ブログの更新が止まっていましたが、やっと時間ができたので。
この間当然能登地震、それに対する対応について感じることがあったのですが、ここは松本人志の問題について述べさせてもらう。諸事情については色々語られているので、僕なりの見方を。
吉本の芸人に顕著だが、「本当のところはわからない」ということから、「裁判で明らかになるので」、それを待ってからという言い方を目にする。
もっともらしいように見えて、なんだか誤魔化しであるということも見透く。
ここでは事実認定こそが重要であるという理解がある。ここでこの事実を外形的事実と位置づけておこう。外形的事実は実証されることになる。仮に実証できないとしても、真実相当性があるかどうかが問題になる。これ裁判の話である。
ということは、「本当のことはわからない」ということから事実認定をするまで「意見を述べない」「見守る」というのは、このような司法的世界観が、司法外の世界にまで及んでいるということだ。
当たり前だが、テレビやメディアで意見を言うことは、名誉毀損がどうとか法的縛りが生じるにしても、限定的な司法的世界(ほぼ造語みたいな言い回しで申し訳ないが)を超えた広い社会的な出来事だ。そもそも日常の中で、名誉毀損を気にすること自体が法的世界観が日常に食い込んでいることの証左である。
社会は司法より広い。しかしながら、「本当のこと」つまりは外形的事実への強いこだわりが僕たちを構成している。この時、事実にこだわるあまり、被害者に寄り添うという倫理が失われている。
仮に被害者と言われている人物が嘘をついていたとしよう。今回の問題ではそういうことはないと考えている。思考実験として、松本から金をだまし取ろうとしているので、「本当のこと」にこだわる、そういう心理はあり得る。
とはいえ、それは間違えてはならないという意識から生じている。人間は間違えるのであって、いま間違えても、時間の経過において、事実が明らかになれば、意見が変わるのは必然である。事実への執着は意見や考えを表明することに蓋をする。この蓋をする意識こそ政治的なのである。
つまり、事実への執着は中立的な態度ではない。実際に今回の問題とされる芸人が中立を装って「本当のこと」がわからないという態度が、結局松本側に加担することになっているのが、明白であろう。
外形的事実にこだわることが司法的であるが、これは近代における法から生じる意識である。心の中はわからないということ、実証できないという見方からの論理である。
しかし内在的事実はどうであろうか。当事者が実際に何を行なったのかということを自らの心の内で知っている事実という意味である。
どんなにいっても内在的事実を自らの心は知っている。法の問題ではない。純粋に道徳の問題である。これこそが真実である。そして、「事実はわからない」という態度に小狡さを感じざるを得ないではないか。