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無限大の夢追いかけて

日々、頭に浮かんだことを書き残そうと思います。

趣味(その7)

2006-09-18 20:07:40 | 思い出
「趣味」という お題も とうとう その7まできました。

正直、そろそろネタ切れですが・・・
その7はギャンブルでいってみます。


あんまり、ギャンブルはしない方ですが・・・

 パチンコは、たまにします。
  大きく負けることも、勝つこともない程度に楽しんでます。 

 競馬は、始めて勝った「有馬記念」で、当てたあと、
  G1レースをたまに買いますが・・・
  あんまり、好きではないみたいです。

 あと、宝くじ・・・
  これも、たまに買ってます。
  これまで、最高当選額1万円。
  せこく、300円×10枚買って、
  当選額3300円ということは、多いのですが・・・
  それ以上は、経験できないです。 

趣味(その6)

2006-09-17 22:32:13 | 思い出
そろそろ、ネタ切れ・・・

ボーリング
 小学校1年ぐらいの時に、父に連れて行ってもらった。
 その後も、今も、楽しむ機会はあるが、趣味と呼べるものとはなっていない。

将棋
 これも、小学生のころ、父に教えてもらったが、
 あんまり、熱中することなく終ってしまった。

ビリヤード
 これは、はまった。
 仕事を始めたころ、同僚や後輩と、夜中にプールバーに通った。
 これは、すごく好きになった。
 息子とも2・3度行ったが、これからも機会があれば行ってみたい。
 
ゴルフ
 これも、2・3年間、必死で練習した。
 コース10回目で、ホールインワンをして、大変な目にあった。
 ただ、少年サッカーのコーチを始めて、
 土日が忙しくなったので、行かなくなった。
 今、クラブは錆付いている。

テレビゲーム
 僕の世代は、インベーダー・ブロック崩しから始まった。
 喫茶店のゲーム機でもかなり遊んだ。
 その後、ファミコン、プレステと家庭用ゲームにも結構はまっていた。
 嫁さんがあまり好きではなかったので、
 一人で楽しんで、
 子どもが大きくなって一緒に楽しんで、
 子どもがもっと大きくなって、子どもが一人で楽しむようになり、
 僕自身は、あんまりしなくなった。

パソコン
 最初に使ったパソコンは、PC9800
 ベーシック言語も少し勉強したり、ゲームをしたりしていた。
 自分で始めて買ったパソコンはMSXのパソコン。
 音楽の趣味と合体させて、曲をパソコンで作ったりして遊んでいた。
 そして・・・
 DOS/V機が普及して、インターネットの普及。
 僕自身もHPを立ち上げた。
 今は、仕事・・・サッカー・・・の次に、
 このパソコンにかけている時間が一番長い。

趣味(その5)

2006-09-16 18:13:58 | 思い出
嫁さんとつきあいはじめてから、テニス始めました。

うちの嫁さん、高校時代、硬式テニス部のキャプテンでした。
(「この話、絶対内緒にしてくださいね。」・・・といいながら、
 全世界に発信している自分が恐ろしいです。)

それまで、テニスなんて・・・と思ってましたが、
二人で楽しめるものをと思って、嫁さんに教えてもらいました。

はじめてみると、そのおもしろさにはまりました。

 サーブは、野球の投球動作に似ているのか、
 結構、強烈なサーブが打てるようになりました。

 バックハンドは、野球左打ちの僕にとっては、
 どうしても、野球のフォームになり、
 「野球しているみたいやな。」とよく言われました。

 娘が赤ちゃんの時、コート横で寝させて、
 二人でテニスをしたこともありました。

 そして、娘にも息子にもテニスを教えました。

 家族4人で、テニスコートを予約して遊んでました。

 テニスの好きなファミリーと一緒にテニス旅行にも行きました。


 これも、最近は途絶えています。

趣味(その4)

2006-09-15 23:30:26 | 思い出
18歳の冬・・・
 舞鶴の友達に誘われて、スキーに行った。
 初めてにしては、かなり滑れるようになり楽しかった。
 白銀の世界も大好きになった。

 その後も、友達とスキーツアーに何度も参加した。
 
20歳の冬・・・
 自分の車でも行くようになった。
 スキーも楽しかったけど、
 いろんなグループで一緒に楽しむことも楽しかった。

 その後も、毎年2・3回は、行っていた。

息子、4歳の冬・・・
 家族4人で行った。
 あんまり滑れない妻も一緒に、
 一緒に行ったファミリーにお世話になって、
 スキーを楽しんだ。
 娘と息子を二人だっこして、滑ったこともあった。

その後・・・
 毎年、家族4人で、
 いそんなファミリーと一緒にも行った。
 家族4名で
 娘と息子は、めきめき上達していった。
 妻も、何とか一人で滑れるようになった。

 車も四駆に乗るようになった。
 
 息子は、スノーボードをするようになった。
 僕もミニスキーでも楽しんだ。

 息子と二人で、日帰り信州も数回行った。

 息子と息子の友達も連れて行ってあげた。


毎年、行っていたスキー・・・

 今年は、行かなかった。

      また、行きたいな。。。と思っている。 

趣味(その3)

2006-09-14 23:20:35 | 思い出
初めて、魚釣りをしたのは・・・
3歳ぐらいだったかな?

 お父さんが好きだったから、
 鮒つり、鯉つりからはじめました。

 そして、海。
 釣った魚は、おいしかったです。
 投げ釣り、サビキ釣り・・・
 夜釣り、・・・

 僕が車の免許をとってからは、僕の運転でお父さんと釣りに行ってました。


 そして、息子も一緒に行くようになって、
 僕以上に、息子が好きになって、
 父と息子で、船釣り、川釣り、海の釣堀にも言ってました。

 息子が大きくなって、バス釣りもしました。
 近くの野池、琵琶湖にも行きました。

 魚釣り・・・
  僕自身は、一人で行くほど好きではないですが・・・
  父が好きだったから・・・
  息子が好きだったから・・・
  父と行った魚釣り、息子と行った魚釣り、
  楽しかったです。 

趣味(その2)

2006-09-13 22:55:50 | 思い出
趣味(その2)は、ギター。

 中学2年の時に、サッカー部の先輩にもらいました。
 「ギター弾けたら、かっこいいかな。」
 そんな気持ちで練習しました。

 高校に入って、写真のギター「TFモーリス」買いました。
 先輩から貰ったギターは、後輩にあげました。
 このギター、今でも、たまに弾いてますが、

  吉田拓郎、かぐやひめ、風、松山千春、長渕剛、ツイスト、井上揚水・・・
  そんな曲を弾いてました。

  オリジナル曲を作って、学園祭にでたり、
  友達の結婚式でも、このギターは活躍してくれました。   
 
 
 高校3年から結婚直前まで、バンドを組んでました。
 バンド名「新撰組」・・・すぐに改名して「SUPLEX」

 ベースを担当してました。

  なぜ、ベースになったか?
    ギターが一番下手な友達がドラムになって、
    2番目に下手だった僕がベース担当になりました。
                        (〃^×^)★あははははっ

  オリジナル曲や、
  アリス、ツイスト、浜田省吾、佐野元春、ロッドスチュアート・・・
  映画「海猿」でも使われていたジャーニーのオープンアームスもやってました。

  コンサートをしたり、文化祭にでたり・・・

    本当に楽しかった思い出です。(^-^)ニコ
 

趣味(その1)

2006-09-12 22:23:12 | 思い出
毎日、ブログ書こうと思っても、なかなかネタがない。
ということで、これまでに趣味にしていたことを・・・

中学から高校にかけて、
(なんとなく、照れくさいけど)
「文通」を趣味にしていました。

どんな雑誌だったのかは忘れたけど、
当時、「ペンフレンド募集!」という欄に、
住所・氏名・年齢・簡単な自己紹介を載せたことがありました。

 ペンフレンド ← 今では死語?


20人ぐらいの女の子から手紙が来ました。
その中から、長野県と北海道の子は、2・3年間文通をしていました。

文通だから、多い月で5・6通書く程度だったと思います。
どんなことを書いていたのか?
あまり記憶にないですが、
学校での出来事、部活動の話が中心だったと思います。

なぜ、長野県と北海道だったのか?
やっぱり、いつか行ってみたい。いつか会いたいな。。。
と思っていたんでしょうね。
写真も交換したように思いますが・・・
結局、誰とも会うことなく、やめちゃいました。
            (〃^×^)★あははははっ

・・・
今なら、メールがあるので、
「文通」を趣味にしている人って、いるのかな?

でも、文通は、自筆だから・・・、
字を見て、相手を想像して、
 丁寧に書くんだな。。。とか、
 おいおい、漢字が違うぞ!。。。とか、
 そんな風に、文通を楽しんでいました。



 今、その二人。。。
 どうしてるのかな?

   ふと、そんなことを思いました。

自己分析 その4

2006-08-11 21:57:35 | 思い出
写真は、最近、毎日乗っている路面電車の中で撮りました。
それだけです。 (〃^×^)★あははははっ


小さい頃
 我が家では、食べ物の好き嫌いは、許されなかった。
 夕食で、自分の好きなものがなくて、
 おかずの内容に不平を言った時、
 父は、必ず「文句を言うなら食べるな!」と怒った。
 母が、追加で何か作ろうとして、
 母も、一緒に怒られたこともあった。
 怒られて、
 「いらんわ!」といって、そのまま寝たことも一度や二度ではなかった。
 悔しくて、泣きながら、寝たこともあった。

 おかげで、僕は、何でも食べる。
 もちろん好きなものは、あるが、
 きらいなものは、これといってない。

 もちろん、好き嫌いなく食べられることには感謝している。
 でも、おかげで、好き嫌いのある人は、気になってしまう。

 自分が好き嫌いなく食べるからといって、
 他人に好き嫌いがあっても、許すべきだと思っている。
 でも、正直、内心では「どんな教育受けたんや!」と思ってしまう。
 
 そんな、せこいことにも、こだわることがある。

                  と、自己分析している。

自己分析 その3

2006-08-10 22:51:52 | 思い出
小さい頃

 我が家は、父、母、僕、姉、そして、おば(父の姉)の5人家族だった。
 おばは、現在、全盲で、光を全く感じることもない。
 当時は、うっすら見える程度、光を感じる程度だった。

 僕は、目の不自由なおばの手を引き、
 歩いて20分ぐらいの歯医者や病院によく一緒に行った。
 
  何度か通っているうちに、小さいながらも
  周りの人が、興味本位でジロジロと見る視線や、
  同情に似た視線でおばを見ていることに気がついた。
  正直、複雑な心境だった。

  でも、複雑な心境といっても、
  目が見えなくても、堂々と生きているおばを
  僕は、恥ずかしいと思ったことはなかった。
  ジロジロ見られるからいやだ。と思ったことはなかった。

  むしろ、目が見えないというハンデがありながら、
  決して卑屈にならず、堂々と生きていたおばを、
  尊敬に似た気持ちを持ち続けていた。

 我が家は、そのおばを父と母が助けながら生活したいた。
 僕は、そんな家族の中で育った。


そして、今、
 僕は、「白い杖」を見ると、敏感に反応する。
 反応はするが、すぐに手をさしのべることはせず、
 「大丈夫かな?」と思いながら、そっと、後ろをついて歩くことが多い。
 もちろん、困った様子を見かけて手をさしのべたことは、何度かある。
 
 僕自身は、「優しさと同情は、全く違う。」
 そんな風に思う人間である。と自己分析している。

自己分析 その2

2006-08-09 23:30:07 | 思い出
小学校4年生

 担任の先生は、熱血先生。
 授業中居眠りをしているとチョークが飛んできた。
 悪いことをして、頭を両手の拳でグリグリ押さえつけて怒られたこともあった。
 
  そのことは、どうも思わなかった。
 

 その先生、ある日、きれいな棒を持ってきた。
 黒板を指すときに使っていた。
 悪いことをすると、その棒でもたたかれることもあった。

  そのことは、気にいらなかった。
  棒という道具で殴ることが気にいらなかった。
  
  休み時間、先生はいなかった。
  そのきれいな棒が置いてあった。
  僕は、その棒を廊下に持っていって、
  段差のあるところで、踏みつけて折った。

   その後、先生に怒られたかどうかすら覚えていない。
   ただ、僕自身が僕なりの正義感で、その棒を折ったことだけは
   はっきりと覚えている。
 
   この思い出は、僕なりの思いがあっての行動だった。
   今でも、正しいことをしたとも思っていないが、
   悪いことをしたとも思っていない。


高校1年生。

 放課後、数名のクラス委員が残って何かを決めていた。
 僕自身もクラス委員の一人だった。
 何を決めていたかも覚えていない。
 ただ、その決め事がなかなか決まらず、
 話しがそれていたことだけは、覚えている。
 他の友達の笑い声が気にいらなかった。
 何となく、その場の流れが気に入らなかった。
 僕は、「クラブに行くわ!」と一言だけ言い残して、教室を出た。
 まわりのみんなは、僕の行動に驚いて、キョトンとしていた。

 (卒業後、その場に居た友人から、
  その時の僕の行動について、「短気やったな~」と指摘された。
  そう指摘した友人が、今、僕の妻になっている。(〃^×^)★あははははっ)
                      
 
  「早く決めようや!」と言うべき場面だったんだと思う。
  でも、僕自身があまり興味のない決め事だったのか、
  あっさりと、その場から離れた。

        
    この行為も正しかったとも思っていないが、
    今でも、こういう部分のある人間だと自己分析している。

自己分析

2006-08-08 23:43:06 | 思い出
自分でHPをはじめてから、
何度も書こうと思っては、途中でやめていた。
でも、今日は書き残そうと思っている。

小学校4年の時、ソフトボールチームに入った。
入ってすぐに、6年生に混じって、
ポジション:ライト、打順:1番というレギュラーをもらった。
大会では、活躍できなかったが、
その後も、練習には必ず参加していた。

小学校5年生の夏、
レギュラーを決める日に、家族旅行で練習を休んだ。
次の練習に行った時、レギュラーの発表があった。
僕の名前は呼ばれなかった。
そのことがショックで、チームを辞めた。
まだ、5年だから、6年で戻ることもできた。

友達から、「戻ってこいよ!」という誘いも
僕は、断わり続けた。

  辞めたことは、確かにつらかった。

  でも、かなり意地っ張りだったので、僕に戻るという選択はなかった。
  野球(ソフトボール)には、かなりの自信があった。
  レギュラーを外されたことは、僕のプライドが許さなかった。
  両親には、「おもしろくないから辞める。」の一言だった。
  その時、両親がどう言ったのかは覚えていない。 
 

このことが、
僕が自己分析をする時に一番に思い出す出来事。

 良くも悪くも
 僕の「意地っ張り」「プライド」は、
 最近は表に出ることは少なくなった。

 でも、僕自身は、小さいころから、そして今も
 かなり意地っ張りで、変なところでプライドにこだわる人間である。

                  と、自己分析している。

怪我の話

2006-05-18 21:42:43 | 思い出
今日は、木曜日・・・
ブログを書き始めて、平日はあんまりネタがない!

 昨日までは、ガーデニングでつないでみたけど、
 今日は、帰ってきたら、外は真っ暗・・・
 さて、今日は 何を書こうかな? と考えていた。

 昨日のブログを 自分で読んでいて、
 ガーデニングから、柿の木の話、そして怪我の話。

「せやせや!怪我の話ならまだまだあるぞ!」ということで、
 小学5年生の時の怪我の話を書くことにした。
「え~っと、写真どうすんねん?」ということで、
 アルバムからスキャンしてみた。
「えっ!? また 自分の写真 載せるんか?」
 と、自分自身で 問いかけてみる。

 最終的には・・・
『まぁ いいか?』ということで、ちょうど小学5年のときの写真です。


小学5年生の時・・・
小学校の体育館の横・・・

 小学6年生と がっぷり4つに組んでいる。
 相手は、大きくて 勝てそうにない。
 
 相手を 投げようと 腕に力を入れる。
 やっぱり 相手はびくともしない。
  
 相手も 投げようと 腕に力を入れる。
 僕は、必死で投げられないように 腰を落とす。

 相手を 倒したくて 足をかけに行く。
 
 その瞬間!
  逆に 足をすくわれる。
  『やられた!』と 思った瞬間 僕の体は宙に浮いて、
  次の瞬間、僕の頭は、コンクリート直撃!!!!
  
  一瞬何がなんだわからなくなる。
  保健室で横になり、その後病院へ行った。
 
  結局、血は出なかった。
  レントゲンでも、異常はなかった。
  家に帰って寝ている。
  吐き気がして、食べたものは 全てもどした。
  心配して担任の先生も夜に家に来てくれた。
  結局、朝まで、母が看病してくれて、
  僕は、朝までゲボゲボ苦しんだ。

 そんな記憶。

  なぜ、6年生と相撲をしていたのかは、覚えていない。
  ただ、殴り合いではなかったことだけは確か。
  
  喧嘩の延長だったような気もする。
  かなり、興奮して相撲をしていたような気もする。

  僕が先生にどう説明したのかも覚えていない。
  まわりには いっぱい5年と6年が集まっていて、
  その子達が どう説明したのかも覚えていない。
  相手の6年の子もお見舞いに来てくれたことは覚えている。

 そんな記憶。

  あの相撲は 何だったんだろうか?
  体育館の横。下はコンクリート。
  がっぷり4つに組んで なぜ、相撲をしていたのか?

 まぁ そんなもんだったんでしょうね。   (〃^×^)★あははははっ 

藤井寺球場Ⅲ

2006-05-12 22:05:47 | 思い出
今日のブログ、何を書こうか、
帰りの電車で考えていた。・・・思いつかなかった。
お風呂に入って考えていた。・・・やっぱり思いつかなかった。

ということで、もう1回だけ、ひっぱります。

僕の高校野球、最後の試合。
そして、この写真が、最終打席です。
結果は、センターへの浅いポップフライ。だったと思います。

 結局、この試合、僕はノーヒットでした。
 それどころか、バットの芯を捕らえたのは、最初の一振り。
 サードベース左へのライナー性のファールだけでした。

 忘れられません。
 その一振りだけが 直球でした。
 そのあとの打席、ストライクゾーンにはいってきた玉は、
 すべて、変化球でした。

 そうなんです。
 最初の一振りで、僕が直球が得意で、
 変化球が苦手なことを見抜かれたようでした。
                  (〃^×^)★あははははっ

 この試合も、うちのチームのピッチャーが好投して、
 最終回まで、0対0でした。
 そして、最終回に連打されて、ノーアウト2・3塁になったので、
 満塁策をとりました。
 (僕も、ショートからマウンドに駆け寄ったのを覚えています。)

 そして、
 結果的には、レフトオーバーのサヨナラ負けという結果でした。
 最後の打球、見上げる僕の頭上を 大きく打球が飛んでいったことも
 はっきりと覚えています。
 タッチアップに備えて、中継地点に走ったことも覚えています。
 その打球が、僕の高校野球の最後の瞬間でした。

 試合修了後、泣き崩れたことも覚えています。

 そして、皮肉にも、
 その負けた相手が全国大会を制覇しました。

ちなみに、
 僕の両親も 最初で最後の僕の高校野球を観に来てくれていました。
 僕の友達も いっぱい来てくれていました。
 (Nくんも 来てくれていたんですよね。)

そんな思い出。

 でも、この試合は、藤井寺球場ではなく、
 学校から歩いて15分のPL球場でした。
              (〃^×^)★あははははっ


        以上!僕の高校野球の思い出、終わります。
        (N君、思い出す きっかけありがとうね。(^-^)ニコ )
        

近鉄藤井寺球場Ⅱ

2006-05-11 21:13:06 | 思い出
昨日に引き続き、僕の思い出ばなしです。

N君が書いてくれたように、
そして、僕が僕のHPのどこかに書き残したように、
この藤井寺球場に来る前、

僕達は、あのPLと18回0対0で再試合という壮絶な試合をしました。
その再試合に勝って、その後も勝ち進み大阪代表になったわけですが・・・

軟式野球といえども、強豪PL、
無名の公立校に18回0対0で再試合というのはショックだったと思います。
そして、再試合に負けてしまうというのは屈辱だったと思います。

逆に、無名の公立校の僕達は、18回0対0の後は、
全ての試合が、お祭り騒ぎでした。
そして、苦戦することなく、不思議なくらい順調に優勝まで勝ち進みました。
優勝!そして、全国大会出場!!

僕らは、もともと、軟弱野球部と呼ばれてた寄せ集め。
僕も、このクラブを選んだ理由は、
ロン毛をなびかせて、
横っ飛びで白球を追っていた先輩がかっこよく見えたから・・・
(我ながら、軟弱な発想だったと思いますが・・・)

ちなみに、僕も、髪の毛をなびかせて白球を追っていました。
帽子は、ほとんどかぶらずに練習してました。
(この髪の毛は、全国大会出場が決まった時に、
 高校野球連盟から、注意を受けて、
 この写真の時は、みんなそろって刈り上げてました(笑)。)

この時の全国大会メンバー(3年生は僕一人、他の2年生)も
中学ではサッカー部(僕も含む。)、陸上部、テニス部、とか・・・
高校に入ってから、硬式野球部を辞めて入ってきたとか
そんな者の寄せ集めでした。
ただ、運動神経は、ずば抜けた者が偶然集まり、
毎日、楽しんで練習してました。

  そんな仲間と全国大会出場!

   そして、この藤井寺球場で開会式!

                それが、僕の思い出です。

近鉄藤井寺球場

2006-05-10 22:08:34 | 思い出
いきなりですが・・・
僕の友人N君のブログにこんな書き込み見つけました。

>最近ブログを始めたという噂の、元高校球児のMくんはどうお考えですか?
>お題「近鉄藤井寺球場」でブログUPお願いします。^^

このMくんは、おそらく僕のことだと思うんで・・・
今日のお題は「近鉄藤井寺球場」です。

まず、前置きですが・・・
 友人Nくんも、友人Aくんのブログのこの書き込みがきっかけだったらしい。 
 「1 先日、藤井寺球場の前を通ったところ、
    球場が跡形もなくなっており、全くの更地になっていた。
  2 ここでは1999年まで公式戦が行われており、
    その最後の年の日ハム戦を観に行ったのが懐かしい。
  3 その日はデーゲームやったので試合前の練習から生ビール片手に観戦。
    試合終了後もお好み食べてビールや焼酎をしこたま飲んで、
    結果ぐでんぐでん(当然やわっ!)
  4 近鉄電車のあべの橋-藤井寺間を何往復か爆睡し、
    河内天美駅で車掌さんにおこされた。
    デーゲーム観戦後、なぜ終電で帰ったのか未だに理解できない。
  (あたしゃ、あべの橋-藤井寺間を何往復も出来たことの方が理解できんわ)
  5 そんな思い出深い球場が無くなるのは寂しいかぎりだ。


 というNくんのブログには こんなことも書かれていました。

  「ちょっと昔にはこんなこともありました。
   球場の前を歩いていたのですが、
   球場から飛び出してきた1台のベンツにもう少しで当てられそうにっ!!
   「危ないのお~」と運転席を見ると野茂じゃないですかっ!!
   確かメジャーに行く1、2年前です。
   当てられて、
   お詫びにってユニフォームでも貰っといたほうが良かったよね(笑)。」


ということで、僕の思い出書きますね。
『もちろん この写真です。』
まぎれもなく、僕が高校3年の時の全国大会の入場行進です。

さて・・・

     ここで、問題です。

         僕は、前から何番目でしょうか?

            なんて、バカな質問している場合でもないか?


高校3年、他の3年生部員は、
春の大会を最後に引退していたが、
僕だけは、キャプテンは2年生に譲ったものの、
全国大会目指して、しつこく野球を続けていた。
そして、この写真のとおり、大阪40数校の頂点に立ち、
みごと全国大会出場を果たした。

そんな思い出の球場・・・それが藤井寺球場です。(^-^)ニコ