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行けないのもつらいけど・・行ってもつらかったコンサート総集編

2011-04-16 08:21:54 | 娯楽
3月11日 あの大震災以来何かが変わってしまったような気がします。

小さなころから音楽が大好きだった私。

子育て中はコンサートどころか映画館にすら行けなかったけど、ここ数年はまた昔のようにたまに行くライブはとても楽しみな趣味とも言えるものでした。

高校時代は軽音部に所属し、一時は「聴かせる側」になろうとした事もあったけど、自分のリズム感 才能 センス 全てのなさを実感し、「聴く側」に徹しました。

でも今はとてもあの暗く狭い空間に身を置く気がおきません。
こう余震が頻発し、あの程度の揺れで交通機関が全てマヒし、帰宅困難者となった経験はやっぱり強烈なものでした。

仕事ならともかく遊びで被害被っても同情の余地もなさそうだし。第一無理してまで行く類のものでもありませんしね。

しばらくライブ活動はお休みです。

いつかまた行けるといいですね。まあそう遠くない将来だと思いますが。

お友達には本当に助けられて、ありがたく思っています。

福島茨城岩手県産のものをいっぱい買って、家族の為にお料理しましょ。

この記事は何年か前昔経験した「ちょっと残念なコンサート」をこんな事もあったなあと他の場所でまとめたものです。音楽関係なのでこちらに移してみました。
私の大切な財産だし。

趣味を楽しむ心のゆとりって大切ですよね。じゃなきゃ人の事も助けられないと思うし。

頑張れニッポン!!頑張れ東北!!頑張れわたし!!



ポールマッカトニー(79年頃 日本武道館)

実際には成田でマリファナ所持のためとっつかまり、幻となった日本初公演。

何がつらかったってチケットゲットまでの道のり。私はまだ高校生。時は12月。

その頃はちけぴやらイーチケットなんてものはこの世に存在しなかった。プレイガイドにて一斉発売。

学校のビートルズファン仲間7~8人で銀座ソニービルに夕方から並んだ。徹夜したのだ。

比較的暖かかったとはいえ、夜の冷え込みはハンパではなく、何も持たずに厚手のコートのみというおバカな集団の我々は凍死しそうになった。もちろん一睡もできなかった。

すぐ後ろの男子高校生グループは慣れていたらしく、レジャーシート、ボードゲーム、ラジカセ、寝袋と万全の態勢だった。

地下鉄もしまってしまい、暖をとることもできなくなった私たちはその辺に捨ててあった新聞紙にくるまった。新聞紙があんなに暖かいものだとこの時初めて知った。

その列は新橋付近まで続いていたと思う。お祭りみたいで今思えば楽しかったけどね。

こんな思いをしたにもかかわらず、あっさり払い戻しとなったのは言うまでもない。



オフコース(81年頃 日本武道館)

これはニッポン放送に並んで取ったと記憶している。コンサート自体はすごくよかった。

ただ、一緒に行く約束をしていた当時の彼と直前けんか別れしてしまい、友達を誘っていったというのがほろ苦い。



さだまさし(81年頃 横浜球場)

その日私は何かの用事で横浜を一人で歩いていた。多分元町のミハマとかキタムラあたりを見に行ったんだと思う。ハマトラ女子大生だったからね。

夜は東京で約束があったため、スタジアム横をを関内方面に向かい歩いていたんだと思う、確か。

そしたら少し年上位の男性が声を掛けてきた。

「あの~すいません。友達がこれなくなったもんで、よかったら聴きませんか?」といってチケットを差し出してきた。

「あ、お金ないので」と当然断った。ところが

「いえ、そんなのいりません。もったいないので、もしよかったら是非いらしてください」といってかなりしつこく誘われた。

いい人そうだったし、なんか気の毒だったので、最後までは居られないことを話し、結局一緒に見ることになった。

「レコードいりますか」「プログラム買ってあげましょうか」「オレンジジュースでいいですか」とかなりサービス精神旺盛な人だった。もちろん丁重にお断りしたけど。飲み物はもらったんだっけかなあ。

出だしはさだ妹の「白鳥座」というグループで、あくび噛みしめるのに苦労した。

やっと本人が出てきたと思ったらやたらしゃべりばかりで(今でいうところのMC)、結局1~2曲歌ったところで逃げるように退散した。

その人はしゃべりの時は大笑い。歌の時は目をつむり腕を組み体をゆすって浸りきっていた。本当に好きだったのだ。

尊敬するさだまさしのコンサートに空席作るのが許せなかったのか、それともナンパだったのか未だにナゾ。

名前もお互い名乗らずお別れしました。



レイパーカーJr.(82年頃 中野サンプラザ)

当時流行った「ウーマンニーズラヴ」がいいよね~なんて話をクラスでしていたところ、それを聞きつけた大して親しいとは言えないクラスメートから「今度来日するから一緒に行こうよ。チケは私が取るから」と言われ、行くことにした。

代金だけ払ってチケは当日待ち合わせたときに渡すからと言われ、私は中野駅前で待っていた。ところが彼女は現れなかったのだ。

自宅に電話したり、会場まで行ってみたりしたけどとうとう会えなかった。そう、私はコンサートに行けなかったのだ。目の前まで来ていたのに。

その夜遅く「どうしたの~」という能天気な電話が掛ってきたけれど、間違いなく彼女はこなかった。もちろんお金は返ってこなかった。悲しいけれど、だまされたんだと思う。あまり評判のいい子じゃなかったし。

すごくショックだったけど、もしかしたら私の勘違いという可能性もあるわけだから泣き寝入り。


シカゴ(85年頃 日本武道館)

これはもう勉強不足が敗因のコンサート。

シカゴってやたらラジオやTVで流れるのですごく聴いているような気がしていたのだけど、実際は「サタデーインザパーク」「素直になれなくて」「愛ある別れ」の3曲しか知らなかったことが判明。

シカゴ好きの友達の彼氏に誘われて4人で行ったのだけど、彼ともう一人の女友達がノリノリだったのに比べ、私と彼女は頭の上にいくつも「?」が飛んでいた。

アリーナの結構いい席だった為に周りはスタンディング状態。座ることもできず私たちの所だけ空気が違ってた、みたいな。

ヴォーカルがピーターセテラじゃなくなっていたのも痛かった。



マドンナ(87年 後楽園球場)

デビュー以降飛ぶ鳥落とす勢いだったマドンナ待望の来日公演。後楽園3DAYSだったか4DAYSだったか。

期待に胸ふくらませて行ったら「体調不良のため本日の公演中止」の張り紙が!!

その前後はちゃんとやったのに、その日だけいきなり中止。

「やって~やって~」の大合唱だったが、そんな声本人に届くはずもなく、家路につく以外なかった。

後日TV放映されたコンサートの様子は超素晴らしくて余計腹が立った。



ピンクフロイド(88年頃 日本武道館)

これは私の知ったかぶりが敗因のコンサート。飲み会でピンクフロイドの「狂気」と「炎」のどっちがいいかという話題になり、「狂気」の方が有名だったから「やっぱ狂気じゃない?」などと口をはさんだばっかりに詳しいと勘違いした男友達が「来るんだよ。行こうぜ」と言い出し、引っ込みがつかなくなった。

案の定私には理解不能。さっぱりわからなかった。ただ、レーザー光線を多用した視覚的要素は素晴らしかったけど。ちょうど「2001年宇宙の旅」を無理やりガン見させられてたようなカンジ。



ポールマッカートニー(90年頃 東京ドーム)

法務局のお許しが降りて10年越しやっと実現した来日公演。この時はもうちけぴ電話予約でOKだった。

あのビートルズのポールが生で見れるのだ!とわくわくどきどきで行ったのだが・・。

目の前に居たのはただの外人のおっさん。サービス精神だったのだろうけど

「ボクノカミサン リンダデス」とか「オオキニ」「マイド」なんて言ってたような気がする。

ビートルズナンバーやウィングス時代のヒット曲など満載だったのだけど、どうにもこうにもイマイチだった。

ほぼ時を同じくして初来日したローリングストーンズが涙ちょちょぎれの感動モノだっただけに、その差は歴然というか、この人はコンポーザーであって、観るアーティストじゃないな・・と思い知らされた。



マドンナ(90年頃 千葉マリンスタジアム)

こちらも3年前のリベンジ。今でこそ真のエンターテイナーとなった感があるマドンナだが、この頃ちょうどそれまでの人気に陰りというか、下降線の時だった。はっきり言って都落ち。なのに本人は

「サンキュー トーキョー」と何度も叫んでいた。東京じゃないのに・・。ディズニーランドなんて問題じゃないくらい千葉なのに。本人は東京だと思ってたのかなあ。海外から見たらおんなじようなもんだもんね。

小雨降りしきる中空席もかなり目立ち、やっぱり3年前に観たかったという思いだけが残った。



ざっとこんなだろうか。もっとあるような気もするけど。

なんだかんだ言っても残念なコンサートより素晴らしかったもの、めっけもんだったものの方がはるかに多く、やっぱりライブは楽しい。

文字通り「生きてる!」っていう感じがするし。私にとってはいつまでも大きな楽しみのひとつ。

行ける回数は限られるけど、これからも大小有名無名に拘わらず果敢にチャレンジ!!



とまあ、こんな事を書き連ねていた訳ですが・・・。

一日も早く事態が収拾され、落ち着いた日々が送れますように。心から願っています。