4月1日午後、予約した腎臓内科に向かう。
今回はこの病院で循環器内科も診てもらうように話をすることになる。電話でもいいのだが、ついでにでいいだろうと考えた。と、もうひとつ目論見があった。
病院はどう見ても空いていた。新型コロナウィルスのせいだろう。友人からも聞いていたが、実際病院は“平時”より暇なようだ。機械で受付をし、採血採尿である。少し待つと診察室10に呼び出される。待ち時間が短いと感じた。
医者は検査データから見て、良くなっていると伝えてきた。それだけで、あとはたいして話すこともないのが現状である。
そこで私の目論見を試せるか相談して見た。入院していた病院は循環器内科であったが、転院することになった旨をこの医者に話をする。もちろん紹介状もある。そこで、私の目論見である。
この医者は内科全般の外来も行なっている。それはすでに調べ済みである。そこで、循環器内科の方も担当してもらえないかとお願いしてみたのである。理由はこれまでの診察で心臓の状態についても普通に説明していたからである。私の場合は、心不全からの腎臓の問題であるから、その関わりから、心臓のこともわかっているのは当然だからである。
その上で、完全に私自身の都合だが、2科それぞれ別の担当医というのが面倒くさいからである。一人で済めば楽であるという程度である。
医者は紹介元の病院とのつながりを良く知っている。入院していた病院はすでに何度か触れたように循環器科の専門病院である。その上で、今私が腎臓内科で通院しているこの病院に循環器内科の医者を派遣している。日本の医療体制の特徴である医局制度がここでも働いているわけだ。
そのような事情、医局制度を前提として、私の事例に関しては、紹介元から紹介先が選択されている可能性があるがゆえに、今目の前にいる医者は少しばかり慎重になってしまう。
紹介先がどのような医者を想定しているのかによって、循環器内科を担当できるかどうかが決まるというニュアンスであった。「紹介先が腎臓内科の私でも問題ない」としていれば、引き受けられるというのだ。そうすると紹介状に「X X病院 循環器内科 御待史」と記されている。
ちなみに「御待史」は「おんじし」と読む。医療でしか使われていない敬称であるが、なんと権威主義が残存している業界なのかと、このような言葉遣いから見えてくる。医者自身がそんな権威主義自体を意識さえしていなかったり、違和感を持っているに違いないが、しかしながら使用し続けていることに、そのような意識が根強いということである。
少し脱線してしまったが、医者は紹介状の宛名を見て、「XX病院から来ているxx先生とかyy先生とかの予約をした方がいいです」と結論づけた。私の目論見は頓挫してしまった。ただ、薬は出してくれた。
ここで私は薬を減らしてもらいたい旨を伝えたところ、状況説明を求められた上で、これまでより薬を減らした処方箋を書いてくれた。利尿剤がなくなったのだが、それは腎臓内科の医者の判断としても可能であるとのことであった。
次の予約は3ヶ月後。だんだん期間が空いてきた。お互い、その頃コロナが収束していればいいねと話しつつ。
循環器の予約は会計時に行うことになったが、相談スペースで予約を取ることになった。結果3週間後である。その際、事務スタッフと雑談をしたのだが、コロナで患者が減っているという。「それなら普段も来る必要ないってことじゃあ」と私が告げると、「ホント、そんなんばっかりですよ、実際」とつい本音の言葉が聞けた。新型コロナが医療依存脱却になるかは疑問だけどね。