(前回からの続き)
そして、専門家。当然ここでは感染症の専門家である。これだって色々な種類があるのだろうとは思う。彼らは科学者であるから科学的に観察する。それはどこまでいっても部分論になる。
それぞれの専門家が部分論を寄せ集めて意見を集約し、政府に渡す。ある部分に関しては正確であろうが、全体論的には部分はあやふやな存在だ。ましてや社会的、政治的、経済的な包括的な領域を考慮するのには無理がある。
そこで出てきた知見は科学的な分析の末、手を洗う、マスクする、三密避けるといった原始的な事柄である。ワクチンも薬も効果があるのかないのか、なんだかわからないが、期待を持てるようなP Rはなされる。
政治家、官僚、専門家とそれぞれ三者三様で目線が違っている。どうして違うのか?歴史的社会的な分析が必要になるであろうから、それはご容赦いただくとして、このような異なる目線であるということを1つの事実として抽出すれば、次に1つの事実を見出すことができる。
それは3者に共通の基盤がないことである。政治家は自らの野心に、官僚は権力の維持に、専門家は専門的知見に閉じこもる。三者が共に重要とする価値規範がないのである。いま現在ならコロナ対策ということになるはずだが、そのメタ規範がないがゆえに、それぞれの立場に無意識的に固執するしかないのだ。
そして、日本社会にはそういう共通の基盤がそもそも失われている。ゆえに国家の体をなしていないと批判が生じる。欧米なら、まだキリスト教がある。
では、日本における共通の基盤とは何か。失われたものを見出すのは難しいが、日本社会にとっての超越的な価値であり、それらはゆっくり歴史や伝統を振り返りながら知るしかないのだろう。あえていえば常識(common sense)とでもいえばいいはずだ。生活者の常識程度でいいのだが、政府他のそれは常識とはかけ離れている。
ちなみに常識(common sense)を感じたのは東大の児玉先生ぐらいだったろうか。これは僕なのりの見方に過ぎないけれど。
さて近代社会は設計主義なので、あらかじめモデルを作る。近代=modernはモデルという言葉からの派生語であったはずだ。ゆえに政府その他は設計主義から、違う言葉で言うと理論的であるがゆえに、常識からかけ離れるのだ。そして、政府その他は権威を有するがゆえに、人々はその常識からかけ離れている知見を信じやすくなる。実際そこにあるのは利便性程度である。
これでは、僕は保守になってしまうなあ。そうだったかなあ。