Drマサ非公認ブログ

杉田水脈、小川榮太郎、新潮45について思った事⑷

 性的なことは社会で議論するようなことではない。性的なこと、性的嗜好を人前に晒すなんて人間の基本として問題がある、品性の問題である。小川氏はこのような主張をしていたと思う。

 ゆえに性は包んでおくべきことであり、そもそもカミングアウトという行為は自らの性的なことを晒すことであり、恥ずべきことということになるらしい。

 今僕は「性的嗜好」と書いたが、性行為における好き嫌いという程度の意味として用いている。例えば、女性の脇に対して執着があり、実際の性行為において、そういう性的嗜好が如実に現れるとか、そういうことだろう。

 しかし、それはある意味で万人が持つ嗜癖でしかない。ただLGBTにおいて、問題となっているのは「性的志向」である。志向はつまりorientationである。今LGBTへの社会意識が広がっているが、そこには性の問題を考えるときに、嗜好ではなく志向としてみなさなければ、問題が曖昧になるとの見方が浮上したという経緯があげられる。

 つまり、同性愛を嗜好(あえてわかりやすく言えば趣味)の問題ではなく、人間の志向性の問題であるという認識が力を持ってきたということである。「人間の」と言ったが、つまり人間は性的存在であることから逃れられず、その性的志向の対象を作り出すということだ。ゆえに、アイデンティティの問題であるとの主張が力を持ったわけだ。 

 僕たちは長らく同性愛を趣味の問題としてのみ位置付けてきた。しかしながら、性に関わる学問からも認識されてきた事だが、そのような位置付けを反省し、性こそ人間の根源のひとつとして理解されるようになってきた訳だ。

 性とは身体と身体の関係である。人間は身体から生まれることからはじまり、愛情を表現するときに相手の身体をなでたりする。この表現が高次化すれば性愛としての表現を生み、その志向性として、性愛の対象が決められたりする。この社会にとって、性は最も基本的な出来事である。

 ゆえに自明性に覆われており、ノーマルな性愛、つまり異性愛は異性愛の表現であってもそれが性愛の表現であるとの振る舞いに見えづらいし、おかしいという感覚を作らない。

 例えば、恋人が手を繋ぐという行為を想像してほしい。もちろん、手をつなぐことが二人の関係を表現し、二人が恋人であると認識されるが、いたってノーマルな表現行為として位置付けられる。

 ところがゲイカップルが手をつないでいた場合、自らの性をあたかもカミングアウトしたかのような表現になっているような解釈をもたらす。「あいつらホモだぜ!(あえてこういう表現にしている)」という冷ややかな視線である。

 どうしてこのような視線が生じるのか?そこにはノーマルを想定する僕たちが持つ意識の政治が作用するからである。ここで僕たちは意識レベルでアブノーマルを制度化しようとする。

 小川氏は性を「包むべきもの」という表現をしていた(youtubeで見たものを参考)。あけすけに喋るようなことではないのだと。しかし、性は包み込むことができない。どちらにしても性愛の表現でしかないし、僕たちがそもそも性的な存在である限り、このような表現からは逃れられない。性は必ず露わになる。

 夫婦と子供が楽しそうに公園を散歩している。ここにも性が存在している。当然だ、子供は夫婦の子供であるのだから、この夫婦には性がつきまとう。彼らは異性愛者だとカミングアウトしている。ノーマルの政治がそれをカミングアウトとは思わせないわけだ。

 明治大学の鈴木賢氏が指摘したことを参考にしたことだけれど、同性愛者からは彼らの政治性が異性愛者であるとカミングアウトしていることを認識させてしまうのだろう(youtubeで見たものを参考)。これはあけすけに表現していないということではない。ノーマルであるという意識の政治が「あけすけではない」という評価を隠し持つのである。

 しかしながら、立場が違えば、「あけすけ」である。僕たちはそれを直接表現しないにしても、必ず性は存在するのだ。パンツを履いたとしても、パンツの中身は知られているのだ。

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