安い蕎麦屋で朝食をとっていた。そこは各種おにぎりがあるので、立ち寄って買いにくる方々が多い。蕎麦屋を出ようとした時、おばあちゃんがおにぎりを買いに来た。
(おばあちゃん)「なんであんなに人が並んでいるの?」
(店員さん)「トイレットペーパーを買うのに並んでるんですよ」
ちょうどこの蕎麦屋から複数のドラッグストアが見える。その開店前のドラッグストアに結構な人が並んでいる。50人はいたと思う。
(おばあちゃん)「なんで?」
(店員さん)「コロナウィルスのせいで足りなくなるっていうんですよ」
(おばあちゃん)「そんなわけないでしょう。そんなこと信じてるの?」
(店員さん)「デマだと思うんですけどねえ」
(通り過ぎる私)「ちゃんとデマだって言われてるんですよ」
(店員さん)「そうですよね」
(おばあちゃん)「何が不安なのか知らねえ」
(3人)「ねえ」
なぜか3人顔を見合わせながら、ここに小さなおしゃべり共同体が瞬間的に生まれた。
たまたまテレビをかけていたら、トイレットペーパー不足になるとの噂はデマであるので心配不要との話をしていた。ところがだ。コメンテーターの1人が「トイレットペーパーを買うのに行列を作っている人の気持ちもわかる」とコメントを付け加えていた。
はっきり言って、そんな気持ちは大切ではない。この程度の気持ちにまで配慮しなければならないとすれば、単なる神経症だし、感情が感情のみに終結し、判断評価したり、理性との繋がりが切れていることの証左でしかなく、恥ずべきことだ。そういえば、社会学者の宮台真司さんが現在の日本を「感情の劣化」という言葉で切り取ってくれているが、そういう理解の延長線上にあることだろう。
詳細は省くが、日本社会はキリスト教ではない。キリスト教であれば、どこかで神が見ているという意識、少なくとも無意識が働く。そうすると感情をそのまま肯定するのではなく、正義といった社会的規範が機能する余地がある。ちなみに私はクリスチャンではないけれど。
それと比較すると、キリスト教のような機能を持つ宗教や正義がないので、社会的規範が感情をベースとなってしまう。感情なので複雑ではあるが、単純化してみれば、快か不快か、そこから損か得かになってしまう。いわゆる功利主義である。
損か得かで、なおかつ日本人的な功利主義である「損しない」という規範に則れば、デマとわかっていても、トイレットペーパーを買うのに開店前から行列を作るのである。先のコメンテーターの発言もまたこういう論理を背景にしている。
こんな小さな騒動を考えていて思い出したのは、ルソーの民主主義の考えである。ルソーによれば、民主主義は2万人程度の規模までしか成立しないと主張している。2万程度であれば、成員の生活や事情がおおよそわかるはずである。
そうであるならば、ある政策をとれば具体的な顔が見える、あるいは想像できる成員にどのような問題が生じるかを理解できる。こういう時には民主主義は良く機能するのだと。共同性がどうにか実在性に止まっている。バーチャルになっていないということに意味がある。
どうしてデマとわかっていても並んでいるのかとすれば、この社会で一緒に生きている人々を想像できず、自分にだけ閉じてしまうからだ。そんなことはないだろうか?