと、の光沢がなくなってしまうそうです。釜からあげた蔓は、すぐに清流につけ、12時間前後そのまま浸けておきます。鎌倉時代以前は、煮ないで2週間ほど田に浸けておき、粗皮を腐らせてから川で洗い流し、を取ったそうですが、光沢も色も悪かったようです。

3・発酵させる 発酵させるために土の上に麦わら、枯れ草を敷き、その上にススキなど色素の出にくい青草を刈って敷いて室(床とも)を作り、その上に葛束を並べ、さらにその上を厚くススキの葉などで覆い、さらに菰やビニールシートをかぶせ、石で重しをして、発酵温度に注意しながら毎日発酵状況を確かめ、2~3晩おき、葛の表面がぬるぬるして容易にはがれることを確かめてから室から出します。

4・丸洗い、芯抜き 葛束を解き、長く延ばして川の流れで発酵した葛の表皮を十分洗い落とします。外皮と芯の間の靱皮が糸となりますので、根元を片手で持ち、もう一方の手で靱皮を剥がし、木質部を引き抜きます。靱皮は蓑虫状に手に残ります。これが芯抜きで、汚れが残ると葛糸の品質を悪くなりますので、良く洗い落とし、左手の親指と小指に8の字を書くように掛けていきます。これを「手溺・テガラ」といい、この段階で靱皮を「葛」といいます。

5・糟洗い 葛のテガラを桶に入れ、米糠汁に一晩漬け、更に川漬け、テガラを延ばし、仕上げ洗いをします。

6・乾燥 石河原の上に葛苧を広げて干し、生乾きの時に元から先に向かってしごいて縮を防ぎ、苧と苧を良く振って離れさせます。 石河原の上で干すのが、最も純白に仕上がるのだそうです。乾燥した葛苧は、ここで完成品となります。

7・績み、ツグリ作り 葛苧を巾1~2mm位に裂いて、糸の端を唾液でぬらしながら、葛結びと言う独特の結び方で結び、績んだ糸を輪をかくように桶の中に重ねてゆきます。苧桶が一杯になったらそっと裏返し、別の桶または新聞紙などの上に移します。この績み苧の上に大豆や小石などを置き、糸を引き出すときに糸が絡みあわないようにおもしにします。この葛糸をつぐり棒と呼ばれる丸い15cmほどの棒に、8の字をかくように糸を巻きつけていき、一握りほど巻いたら、棒を抜きます。杼に入れるため、撚りがかからないようにする巻きかたで、これをツグリといいます。

8・織り 葛布はほとんどが平織りで、用途に応じて経糸はシルク、麻、木綿等を用い、緯糸のみ縒りをかけない葛苧を用います。杼は葛専用の底がある舟形をしているのが特徴です。葛糸は激しい操作を嫌うので、動力にかからず、昔から手機で織られる。織り終わったら機からはずし、しけとりというひげを取る作業を行い、その後練りと照りを出すために砧打ちを施します。

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草木布④葛布1

2007-03-05 22:04:03 | きものの歴史

■葛布①秋の七草

葛の花は、秋の七草のひとつで、山野に自生し、大きくなると長さが6メートル以上にもなる蔓草で、縄文時代から日本人に親しまれ、利用されてきました。葛は葉から花、茎、蔓、根まで、そのすべてが暮らしに有用な植物で、全く捨てるところがありません。葛の根は、有名な漢方薬の葛根湯(かっこんとう)やお菓子の葛餅、葛きり、葛湯などの材料になります。また葛の花を乾燥したものは葛花(かっか)と呼ばれ、二日酔いや嘔吐の予防薬としても知られています。さらに葉はたんぱく質が豊富で、牛や馬などの家畜の飼料になり、新芽や若葉は食用にもされています。そして、蔓は繊維を績んで、織り、“葛布”という織物になり、古くから珍重されてきました。また最近では、他の樹木にからみつき、成長も早く葉を茂らせる生命力の強さから、土手や堤防などに植えて土砂防止にしたり、砂漠の緑化にも有用と評価が高まっています。

葛の語源は、奈良県吉野の国栖(くず)から来ているという説と、木や草の枝葉や花を髪に挿したり、飾ることを髻華(うず)といいますが、そこから転じたという説があります。葛は、織物の技術が伝わる前から編んだり、組んだりして使われていましたが、科、楮、藤など同じような植物繊維を糸として織られた古代の布を“木綿(ゆふ)”と総称していました。

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草木布③科布2

2007-03-03 17:05:12 | きものの歴史

■科布(2)

農作業が終わり、雪が降り積もる頃になると保管していたシナを取り出し、「シナ裂き」の作業を始めます。乾燥したシナを湯に浸けて柔らかくしてから、しごき、先ず1センチくらいに荒裂きし、さらに1~2ミリくらいに細裂きします。この細かく裂いたシナの繊維を指先で縒(よ)りながら繋ぎ、均一の太さの長い糸にしてゆきます。この作業を「科績(う)み」といいます。

「紡績」とよくいいますが、原料の繊維を糸の状態にするまでの工程をいい、「紡」は撚り合わせること、「績」は引き伸ばすことを意味します。また綿や繭、羊毛などを糸縒車(いとよりくるま)にかけ、その繊維を引き出して縒りをかけ、糸にすることを「紡ぐ」といいます。一方、苧(からむし)や麻、樹皮などを細かく裂き、長い糸に繫ぎ、縒り合わせてゆくことを「績む」といいます。績むのは紡ぐよりもはるかに根気と熟練のいる仕事です。

シナ績みしたシナを親指に巻きつけ、ヘソ玉といわれる20センチくらいの大きさの糸ダマを作ります。さらに糸縒車(いとよりくるま)を使って、糸に湿り気を与えながら縒りをかけ、糸にしてゆきます、経(たて)糸には強い縒りを緯(よこ)糸には軽く縒りをかけます。更に縒りかけたシナ糸を木枠に巻きなおします。そして、織る前の最終段階として、文字通り、布幅1尺2寸(36㎝)に織り上げるのに必要な経糸の本数をそろえ、筬(おさ)にシナ糸を通す「整経(せいけい)」作業を行います。筬の1つの目に1本通す「1本入れ」で経糸は140本、筬の1つの目に2本通す「2本入れ」で経糸は倍の280本となり、当然「2本入れ」の方がシナ糸も細く、布目も密になります。

機織は、昔は経糸を腰帯で支えながら、身体全体で経糸の張りを調整ながら織る座機(ざばた・腰機、地機とも)でした。結城紬はいまでも座機ですが、足腰への負担が大きいのですが、その分しなやかな織り上がりになります。最近はほとんどが、機に経糸を巻きつけ、座板に座り、足踏みで交互に経糸を上下しながら織り上げる高機(たかはた)を使っています。織るときに経糸には海藻を煮て作ったエゴ糊を刷毛で塗り、緯糸は水に濡らしながら織り、最後に仕上げとして織りあがった科布を均一に平に引き伸ばすハタノシをして出来上がりです。ここまでの工程をまとめると【シナ裂き】→【糸つなぎ】→【縒りかけ】→【枠取り】→【整経】→【機上げ】→【機織り】→【仕上げ】となり、平均で織り上がるのに90~100日かかります。科布は、仕事着や穀物袋、畳の縁布などに使われていましたが、最近は帯、帽子や日傘、暖簾、ポシェツト、手提げバッグ、インテイアに使われ、人気です。

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草木布②科布1

2007-02-25 09:26:25 | きものの歴史

■科布(1)

「しなふ」は、古くは志奈布、志那布、さらに科布、榀布、信濃布などの漢字が当てられていますが、「皮がシナシナする」こと、またその皮が白いのでシロから来たといわれていますが、語源はアイヌ語の「結ぶ、縛る、くくる」という言葉から由来し、現代アイヌ語ではニベシニといい、内皮の取れる木という意味があるそうです。九州から北海道まで自生し、特に新潟、山形、福島などの東北の山間部、信濃地方に多い。信濃布という字も当てられるように信濃の地名は、シナノキが多いことに由来するという説もあります。シナノキは日本固有の木で、花や果実は薬用になり、また花からは「しな蜜」と呼ばれる濃厚で甘い良質な蜂蜜が採れます。木材は、柔らかく加工しやすいのでベニヤ板やマッチの軸、経木、エンピツ、下駄、割り箸などに用いられ、日本人には重要な暮らしを支える木でした。

科布は、シナノキの木が水をたっぷりと吸い込んでいる梅雨晴れの頃が剥がしやすいので、山に入り、直径20センチくらいのシナノキを選び、切り倒し、樹皮に縦に裂れ目を入れ、木の枝を削ったものを差し入れ、一気に梢まで剥ぎ、その場で堅い樹皮と内皮に取分けたものを持ち帰り、陰干しします。この内皮が科布の原料となります。更に1日水に浸け、灰汁(あく)を内皮にまぶし、一昼夜灰汁煮をし、柔らかく煮た科布を熱いうちに揉み解し、清流に浸けて灰汁や内皮の汚れを丁寧に洗い流します。次に煮込んで黒ずんだ内皮を米糠に浸けて2~3日醗酵させて漂白し、また清流で洗い流し、陰干しします。この作業を梅雨明けから夏の間におこない、冬まで湿気の少ない囲炉裏の上や屋根裏部屋などに掛け、十分に乾燥させます。

ここまでの手順をまとめると【シナノキの伐採】→【皮はぎ】→【陰干し】→【水浸け】→【灰汁煮】→【シナもみ】→【水洗い】→【シナ浸け】→【水洗い】→【陰干し】となり、この作業に1週間から10日を要します

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草木布①

2007-02-24 12:19:23 | きものの歴史

■志を持って

いまはほとんどの呉服屋さんが問屋さんから仕入れて品揃えをしていますが、中には自店のオリジナルを誂えで作っているお店もあります。誂えて作るには、当然染織の技法から生地、頼むに足りる職人や作家の個性や腕を見極める目、デザイン力、イメージ力、更に折衝力が要求され、生半可な知識や人任せではデキません。そして何より“いい物を創りたい”という志がないと。

高知市のH呉服店の店主は、数少ない志のある呉服店で、ここ数年「科布」「葛布」「芭蕉布」に取り組んでいて、ようやく5月に発表できる見通しがついたそうで、いまから発表会がとっても楽しみです。このH氏、画家志望で、20代の頃著名な画家のアシストを頼まれてフランスにも数年滞在して活躍した本格派。紆余曲折があり、いまは高知市で呉服店を営んでいますが、オリジナル作りが大好き。特に世に埋もれそうな、もう5年もしたら廃れてしまうというような素晴らしい手わざに、現代のセンスを吹き込んだ商品を作らせ、失敗作も買い取り、世に紹介し、売ることで作り手を応援してきている。「科布」もそのひとつ。

縁というのは面白いもので、画家を志していた頃の仲間の1人が、山県の老舗呉服屋の息子。その呉服屋の息子・石田誠さんは、修行中に科布と出会い、織の美しさ、生成りの優しい色合いに魅せられ、しかもその科布が自分の故郷で作られていることを知り、2度ビックリ。石田さんはその後、ついに自分で試行錯誤しながら科布を織り始め、「しな織創芸・石田http://www.shinafu.com/」を創業し、古い蔵を改装してギャラリーも作った。若き頃画家としての夢を語った2人が出会い、科布を現代にどのように活かしてゆこうか、その可能性を求めて作品作りに取り組んだのはもう当たり前。その2人の作品がようやくできた。不思議な縁ですね。 人との出会いってつくづく面白いものだと思いました。

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木綿以前の事③草木布

2007-02-16 21:27:20 | きものの歴史

■自然にある草や木の皮、蔓などを衣服に

木綿が本当に庶民の生活に普及し、容易に手に入るようになったのは、機械生産による糸や布が出回るようになった明治も後半です。では、木綿が普及する前の私たちの祖先は、何を着ていたのかといえば、草や蔓、木の皮を剥いで繊維を取り出し、それを糸にして編んだり、織って布にしたものを着ていました。おそらく最初は、野山に生い茂る様々な草や木を採取して試し試し、身にまとうのに適したものだけを衣服としてきたのでしょう。さらには衣服に適したものは栽培したりして衣服としてきましたが、自然に草や木、蔓などを素材とした衣服を総称して、草木布(そうもくふ・原始布、自然布とも)といいます。この草木布はけっして遠い過去のものではなく、大正、昭和初期、モノによっては昭和20年代まで、農漁村やまたぎ(猟師)などの人々の労働着や穀物や農産物を入れる袋類など生活用具としても使われ、身近なものでした。

草木布の素材としては、藤(藤布)、科(科布・しなふ)、葛(葛布・くずふ)、おひょう(アットゥシ織)、楮(こうぞ、紙布・しふ、太布・たふ)、ぜんまい(ぜんまい織)、いらくさ(いらくさ織)、糸芭蕉(芭蕉布)などがあります。そして最も繊維が長く美しく、衣服として最も多く、親しまれて使用されたのが、三大麻といわれる大麻(大麻布・たいまふ)、(苧麻布・ちょまふ)、亜麻布があります。

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木綿以前の事②

2007-02-12 22:43:12 | きものの歴史

■4年間、着たきりスズメ

 1990年(平成2年)に発刊された「新・木綿以前のこと」では、戦国時代末期、石田三成に仕えた300石の侍の娘、おあむが当時の衣生活について語っている野を請う紹介している。「さて衣類もなく、おれが13のとき、手作りのはなぞめの帷子1つあるよりほかには、なかりし。そのひとつの帷子を17の年まで着たるによりて、すねが出て、難儀にあった。ほしやと、おもうた。」と13歳から17歳までの4年間、着たきり雀だったことを語っている。とてもNHK大河ドラマのようにはゆかなかった。武士の娘でも帷子、麻の単衣で1年中どころか4年間も過ごす有様だったのだから、百姓、庶民の衣生活は押して知るべしです。そして「今時の若衆は、衣類のものずき、こころをつくし、金をついやし…沙汰の限りなこと」と今の若い衆は好みにまかせて沢山の衣類を買っていると苦言を呈しています。わずか30~40年の間に木綿が容易に手に入るようになり、急速に衣生活が変ってきたことを「おあむ物語」から知ることが出来ます。

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木綿以前の事①

2007-02-11 22:10:53 | きものの歴史

■木綿の幸福

大正13年(1924年)、柳田国男は有名な著作「木綿以前の事」中で麻を捨て木綿に乗り換えた人々の暮らしの変化を「木綿の幸福」と表現している。「色ばかりかこれを着る人の姿も、全体に著しく変ったことと思はれる。木綿の衣服が作り出す女達の輪郭は、絹とも麻ともまた違った特徴があった。その上に袷の重ね着が追々となくなって、中綿がたっぷり入れられるようになれば、また別様の肩腰の丸味が出来てくる。全体に伸び縮みが自由になり、身のこなしが以前より明らかに外に現れた」と、大昔から麻しか着ることが出来な庶民が、麻を夏以外は捨てて木綿を着るようになり、それまで生成りの、麻の色そのまましか着ることが出来ず、縁がないと思っていた藍、紅など多彩な色柄のきものを着ることができるようになった。そうした結果「心の動きはすぐ形にあらはれて、歌っても泣いても人は昔より一段と美しくなった。つまりは木綿の採用によって生活の味わいが知らず知らずの間に濃やかになって来た」と、しぐさだけでなく、身体の快適さは着る人の感性までもを大きく変化させてきたことを伝えている。

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「和服」という言葉②

2007-02-04 11:21:06 | きものの歴史

■公序良俗に反する軽薄なスタイル

女性の服装の洋風化は、政府高官婦人など上流階級に限られ、一般的には江戸時代のきものの暮らしでした。それでも男性には遅れながらも徐々に洋装が浸透し、和洋折衷の服装が流行しはじめました。いまでは卒業式の定番ともいえる袴スタイルは、この時代に生まれました。もともと男性のスタイルだった袴に編上げ靴に行灯袴(あんどんばかま・スカートのように筒状になっている袴。女袴とも。またズボンのように2つに分かれている袴を馬乗袴といいます)というスタイルは、「公序良俗に反する軽薄極まりない服装」とまでいわれましたが、その活動的なスタイルはハイカラな時代気分を表すファッションとして新鮮で、徐々に広まってゆき、明治31年、下田歌子(皇后陛下から歌子の名を賜るほど、詩歌の文才を認められた明治期の歌人。また女子教育の先駆者として、実践女子学園などを創立)が実践女学園(現・実践女子大)を創立し、袴姿を制服に採用してから、他の女学校でも制服、式服扱いするようになり、一般化しました。このように服装が和洋折衷から洋風化、徐々に洋服を着る人が増えてくるに従い、江戸時代まで衣服すべてを「きもの」と呼んできましたが、「洋服」(西洋風の衣服を西洋服と呼んだのを略した)といままでのきものを区別する必要に迫られ、洋服に対してきものを「和服」と呼ぶようになりました。

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「和服」という言葉①

2007-02-03 20:55:32 | きものの歴史

■装いも「文明開化の音がする」時代。

明治維新とともに「文明開化」の言葉に象徴されるように洋風文明を積極的に導入し、欧米列強に追いつけ、追い越せと近代文明国家への道を歩みはじめました。服装の面でも洋風化が図られ、特に公務に携わる男性は燕尾服を持って礼装とすることが定められました。しかし明治6年太政官布告により、宮中儀礼には伝統的な装束を用いるように改められ、さらに明治10年には、通常礼装にはフロックコートを持って燕尾服の代用とし、下級役人は黒紋付羽織袴をもって代用としました。その後現代まで黒紋付羽織袴が男性の第一礼装となりました。服装の洋風化は国家の政策として性急すぎる面があり、洋服を着る人も私生活ではきものを着ていましたが、庶民の生活にも徐々に洋装が浸透し、羽織袴に山高帽や中折帽、鳥打帽をかぶるとか、草履に変えて靴を履く、さらに洋風のケープ(インバネス)やステッキを持つなど、和洋折衷の服装が流行しはじめました。

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