DUNIA

ケニア~青年海外協力隊~青少年活動~男子更生院~2年間限定

ご飯

2008-08-28 | In Othaya
現在一人暮らしをしている私にとっての最大の敵は「洗濯」と「ご飯の支度」である。
ご存知のように、ここはKenyaのOthayaという田舎町であり、
我家には洗濯機や電子レンジ、冷蔵庫のような文明の利器があるはずもなく、
最初こそキャンプ気分で「洗濯」も「ご飯の支度」も楽しみながらこなしていたが、今はストレス以外の何物でもない…。
洗濯については、若干の獣臭が漂うことさえ我慢すればなんとか回数を減らすことができる。
ちなみに、現在、私の履いてるパンツは私の記憶が確かなかぎり、めでたくも「6日目」を迎えているはずである。
無論、もうすぐ洗い時なことは十分心得ているので心配は無用である。
が、食事についてはそうもいかない。
日本とはまるで違う生活環境にある今、体調管理が何よりも重要であり、その鍵を握るのは食事であると言っても過言ではない。
日本で甘えた生活をしてきたツケであろう、私の料理はレパートリーが少ないうえに、自慢するわけではないが、かなりおいしくない。
現在鋭意努力中である。

「mcoはboysと一緒のご飯を食べてもいいのよ。」
とManagerは言ってくれるが、私が食べたことにより、たとえ少量だとしてもboysの食事量が減ると思うと、やはり気が引ける。
Boysがおいしそうに食べる姿に
「それ一口俺にくれない?」
と思わず言ってしまいそうになる衝動を抑えながら、我ながら毅然とした態度で彼らが食べ終わるのを待つ毎日である。

12:45 and 18:00
「カーン、カーン、カーン。」
と鐘が鳴る。それが食事の合図だ。
それまで遊び疲れてグランドに寝転んでいたboysもその鐘を合図に獣と化す。特に夕食時は凄まじい。
「いつぞやの授業での100m走の時より良いTIMEが出てんじゃねぇの?」と思うくらいだ。

私が赴任した当初は、食事の鐘が鳴ると、とにかく早者勝ち状態で食堂に入った彼らは、
必ずと言っていいほど取り合いの喧嘩し、「いただきます。」の挨拶もないまま、立ったまま食べ(椅子はある)、
平気で食べかすを床に捨て、食べ終わってもいないのに食堂の外に出てさらに食べ続ける、といった具合だった。
赴任から20日程経った今、食堂に入る前に全員で整列し、お祈りをする。
そしてコイントスをしてグループごとの順番を決め、食堂へ入場する。
このコイントスが自分でも驚くほどboysには好評で、今では私が来るまでの5分くらいなら待っていてくれる。
ただし5分が限界だ。であるが故に、私も鐘と共に猛ダッシュをかける毎日である。
座って食べているboysを徹底的に褒めちぎった結果、今ではほぼ全員が座って食事を取る。
床に平気で食べカスを捨てるという行為については、これは食事時に関わらずanytime,anywhere,なkenyanが相手なだけに壮絶な戦いになりそうだ。

先日、私は処分に困り、我家の生ゴミを更生院内の焼却場へ持ち込んだことがあった。
その日の昼食のことである。Boysがオレンジの皮を昼食と一緒に食べている。
オレンジは彼らの献立には無い。見覚えのあるゴミ袋がテーブルの下に転がっている。
彼らが食べているのは私が今朝捨てた生ゴミの中にあったオレンジの皮だったのである。
必ずしも毎食ごとに十分な量を食べることができるわけではない彼らに罪はない。
私にとっては「ゴミ」であったオレンジの皮も、彼らにとっては「食べ物」であることには違いないのだ。
彼らにどう声をかけるべきか戸惑った挙句、
「それは俺の物だから返してほしい。」
と声をかけ、食べることを止めさせるのが精一杯だった。
その日から私は裏庭に穴を掘り、自宅のゴミはそこで焼却している。
自分の配慮不足に心底嫌気が差すとともに、今後取り組むべき課題の大きさを思い知った。
何よりも私自身の意識改革の方が先決だ。


今日、boysに「おやつ」について教えてもらった。食べるまでは一苦労である。

1:とにかくじっと待つ。もしも音を立ててしまったら全員からドロップキックの応酬がある。
2:獲物が来たら、紐を引く。紐を引くタイミングもかなりのセンスが問われる。
3:全員で籠を囲み大声で叫ぶ。すると籠の中の獲物が失神する。しない時もある…。
4:「食べごろ」になるまで、自分の食事を分け与え、太らせる。
5:食す

「mco, unataka?」 (マコも食べる?)
と誘ってくれる彼らの優しさには涙が出るが、
「labda kesyo.」  (また今度にしとく。)
と辞退させていただいている。
この場合の辞退の理由は先述のものとは違うわけだが…。

PRAY

2008-08-26 | In Othaya
「Ni jumamosi usiku !」(It’s Saturday night!)
土曜の夜ともなれば、もちろん私のテンションも「グイ上がり」なわけだが、このセリフは私のものではない。
そう、Boysの大合唱である。
翌日の日曜の朝は教会のmass(ミサ)へお出かけなのである。子どもたちは大はしゃぎである。
Othayaはもともと敬虔なChristianが多く、日曜はほとんどの住人がどこかしらの教会のmassに出席している。
Boysも例外ではなく、massへ出席することを自らの務めとして考えているし、
何よりも、普段は自由に更生院の敷地外へ出ることができない彼らは、
週に一度、更生院の外へ出かけることのできる日曜のmassを指折り数え楽しみにしている。
そんな日曜の朝ともなると普段は裸足で歩き回っている彼らも、
massのある日曜だけは磨かれた靴にお気に入りの洋服を着て集合する。
お気に入りの洋服と言っても、更生院の制服しか持っていない彼らにとってのおしゃれは靴下をアレンジすることで、
左右で違う靴下を履くことが彼らのトレンドらしく、本来の正しい履き方をしている私がなぜか鼻で笑われる。
「郷に入ったら郷に従え」だ。来週は彼らのトレンドに乗っかってみようと思っている。

「Ni jumamosi usiku ! Ni jumamosi usiku ! Ni jumamosi usiku !」(It’s Saturday night!×3)
の大合唱とともに一日の終礼が終わり、
「今晩の夕食は何にしようかな?」
と家へ歩き始めると、とあるBoyが
「mco、ninatakakuambia kidogo….」(マコ、少し話したいことがあるんだけど…。)
と言ってきた。
こういったケースは大概、
「massに履いていく靴を買ってほしい。」とか、
「今晩はマコの家でパーティをしよう。」というような、
微笑ましいと言えば微笑ましいが、性懲りも無くと言えば性懲りも無い類が大半である。

が、違った。

彼は父親を早くに亡くし、母親一人では彼を育てきれなくなったため、約2年前からこの更生院で暮らしている。
入所以来、家族の面会も無ければ、現在家族がNairobiのどこかに居ることだけはわかっているが、詳しい住所はわからない。
ご存知のようにNairobiは東アフリカ No.1の大都市である。
しかしながら、Nairobi全体にしっかりとした区画整備がなされているわけではなく、
尋ね歩いて探すことは不可能にちかいだろうし、新聞広告はどうか?とも思ったが、
彼の家庭に新聞を買う余裕があったとしたら、彼はこの更生院には来ていない。
また母親は病弱で、現在生きているかどうかもわからないそうだ。3歳と5歳になる弟妹もいる。
彼は11月にここを卒業する予定だが、secondary schoolに進む学費も無ければ、帰る家も無い。
彼は溢れ出る涙を必至に隠しながら、なんとか最後まで話した。

私が力添えできそうなことの思いつく限りを彼に提案したが、一つとして解決案にはならない。
彼だけが特別悲惨な境遇にあるわけではないことは十分理解している。
それにしてもだ。
「俺、何しにここに来たんだろう?」
自分の無力さに対する怒りしか沸いてこない。

ここOthaya rehabilitation schoolには彼のような悲惨な境遇にあるboysはたくさんいる。
先日も彼のようなrelease後に行き場の無いboysについて何日も費やし職員会議が開かれ、身内、引き受け先の捜索がなされたばかりだ。
が、全員が安心してreleaseできる家庭、引き受け先が見つかるわけではない。

「What can I do for you ?」(あなたのために私に何ができる?)
最後はこの言葉しか見つからなかった。
すると彼は
「Please pray for me.」 (私のために祈ってください。)


massなんて行ったこともないし、お祈りの仕方もわからないけど、見様見まねで神様に土下座した。
とにかく全身全霊でお祈りした。



massへは毎週行こうと思う。

切れ味

2008-08-24 | In Othaya
休暇から戻ったManagerから夕食に招待され、久しぶりに整った味のする料理を口にすることができた。
現在、私の家には「調味料」と呼べるものは同僚から分けてもらった「塩」と「砂糖」しか無く、「香辛料」と言う存在を忘れかけていた頃だったので、
一口いただく毎に「日焼けしすぎて真っ黒でしょ。」と言うManagerに「hug」をした。
無論、未だkenyanの顔の判別にも時間のかかる私には、black personである彼女が日焼けしすぎたのかどうかはわかりかねる。

「nime siba ! ni tamu sana!!」 (お腹一杯!おいしかったッス!!)

お皿が下げられ、chai(お茶)をいただきながら12歳になるManagerの娘にルールのわからないゲームで4連敗したころである。
Managerがニヤつきながら、包みを持ってきた。

「It is for you. Shika!」(これはあなたへのプレゼントよ。はい、どうぞ。)
「kweli? asante sana!」(マジッすか?ありがとう!)

手に取った時に嫌な予感がしたが、最高潮に達したManagerのテンションを汲み、思い切って開けた。
(やっぱり…。なんじゃこりゃ~!?)

「Ninafikiri unahitaji hiki kukaa hapa Othaya」(オザヤで生活するにはこれが必要よ。)

私のために簡単なスワヒリ語で選んでくれているので、Managerの言っていることは理解できたが、使い道についての説明は無く、戸惑う。
(どんなシチュエーションで使うんだ、これ?)


ちなみに可愛らしいピンクの方は昨日までの私の最強の武器であった「¥100カッター」である。
ドラクエで言えば一気にレベルが30くらい上がった感じであろうか?

「せっかくだし、これで授業に使う道具を作ろう!」
裏庭へ向かう。
が、そのおぞましい容姿に似合わず切れ味が悪い。「切る」というより、「叩き割る」感じだ。
しばらくバットを握っておらず、マメ一つ無かった私の掌はあっという間に高校球児の頃のものに戻った。
黙々と約2時間。気持ちのいい汗をかくことができた。
が、今日も断水している。いい汗はかけたが、その汗は流せない…。
ドンマイ。

昨日の汗も流せぬまま迎えた午前中の授業で、この道具を作るまでどれだけ苦労したかということを引用し、
「道具は大切に使おう!」と、掌のマメを見せてboysに熱弁したところ、腹を抱えて大笑いされた。
なんでもKENYAでは刃物は研ぐ前の状態で売られていることが多く、私が頂戴したものもきっと研がれていないのだと言う。
「そりゃ、切れねぇわな。」
もういい加減、大笑いを止めてほしかったが、一向に止みそうもない。

授業後、私の顔を見ては未だに吹き出すboysに連れられtownへ行き、職人さんからpanga(なた)を研いでもらい、ようやく本来の切れ味を携えたpangaを手に入れることができた。

カッコ悪いから掌のマメは素振りをしたことにしたかったが、なぜかManagerはもう知っており、会うなり私の掌を取り大笑い。涙まで流して喜んだ。

贈り主から喜んでもらえるなら本望だ…。
そう思うことにした。

電光石火

2008-08-21 | In Othaya


写真をご覧いただきたい。
川口探検隊もしくは藤岡弘探検隊が取材に来てもおかしくない雰囲気がある。
そう、ここはKenyaのOthayaと言う町にある私の家の裏庭である。
昼間は
「おっ、でけぇトカゲ! うわぁ、あんな鳥 見たことねぇ。 すげぇすげぇ。」
みたいな「お家でサファリパーク」的なアミューズメントを堪能することができる。

が、問題は夜である。
夜になるといろんな動物達の鳴き声が聞こえてくる。
それがマジ怖い。 
無類のマック好きであり、無類のお化け嫌いである私は、基本的に夜はどんなシュチュエーションであっても怖いわけだが、
ここの場合の怖いは次元が違う。
セキュリティーの都合上、我家の扉は貧相な建物に似合わず、すべてが分厚い鉄製でできており、この中にさえ居ればとりあえず安心である。

では、何が問題か?

問題は夜の「用足し」である。
我家のトイレ(トイレというよりは「穴」のわけだが)は屋外にあるため、用を足すには外へ出なければならない。
そう、トイレは裏庭にあるのだ。
お化けどころの話ではない、とにかく何も見えないし、
「もしかしたらあの鳴き声の主に食われてしまうのではないか?」
という今まで味わったことの無い恐怖感と戦いながらの用足しである。
いっそのこと、チビッてしまおうと何度思ったことか。

昨夜も膀胱との戦いに負け、意を決し「用足し」へトイレに向かった。
何が起きてもいいように、サンダルからスパイクに履き替えた。
膝の屈伸もしたし、アキレス腱も十分に伸ばした。

「よし、走れる。」

チャックはあらかじめ下ろしておき、ほぼ「スタンバイOK」の状態で走る。
まさしく電光石火のごとく用を足し、無事帰還。
ダッシュしたことと、無事帰還できた安心からか、喉の渇きを覚え、とりあえず水を飲んで落ち着く。



「ん?」

「あぁぁぁ、また飲んじまった。バカ!バカ!バカ!俺のバカ!」

Othayaの夜は長い…。

light

2008-08-19 | In Othaya
「今日中に電気が来なかったら、俺はNairobiに帰る!預けた金を全額今すぐ返せ!」

そんな脅し文句を切り札に電力会社へ乗り込む。
先日、同僚と電気開通のための手続きをし、結構な金額をdepositしてきた。
待つこと数日。未だランプ生活である。

「手続きは滞りなく済んでいるし、そんなはずはない!」
受付の男性も強気だ。
残念ながら私の拙いスワヒリ語では口喧嘩のようなやり取りに勝ち目は無く、なぜか最後は
「お願いですから、急いでください。」
何でお願いしてるんだ、俺?
結局、何の進展もないまま退散…。

帰りのマタツ(乗り合いバス)の中、嫌な予感が私を襲う。
「ところで、俺ん家に電線って来てたっけ?」
荒いアクセルワークと凄まじいコーナリングのおかげで、ほぼ100%の確率で車酔いをするOthayaまでの山道も、今日は車酔いどころではない。
家に着くや否や、大急ぎで電線の捜索。
日本のものとは大違いではあるが、針金みたいな電線が我家まで来ていた。
電線の経路を伝ってメーターボックスらしきを発見。

「だめだ、こりゃ。」

マタツを降りてから我が家まで、相当ヒドい形相でここまで走って来たんだろう、ご近所さんが心配して私の様子を見に来てくれた。
事情を説明すると、一旦、家に戻った彼女はたくさんの蝋燭を持ってきてくれた。使いかけのものまである。
きっと彼女の家にある蝋燭のすべてを持って来てくれたのだと思う。
「大丈夫、ランプがあるから。」
とはとても言えなかった。
なんだか自分がえらい小さなことでイライラしているような気がして、恥ずかしくて泣きそうになった。
なんとか感謝の気持ちを伝えたいのだが、馬鹿の一つ覚えの
「Asante sana」 (Thank you very much)
しか出てこない。Justusからもっときちんとした言い回しを習ったはずなのに…。

ランプ+蝋燭。今までに無い明るい夜になった。
この明かりで教科書を見直し、明日もう一度きちんと御礼を言いに行こうと思う。

そして電力会社にもリベンジだ。


デビュー

2008-08-16 | In Othaya


私事にて大変恐縮ではあるが、任地に無事赴任した。
御心配いただいた皆様に厚く御礼申し上げます。

赴任前の打ち合わせでの
「赴任日までには電気は開通させておくよ。」
というmanagerの心強い言葉通り…、電気は開通していなかった。
まぁ、おおかたの予想通りだ。
しかも、managerは休暇中で再来週までお休みだそうだ。
彼女のために買ってきたピーナッツは、たとえ再来週まで日持ちしようとも絶対一人で食ってやろう
と、決心した。

そんな若干のUNWELCOMEムードのなか、これからの棲家へ向かうと、なんと更生院のBoysが私の部屋を掃除してくれているではないか。
前回の訪問の際に、正直、家についてはあきらめかけていたが、彼らが入念に掃除をしてくれたおかげで随分と印象が違う。

「mco、umerudi sasa! Sema?」 (マコ、戻ったんだね!調子はどう?)

「Fity! Asante sana kwa kusafisha nyunba yangu. 」 (おうよ! 部屋の掃除ありがとな。)

ここはKenyaとはいえ8月は時期的に冬であり、標高の高いOthayaはまだまだ肌寒い。
お湯があるわけもなく、長靴があるわけでもない。彼らはコンクリート打ちっぱなしの床に水を撒き、裸足で雑巾がけをしてくれている。
手も足も相当冷たいはずだ。
私も慌てて靴下を脱ぎながら思った。
「ピーナッツは彼らと食べよう。」

~夜~
電気は開通していないので、ついさっき猛ダッシュで買ってきたランプに火を燈す。
どういうわけか、THE 虎舞竜 「ロード」が頭のなかでBGMとして流れ始める。
きっと、この涙はランプの煙のせいだろう。
ランプって煙が目に沁みる…。

もちろん、ランプの火ではお湯すら沸かせない。
今晩の夕飯については想像で済まそう。カレーライスを食べたことにした。明日はきちんと食べたい。
あぁ 腹減った…。

水は出るものの、今晩の気温では水浴びは危険だ。おそらく風邪をひいてしまう。
今日で5日間、身体を洗えていないが、明日はきっと暖かい一日になるさ。
そしたら水浴びだって平気なはず…。

ベットが無いことは予想していたので、寝袋は持参してきている。パソコンのバッテリーも切れそうだし、もう寝るしかない。
が、まだ床が乾いてない。ビシャビシャだ。
今晩は立って寝るか…。

~朝~
スーツケースの上で胡坐をかき、壁とコラボレーションしながら何とか寝ることはできたが、スーツケースが再起不能的に凹んでしまった。
ドンマイ。
外に出てみる。相変わらず寒いが、朝日が本当に気持ちいい。
Boysが牛の乳搾りをしながら手を振っているのが見える。
頭の中で葉加瀬太郎の「エトピリカ」がBGMとして流れ始めた。

おぅし、テンションあがってきた!
昨日の「残ピーナッツ」で腹ごしらえをしたら、いよいよ更生院デビューだ!


weakness of mine

2008-08-13 | In Nairobi

もうすぐ約1ヶ月間過ごしたNairobiを離れ、任地であるOthayaという町へ赴任になる。
NairobiとOthayaは好対照な町であり、Othayaを例えるならば、一昔前の 吉 幾三 氏の流行歌のようだ。

「はぁ 電気もねぇ uchumi(Nairobiに多数あるスーパー)もねぇ、車もあんまり走ってねぇ 
オラ Nairobiさ 行くだ オラ Nairobiさ 行くだ キバキ(Othaya出身の現大統領)に会うだぁ~」

Nairobiを離れると、その後の2年間をOthayaで過ごすことになるわけだが、やはり1ヶ月間を過ごしたNairobiには少なからず愛着が沸いている。
Nairobiにおいて、とりわけ私が愛して止まないものは、写真の彼が売る「炒りピーナッツ」だ。
彼は毎週土日限定で朝早くに遠くの町から歩いて炒りピーナッツを売りに来る。
彼は炒ってきたばかりのピーナッツをバケツに入れ、コップ一杯を10ksh(約17円)で売る。
なんと、買って食べる時はまだほのかに温かい。
たかがピーナッツ、されどピーナッツ、侮るなかれ、
まさに、止められない、止まらない。mco(私のニックネーム)まっしぐらだ。
元来、ピーナッツ好きの私はこの1ヶ月間で数々のピーナッツ売りからピーナッツを買い、食してきたが、彼以外のピーナッツでほっぺたが落ちたことはない。
そんな彼のピーナッツのおいしさを知っているのは、もちろん私だけではないわけで、彼が売るピーナッツはすぐに売り切れてしまう。
故に、毎週土日曜は朝早くから彼の販売ルートを先回りし、半ば張り込みのようにして彼を待つ。
彼が来るまでの間、早朝ということもあり、時にラジオ体操をしちゃったりもする。
調子が良い時は「第二」までやっちゃったりする。

いよいよ明日だ。
30ksh用意した。
Nairobiでの最後の週末になる明日は思い切って大人買いだ。

波状攻撃

2008-08-09 | In Nairobi
「ゆっくり昼寝でもしたいな」とJustusに話をしたところ、
「昼寝ならUhuru parkへ行け。」と言われ、徒歩30分かけてNairobi uhuru parkに到着。
絶好のポジショニングを取るべく勇み足で園内へ。


そこはまさに昼寝のメッカ!
みんな昼寝してる。立っている方が目立つくらいだ。
「ありゃ? それにしても今日は水曜日で、今は午後2時。みなさんお仕事等は?」
「これもT.I.Nか。」と余計な心配はやめる。
が、イビキを掻いてマジ寝しているあのおばさん、お腹全開だ。起こしてあげたほうがいいかな?

隣昼寝人と適度な距離があり、平らで芝がふんだんに生い茂っているベストポジションをゲット。
「よぉし 寝るぜ!」と横になる。
「痒ッ痒ッ痒ッ」。
アリ?のような小さな赤い虫達が(以下、アリとする)が首、手の甲、足首を噛む。
マジ痒い。ここは巣の真上?
まさにアリ達の波状攻撃だ。
なるほど、それでこんなベストポジションにもかかわらず空いていたわけだ。

仕方なく新たなスペースを求め、サイドチェンジを試みるも、さっきのおばさんの隣しか空いてない。
他は酔っ払いさん達が「寝てる」というよりは「倒れてる」ような所しか空きがない。
仕方なくあのおばさんの隣へ。イビキは止んでいるが、未だお腹は全開。
「よぉし 寝るぜ!」と気を取り直して横になる。おかげさまでアリさんの攻撃もない。
いい感じにウトウトしてきた頃だ、おばさんのイビキが始まった。
ヒドい。
いわゆる無呼吸症候群のようで、時折、呼吸が止まる。5回に一回くらい呼吸が止まるので心配で寝てもいられない。
完全に目が覚めてしまった。
「大丈夫かな?起こした方がいいかな?」と、おばさんを見ていると、ムクッと起きた。恥ずかしそうに全開だったお腹を直す。
そして「どこ見てんのよ!」の目線。

「いやいや。」

「☆%#$=@*+|*:>!!」

きっと捨て台詞なんだろう言葉残し、行ってしまった。
周りの人たちも、ほぼ全員が俺を見てる。

「違ぇんだ!冤罪だ!」 思わず、日本語が出た。
悔しいから 「アホ!」 って言ってやった。
もちろん彼女には届くはずもない。

なるほど、それでこの場所も空いていたわけだ。

後味の悪さと言ったらない。
いつかあのアリ達があのおばさんに波状攻撃をお見舞することを願い、私は公園を後にした。
Nairobiでの昼寝はベットに限る。

生業

2008-08-07 | In Nairobi
ふと思った。
「2年後、ケニアで就活してみようかな?」


《花屋さん》
その昔、バラを100本贈ろうとして、あまりの巨額さに断念した経験を持つ、自称「ロマンチスタ」の私にとって「花屋さん」という職種は憧れ以外のなにものでもない。
もし私が花屋さんになったなら、バラ100本はもう少しお求めやすい値段設定にしようと思う。



《靴屋さん》
「おしゃれは足元から」という言葉を鵜呑みにしている私は昔から靴にはうるさい。
そんな私にとって「靴屋さん」という響きは満更でもない。
このお店、ディスプレイの方法に若干問題があるような気がするが、それも店長の方針であれば仕方がない。
出店場所も店長の方針で線路のすぐ脇と決めている。ちなみにこの場所は電車が停車するような集客力のある場所ではなく、
むしろ電車は軽快な速度で通過していくポイントである。
ディスプレイ、出店場所といい、いまイチ店長の販売戦略が見えてこないが、靴屋さんも捨て難い。



《職人》
男たるもの一度は、肩までまくった袖口から見える日焼けしたゴツイ腕、足袋にくわえタバコ。
そんな職人の姿に一度は憧れたことがあるのではないだろうか?私も例外なくそんな職人の姿に憧れた一人である。
彼が白衣?をまとっているのは、これもまた時流によるものだろうか?
足袋ではなく、ビジネス革靴であることも残念であるが、あのゴーグルはぜひかけてみたい。
火花にビビッて、若干腰が引けている気もするが、あれが正しいフォームなのだろう。
あの紳士的な職人の感じを私が醸し出せるか自信はないが、ぜひチャレンジしてみたい職種である。



《伝統医療師》
どちらかと言えば、この人が先ほどの職人で、先ほどの職人がこの伝統医療師という方がしっくりくるのは私だけだろうか?
彼曰く、彼が調合した薬にかかれば治らない病気は無いそうで、薬草の品揃えも豊富とのこと。
時期ごとに手に入る薬草が違うそうで、彼が自ら森へ採りに行くそうだ。
「この中には効き目が強すぎて、時に死んでしまうような強力な薬もあるんだ。」
と言っていたが、それはどうかお願いだからあなたがしっかり調節してほしい。
彼の得意分野は「惚れ薬」だそうで、何でもその薬を飲んだ後、最初に話をした人が好きになってくれるそうだ。
ただし苦いとのこと。初恋の「すっぱさ」を知っている私には苦いくらいでちょうどいい。
「良薬、口に苦し」だ。


ふと思った。
「やっぱ日本帰ろ。」

表面張力

2008-08-02 | In Nairobi

東アフリカ最大級のスラムと言われる「キベラスラム」へ行ってきた。
キベラスラムの人口は80万人とも100万人とも言われている。
大通りから小道へ入る。そこがキベラスラムの入り口だ。
急に通りが狭くなり急激に増加した人口密度にさすがに緊張が走る。
アジア人としての私の顔は相当目立つのだろう。みんな見てる。
friendlyとは程遠い視線が容赦なく私を刺す。
「あぁこの感じだ。」と思った。
ナイロビのタウンが危険と言い聞かされ、実際に歩いてみてもピンとこなかった。今まで訪れた他の都市の方が、格段に危険な臭いが漂っていたように感じていた。
そう、ナイロビのタウンにはこの感じが欠けていたのだ。
ここは「どビンゴ」でヤバイ。私の視界には笑顔が一つもない。この通りに笑顔があるとしたらおそらく私の愛想笑いだけだ。

「Habari?」(お元気ですか?)
中でも一番感じの良さそうなおばちゃんに声をかけてみる。
「…。」(…)
おっと、無視か…、とあきらめかけたその時、
「How are you ?」(ご機嫌いかが?)
と笑顔全開、鼻水かぴかぴの子どもがおばちゃんの後ろからピョコっと顔を出した。
「I’m fine. Na wewe je?」 (おう、いいよ。で、君は?) スワヒリ語で聞いてみる。
「Nzuri sana!」(絶好調さ!)
その答え方が愛らしく、思わず笑ってしまった。
するとおばさんの方から、
「Unasema Kiswahili? Wajapani?」(スワヒリ語を話せるの? 日本人?)
「Ndiyo,ninasema kiswahili kidogo. Ninatoka japani..」(うん。少しなら。日本から来たんだ。) 
この時ほど、訓練言語がスワヒリ語であったことを感謝したことはない。
話が弾む弾む。
不思議なもので、さっきまで誰に襲われてもおかしくないと思っていたこの通りの住民が、なんだか急にみんな兄妹のように見えてきた。


表面張力:温度が上がれば低くなる。温度が上がることで、分子の運動が活発となるためである。

ここキベラスラムは先般の大統領選を起因とした暴動の最前線であった。
その暴動によりたくさんの被害者が出た。殺人、レイプ、強盗、警察との衝突、修羅場と化したそうだ。
つい昨日までご近所さんとして暮らしていた者同士が殺し合い、女性、少女を犯す。
子どももたくさん死んだ。
それまで感情の横溢を表面張力を以ってしてなんとか阻止してきたキベラスラムも、今回の暴動で人々の様々な感情は沸点まで達した。
その結果、キベラスラムは表面張力を失い、感情の堤防が決壊してしまったのである。

暴動が沈静化した今、隣人に殺人者、レイプ魔、強盗がいることを知りながらキベラスラムでは当然のように日常が営まれている。
そして100年という歴史のあるキベラスラムでは独自のコミュニティールールが施行され、「暗黙の了解」という言葉で多くが処理され、無視されていく。
極限の生活の中で健全な精神状態を保っていくために、いったい彼らは何を信じ、何を希望として生きているのだろう。
「キベラの人々にために何かできることはないか?」などという未だ 「上から目線」 の私が、到底彼らと同じ土俵でキベラスラムについて語る資格など無いとわかってはいるものの、

「人々の歓喜という感情の温度上昇が表面張力を奪い、夢や希望が絶え間なく横溢する。」

キベラスラムはそんなコミュニティであってほしいと願う。
またキベラスラムに行こうと思う。