Nothing is Everything!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

ストームの思い出

2022-01-16 21:49:00 | 日記
(2019年7月21日の日記より)
"【アメリカ】ナルト走りでエリア51に侵入してエイリアンを確認するイベントに180万人が参加表明する異常事態に 2019/07/20" という記事を見ました。
アメリカ・ネバダ州にあるエリア51に『ナルト走り』で急襲し、エイリアンの存在を確かめようというふざけたイベントなのですが公式サイトもあるようでこちらになります。
Storm Area 51 
https://www.stormarea51.us/
[リンク切れ]

「ストーム?! ストームって… そういえば学生時代にストームってあったな。」 
30数年前のことで記憶があやふやなので検索してみると、Wikipediaにストームの項目がありました。 
>「バカ騒ぎ」を基本とし、窓ガラスを叩き割るなどの破壊行為にまで至ることも少なくなかった。歓迎ストーム・返礼ストーム、街に出て気勢を上げる街頭ストーム、巨大な火を焚きそれを囲んで行うファイヤーストーム、夜中に入学の抱負などを言わせ説教のようなものを続ける説教ストームなどもあった。
--------------------------引用終わり
大学で木造の学生寮に入ってそこでストームの洗礼を受けたのですが、時々酔っ払いが一升瓶を持って、無理やり酒を飲ませて各部屋を廻ってゆくのを、そう呼んでいました。 
ドンドンドンと扉を叩いて、すぐに出ないと扉が壊されることもあるので、ストームが廻って来ると、扉を開けて待ちうけ、勧められるままにお酒を受けて、何事もなく嵐が過ぎ去ってくれるのを祈るばかり。 
そういえば入寮して新人歓迎会でお酒を飲まされ酔いつぶれた人が何人か出てくる頃、「女子寮にストームに行くぞ」の掛け声で、鉄筋コンクリートの新築の女子寮に向かうと、もともとそういうスケジュールになっていたようで、ちゃんとお酒とおつまみが準備されていて、女子寮生が接待してくれたことを思い出しました。 
あとで教授にストームの話をしたら、教授もストームの経験があると言い、旧制高校以来の伝統があるのを知って苦笑。 
何かのエッセイで昔のストームの話を読んだ記憶もあるのですが、もうどんな話だったのか思い出せません。
----------
ここから現在の時点での追記になりますが、井上忠についての論文を見ていたらストームのことが記されていました。
「入学後も『ストーム』といって,就寝中に先輩たちが部屋に乱入し,新入生たちを叩き起こして,怒鳴ったり寮歌を高唱したり,演説や説教をしたりするという習慣があった.
17 歳の井上も,初めて親元を離れ,全国から集まった学生たちとの,この濃密な共同生活に入った.
それまでの自分が『どんなにむなしいものかいやというほどたたきつけられ』るような経験をしたのであろう. 広島県の『大秀才』だった井上が,一高の学生たちの中で揉まれ,精神的自立そして知的自立への第一歩を踏み出したのである.」

そろそろ人生も黄昏れてきて、死語になりそうなむかしの学生文化の有様を表すことばの体験者として、ささやかな記録を残しておきたいと思いました。


井上忠の超越体験

2022-01-16 02:48:00 | 日記
下照彦さんの宗教体験が興味深いので、ブログ「人生の裏側」を最初から時系列に沿って読んでいるところなのですが、玉城康四郎、マイスター・エックハルト、実存など、かつて哲学徒であったわたしには懐かしいことばに暗い青春を思い出し、胸が熱くなりました。
玉城康四郎は雑誌『理想』での井上忠との対談で知ったように記憶しています。はっきりと断言できませんが、同じく『理想』の1984年12月号、聖書特集で井上忠が自らの宗教体験を明らかにしたことが二人の対談の切っ掛けになったのではないかと想像しています。
学生の頃、夜の研究室でよく時間を潰していました。そんな夜、ブーバーの研究家の稲村秀一先生がやってきたので、井上忠さんの体験談の話をしてこの雑誌を渡しました。いま稲村先生が唸るようにこの記事を読んでいた風景が甦りました。
以下その談話の引用です、

二冊の「本」

井上 忠


 そこの棚にボロボロになったヘブライ語の旧約聖書と、ギリシア語の新約聖書がありますね。別に珍しい版本でもありませんが、ほら、この扉に「昭和十九年九月十八日 神田にて求む」と記入がありましょう、当時とにもかくにも手に入れることのできた本です。ただこの二冊の本を買ったいきさつをお話させていただこうと思います。
 元来、聖書ともキリスト教ともなんの関わりもない環境でわたしは生まれ育ちました。両親がともに教員だったので、生後四十一日目から小学校にあがるまで、わたしは昼間のあいだ、生家と背中合わせの隣だったNという老人夫妻にあずけられて子守してもらいました。このじいちゃん・ばあちゃん(幼いわたしはそう呼んでいました)が、土地柄、熱心な安芸門徒で、質朴な信心そのものの暮らしぶりをしており、ことにお爺さんは剛気な風貌を残しながら、ほとんど妙好人といっていい人柄でした。

 幼いわたしに、死と死を超えるものへの感覚が芽ばえはじめたのは、そうした日々のうちからでした。こんなこともありました。数え年五歳と六歳のとき、一度ずつですが、夢に阿弥陀さまが現われて、お前は五つで(次の年には、六つで)死ぬと言われ、ひとりで死ぬ淋しさ怖さに夜中に目覚めてふるえました。どちらの時か忘れましたが、たまりかねて父に訴えますと、いつも優しいひとなのに、「神経質な子だねえ」と言っただけだったので、子供心にも、自分の死の切なさが、そんなにありきたりの一言で片づけられるのに、なんだか肩すかしをくった意外感を禁じえませんでした。

 もっとも開明家の父は坊主臭い「宗教」が真っ向から嫌いだったらしく、若くして歿した父の先妻の墓は、戒名など一切なく、俗名のままで今日でも中国山脈の奥懐に立っており、鉄道もない大正期には、草深い習俗の里にさぞ異彩を放っていたことでしょう。

 むかしの高等学校、いまの駒場へ入りまして、青春お定まりの「人生の悩み」が始まりました。もっとも艶っぽい話にはなりません。人生って何だ? 自分では「大いなる価値転換」のつもりでも、跡を辿ればなんのことはない、ニーチェ、ショーペンハウエル、カントと、まずはデカンショ・ラインです。一新した風景を背に親鸞も懐しい想念の故郷として姿を現わしました。
 しかし、この時期の極めつけは、自己とは何か? といった悩みでした。そしてこの問いは、疑問とか煩悶とかであるよりも、「自己」というコトバヘの執着、あるいはむしろこのコトバの魔術による呪縛であったようです。本を読もうとしても、なにか論じようと思っても、自分が何か分かってもいないのに、どうしてそんな呑気に「解説」をわがもの顔にできるのか、自分になんの権威があって、何がどうのと言葉を語り紡ぐことができるというのか。夜も昼もわたしにはこの台詞がまつわりつき、「現実を受け容れることは不可能であり、しかも同時にそれを受け容れないことも不可能である。……もはや壁に頭を打ちつけることしか残っていない」状況でした(引用はシェストフ「アントン・チェホフ」の一節ですが、この一句は、「無門関」の「この熱鉄丸を呑了するが如くに相似て、吐けども又吐き出さず」とともに、当時のわたしの究境をもっとも的確に描破したものとして、忘れられません)。
 「自己」の一語は、全現実を崩落させ、事実としての自らの死をも退けて、絶望の永劫を垣間見せる想いでした。魂の永遠は、希望の明るさとしてではなく、死の事実をもってしても侵すことも、無化することもできぬ絶望の深淵として、まず現前してきました。それはわたしが人生で初めて出遭ったのっぴきならぬ原点でした。のちにわたしの書いた小さな記念碑「イデアイ」のなかでも、「眠るものは絶望者ではない。喰ふものは絶望者ではない。行動は逃避である。およそ事実に、おのが肉体なる事実にすら、妥協するものは、絶望者ではない。絶望は、一切の事実よりおのれを異ならしめ、ただ永遠に一貫して自己自身であらうとする凝縮の一点である」として、この原点が、結局わたしの哲学の出発点となったことを示しています。
 むろんこの「絶望」方式は、キルケゴールの「死にいたる病」と同じ途を辿ったものです。岩波文庫に入っていたこの本も、当時の書籍事情で、とてもおいそれと入手できませんでした。偶然、この貴重な一冊をもっていた友人のI君から借りて、大学ノートに写してゆきました。一字一字が岩を刻む思いで、わたしの魂に響きつづけ、絶望の暗さと確乎さはついに写本する手すら凝結させました。眼すら見え難くなりました(そのとき何も言わず、母が写本をつづけてくれました。ですからいまも、後半が母の手になるこのノートが残っています)。
 意識してはもはや眠るどころか、肉体をもって呼吸することすらできないと思われる一ヶ月余(「四十日四十夜」が人間の霊肉に対してもつ意味の精確さは恐るべきものです)。四周の世界は影絵みたいに薄墨み、わたし自身も影法師になったようでした。そしてその夕方影法師さながらのわたしは南寮(現東京大学教養学部第一研究室)の屋上で、通気塔によりかかりながら佇んでいました。
 薄墨の世界が一気に裂けました。天地は眩い紫の光に明るく満ち溢れ、人の形に近い巨大な輝く姿が頭上に追ってきました。その時です、まったく予期しなかった声が、わたしの脚下から轟きました。
 「汝の罪許されたり」
 それはわたしが立て籠り、全現実を拒否し、魂の救いを宣べる言葉を排拒しぬいてきた絶対(と見えました)の牙城、絶望を、抵抗するすべもなく一挙に粉砕し、わたしを明るい無条件の自由と歓喜へと解放し去り、もはや一抹の疑惑の余地も残しませんでした。
 思えばあの声は不思議でした。キルケゴールの「絶望」は自分の言葉として了解できても、それを「罪」とする点には、いつも違和感があり、自分を深重の罪人とする親鸞には馴染んでも、キリスト教の意味での罪を自分に引き当てたことはありませんでした(なにしろデカンショ教養程度だったのです)。なのに、あの声は紛れもなく、キリスト教の言語でありました。そして「自己」の抵抗はそれによって跡かたもなく解消されたのです。一九四四年九月十七日の夕景でした。
 キリストの道に歩もう。それには「聖書」がなくてはならない。その折になって思い出したのは、田舎の家からもってきて、吉祥寺の知人の家にあずけてある書物のうちに、ほんの気紛れのように紛れ込んでいた父の聖書です。父がむかし英会話を習った宣教師から貰ったものらしく、父にもわたしにも別に興味もない代物だったのですが、ただ見事な革製天金の「本」というだけの理由でもってきてありました。その「本」がいまや十八歳半ばのわたしに暗夜に輝く灯台のごとくと燃え上がりました。その夜は、しかし、台風のせいらしい嵐となり、吉祥寺に急ぐわたしは、久我山あたりで帝都線が停電で止まってしまい、夜道をずぶ漏れになりながら、「本」にまで辿りついたのでした。
 明くる日は快晴で、なにはともあれ「本」の原書をと、神田の古本屋街にかけつけ、持っていた全財産をはたいて、ヘブライ語とギリシア語の聖書を買い込みました。それがご覧の二冊です。(談)
(いのうえ・ただし 東京大学教授・哲学)


追記

ここで紹介した聖書特集のあとの井上の対談相手は八木誠一でした。

井上忠と玉城康四郎の対談は1975 年(昭和 50 年)10 月 31 日「道元の世界と哲学 」『理想』第513号で、この談話に先立っていますので、わたしの記憶と想定は間違っていました。

井上忠の『根拠よりの挑戦』を読んだ玉城康四郎が対談相手として井上を指名したことにより、この対談が成立しました。玉城は対談の冒頭で「〔井上〕 の問題意識が道元の根本問題と同質的なものだと、ぼくは感ずる」と指名の理由を述べています。

またキルケゴールの『死に至る病』を貸してくれた友人のI君は今道友信のようです。

2022.01.21