連なる庄内川の形作った平野に向かって突き出した名古屋台地の西北端に位置する。この場所は、北に濃尾平野を一望のもとに監視できる軍事的な要地にあたる。築城以前、台地縁の西面と北面は切り立った崖で、その崖下は低湿地となっており、天然の防御ラインを形成した。また、伊勢湾に面した港である南の熱田神宮門前町からは台地の西端に沿って堀川が掘削され、築城物資の輸送とともに、名古屋城下町の西の守りの機能を果たした。
縄張
名古屋城の縄張は、それぞれの郭が長方形で直線の城壁が多く、角が直角で単純なつくりである。構造は典型的な梯郭式平城で、本丸を中心として南東を二の丸、南西を西丸(にしのまる)、北西を御深井丸(おふけまる)が取り囲んでいる。さらに南から東にかけて三の丸が囲む。西と北は水堀(現存)および低湿地によって防御された。南と東は広大な三の丸が二の丸と西丸を取り巻き、その外側の幅の広い空堀(一部現存)や水堀に守られた外郭を構成した。さらにその外側には、総構え(そうがまえ)または総曲輪(そうぐるわ)と呼ばれる城と城下町を囲い込む郭も計画されていた。西は今の枇杷島橋(名古屋市西区枇杷島付近)、南は古渡旧城下(名古屋市中区橘付近)、東は今の矢田川橋(名古屋市東区矢田町付近)に及ぶ面積となる予定であったが、大坂夏の陣が終わると普請は中止された。ただし、外郭の一部である木曾川には御囲堤という堤防が造られることで、西の防備は整備されている。
本丸
現存する本丸未申隅櫓
桜の展望名所でもある辰巳隅櫓からみた大天守と小天守。2008年4月本丸はほぼ正方形をしており、北西隅に天守、その他の3つの隅部に隅櫓が設けられ、多聞櫓が本丸の外周を取り囲んでいた。門は南に南御門(表門)、東に東御門(搦手門)、北に不明(あかず)御門の3つがあった。ほとんどの櫓や塀は、白漆喰を塗籠めた壁面であったが本丸の北面のみ下見板が張られていた。本丸の3つの虎口のうち南(西丸側)の大手口と東(二の丸側)の搦手口の2箇所には、堀の内側に2重の城門で構成される枡形門があり、堀の外側には大きな馬出しを構え、入口を2重に固めていた。外の郭から土橋を通って馬出しに入る通路には障害となる直線状の小石垣があり、本丸に背を向けないと通れないようになっていた。馬出しの配置も巧みであって、一部の郭を占領されても本丸には容易に進入できない構造になっている。また、ある虎口を攻めようとすると、別の虎口から出撃して撃退できるようになっている。隅櫓はすべて2層3階建てで、その規模は他城の天守におよぶ。また、外観意匠もそれぞれ相違させ、今日でいうデザインを重視した設計も行われている。現存しているのは、南東の辰巳(たつみ)隅櫓、南西の未申(ひつじさる)隅櫓で、北東の丑寅(うしとら)隅櫓は戦災で失われ櫓台のみ残っている。 多聞櫓は長屋状の櫓で、奥行は5メートル強あり、内部には武具類や非常食を収納し、十分な防御能力を持っていた。多聞櫓はすべて濃尾地震で破損し、取り壊されたため名古屋城での現存例はない。
馬出しと桝形の周囲は多聞櫓で囲まれているので、侵入者は180度の方向から攻撃を受けるような構造になっていた。現存しているのは南二之門である。不明御門は埋門(うずみもん)形式で非常口として使われていたが、戦災により焼失した。南御門と東御門は、どちらも桝形門を採用し、空堀に渡した通路(土橋)の外側には巨大な馬出しが設けてあった。他の郭から本丸に侵入するには、次のように馬出しと桝形を通過しなければならない。まず馬出しへの土橋を渡り、石塁突き当たり横に折れ、本丸に背を向けて馬出しの門を通過し、馬出し内をUターンするように進み本丸への土橋を渡り、二之門(高麗門)を通り、桝形に入って横に折れ、一之門(櫓門・総鉄板張)を通る。なお、現在空堀となっている本丸をめぐる内堀には鹿が放されている。
天守
外観復元された大天守
空襲で炎上する大天守(1945年5月14日)
天守台には、熱による石の劣化がうかがえる。大天守と小天守を結ぶ廊下の内部。屋根は無い天守は本丸の北西隅に位置する。連結式層塔型で、大天守の屋根の上には徳川家の威光を表すためのものとして、金の板を貼り付けた金鯱(金のしゃちほこ)が載せられた。大天守は層塔型で5層5階、地下1階、その高さは55.6メートル(天守台19.5メートル、本体36.1メートル)と、18階建ての高層建築に相当する。高さでは江戸城や徳川大坂城の天守に及ばないが、延べ床面積では4,424.5m²に及び、その内部には1,759畳の大京間畳(長辺が7尺)が敷き詰められていたといわれる。層塔型であるため、下方に天守の台座となる大入母屋屋根を持たないが、末重部分が平面逓減に関係なく大きく造られる構造は望楼型天守の名残を残す。大天守の屋根には、より軽量で耐久性のある銅瓦が2層目以上のすべてに葺かれている。慶長年間に建てられた当時の大天守の屋根は、最上層にのみ銅瓦が葺かれていたが、1755年(宝暦5年)に行われた大天守の修復工事の際に、現在の再建天守に見られるような銅瓦葺とされた。また同時に、雨水による屋根への負担を減らすための銅製の縦樋や、破風を保護するための銅板張のほか、地階に採光を取り入れるための明かり取り窓が石垣の上に設けられた。壁面は大砲による攻撃を考慮して樫の厚板を斜めに鎧状に落とし込んでいる。外面はそれに土壁を厚く盛った上に漆喰を塗り、内面は檜の化粧板が張ってあった。また、土壁に塗り込められているが射撃用の隠狭間があり、戦闘時には土壁を抜いて使用することになっていた。小天守は2層2階、地下1階で、大天守への関門の役割があった。平面は長方形で外見は千鳥破風一つという簡素な意匠ではあるが、規模は他の城の3層天守よりも大きい。大天守の西にもう一つの小天守があった、もしくは、計画されていたいう説がある。 根拠としては大工頭を担当した中井家に小天守の描かれた指図が残されており、また大天守台西面には開口部を塞いだような跡が見られる。天守は1612年(慶長17年)に完成し、以来333年間、何度かの震災、大火から免れ、明治維新後の廃城の危機も切り抜けた。推定マグニチュード8.0の濃尾地震(明治24年)にも耐えたが、1945年(昭和20年)の空襲で焼夷弾が、金鯱を下ろすために設けられていた工事用足場に引っかかり、そこから引火して焼失したといわれている。1957年(昭和32年)名古屋市制70周年記念事業と位置づけられて間組により天守の再建が開始された。このとき、大天守を木造とするか否かで議論があったようだが、石垣自体に建物の重量をかけないよう配慮し、天守台石垣内にケーソン基礎を新設し、その上に鉄骨鉄筋コンクリート構造(SRC造)の大天守を載せる外観復元とし、起工式は1958年(昭和33年)6月13日、竣工式は1959年(昭和34年)10月1日のこととなった。再建大天守は5層7階、内部にはエレベータが設置されている。外観はほぼ忠実に再現しているが、最上層の窓は展望窓として焼失前より大きなものとしたので、下層の窓とも意匠が異なる。
縄張
名古屋城の縄張は、それぞれの郭が長方形で直線の城壁が多く、角が直角で単純なつくりである。構造は典型的な梯郭式平城で、本丸を中心として南東を二の丸、南西を西丸(にしのまる)、北西を御深井丸(おふけまる)が取り囲んでいる。さらに南から東にかけて三の丸が囲む。西と北は水堀(現存)および低湿地によって防御された。南と東は広大な三の丸が二の丸と西丸を取り巻き、その外側の幅の広い空堀(一部現存)や水堀に守られた外郭を構成した。さらにその外側には、総構え(そうがまえ)または総曲輪(そうぐるわ)と呼ばれる城と城下町を囲い込む郭も計画されていた。西は今の枇杷島橋(名古屋市西区枇杷島付近)、南は古渡旧城下(名古屋市中区橘付近)、東は今の矢田川橋(名古屋市東区矢田町付近)に及ぶ面積となる予定であったが、大坂夏の陣が終わると普請は中止された。ただし、外郭の一部である木曾川には御囲堤という堤防が造られることで、西の防備は整備されている。
本丸
現存する本丸未申隅櫓
桜の展望名所でもある辰巳隅櫓からみた大天守と小天守。2008年4月本丸はほぼ正方形をしており、北西隅に天守、その他の3つの隅部に隅櫓が設けられ、多聞櫓が本丸の外周を取り囲んでいた。門は南に南御門(表門)、東に東御門(搦手門)、北に不明(あかず)御門の3つがあった。ほとんどの櫓や塀は、白漆喰を塗籠めた壁面であったが本丸の北面のみ下見板が張られていた。本丸の3つの虎口のうち南(西丸側)の大手口と東(二の丸側)の搦手口の2箇所には、堀の内側に2重の城門で構成される枡形門があり、堀の外側には大きな馬出しを構え、入口を2重に固めていた。外の郭から土橋を通って馬出しに入る通路には障害となる直線状の小石垣があり、本丸に背を向けないと通れないようになっていた。馬出しの配置も巧みであって、一部の郭を占領されても本丸には容易に進入できない構造になっている。また、ある虎口を攻めようとすると、別の虎口から出撃して撃退できるようになっている。隅櫓はすべて2層3階建てで、その規模は他城の天守におよぶ。また、外観意匠もそれぞれ相違させ、今日でいうデザインを重視した設計も行われている。現存しているのは、南東の辰巳(たつみ)隅櫓、南西の未申(ひつじさる)隅櫓で、北東の丑寅(うしとら)隅櫓は戦災で失われ櫓台のみ残っている。 多聞櫓は長屋状の櫓で、奥行は5メートル強あり、内部には武具類や非常食を収納し、十分な防御能力を持っていた。多聞櫓はすべて濃尾地震で破損し、取り壊されたため名古屋城での現存例はない。
馬出しと桝形の周囲は多聞櫓で囲まれているので、侵入者は180度の方向から攻撃を受けるような構造になっていた。現存しているのは南二之門である。不明御門は埋門(うずみもん)形式で非常口として使われていたが、戦災により焼失した。南御門と東御門は、どちらも桝形門を採用し、空堀に渡した通路(土橋)の外側には巨大な馬出しが設けてあった。他の郭から本丸に侵入するには、次のように馬出しと桝形を通過しなければならない。まず馬出しへの土橋を渡り、石塁突き当たり横に折れ、本丸に背を向けて馬出しの門を通過し、馬出し内をUターンするように進み本丸への土橋を渡り、二之門(高麗門)を通り、桝形に入って横に折れ、一之門(櫓門・総鉄板張)を通る。なお、現在空堀となっている本丸をめぐる内堀には鹿が放されている。
天守
外観復元された大天守
空襲で炎上する大天守(1945年5月14日)
天守台には、熱による石の劣化がうかがえる。大天守と小天守を結ぶ廊下の内部。屋根は無い天守は本丸の北西隅に位置する。連結式層塔型で、大天守の屋根の上には徳川家の威光を表すためのものとして、金の板を貼り付けた金鯱(金のしゃちほこ)が載せられた。大天守は層塔型で5層5階、地下1階、その高さは55.6メートル(天守台19.5メートル、本体36.1メートル)と、18階建ての高層建築に相当する。高さでは江戸城や徳川大坂城の天守に及ばないが、延べ床面積では4,424.5m²に及び、その内部には1,759畳の大京間畳(長辺が7尺)が敷き詰められていたといわれる。層塔型であるため、下方に天守の台座となる大入母屋屋根を持たないが、末重部分が平面逓減に関係なく大きく造られる構造は望楼型天守の名残を残す。大天守の屋根には、より軽量で耐久性のある銅瓦が2層目以上のすべてに葺かれている。慶長年間に建てられた当時の大天守の屋根は、最上層にのみ銅瓦が葺かれていたが、1755年(宝暦5年)に行われた大天守の修復工事の際に、現在の再建天守に見られるような銅瓦葺とされた。また同時に、雨水による屋根への負担を減らすための銅製の縦樋や、破風を保護するための銅板張のほか、地階に採光を取り入れるための明かり取り窓が石垣の上に設けられた。壁面は大砲による攻撃を考慮して樫の厚板を斜めに鎧状に落とし込んでいる。外面はそれに土壁を厚く盛った上に漆喰を塗り、内面は檜の化粧板が張ってあった。また、土壁に塗り込められているが射撃用の隠狭間があり、戦闘時には土壁を抜いて使用することになっていた。小天守は2層2階、地下1階で、大天守への関門の役割があった。平面は長方形で外見は千鳥破風一つという簡素な意匠ではあるが、規模は他の城の3層天守よりも大きい。大天守の西にもう一つの小天守があった、もしくは、計画されていたいう説がある。 根拠としては大工頭を担当した中井家に小天守の描かれた指図が残されており、また大天守台西面には開口部を塞いだような跡が見られる。天守は1612年(慶長17年)に完成し、以来333年間、何度かの震災、大火から免れ、明治維新後の廃城の危機も切り抜けた。推定マグニチュード8.0の濃尾地震(明治24年)にも耐えたが、1945年(昭和20年)の空襲で焼夷弾が、金鯱を下ろすために設けられていた工事用足場に引っかかり、そこから引火して焼失したといわれている。1957年(昭和32年)名古屋市制70周年記念事業と位置づけられて間組により天守の再建が開始された。このとき、大天守を木造とするか否かで議論があったようだが、石垣自体に建物の重量をかけないよう配慮し、天守台石垣内にケーソン基礎を新設し、その上に鉄骨鉄筋コンクリート構造(SRC造)の大天守を載せる外観復元とし、起工式は1958年(昭和33年)6月13日、竣工式は1959年(昭和34年)10月1日のこととなった。再建大天守は5層7階、内部にはエレベータが設置されている。外観はほぼ忠実に再現しているが、最上層の窓は展望窓として焼失前より大きなものとしたので、下層の窓とも意匠が異なる。