紅雨荘別館

況やこれ青春。日将に暮れんとして、桃花、乱れ落つること紅雨の如し。

太宰府

2007-06-04 | Lumix07
太宰府天満宮の帰り道。観光客の大半は天神さんだけお参りして帰るのだけど、ここは2度目。観光地図を見ると少し離れた所に戒壇院の文字が・・・ということで、興味に駆られて行ってみました。太宰府駅前から100円均一の「まほろばバス」という周遊バスが出ています。観世音寺バス停から楠の大樹が繁る参道を行くと正面に観世音寺が見えてきます。


天智天皇が母である斉明天皇の冥福を祈って発願し、天平18年(746年)に落慶したという古刹。今は小さいお堂が残るだけです。


境内の隅には、白鳳時代に鋳造されたという、京都妙心寺の鐘と並ぶ日本最古の梵鐘(国宝)がありました。太宰府に流された菅原道真が「都府楼纔看瓦色 観音寺只聴鐘声」(都府楼は纔に瓦の色を看る 観音寺はただ鐘の声を聴く)の詩句を残してるとか。これの本歌はやっぱり白居易の「遺愛寺鐘欹枕聴 香炉峰雪撥簾看」(遺愛寺の鐘は枕をそばだてて聴き、香炉峰の雪は御簾を撥ねて看る)なんでしょうね。


観世音菩薩は御簾で顔を隠しておられました。
次にお寺の敷地内にあったという戒壇院を探してウロウロしていると、隣の民家の庭先に僧正玄ぼうの墓を発見。阿倍仲麻呂や吉備真備等と共に唐に渡り、帰国後は朝廷で権力を振るいましたが、天平17年ここ観世音寺別当に左遷。翌年観世音寺建立の日に死去。藤原広嗣の怨霊に殺されたとか・・


そしてやっと戒壇院を発見。鑑真が奈良唐招提寺に戒壇院を開いたのが754年。その後、天平宝字5年(761年)下野の薬師寺と筑紫の観世音寺に東西2つの戒壇院を置き、「天下三戒壇」としたわけです。ですからここの開祖は鑑真。


本尊は平安時代作の廬舎那仏。重要文化財。でも光背は江戸時代に付け加えたものらしいです。


今は観世音寺から離れ、博多の禅寺が管理しているとか。


ここから更に歩いて都府楼を目指しました。「太宰府」があったところ。水田の中には「官衙跡」という昔の官庁建物の礎石が点在。そして広々とした都府楼跡へ到着。南大門(跡)を無事通り過ぎると・・


今はこの「都督府跡」を示す石碑だけが立っています。


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