みどりのまきば

認知症予防に不定期で日記を書いてみます。

本を求めてレベルブックスさんへ

2020-01-13 19:08:13 | 日記
高崎駅の西口から北へ歩くこと15分、「レベルブックス」さんへ初訪問。

以前『高崎市・本屋』と検索したところ、上記のサイトにたどり着き、今度高崎駅で降りたら必ず訪問しようと決めていました。あの決意から数ヶ月経ってしまいましたが、本日ようやくその機会がおとずれました。 

高崎駅から北へ5分ほど歩くと、昭和を感じさせる小民家の建ち並ぶ閑静な小路に入りました。
近年、高崎駅周辺は開発が進み、近代的な無機質な建物が目立つようになりましたが、ちょっと足を延ばせば喧騒から離れられるものだと安心しました。

しばし半信半疑になりながらも地図を片手に歩いていると、目的地にたどり着きました。
古民家を利用した温かみのある店舗にオーナー自らが厳選したと思われる幅広いジャンルの本が所狭しと並んでおりました。
実際にはオーナーと会話をしておりませんが、並んだ本のタイトルを眺めたり、手に取って試し読みをしていると、なぜかオーナーと親しく会話しているようで居心地が良く、しばし時間を忘れて楽しんでいました。

この日、一番驚いたのは、北御門二郎さんに関する本が置いてあるのを見つけたときです。
今から20年ほど前、生きる希望を見いだせず、人生で一番深く悩んでいた時期がありました。
そんな時、何かの雑誌(ライフスタイルを問うようなジャンル)に北御門さんの特集が組まれており、農業へ関心を抱いたとともに、トルストイの作品へと誘われました。
トルストイは天地万物の創造主なる真の神様を信じる方であり、彼の作品を通して神の真実性や神の愛に触れ、心休まる経験をされた方もおられるかと思います。
私のその一人で、さらに付け加えると、神様って空想上の方ではなく、実在されるお方で、信じることは何ら恥ずかしいことではないのだと知りました。
目に見えないだけだから信じるか否かの二者択一なのですが、マイノリティを恐れず、まことの神様を信じたいと決意したのも、この時でした。
"あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。
ですから、私の愛する者たちよ、偶像礼拝を避けなさい。"
コリント人への手紙第一 10章 13〜14節







何を第一優先すべきか

2020-01-13 11:52:00 | 日記
不思議な縁でこの世に生まれてきたものの、何のために生きているのかわからず、考えても仕方がないから、がむしゃらに仕事をしたり、趣味に没頭したり、自暴自棄になったりと…自己中心的な生き方を肯定してしまう。

でも、人生の第一優先は何だろうか?
朝、目が覚めた直後や就寝時に何を考えているだろうか?
この質問への回答内容こそが、回答者のアイデンティティだと思う。

仕事、お金、富、地位…は、死んで持っていけないし、事前に天に積んでおけないので人生の第一優先事項に挙げるのは、ちょっと違う気がする。

また、祝福されない人生は何をやっても空回り、これもまた虚しい。

祝福された人生こそ喜びです。

世界のベストセラーである聖書は、人間は天地万物をお造りになった主なる神によって創造された…と伝えていますが、それと対局にあるのが、生物は偶然に生まれて進化し続けて今日があるという説です。つまり神はいないという説です。

ことの始まりを誰一人目撃していないので、いずれにしましても信仰が働く分野になります。

私は祝福された人生を歩みたい。
創造主なる神が求めておられる礼拝者として、「生きることはキリスト、死ぬこともまた益です」という思いを持って
生涯を全うしたい。

"はじめに神が天と地を創造された。
地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。
神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった。
神は光を良しと見られた。神は光と闇を分けられた。
神は光を昼と名づけ、闇を夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。"
創世記 1章 1〜5節

"イエスは彼女に言われた。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。
救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。
神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」"
ヨハネの福音書 4章 21〜24節

"だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。
ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。
空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。
あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。
なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。
今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。
ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。
これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。
まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。
ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。"
マタイの福音書 6章 24〜34節