Fin-blog

フィンランドという国のライフスタイルや文化について心に思うことを記していくためのブログです。

フィンランドの文化と ピカチュー

2008-01-13 | Weblog
フィンランド国立美術館に"ピカチュー"のぬいぐるみが展示されてある。
"ピカチュー"というのは何でもなく、
日本のアニメのキャラクターだ。

この国立の歴史ある美術館では、
フィンランドの文化が広いスペースを使って紹介されてある。
ラップランドに住むサーメ人の暮らしや、
中国の文化に影響されていた時代、
スウェーデンに支配されていた時代につくられたカトラリー類や甲冑、
20世紀、デザイン先進国となってからのフィンランド。

今年の秋にこの美術館を訪れたときは、
フィンランドの文化は"デザイン先進国"までの紹介で終わっていた。
しかし、冬になって再び訪れたところ
展示内容が更新されていて、
"他国の現代文化に影響されるフィンランド"の紹介にまで広がっていた。
"影響されるフィンランド"のそう大きくない展示ブースに、
ピカチューはどうどうと居座っていた。
ピカチューの足下には、"ポケモンカード"も広げられていた。

今のフィンランドの若い人たちにとって
日本のサブカルチャーがとても魅力的らしいことは、
ヘルシンキの街で住んでいて自然とわかることだった。

飛行機の中で Nintendo DS に夢中になるフィンランド人の子供。
フィンランド人の学生の方が開いてくれたクリスマスパーティーでは
Nintendoの wii が活躍していて、
私はそのパーティーで初めて wii を手にした。
スーパーやキオスキでは、
日本で見たことのある漫画のコミック本が
フィンランド語に訳されて売られている。
留学先の学校では
フィンランド人の学生が、
日本のアニメーションの主題歌をハミングしているのを聞いた。
たぶん、エヴァンゲリオンの主題歌だったと思う。
私はアニメに詳しくないので、確かでないけれど。
街で見かけるロリータ・ファッションの女の子たちの持ち物には、
ハロー・キティーのグッズが欠かせないらしいことも、観てわかってきた。

サブカルチャーは言葉の通り、
日本においてなかなか一般的なものとして見られていない。
芸術とはかけ離れていて、
サブカルチャーは"オタク"と呼ばれる人たちによって
しっかりガードされている、といった印象。
少なくとも私はそう感じている。

しかし、フィンランドの国立の美術館で展示される程、
地球規模で公認されている日本のサブカルチャーを、
日本人がそうやって軽視していてはいけないのだと思った。
このままでは、日本はまた、
自国が生み出した文化を他国から逆輸入することになってしまう。
一部の研究家や芸術家だけが、
サブカルチャーを証している場合ではない。
日本に、国立のサブカルチャー・ミュージアムがあっておかしくないと思う。

色と形と素材

2008-01-11 | Weblog
色と形と素材。

それらが、ビジュアルデザインをする上での、
最小にして最大の言語だ。

良い作品、良いものに出会うと、
ものづくりをする上で何を大事にしていきたかったのかを思い出す。
フィンランドのアーチスト、ハンヌ・ヴァイサネンという方を紹介したい。
彼女の作品の写真はこちら→http://www.anhava.com/?http://www.anhava.com/exhibitions/vaisanen/index.html

フィンランドの学校の先生に、
「次の合評で特別ゲストとして参加してくれる先生の作品展、
よかったら見に行ってみなさい」
と言われて、
ヘルシンキの中央駅すぐそばにある
"ANHAVA"という名前のギャラリーを訪れてみた。

私はギャラリーやら美術館やら、
ホワイトキューブと呼ばれる所がとても苦手だ。
ホワイトキューブは下手すると、
作家やキュレーターのエゴに満たされた
ブラックキューブに化されていることがあるからだ。
偉そうなことを言うけれど、
細々と自分の好きなようにものづくりを進め、
一端に発信者側に立つことのある私自身の問題でもある。

苦手な場所に自分から立ち入るのは億劫なことだけれど、
せっかくフィンランドに来たのだから・・・
という勿体ないの気持ちが手伝って、
無事、ギャラリーに到着。
ハンヌさんの作品を目の前にして、
あっという間に重い気持ちが飛んでいった。
今回は「大当たり!」だった。

「大当たり!」な作品展とは、
私に頭を使わせようとしないでいてくれる。
そこに言葉はなくて、
ただ、色の形、素材の見せ方で私を楽しませてくれる。
この楽しさを言葉にしてみようにもできなくて、
目から入ってくる"何か"が
体の中に満たされて、
ひたすら心地よいとしか感じられない。

ヴォッコ・ヌルメスニエミの作品を目の前にした時もそうだった。
私の目から入って来た"何か"は
体の中でヒュンヒュンと飛び回り
あまりに元気に飛び回るので、
涙腺が押されて目に涙がにじんだ。

感動とはそういうもので、
例え具体的には色や形を使わない小説にしても、
感動を覚えるときには
読んだ言葉が言葉以上の何かに膨れ上がって
体を刺激するのだ。

良いものをつくるのに法則はない。
色と形と素材と対話するしかない。

Aalto=波

2008-01-03 | Weblog
フィンランドで、Aalto(アアルト)と聞いてまず思うのは、
建築家であり、ファニチャー・デザイナーである"アルヴァ・アアルト"。

留学先の学校のフィンランド語の授業で
先生がアルヴァ・アアルトを話題にし、
"Aalto(アアルト)"というのは
フィンランド語で"波"を意味するのですよ、と教えてくれた時、
漫画の1コマのように
私の頭上に豆電球がピンと光った。

「!」

「フィンランドのデザインに、曲線美を見て
間違いなかったんだ!」の豆電球(→「!」)だった。

このひらめきは、私の勝手なこじつけから来ていた。
何が、Aalto=波と聞いて、
フィンランドのデザイン=曲線美につながるのかと言うと、
アルヴァ・アアルトはフィンランドのデザイン界の巨匠である。
つまり、フィンランドのデザインそのものだ。
(と、私の単純な思考回路は強引に、そう結びつけた)
そのフィンランドのデザインの先駆者の名前の原義が「波」。
つまり、波=曲線であり、
フィンランドのデザイン=曲線なのだ。
(と、私の単純な思考回路は自分の都合のいいように論を立てた)

あまりに都合良く考え過ぎてしまったので、
慌ててアアルトのデザインを思い返してみる。
椅子や机のデザインに見られる曲線を描くアール。
そのアールは、強い直線の辺と辺とを
滑らかに柔らかく結びつけている。
"サヴォイ・ヴェース"と称されているガラス製のプロダクト。
フィンランドの湖をモチーフにしたこともあって、
曲線が微妙な張りのバランスを保って
凹凸に弧を描いている。

数点、例を思い出しても
自分の立てた論の強引さが抜けないので、
語学の先生が、すでにアルヴァ=アアルトの話題を終えてしまって
次の話に進んでいるにも関わらず、
私はアアルトに固執した。

「ドアノブだ!」

再び、豆電球のスイッチが入った。
アアルトの建築のあらゆるドアに付けられている取っ手のデザイン。
ストックマン・デパートの出入り口の扉。
オタニエミ大学の扉。などなど・・・
あのデザインは明らかに波を象っているようにしか感じられなかった。

フィンランドのデザインが曲線美を象徴しているからと言ってどうなるのか。
そもそも、その論は思いつきで自分勝手に立てただけじゃないか。
と言われると、立場がない。
確かに、私は大学院まで進んでデザイン科を専攻しているけれど、
正直、私には論を一般化できるほどの知識も説得力もない。
けれど、私個人の内では
とても重要な気付きだった。

ずっとずっと描くことが好きで、
幼少の頃と同じ手法、白い紙に黒鉛筆で単線を引くだけのドローイング、
を取ってきたこの私の手が、
ここ数年、無性に曲線を追っていた。
曲線を追う先に
何か自分の師となるお手本が欲しくてフィンランドにやって来た。
その私にとっては、強引であろうと
直感を通して「!」(ピンッ)とひらめいたことは大きな収穫なのだ。

大きな収穫にしばらく自己満足してから
豆電球を引っ込め、気持ちを切り替えて、
フィンランド語の講義に注意を向けた。
フィンランドに来て、
しばらく眠っていた五感が再び動き始めていた。