写真は当時の美術の授業風景です。
富田先生も見えますね。
実は…初代校長の岩口は2年足らずで、転勤してしまうんですね…
いろいろ深い家庭の事情があったわけですが、岩口は本当に断腸の思いで御船高校を去ったようです。
そのときのことを岩口自身は…「一身上の都合により産声を上げたばかりの愛児とわかるるような悲痛な想いではあるが、御船中学校を去らねばならぬ事情あり。不実と言われても致し方ない生みの親は遠方からわが児の成長をそれとなく幸あれかしと日々祈願するより他になし…」と語っています。
悲痛な思いが伝わってきますね…
しかし、富田をはじめ残された先生と生徒たちは岩口の教育理念の元、素晴らしい学校を作り上げます。
当時の新聞に「生徒と先生が一体となった教育はまさに現代の松下村塾…」と書かれた位です。
…中学校はどこの学校に何人はいったとかを競う物ではない、教育は人作りだ…と、受験教育より人作り、志作りに重きを置き、誠実・自学・自律という、綱領に沿った自由闊達な教育は、結果として多くの生徒たちを一流の学校に進学させることになります。
こんな熊本の片田舎から、日本最高の美術学校、東京美術学校(今の東京藝術大学)を始め、京都市立美術学校(今の京都市立芸術大学)、東京高等師範学校図画手工専科(今の筑波大学芸術学群)、東京高等工芸学校工芸図案科(今の千葉大学工学部デザイン工学科)などに何人もの生徒を送り出すことになるのです。
一時は東京美術学校に御船中学校の同窓生が同時に4人在学するなど、美校始まってらいといわれる快挙を達成しました。
美術だけではありません。
昭和5年には、陸軍士官学校(今の防衛大学)に全国一の合格者を出すことになります。
士官学校といえば、当時は今の東大より人気が高い学校です。
凄い…
そして、富田の教え子達の中から、何人もの日本を代表する画家や美術教師が生まれることになります。
そのお話しはまた今度。
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富田先生も見えますね。
実は…初代校長の岩口は2年足らずで、転勤してしまうんですね…
いろいろ深い家庭の事情があったわけですが、岩口は本当に断腸の思いで御船高校を去ったようです。
そのときのことを岩口自身は…「一身上の都合により産声を上げたばかりの愛児とわかるるような悲痛な想いではあるが、御船中学校を去らねばならぬ事情あり。不実と言われても致し方ない生みの親は遠方からわが児の成長をそれとなく幸あれかしと日々祈願するより他になし…」と語っています。
悲痛な思いが伝わってきますね…
しかし、富田をはじめ残された先生と生徒たちは岩口の教育理念の元、素晴らしい学校を作り上げます。
当時の新聞に「生徒と先生が一体となった教育はまさに現代の松下村塾…」と書かれた位です。
…中学校はどこの学校に何人はいったとかを競う物ではない、教育は人作りだ…と、受験教育より人作り、志作りに重きを置き、誠実・自学・自律という、綱領に沿った自由闊達な教育は、結果として多くの生徒たちを一流の学校に進学させることになります。
こんな熊本の片田舎から、日本最高の美術学校、東京美術学校(今の東京藝術大学)を始め、京都市立美術学校(今の京都市立芸術大学)、東京高等師範学校図画手工専科(今の筑波大学芸術学群)、東京高等工芸学校工芸図案科(今の千葉大学工学部デザイン工学科)などに何人もの生徒を送り出すことになるのです。
一時は東京美術学校に御船中学校の同窓生が同時に4人在学するなど、美校始まってらいといわれる快挙を達成しました。
美術だけではありません。
昭和5年には、陸軍士官学校(今の防衛大学)に全国一の合格者を出すことになります。
士官学校といえば、当時は今の東大より人気が高い学校です。
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