ひまわりの名前

書きたいこと、忘れたくないことだけ。

ノートルダムの鐘 雑感

2017-05-16 10:29:15 | 日記

ずっとブログに文章を書くのが楽しくなくなってて、どうしてかなぁって思っていた。
好きなことだけ、感動したことだけを書こうっていうのがポリシーだったのだけれど、自分で自分を縛っていたのかなぁ、、と。
イヤだなと思ったことをそのまま書いてしまうのは、あまりにも子どもっぽいけれど。
たとえば観劇をしたあとに、なんてつまんなかったんだろうとか、なんてヘタな人をキャスティングするんだろうとか頭にくることってある。
安からぬチケット代を払って、頭痛がするような歌と演技を見せられた日には、、。
いや、誰とか何とかは書きません。
でもつい最近、とても腹が立ったことがあった。
一番腹が立つのは、その舞台を見ようと決めた自分に対してだったけど。

さて、それはともかく、、
去年からの私のブーム「ノートルダムの鐘」について。
少し落ち着いてきた今、あまり気負わずに思うことを書いておきたい。

不思議な作品だと今も思う。
ちょっと面食うほど。
終わった途端、涙がドワーッと溢れ出たのに、その涙のわけがわからなかったのだから。
自分はいったい何に感動してるんだろう?
キャストさんたちの技量や音楽や舞台美術など、感動する場面は多々あれど、ストーリー的にはちょっとした「違和感」とか「嫌悪感」のようなものを感じていたのだ。
登場人物の誰にも好意を持てず、人間の宿命的な醜さにうんざり気味だった。
それなのに終わったあと、涙でぐちゃぐちゃになりながら心が震えていた。
救いようのない醜くさ、光の見えない世界を突き付けられたのに、美しい舞台だった、良いものを見たなぁ、、と心底思いながら帰途についた。
自分の中ですぐに整理のできない作品だけれど、納得いくまで何度でも見たい、、と思った。

初見は、海宝さんのカジモド、芝さんのフロロ。
海宝さんのカジモドは、一言で言ってしまえば「メリハリ」の効いたパンチ力のあるものだった。
それが物語にリズムと活気を生み出す。
歌唱も演技も申し分ないうえに、どこか絵画的な舞台にドラマチックな演技が合っていた。
レンブラントの絵のような光と影のコントラストの見事さ。
それゆえ最後のシーンの美しさが際立った。
たぶんあの光輝く美しい姿が無かったら、今もこの作品を追っかけてはいなかった。
最初に海宝さんのカジモドを見たのは、私にとって大きかった。

そして芝さんのフロロは、歪んだ人間として徹底されていた。
なのでカジモドがフロロにしたことがやむを得ないような流れに持っていかれる。
それでも私はその場面に嫌悪を感じた。
なぜなら登場人物の中でもっとも共感してしまうのはフロロだったから。
狭い世界で自分の価値観が絶対だと思い、人にもそれを強制してしまうフロロ。
でも彼の生い立ちや境遇を考えたら、しかたないと思える。

カジモドが受けてきた処遇は今だったら児童虐待になるのだろう。
しかしカジモドの鳴らす鐘は、街の人々に活気を与え続けてきた。
彼はある意味、社会の役に立ってきたのだ。
一方的ではあるけれど彼なりの方法で関わることができた。
それを思うと、フロロは悪者とばかりは言えなくなる。
カジモドがフロロを投げ飛ばす場面。
鳥肌が立つほど衝撃だった。
カジモドは人間。つまりは怪物をうちに秘めていたのだ。

ところが、ラストその怪物は舞台上で清々しい美青年に変わる。
光の中で彼は静かなよく響く美しい声で語るのだ。
ノートルダム寺院の地下室に起きた後日談を。
粉のように一瞬に消え去ることで永遠に続くかのような余韻を残して。
ずるい、、けどこの美しさは痺れる。
歴史に残るラストシーンだと思う。


正直、海宝さんのカジモドを見てここまで心を揺さぶられてしまったのだから、これ以上の感動なんて無いだろうと私は思っていた。
2回目の観劇は、飯田さんのカジモドで野中さんのフロロだった。
そして、私はこのふたりの組み合わせでも深く感動し泣いてしまったのだった。
なぜならこのカジモドは、限りなく心が子どものままだったからだ。
体は大人になっても、心が子どものままということはある。
そしてエスメラルダに会って恋をして彼は変わる。
変わらなければ知らないで済んだだろう期待と失望を知ることになる。
母性に似た慈愛を感じさせる岡村さんのエスメラルダが、カジモドの頬に触れたりキスをするシーンがある。
飯田さんのカジモドが相手だととても自然に感じた。

そして野中さんのフロロは、歪んでいるというより、初めて訪れた恋によって道を踏み外していく初老の男であり、エスカレートしていく様がなんとも哀れだった。
どんどん人としての道から外れていくのに、自分は正しいのだと信じ続ける、というかそうしないではもはや自分が保てないことを感じているのだ。
でも彼はカジモドだけは自分に歯向かうと思っていなかったと思う。
親がわが子に抱く妄想に似ていて泣ける。

エスメラルダをめぐる3人の男性は、みな恋によって目覚め、変貌する。
フィーバスの変貌は相手の立場を理解し生き方を改めるといったものだった。
カジモドの子どもから大人への変化も、フロロがあそこまで理性を失うことが無ければ、むしろ成長と言っていいものだった。
歯車を狂わせたのはフロロだけれど、それでもやはりカジモドの行為は悲しい。
2回目の観劇は、より人間的な登場人物たちによって初見の時とはまた違った感動があった。
人は知ることで楽園を失い、知ることで苦しみを背負う。
原罪を越えた先に在る愛とか希望とかを信じていいのだろうか、、などと思考は今もまだ堂々巡りをしている。



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