3/度重なる倹約政策の施行
江戸時代、頻繁に贅沢禁止令や質素倹約令が出されます。なかでも吉宗の時代、享保の改革(1716年~1745年)では、一般町人は絹や絞りのような贅沢な物を着てはいけない。町人は木綿、しかも色も藍と決められました。これで発憤したのが、江戸の職人達と町人です。当時裃に染めていた、裃小紋(江戸小紋)のような細かい小紋を、木綿に染めて権力者の鼻をあかしてやろうと考え、そこで生まれたのが、木綿の長板本藍染めです。絹の小紋と違って、表と裏に同じ柄をつけるわけですから、更に技術は難しくなります。作る人も着る側も、お互いの心が一つになって権力者に知恵で勝ったのが、長板本藍染め。さらに天保の改革(1830年~1843年)では庶民が絹を着ることを禁じました。また武士も紋付小袖に限られていたものが、縞のきものや袴を着るようになり、庶民の間には立ち働くのに便利で、一反の反物で二枚できることから袖なし羽織が流行。また女性の普段着ばかりでなく外出のきものにも半襟をかけるようになったり、前垂れをかけるようになったりと服飾そのものも大きく変わりました。
4/歌舞伎人気
ゆかたが最も発達したのは江戸時代で、特に歌舞伎役者によって大いに広められました。当時の歌舞伎役者が、それぞれ楽屋で着るゆかたや贔屓筋に配る手拭いの柄はファンの宝でした。自分の贔屓の役者と同じ柄を着て町を歩くわけで、歌舞伎役者の考案する柄が、あっという間に流行するわけです。市川團十郎が考えた「三枡格子」「かまわぬ」、また三代目尾上菊五郎が考案した「キ」と「呂」の文字を図案化した「菊五郎格子」。四代目松本幸四郎の「高麗屋格子」、そして最も有名な佐野川市松が考案した「市松格子」など、数え上げたら歌舞伎役者柄にはきりがありません。歌舞伎役者と贔屓、ファンの間でゆかた柄が洗練され、一般に流行していったため、ゆかたには「粋さ」があるのかもしれません。