Drマサ非公認ブログ

結婚について11

 「第一話」の妻は、welfareが成立しています。それゆえ、つまらない夫ではあると不満を抱きながらも、夫婦関係にまで疑問はもたないわけです。先の「大地」が成り立ってもいるわけですから。happyがなく、退屈であっても、welfareは成り立っています。つまり、夫婦は成り立っています。夫婦とはこういうものであってもいいのです。

 しかし、この夫はダメ夫です。たまに夫婦でhappyをつくればいいだけなのです。たまに外食するとか、旅行に行くとか・・・そういうhappyに対する感覚があまりに脆弱なのです。時にhappyは必要なんです。それを幸せとして、つなげながら生きていくということはあります。もちろん、その時、その土台にwelfareが成立し、さらにその土台に「大地」があるとして。

 時代が30〜40年前ですから、社会の自由に対する許容度が小さく、男女共にその枠内での行為に限定されるので、その不満が「大地」を揺るがす可能性は低いのです。現在なら、女も自由にしていいという考え方が広がっていますから、その自由をhappy獲得に使えば、そのhappyにとって、夫が邪魔になるかもしれません。先に言及してきた損得勘定からすれば、「あたしの邪魔はしないでね」という冷えた関係になりますし、時に熟年離婚です。この時、welfareを他に求めることができれば、そういうこともありえるわけです。

 「第一話」の夫はwelfareだけを幸せだと思っているわけですから、今頃熟年離婚しているかもしれません。当たり前のことなのですが、welfareが安心安全を土台として、人間的な悦びhappyがある。家族の喜怒哀楽を共有するわけです。逆に生活が破綻しているにもかかわらず、ブランドものを買い続ける人を見て、われわれは違和感をもちます。それはwelfareを忘却し、happy依存になっている人間に、バランス感覚の欠如をみるからです。とすれば、両者のバランスが必要ともいえるわけです。

 せっかく大地が成り立っているので、welfareを享受しているのです。Welfareの中でのhappyは、welfareに戻っていき、happyが大地を耕してくれます。それは当然いいことでしょう。しかしながら、全的にいいことなわけでもないのです。

 大地が成り立っていても、不幸なことはあります。家族が病気になったとか。その時、不幸は苦しみや悲しみを人々にもたらします。しかしながら、その悲しみや苦しみを共有していれば、その心のありよう、つまりunhappyは大地を耕してくれるのです。この時、大切なのは共感です。ですから、welfareとは共感を元にする社会状態なわけです。

 さて遠藤の小説は時代が30〜40年も前のものであり、現代からみれば、女性の方が従属的に見えますが、多くのものを求めていないために安定的にも見えます。それ以上に、夫婦が立っている不可視の「大地」、そしてwelfareという気づきづらい幸せを描き出す作品だと思います。気づかないのに成り立っているもの、それが夫婦の幸せ、支え合いということでしょうか。

(つづく)

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