Drマサ非公認ブログ

木村花さんの問題を考えてみる1

 木村花さんが亡くなって1週間以上が経った。

 色々な角度から問題に接近しようとしているのではないかと想像する。僕自身はネットでのそういう情報はあまり見ていない。政府がネットの誹謗中傷規制に動き出しそうだという程度の認識は持っている。

 僕なりに少し考えてみよう。

 キーワードは臨場感空間である。距離がグッと近づくことによって、人を支配する空間性が作られることである。この時、大変な高揚感が作られる。人はこの高揚感からななか逃れられない。一番有名なのはストックホルム症候群である。

 1973年ストックホルムで銀行強盗が発生した。犯人は人質を取り141時間立てこもった。この時、犯人と人質の間に強固な心理的絆が生み出される。人質となった女性の1人はこの犯人と獄中結婚する。

 この結婚を真の愛の結果とみるだろうか。当然そうではない。銀行強盗と長時間の人質という特殊な環境において、言い換えると、支配と被支配という非対称的な関係において生じている。ここに心理的絆(ラポール)が生じやすくなる。

 心理的絆は現象だが、非対称的な状況は構造(土台)である。つまり異常な状況であるから、そのことを認識すれば、作られた心理的絆はFakeであると考えられる。ところが、高揚感が生み出されるため、そのような正常な認識が作動しづらいのである。現象だけ見ると、これこそ真の愛であるとさえ思い込んでしまうのである。ちなみに現象と構造の関係は構造主義を下敷きにしている。

 もちろん多少異常な構造下であっても、その後の関係性の構築の中で、構造の変容が見られる。関係性の構築とは新たな現象であり、その現象が構造に影響をもたらすのだ。抽象的で申し分けないが、そういう時は異常な構造が正常へと変容する。ちなみに正常、異常を本質的に規定するものではないが、その説明をし始めると大変なので、ご容赦いただくとする。

 ストックホルム症候群の経験から、長時間人質になった場合、カウンセラーがつき、カウンセリングが行われることになっている。カウンセリングだけではなく、共同体の力も重要になるだろう。カウンセラーがいなくても、仲間との関係性が限られた時間、非対称的な関係性を反省する機会になると思う。

  ちなみにストックホルム症候群は洗脳の方法でもある。自己啓発などで使われているようだ。

 木村さんの場合の臨場感空間は何かというと、まず1つはリアリティーショーである。テレビに役者として出演するなら、その役は自分自身ではない。ゆえに、どんな役を演じても、あくまで役として割り切ることができる。

 ところがリアリティーショーの場合は、素の自分自身がテレビ画面の中に存在する。テレに出演するという点で、それはそれまでの素の自分自身でではなく、何か演技が組み込まれる。しかしながら素の自分自身と演技している自分自身を融合させてしまう。劇場化しているわけだが、単純に劇場化していると突き放すこともできない。なぜなら実人生であるから。

 「素の私」と劇場化した「演劇する私」が分けられない。融合してしまう。実におかしなパーソナリティである。メディアによって、新たなパーソナリティが作られている。

 テレビカメラが実人生に入り込むことはそもそも実人生を失わせるのか、新たな人生になると言えるのか、非常に難しい。RealとFakeを二分できないのだ。これはリアリティショーを考察するメディア論で扱われてきたことでもある。

(つづく)

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