咲いた万歩

さいたま市在住。 デジカメ片手に、四季折々の花木草を眺めつつ、 万歩ウォーキングで健康な日々。

北袋町1丁目にあった三菱マテリアル

2017年11月20日 | 日記
2017年10月19日ブログで私は北袋町1丁目土地区画整理事業基盤整備工事見た
この工事用地には数年前まで三菱マテリアルさんがあった。

2011年11月解体中の写真。

三菱マテリアルさんがあった場所を昭和41年の地図で見ると三菱金属鉱業と出ている。
大宮市史の年表には昭和14年4月20日に三菱金属鉱業研究所創立とある。
昭和55年埼玉県電力協会発行『埼玉の電気物語』(非売品)には、数年前に解体された4階建鉄筋コンクリートの建物についてこのように記述されている。埼玉県で最初のエレベーター、洋式便所、百尺以上の高さの煙突があったという。
昭和22年空中写真の黄で示した建物と最近黄で示した建物(数年前解体)は同じだと思う。

昭和52年の地図には三菱金属と出ている。
三菱マテリアルホームページの会社情報沿革を見ると、昭和27年、太平鉱業(株)を三菱金属鉱業(株)に社名変更とあり、昭和48年、三菱金属鉱業(株)を三菱金属(株)に社名変更とある。
先の大宮市史の年表には昭和14年に三菱金属鉱業研究所創立とあったが、創立時の社名が三菱金属鉱業であったかはどうかは疑問である。
三菱マテリアルホームページの事業研究開発沿革を見ると、大宮市に移転した頃は「鉱業研究所」である。昭和14年大宮創立時の社名は「三菱鉱業研究所」だったのではないかと思う。

平成2年の地図には三菱金属中央研究所と出ている。
平成3年の地図には三菱マテリアル中央研究所と出ている。
三菱マテリアル沿革によれば、平成2年、三菱金属と三菱鉱業セメントが合併し、「三菱マテリアル(株)」となった。

平成元年大宮市役所発行『続大宮市史Ⅰ現代資料編』には、戦後の住民運動について記述されているが、「三菱原子力総合研究所の設置反対運動」についても触れられている。
その解説には “ 三菱原子力工業会社は、昭和33年秋、原子力総合研究所を市内北袋に建設することを決めていた。そして、早くも34年4月その一部である燃料館が完成、その9月に伊丹市から研究部を移転する予定として、地元地区への了解を求めた。6月に入り、反核・反原水爆を唱える動きが急にもち上がった。(中略)そして11月、大宮市、三菱、地元民三者が協議会を作ることで、設置反対同盟は発展的に解消、一応の落着をみるが、43年になり「原子炉を置かない」ことで合意されていた件に疑義が発覚、住民運動が再燃した(49年7月住民の要求が通る線で和解成立)。 ” と記述されている。

ヤフーで「三菱原子力総合研究所 大宮」を検索したところ、ウィキペディア大宮原子炉跡地放射性廃棄物汚染がヒットした。それによれば、1959年(昭和34年) 三菱金属が中央研究所内に原子炉建設を発表。三菱原子力工業株式会社を設立した。
三菱マテリアルホームページの会社情報環境情報(さいたま地区 放射性廃棄物の保管管理)放射性廃棄物保管庫の概要を見る
放射性廃棄物の保管管理を見る
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