2015年06月15日ブログで私は旧岩槻区役所前の日光御成道一里塚跡を見た。
ここには岩槻に笹久保、岩槻城下久保宿町、相野原の三か所に一里塚が設けられていたことが書かれている。
しかし、平成21年岩槻区発行『来て見て魅せる 城下町いわつき』(岩槻区ガイドブック)には、岩槻城下久保宿町の手前(江戸側)は見沼区膝子となっていて、笹久保がない。笹久保と膝子の位置を地図で見る。
将軍の日光社参コースは8代将軍吉宗以前は膝子を通るコースではなく、笹久保を通るコース(御成下道)だったという。
日光道中絵図(天保14年将軍家慶の日光社参の行程を示した道中図)に岩槻城下久保宿町の一里塚が描かれている。
土を盛った塚のようなものは見えず、大きな木があったようである。
日光御成道分間延絵図を見ると一里塚は道の両側にあったようである。
日光道中絵図の右の三差路を拡大する。御成下道は笹久保一里塚からこのように(赤)次の一里塚に向かうのだと思う。
現在の地図に御成下道から久保宿町に入るところを示す。願生寺さんは日光道中絵図にも描かれている。
ちなみに、平成4年発行さきたま双書『埼玉ふるさと散歩(岩槻市)』に掲載のイラスト地図を見ると、笹久保の一里塚跡はこのあたり(赤丸)だと思う。
先日「時の鐘」案内板を見たがそこに、岩槻八景「城口晩鐘より」の写真があった。この絵は南から北を見ているが、日光道中絵図は西から東を見ている。木戸(門)が描かれ渋江口とある。
江戸時代、城主とその家臣の居住地は町人の居住地と明確に区別されており、境界には木戸(門)が設置されていた。
天保年間岩槻城図を見る。日光御成道を赤、裏小路を黄で示す。現在の地図に同様に示す。
ここは鐘楼、番所と読める。鐘楼は時の鐘のことだと思う。
城口晩鐘のここが番所だと思う。
天保年間岩槻城図を見ると裏小路の突き当たりに番所がある。
そうするとこの道の突き当たりに番所があったのかも知れない。
ここには岩槻に笹久保、岩槻城下久保宿町、相野原の三か所に一里塚が設けられていたことが書かれている。
しかし、平成21年岩槻区発行『来て見て魅せる 城下町いわつき』(岩槻区ガイドブック)には、岩槻城下久保宿町の手前(江戸側)は見沼区膝子となっていて、笹久保がない。笹久保と膝子の位置を地図で見る。
将軍の日光社参コースは8代将軍吉宗以前は膝子を通るコースではなく、笹久保を通るコース(御成下道)だったという。
日光道中絵図(天保14年将軍家慶の日光社参の行程を示した道中図)に岩槻城下久保宿町の一里塚が描かれている。
土を盛った塚のようなものは見えず、大きな木があったようである。
日光御成道分間延絵図を見ると一里塚は道の両側にあったようである。
日光道中絵図の右の三差路を拡大する。御成下道は笹久保一里塚からこのように(赤)次の一里塚に向かうのだと思う。
現在の地図に御成下道から久保宿町に入るところを示す。願生寺さんは日光道中絵図にも描かれている。
ちなみに、平成4年発行さきたま双書『埼玉ふるさと散歩(岩槻市)』に掲載のイラスト地図を見ると、笹久保の一里塚跡はこのあたり(赤丸)だと思う。
先日「時の鐘」案内板を見たがそこに、岩槻八景「城口晩鐘より」の写真があった。この絵は南から北を見ているが、日光道中絵図は西から東を見ている。木戸(門)が描かれ渋江口とある。
江戸時代、城主とその家臣の居住地は町人の居住地と明確に区別されており、境界には木戸(門)が設置されていた。
天保年間岩槻城図を見る。日光御成道を赤、裏小路を黄で示す。現在の地図に同様に示す。
ここは鐘楼、番所と読める。鐘楼は時の鐘のことだと思う。
城口晩鐘のここが番所だと思う。
天保年間岩槻城図を見ると裏小路の突き当たりに番所がある。
そうするとこの道の突き当たりに番所があったのかも知れない。
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