森会長は辞任した。
辞任会見で、自分自身が女性差別をする気持ちはないと主張した。森会長のご家族が「問題を理解するのは年齢的に難しい」とインタビューで答えている。
このご家族の見解こそが、女性差別を理解することの難しさを表現している。父権性の只中で育ったため、そこに内在する女性差別は意識化できないのだ。そのぐらい根深い現実だ。
森氏は自身が生きていた「界」で経験し身につけてきた規範や、彼自身の常識自体が、父権性が有する父権性の秩序によって構築されていることに気づくことはないだろう。
その秩序に、昔の言い方でいえば、男尊女卑が組み込まれており、彼らが、例えば女性に対するやさしさを示している時でさえ、それが女性を男性より劣っているとみなす価値観が紛れてしまうことを意識化できないだろう。
現在のセクシズム(男女差別)からの異議申し立ては、このようなやさしささえも、父権性(パターナリズム)を源に発しているのではないかと疑うことを含んでいる。というより、そのような疑いこそが、社会構造に根付いているセクシズムを意識化し得る方法でもあるのだ。
森氏は「女性に配慮した」旨の趣旨で発言しているが、それを男性が与えるとの意識自体が父権性に基づくのである。
そして、より困難なのは女性差別を意識してしまえば、「女性に配慮した」規範や制度を作らなければならないから、父権性の上位にある男性から与えるかのような振る舞いになることである。それゆえ、「女性に配慮する」のだが、それ自体が自己言及し、「私」がもともと差別していたことを意識しなければならない。それは実は女性もまた父権性が有する差別の構造に加担していたことを明らかにする。
簡単に整理しょう。
1一部の人間が女性差別を疑問に思う
2女性差別をやめる規範や制度を作る
3全ての人間が自身の中にある女性差別を考えてみる
4 1→2→3→という循環を作る。
このようなプロセスを経て、少しずつ変化していく。文化変容のプロセスである。
森氏は1と3がないのだ。女性蔑視の気持ちはないと言うが、気持ちの問題ではなく、その気持ちを生み出す構造を可視化しなければならなかったのである。
(つづく もう1回)