引用:板橋区史跡散歩 馬場憲一著 学生社P12 近世の板橋
きょうは、上記の略図をもとに、地図をみてみます。
○金井窪・・・窪がとれて金井となり、町名ではないみたいですね。。
○徳丸・・・ウィキペディアによると、ほぼ現在の高島平とのことで、徳丸原とイコールか?
「徳丸が原は、荒川の後背湿地であり、腰までつかるような湿地帯と沼地が点在する荒原だったことから耕作にも適さず、
おもに幕府の鷹狩場や砲術訓練所として利用されていた。明治に入り、豊富な荒川の水資源を頼りに耕地化が進み、
「赤塚田んぼ」「徳丸田んぼ」と称され、昭和初期まで、東京都で生産される米の7割を生産するなど、
東京屈指の米どころに発展した」
・・・明治から昭和初期までは、東京の米7割の米どころ!とのことΣ (°□°;
○前谷津川(まえやつがわ)・・現在は暗渠のようです。いくつか参考になるサイトをみつけました。
・高島平観光案内:http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Forest/2199/frontguy/frontguy.htm
・板橋ハ晴天ナリ。:http://akatsuka-tokumaru.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post_871e.html#
とくに板橋ハ晴天ナリ。は、当時の写真がアップされており、興味ぶかいものです。
※歴史的農業景観閲覧システムで、徳丸・赤塚と西台・根葉をわける前谷津川に印をつけたもの。
昔の地名を今の地図で探すのは、なかなかおもしろいです。
板橋を知る上で、ほかにもあまたの地名、川、街道などキーワードがありそうですが、また次回。
酔ってなくても、きつそうです。(;^_^A
良い(酔い?)想い出ですね♪
地図良いですね、
残念ながらこのようなざっくばらんな地図が多いですね。(江戸明治東京重ね地図にはもうちょっとよく出ていますが)
上板・下板・金井窪は上板村・下板村・金井窪村の集落の名称です、金井窪は番地は無くなりましたが、環状6号線と川越街道の交差している所は今でもバス停も信号機の名前も金井窪で、今でも住民の間では使われている名称です。
戦前の板橋は今の板橋区役所に在る「四ツ又」が中心で都電の終点でした。(後に志村まで延長されましたが)
東上線が出来た時の金井窪駅は最寄駅です。
石神井川の川越街道の周辺に堰を設け石神井川北側に水路(北耕地川)を確保して、縁切りえの木を通り姥ケ橋まで運河を掘り、北区の農家に水路を確保するのですが、これが村同士の争いの元になります。板橋の歴史には載っていません、どっちかと言うと板橋の汚点ですから、かろうじて
http://www.city.itabashi.tokyo.jp/c_kurashi/018/018735.html
に載っています。(北区の歴史資料には載っています)
明治41年の板橋競馬場も面白いですよ。
消えた地名はバス停に残ることがおおいですね。
ご教授いただいた内容はいずれも興味深く
今地図やネットでみているところです。
北耕地川が稲付川ということ、まさにネーミングが
しめす通り、権利問題は死活問題ですね。
板橋競馬場の話も時代がしのばれて面白そうです。