![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/c4/3718fd0bfcc72c634610f5950f20f74e.jpg)
其の室
此処は萩原初野が室(へや)である。四五日前までは、彼の学校の祝賀会の朝、慌てゝ出たまゝに取散らされてあるのを、主婦が丁寧に整理(かたづ)けて、見渡した畳の上に紙片一つ落ちて居ない。
「大変に暗い室だねえ。」と殿井はのツそり敷居に立っている。
「貴方、まア静になすツて下さいよ。」と主婦は殿井を内に入れて障子を閉め、其処の横手の肘掛窓をがたがたと明けた。
鼠色の障子から、薄い光線(あかり)が射込んだ。眼に着く物はインキの痕に汚れた桐の勉強机、(つくゑ)蒔絵の硯箱と鉄蓋のインキ壺、それと並んで筆記帖(ノートブック)が二三冊に英和字書の綴糸の切れたのを重ねて、その上に肉色の吸取紙を石の文鎮で押へてある。机の後には、二本立の書箱(ほんばこ)と、硝子戸の洋本棚と並べてある、が硝子戸には中の見えぬ様に白紙(かみ)を張ってある。また、此の机の下には、反故籠(ほごかご)に炭籠(すみどり)、それから縁の取れ掛った栗在の角火鉢。
「宛然(まるで)男書生(をとこ)の室の様だね。」殿井は四辺を見廻して独語した。女ならば、定めし見事な物、綺麗な物、色彩の濃い物に飾られてあると思ひの外、其様な目に着く物は一品(ひとつ)も無いので当今(いま)の女学生としては変わって居る、成程優(えら)い者かも知れない、と密に感心した。
「貴方、ま一寸此れを御覧なすツて下さいな。」と云ひながら、主婦は押入から斜に自転車を引出した。
「はゝア、此事(これ)か。」と殿井は傍に寄って、「ピアスだね…。随分酷く遣(や)ったと見える。把手(ハンドル)が此様なに曲がってらア、鈴(ベル)も毀れたね…。でも此車はまだ新しい、女だけに使用(もち)が良かツたんだね。」
「如何でせう、此様な物でも、拂ふと云ったら早速買手が有るでせうか?幾何(いくら)位取れるもんでせう?」
「売るのかい、如何して?入院料を徴(と)られるから?だツてそれは余り狼狽(うろた)へた話ぢゃ無いか?」と殿井は笑った。
「いゝえ、私が売るんぢゃありませんけど、過日(こなひだ)、見舞に参った時もね、其様なお話がありましたし、それに…。」
「売る?萩原が売る気なんだね?」
「だツて、此うなりゃ貴方、此様な物でも売らなきゃ、仕方が無いぢゃありませんか?如何云ふもんでせう、早速買ふ人が有るでせうか?」
「其は有るとも、そう云う別嬪の乗ったのだもの、幾人(いくら)も買手はあるさ。」
「冗談で無くさ貴方。」
「なに冗談なもんか…。ぢゃ、僕が引受けても可い。」
「貴方が?だって、貴方には如彼(あゝ)いふ立派なのが有るぢゃありませんか。」
「有っても可いさ、勿論、僕が買ふとすれば、其処に一つ条件があるがね。」
「条件て仰有ると?」
「お主婦の話では厭だ、当人から、直接(ぢき)に頼むんで無きゃ買はない。」
「そら、貴方のお談は直ぐ其れだから、可けませんよ。ほゝゝゝゝゝ。」と笑ったが、直ぐまた真面目に成り、「本当の事、幾何位で拂へるもんでせう?実はね、先月分の下宿料が其のまゝに成ってるもんですからね、萩原様はそれを気に懸けて、熟(どう)せもう、自転車なんざ不用なもんだから、彼品(あれ)を売って勘定を済まさうツて、此の間もさう云ふんですよ、けれども私は…。」
と云ふ主婦の顔を、殿井は訝(をか)しい眼で眺めて居たが、
「先月の下宿料?可笑しいねえ。ぢゃア、矢張し堕落生の仲間ぢゃ無いか。」
「いゝえ、堕落生なんて貴方…。」
「いや、お主婦の辯護も可いけれど、学資が滞り無く来て、真面目に勉強して居る女なら、月々の下宿料の滞る筈は無いぢゃないか、怪(をか)しいよ、何(どう)してもこれは怪しいよ。」
「いゝえ、些かも怪しい事はありません、今迄は、只だの一度だツて此様な事なんか無かったんですもの…。」
「ぢゃ、つい先月あたりから、男狂ひを始めたんだ!」
「はゝゝゝゝ。まアお聞きなさいよ。男狂ひなんて、萩原様が其様な事を為さる人なもんですか…?」
「ぢゃ、何故下宿料が拂へないんだ?可け無いツて事よ、幾ら辯護しても駄目だツて事よ。」
「先月はね、お故郷(くに)から妹さんが逃げて参りましてね、最う久(しばら)く、萩原様の厄介になツて居たんですよ。だもんですから、方々の見物、買い物、それからお故郷へ帰す時の旅費、土産物…、何して貴方、月々送って来る学資で間に合ふもんですかね、加之(それに)、感心に妹思ひですからね、二人一緒に出る時なんぞ、私ばかし肩掛けをして、波ちゃんが何も掛けないぢゃ外見(みツとも)ないツて…其の妹が波ちゃんて云ふ娘(こ)なんですよ…外見ないツて、寒い日でも貴方、何も掛けずに出るんでせう、終ひには、自分と同ぐ様なのを買って遣りましたけれど…、まア一体そう云ふ性(ひと)なんですからね。」
「そうか、ぢゃア、中々感心な所が有るね。」
「ねえ、感心でせう?男狂ひだなんて、余りお酷いぢゃありませんか。」
「併し、其の時に、故郷から妹の金と云ふのが来た筈だ。」
「いゝえ、夫が参りませんの。」
「酷いね、其の兄と云ふ奴は何だい、商売がさ?憎い奴ぢゃ無いか。」
「元は造酒屋だツたとか云ひますが、今は、別に商売は無いやうですよ、何でも、銀行にでも関係して居なさる様子ですが。」
「何しろ、余程吝嗇(けち)な奴だな。夫ぢゃ萩原様も可哀相だし、其の妹も可哀相だ。」
「夫よりは、阿母様が何様なに辛いんですか?」
「阿母様なんざ如何でも構はないさ。」
「何故?年寄だから…?」
「女の年寄なんざ、世の中には不用の物だ。」
「まア其様な、はゝゝゝゝゝ。」と主婦は高く笑ったが、押入れの内(なか)を覗込んだ殿井を退ける様に手を広げ、「何をなさるんですよ、其様なに覗くもんぢゃ有りませんよ。」
「可いぢゃないか、ま一寸と見せて呉れ。余り感心だから、急に擦って見度くなツた。」
「何を感心なさるんだか、貴方の事だもの、解るもんですか。」
「ま一寸と。」云ひながら、殿井はぐいと其の唐紙を明けたが、機(とたん)に上の棚から転げ落ちた物がある、「や、枕だ、括枕(くゝりまくら)を遣ってるね。美(い)い香(にほひ)だ、ふん、ふん、何だらう?ま嗅いで御覧。」
「厭ですよ殿井様、汚ない。頭髪の臭気(にほひ)ぢゃありませんかね。」と主婦はそれを中に投り込んだ。
けれども殿井は、尚ほ紙門(からかみ)を閉めさせようとはせぬのだ。
押入の中は二段に仕切られて、上にはお納戸キャラコの裏の、紡績八丈のふツくり膨らんだ夜具布団が一組、縁の切れた茶色毛布の端、色の褪めた天鵞絨の襟の掛った銘仙か節糸か、何でも萌黄色の多(かっ)た瀧縞の小掻巻、小豆色のネルの寝衣、これが又丁度襟の方が前に出て、汚目の見える肩当が綻びて下がツて居る。以上の物の上に、紫地のメリンスの座布団と、主婦が今投り込んだ枕までを詰めたので、脂っこい天井板が跳反りさうである。それから、其の隣には縞ズックの支那鞄、呉服屋から仕立物でも入れて届いたらしいボール箱が二個、桑材の西洋鏡臺、但し鏡には白金巾を被(き)せてあるが、油やら白粉やらの汚染(しみ)が附いたまゝに成って居る奴。
「や、此様な物が在る。」下の棚を覗込んだ殿井は、丸薬の入ってる小さな壜を拾上げて、「何だらう、微毒の薬だな?」
「冗談を仰有いよ、萩原様が其様な薬を服むもんですかね…それは貴方、夜分お眠(よ)られないもんだから、睡眠剤(ねむりぐすり)でさアね。」
「成程、健脳丸か、僕はまた、微毒の薬かと思った、はゝゝゝゝ。」
「…まア貴方、其様なに掻回すことはお止しなさいよ、何ですねえ、御人品(ごじんたい)に障るぢゃありませんかね。よ、閉めますよ。」
「まア一寸。可いぢゃ無いかね…。」殿井は、主婦の制止(とど)むるを肯かず、切りと其の内を見廻す。
柳行李が二個重なり、其の傍に紐で結いた鶏卵の空折(あきをり)、中からは古新聞が溢出(はみだ)してゐる。それから婦人雑誌、算術を稽古した古手帳、風月堂の菓子の丸罐、洋傘(こうもり)に雨傘、これは熟れも袋に入ったので。
「おい、お主婦お主婦、大変な物が出たぞ。」と殿井は卒(にはか)に勇んで云ふ。
「何です?」と主婦は肩から覗込んで、「其様な事を為すツちゃ可けませんよ。まア、錠をお明けなすツて?」
「なに、僕が明けるもんか、明いてたんだよ。そら、これが如何だ?」
「何です?」と主婦は、其の文庫から出た物を手に把った。
「質屋の通(かよひ)だ!此う云ふ物が出たら、最うお主婦の弁護も立消えだらう。」
「まア、此様な物が在るんですか。」
「如何だ、吃驚したね。ま中を開けて御覧、それ、二月二十五日、八円で袷一枚と襦珍の丸帯、ね、二十五日と云ふと、女子学院の記念会ぢゃ無いか?」
「いゝえ、彼は二十六日です、」と、主婦は呆れながら通帳を繰返して、「爰に、六円で風通の小袖と云ふのが消えてますよ、ぢゃ、入替(いれかへ)たんだよ、まア、此様な事を為さるんですかねえ。」
「案外だらう?だから、人は見掛けに依らぬ物さ。此様な事を為るんぢゃ、最う、品行も大概推測が附くさ。」と笑って、「だから、お主婦の云ふ事も信(あて)にならないツて事よ。」
「ですけど…、」と首を傾げて、「ま、待って頂戴よ。これが二月二十五日と…。」
主婦は通帳の日を調べて居たが、頓(やが)て小膝を撲って、
「そうだ、彼(あ)の妹さんの来た時から、」と面を上げて、「可哀相ぢゃありませんか、皆な貴方、お妹御に何か買って遣る為でさアね。それ、通帳の日が丁度…まア、感心ぢゃありませんか…。」
と云ふ時、台所の方から慌ただしく下婢が駈けて来て、
「お主婦(かみさん)、お主婦、お主婦は何方(どちら)です?」
「何だよ、此処だよ。」
「お主婦、速く来て下さいよ、萩原様がお帰りになりましたよ…。速く来て下さいよ。」と叫びながら、またも彼方へ引返した。
「えツ、萩原様が…?」と主婦は吃驚して、通帳を文庫に投り込むや否や、紙門(からかみ)をばたりと閉める。
それよりも狼狽(うろた)へた殿井は、直ぐに縁側に出ようとすると、
「可けません、其方へ出ちゃ可けません!」と主婦は背後から曳戻して、遮二無二其処の肘掛窓から押し出さうとする。
殿井は目を円くして、
「冗談ぢゃ無い、此処から何うして出るんだ…?」
「ま、殿井様、何卒(どう)か早く…。」と無理に突出して、速くも窓を閉めて了った。
其処は垣根を添うて庭続き、前は便所の羽目板、椿が一本高く茂って、其処の二階の戸袋を隠し、花は濡れた地面に絞の様に落ちてゐる。掃除口には石炭の痕が穢なく散ってゐる。
「失敬な!」と彼は窓の中を睨め返したが、未だ鼻緒摺(はなをずれ)も見えぬ紺足袋の下から、気持悪(あし)き泥水が浸込むので、其足を爪立て、その衣服(きもの)の裾を手繰って、今度は金の入歯までむき出して、「実に失敬な!」
室の内は寂然(ひっそり)して、その初野の入ってきた様子も無く、主婦の声も聞こえぬ。日没(くれ)に近き空は曇色濃く塞がツてるが、それでも西の山際が晴れて居るか、何処かに明るい光線(かげ)が射して、高く飛んで居る鳥の下腹が赤く見える。
殿井は馬鹿々々敷く、起って居る訳にも行かぬので、成るたけ乾いた処を跳びながら、庭の木戸を開けようとすれば、内からさるが掛って居る。忌々敷さに二つ三つ強く押すと、古くなツた建仁寺垣が、今にも倒れそうに揺(うご)くけれど戸は開かない。仕方なく檐下を杉垣に添うて廻れば、浅いか深いか行先に水溜が在って、其の先は広い茶畑を見越して寺院の白壁、何処か遠くからは井戸車の音が響く。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/6b/25e00bd1e14de38c754b3ec6927ee137.jpg)
「畜生!」と四辺(あたり)を睨廻(ねめまは)して唇を咬んだ。
彼は如何にも当惑したが、頓て又元に引返した。其の摘み上げた衣服(きもの)の下からは、縮緬の長襦袢の裾が溢れて、毛の厚い脛に絡まるのである。帯は襦珍、之に黄金鎖(きんぐさり)を巻いて、磁石、財布入、棙鉛筆(ねぢペン)などが、身体を動かすと共に燦爛(ぴかぴか)する。
「…大丈夫でございます、確乎(しっかり)私に捉ってらツしゃいまし。」と云ふ主婦の声が、突然室に入ってきた。何うやら二三人の足音がする様だ、殿井は耳を欹てた。
「何だね、気の利かない、お布団は後にして、まづお枕をお上げなね。」と又主婦の声。
続いて紙門(からかみ)に突当る音がした。
「宜うござんすか…、徐(そツ)と…、お痛かござんせんか…?」
すると、何を云ふのか静な別の声がした。
「はい、お冷水(ひや)を…?」と答へたが、急に調子を高く、「それ、お廉や…。」
お廉が出て行くと、
「最う快うござんすから、何卒、彼方へ行らしツて下さいな。」と低声(こゞえ)ではあるが、明瞭(はっきり)したのが聞えた。
「なんですよ、其様な御遠慮なんぞ…。」と主婦が云ふ。
「いゝえ、少し安眠(やすみ)たいんですから。」
其処へお廉が水を運んで来たらしい。暫く物音もせぬ。
「あー。」と溜息が聞えた。
「宜うございますか…?では、ま暫く徐として在らツしゃいましよ。」
「種々(いろいろ)と、何うも、御心配を掛けて済みません。」
夫っ切り返事も無い、主婦も下婢も出て行った様子である。殿井は窓近く耳を寄せて、室内を窺って居た。静寂(しん)として何の音も響き来ぬ。眠ったのかと思ったら、久(しばら)くして微に欠伸するのが聞えた。
と、不意に殿井の袂を曳く者がある、愕然(ぎょツ)として振返へると、背後に主婦が笑を殺して起って居る。殿井は勃然(むツ)として眺めると、益々可笑しい顔をして、終ひには口を袖で被(かく)して、黙って脚下を指示す、見下せば其処に下駄を揃へて、それを穿けよと促すのである。殿井は一段と怖い顔をして、泥足袋のまゝに突掛けて、室の病人にも響けとばかり、足音荒く庭から縁側へ廻った。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/ad/99a081443b782472ce582a89b43afe30.jpg)
入院料
一
床の間から下ろした机には、見事な毛糸の編物を敷いて、丸心の洋燈(ランプ)明るく、初野と主婦と対座(むかひあ)ってゐる。
「如何でございます?」と主婦は顔を覗く様にして、「夫で宜しいぢゃございませんか?」
「そうですねえ、」と初野は仰向いた顔を挙げて、「如何したら可いでせう?私も迷って了って!」
「何故でございます?何か、後日(あと)で難題でも言掛けられては、と云ふ様な御懸念でも…?」
「其様な事も有りますまいけれど…。」
「ございませんとも貴方、」と主婦は笑って、「三條の殿井と云へば、越後でも聞えた資産家ですし…、加之(それ)に、今は如彼(あゝ)して遊んで在らツしゃいますけれども、ちゃんと美術学校を御卒業なすツて、油絵の方では最う、立派な先生株なんですもの。」
「では画工ですか?」
「は。御郷里(おくに)は其様な御身分でございますからね、職業と云ふんで無く、真(ほん)の御道楽に遣って在ツしゃいますけれど…何ですか、其の中洋行でもなさる様なお話もございますよ…。」
「洋行?」初野は目を瞠った。
「は。」と主婦は頷頭(うなづ)き、「そう云ふ方ですもの、後日(あと)で御迷惑を為さるなんて、請合って其様な事はございませんよ、大丈夫でございますよ。」
「そうでせうとも。私も、決して其の方を疑ふんぢゃ無いんですけれど…。何だか、余り。」
「余りお話が旨過ぎるから…?」
「一度も会った事も無いし、名も知らない方が、其様な、無抵当で金を貸して下さるなんて、何だか私には…。」
「否(いゝ)え貴女、そう云ふ訳ぢゃございませんよ、私の話し方が下手なもんですからね、」と主婦は膝を進めて、「昨日でした、その殿井様が来らツしゃいましたからね、過日(このあひだ)お話の、自転車の事をお訊きしたんですよ…彼の方も自転車を持って在らツしゃるもんですから。すると、夫は、売買の事なら止した方が可い。何故売るんだ、と此う仰有いますから、実は此々で、最う、自転車は見るも怖いと云ふ事で、それでお拂ひなさるのでございます、と云ふと、や、萩原様の自転車か、大変英学の出来ると云ふ、彼の、女子学院で有名な萩原様のゝかい、てね貴方。」
「あら、私の名を知って在(い)らしツて?」と蒼白い顔を赤くした。
「新聞で御覧なすツたんでせう。で無いでも、交際の広い御方ですから、何処か、御婦人達からでも聞いて在らツしゃるでせうよ、貴女の事は、(よう)く御存じでしたもの。それでね、」と主婦は、何処までも真面目な顔色(かほ)で、其の殿井の談なる物を淀みなく述立てるのである…。
「だから、私の名を知らさないで、お主婦の手で都合した様に、其処は、萩原様の感情を悪くしない様に話して呉れツてね貴方、そう仰有るんでございますよ。」と主婦は言ひ足した。
初野は、胸を蠢かしながら此の話を聴いて居た。我が名の然程(さほど)までに世に広まツたか、と思へば、此のまゝ死んでも惜しくない様な逆上せた気もするのである。
入院して未だ十日と経たぬ。医師からは元より退院の許容(ゆるし)を得たのでないが、郷里(くに)の兄からの来状(てがみ)に、頼んで遣った金を送らぬのみか、定額の学資で不足ならば早速帰郷せよと有るのみなので、卒(にはか)に明日支払日を算段せねならず、看護婦等の危むのも構はず外出を願って、此く我が下宿へ帰って見たのである。
下宿に帰ると、果して卒倒し掛けたりもしたが、併し後で考へれば、多少衰弱した身体を突然車で駈けさした為で、別に挫いた手が何うなったと云ふのでは無い。ギプス包帯とやら、是は治る迄この儘に置く物とのこと、何も高い金を出して病院に居る必要はない、隔日位に此家(ここ)から通うても、三週間を過ごせば全治すると云ふ其の三週間に二種(ふたいろ)あるのではない…勿論今は金を出す的(あて)が無いので、入院して居れと云はれても不可能の事であるが。初野は愈よ退院と決めた。それに附けても先に立つ金の手配、今は恥しいとのみ云って居られぬので、主婦に自転車を売る事を相談して見た。然すると主婦からは前の様な談で、此様な好都合の事は無いから、先方(むかう)の云ふがままに借りたが宜いぢゃありませんかと勧むるのである。
「如何でございます、矢張し、お気に済まない所が有るんですか…?」何時までも相手が考へて居るので、主婦は此う促した。
「はア、何うも…。」と初野は考へながら首を捻って、「何う考へても、見ず知らずの方から、そう云ふお金を借りる理由(わけ)は有りませんから…。」
「宜しいぢゃござんせんか、貴方が見ず知らずでも、殿井様の方では、貴方の御名誉を慕って御用立て度いと仰有るのですもの、宜しいぢゃござんせんかね。」
「そう許しも云へ無いでせう…若し、私の様な者でも名誉が有るとすれば、其様なお金を借りましては、直ぐ不名誉に成っ了(ちま)ふ訳ですから…。」
「え、不名誉?不名誉でございますか?」
「はア、何うも…。」
「では、何うなさるお心算(つもり)なんです?」
「矢張し、自転車を売った方が一番に良い様ですが…。お主婦、何うもんでせう?」
「それが貴女、早速買手が有れば宜うございますけれど…。」と言葉を断った、「また、有った所で、早速明日のお間に合へば宜うございます…けれど。」
「然うですねえ。」と微に肩で息をした。
二人とも久く黙って居た、火鉢の火も小さくなツた。何(ど)の室からか、微に月琴を鳴らすのが聞える。
「また始めたよ、」と主婦は天井を眺めて、「幾ら止して下さいと云っても…、仕様が無いねえ、他の邪魔になるのが、解らないでせうかねえ。」
「如何(どう)でせう、彼様な物は質屋ぢゃ取ら無いでせうか?」と初野は突然に云った。
「え、質屋で…?」と主婦が見返ると、初野は真赤になツて居る。「月琴でございますか?」
「いゝえ、あの自転車ですの…。」と俯向いた。
「如何でせうか?此の頃は、嵩張った物は取らないとか云ふ事ですから。」と黙って初野を眺めて居たが、「それでは、殿井さんのお談は如何致しませう?」
「何卒か、お主婦から宜(よろし)い様に仰有って下さいな。」
「謝絶(ことわ)るんですか?」
「は、何卒か!」
主婦は、其の案外なる言(ことば)に呆れたが、併し毛程も厭な顔色は見せない。
「では、彼下(あれ)を御払ひなさるんでございますね?」
「何うも、外に仕様が有りませんから。」
「そうですねえ、ま、そうなさるのが、一番趾に物が残らないんですねえ…。ぢゃ、今夜は最う遅くもなりましたから、明朝早く、本郷に聞合(きゝあは)しに遣りませう。」
「何卒かお願ひします。」
「おや、最うお火が無くなりましたね。」
「いゝえ、火は入りません、最う寝みますから。」
「然うですねえ、急に起きて在らしツて、さぞお疲れでせうから。」
「えゝ、何だか、茫然(ぼんやり)し了って…。」
「左様でございませうツて…。」
と主婦は起上って、其処に敷いて在る蒲団や夜具を直し、
「如彼(あゝ)いふ、立派な西洋室に在らしツちゃ、此様な所は小舎の様でございませうねえ。」
「いゝえ、何だか、故郷(くに)へでも帰った様で、大変に悠然(ゆっくり)しましたの…。」と初野も座を起ったが、「お主婦、失礼ですけれど、其方の浴衣を出して、着更へさして下さいませんか…。最う此様な一人で着物も着られない不具者(かたは)に成っ了って。」
初野は淋しく笑った。主婦は「最う数日(しばらく)の御辛抱、」などゝ慰めて、行李から洗ってある白地の浴衣を取出し、さて初野の傍(わき)に突膝(つきひざ)して、其の締めて居る紫紺地らしい緞子の帯、糸織の曙縞の綿入、下着は絹の桜小紋、その下のネルの襦袢を分(わけ)れば、何処からとも無く白薔薇香水(ホワイトローズ)の香ひ、肌は珠玉(たま)の如きに、乳房むツちりと高まり、細腰より下は腰巻(けだし)の色がしツとりとして、紅の瀧の落ちるとも声ふ可きである。
「あら、お主婦…。」と叫んで、何うしたのか初野は燈火を背後に身を遮った。
「ほゝゝゝゝ、宜しいぢゃありませんか。」
「だツて。」
「些(ちツ)たア、お痩せなさいましたねえ。」と主婦は浴衣に寝衣の綿入を着せて遣りながら云った、
「痩せもしますわ、彼様に…。」
と云ふ時、不意にがたりと縁側から障子に触(ふれ)る物音がした。
「あら!」と初野は吃驚して其の障子を視詰めた。
「誰だい?お廉かい?」と主婦も声を掛けたが、「誰が覗くもんですか、猫でも触ったんですよ。」
そこで、初野も帯も締めて貰って、主婦の出て行く迄寝床にも入らずに居た。
主婦は、今脱がせた衣服(きもの)を倉皇(そこそこ)に整理(かたづ)けて、さてお息(やす)みなさいの挨拶して此室(こゝ)を出た。暗い縁側から台所を抜けて、直ぐ其処の茶の間の、燈火(あかり)の一杯に射してる障子を明くれば、湯の沸騰
ってる長火鉢の向うに、殿井恭一たゞ一人、擽ツたい様な顔をして胡坐を組んで居る。
「貴方でせう?」主婦は詰問する様な様子で、先づ火鉢の此方に腰を卸した。
「何を?」
「何をぢゃありませんよ。若し、障子が脱(はづ)れたら何うなさるんですよ?」
「はゝゝゝゝ。」殿井は笑って、「併し、中々美人だねえ。」
「美人だも無いもんです。萩原様に見られや為まいかと思って、私、はらはらしましたよ。」
「ふゝゝゝ。」鼻で笑って居る。
そう性急に成さらないで、まア数日(しばらく)、凝然(ぢツ)と待って在らっしゃる訳には参らないもんですかねえ?」
「兵は拙速を貴ぶさ。」
「何ですツて、貴(たツ)といツて、何が貴といんです?」
「遅いより速い方が可いツて事さ。」
「ほゝゝゝゝゝ。幾ら速いが可いって、今日初めてお話の出た事ぢゃありませんか。今日の話を今日の中に物に成さらうと云ふのは、夫(そりゃ)ア貴方、余りお性急過ぎますよ。」
「そうぢゃ無い、物に仕ようて云ふんぢゃ無いがね…。」
「無いが如何したんです?」
「兎に角、まア僕を会はして呉れるが可いぢゃないか。」
「可けませんよ、其様な事を仰有っても。彼の通り固いんですもの、直接(じか)にお会いなすツて御覧なさい、それこそ、出来る物も逃して了ひますよ…。貴方は、通常(たゞ)の女学生と一緒に思って在らツしゃるから可けない。何うして、萩原様許しは貴方…。」
「また始めた、先刻から何遍同じこと繰返すんだ?」
「だツて、貴方は余り安く見て在らツしゃるからさ。」
「けれども、幾ら高く見ても女学生は女学生だらう…、女子学院の秀才だらうが、新聞に肖像が出やうが、僅かな入院料を差支へて、自転車を売らうとしてるんぢゃないか?」
「夫は、まア然うですけれど…。」
「蔭で談話(はなし)を聴いて居たが、音声(こえ)だって言葉だツて、別に変った処も無いぢゃないか、矢張し人間の娘ぢゃないか?」
と、都の胃は笑ったが、主婦の方は中々真面目なもので、
「いゝえ、今夜は貴方、彼の通り卒倒(めまひ)したり何かした後ですもの…。」と主婦の言の終わらぬに、
「ぢゃ、通常は音楽の様な声で、身体から後光でも射すんだね。はゝゝゝゝ。」
「通常ですか、」と主婦は笑ひもせず、「通常はもツと挺然(しゃツきり)として、顔も綺麗ですし、第一、彼様に滅入って在らツしゃりはしませんよ、元気が有って、活発で、如何して貴方…。」
「ふん、女の活発か…、これで、お転婆と云ふ奴は、余り自慢に成る物ぢゃないからね。」
「いゝえ、お転婆なんて…、途方も無い、彼様な優容(しとやか)で、品の良い、人柄な…。」
「始まツた、始まツた、はゝゝゝゝ。」と殿井は腹を抱へて笑ったが、「最う効能も其辺(そこいら)で止さんか、余り広告すると、買薬だツて信用がなくなるぜ。」
主婦も笑って、
「だツて、貴方もまた、意地になツて貶すんですもの。」
「そこで、今後何う為るんだ。」
「ですから、まア凝然(ぢツ)として、時節を待って在らツしゃいましよ。」
「其点(そこ)は解ったが、今の談話の様子ぢゃ、何だか、僕の方は脈が断れた様ぢゃ無いか。」
「いゝえ、ご自分で許し売るに決めた処で、早速買手(かひて)がございません…、此う云へば、それ、其れツ限(き)りでせう。」
「成程。買手が無いと云って置いて、困らせて置いて、また僕の話を持出すと…。」
「売るも買ふも貴方、彼様な包帯した身体で、豈夫(まさか)自身外へ出る訳にも行かないでせう、それ、是非私がお世話しないぢゃ、何うすることも出来ないでせう?」
「其点を見込んで…、成程、さすがはお主婦だ。」
「ね、解りましたらう。」
「や、感服々々、流石は昔執った杵柄(きねづか)…。」
「ま、一寸と、」と主婦は殿井の口を止めた。
耳を澄ませば、彼方の室から初野の声がして、之に答へる下婢(かひ)の、
「はい、畏まりました。」と、縁側を此方に急ぐ足音も聞こえる。
「おや、未だ起きて在らツしゃるんですよ。」
「聞こえたか知ら?」と殿井は微(すこ)し赤くなツた。
「貴方、余りお声が高いんですもの…。」と叱言の様に云ったが、丁度台所に物の音する下婢を呼んで、「お廉、萩原さまは未だお寝(よ)らないのかい?」
「はい、あの、睡眠剤(ねむりぐすり)を服(あが)るから、お冷水(ひや)を呉れと仰有いまして。」と下婢は障子の外から答へた。
「睡眠剤を?」と殿井は咎める様に、「眠れないんだね?」
「そうでせう。考えても御覧なさいな、御無理は無いぢゃありませんか。」と主婦は低声(こゞえ)に力を籠めて云ふ。
「ぢゃ、眠らなきゃ金が出来るんかい?
「其様な貴方、思遣りの無い事を仰有るもんぢゃありませんよ。」
「だツて其の通ぢゃないか…。いや、女と云ふ物は愚癡なもんだ。」
「それぢゃ、将来に能(よう)く教へてお遣んなさいましな。」
「教へろ?僕がゝ?はゝゝゝゝゝ。」
「何ですねえ貴方。」と主婦は、殿井の大声を制して、「もツとお静になさいましよ。」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/2e/593a4f58a38669f49bd4834234732486.jpg)
二
初野は夜明け前になツて漸(やつ)と眠に就いた。夢で、郷里の母がリウマチスが癒ったと云って、態々見舞に上京したが、其の話に、近頃は兄も母に有情(やさし)くなツて、今度上京するに就いても、小遣いだと云って此様なに金を呉れた、と鞄に一杯の紙幣(さつ)を出した。之さへ有れば自転車を売ることも要らぬ、入院料は元より、看護婦や世話になツた人々に思ふ程の謝礼(れい)をして、夫から下宿の払を済して、質を受けて、日頃欲しいと思った彼品(あれ)を買って此品(これ)を調へて、と喜んだが、其の紙幣は悉く贋紙幣と云ふ事で、母も自分も警官に掴まらうとするところ、掴まツては大変と、母古(おやこ)手を握合(とりあ)って逃げ廻ったが、幾ら逃げても逃げても跡から追蒐(おツか)けて来る、その靴音が次第に近くなツた、其の剣のがちゃがちゃ鳴るのも聞える、何うやら手が背中に触る様だ、それ、掴まツては大変と、一生懸命に駈出すと、横合から不意に男書生が出て来て、互いに衝突(ぶつか)って、一二間も前に投出された、と思ふと目が覚めた。
見回せば節の多い下宿の天井、障子には日光(ひかげ)が射し、庭の木影も映って居る。
「あー、夢で宜かツた。」と溜息を吐いた。
身体中汗をかいて、浴衣はしツとり濡れて居る。何時頃かと思って、机から銀側の懐中時計(たもとどけい)を取ると、既う十時に程も無い、此様なに眠ったのか、と驚いたが、驚くと共に、入院料…自転車の売却、午前中に病院に帰らねばならぬ事などが、水桶の栓でも抜いた様にどツと心中に湧出てた。
「一刻も此様なにしちゃ居られない。」
と呟きながら、負傷(けが)した方の手を物に触れぬ様に除(そツ)と起上った。
他手(ひとで)を借りなくては、帯を結ぶ事もならぬので、障子を明けて誰か呼ばうとすると、綺麗に片付いた台所、日光が一杯に射込んで、竈、銅壺、雑巾の跡の鏡の如き其処から、斜(はす)に見通さる茶の間まで寂静(ひっそり)と静まり反って、垣の外を洋燈屋(ランプや)の触れて通るのが聞えるのみである。
「お廉さん、お廉さん。」何処に居るか分らぬが、此う呼んで見た。
返事はない。正可(まさか)に誰も居らぬ筈は無いが、何うしたんだらう、と訝しがりながら二歩三歩、縁側を勝手の方に行かうとすると、直ぐ前の木戸口から、バケツに水を提げて、ひょツくり下婢が出て来たが、「おや、お目覚めで在らツしゃいますか。」と自分の用をば其処に置いて、襷を脱しながら上がって来た。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/92/0efdd8b4702c9bd822a72e1e9e69be28.jpg)
先づ衣服(きもの)を着更へさせて貰ひながら、お主婦(かみさん)の事を聞けば、今朝早く本郷から神田の方へ出られて、貴女がお目覚めならば、其の事を申上げよ、と云ひ置いて行ったと云ふ。
「それから、先刻お客様がお出でゝございました。」と下婢は、寝具を片付けながら、思ひ出した様に云ふ。
「おや、何誰(どなた)?」と初野は楊枝を使ふ手を止めた。
「何誰ですか、お姓名(なまへ)を伺ひましたけれど、仰有らないんですもの…。何でも、日外(いつか)来らしツた事の有る方ですよ。」
「日外(いつか)って、其様な事ぢゃお廉さん、分からないぢゃありませんか。」と笑って、「して、何か言い置いて行った事でもあツて?」
「いゝえ、只だ、」とお廉は顔を紅くしたが、其処へ支膝(つきひざ)して、「あの、何う云ふ事で、昨夜は此方にお泊りなすツたか、今日は病院へお帰りになるか、何時頃お帰りになるかツて、只だそれ許(ばか)しお訊きでした。」
「誰だらう?何うして、此方へ泊った事が分ったんだらう?」と訝った。
病院へ訪ねて、看護婦から聴いて着たとしても、何も言置く程の用事も無い身で、私の病院に帰るか否か尋ねて行ったとは何うした事だらう。
「一体、何様な方なの?何様な服装(なり)して?」
「矢張り袴を穿いて在らツしゃいました。」
「齢(とし)は?」
「左様でございますねえ、薄く髯が生えて在らツしゃいましたから…。」
「あら、男の方なの?」
「は。」
「ぢゃ、大学の…角帽を冠った?」
「はい、左様でございますよ。」
「背の高い?」
「は、御存じで在らツしゃいますの。」
初野はそれには答へず、考へる顔をして、
「そして、貴女何て云ったの?」
「あの、未だお寝て在らツしゃいますツて。」
「そう、」と少し紅くなったが、「そしたら、何様な事を云って?」
「あの、急に外出して、何処も触った様子は無いかツて。」
「其様な事を訊いたの…、」と美しい眼を輝(ひか)らして、「夫っ限(き)り?」
「は。夫っ限り…。何ですか、怒って在らツしゃる様な方でしたよ。」と云ったが、急に格子戸の開く音がしたので、縁側に駈出して見て、「おや、お主婦さんが帰って参りました。」
初野は、何事を措いても先づ自転車が売れるか何うか、主婦の話を聴き度いのであるが、今起きた許りで、顔も洗はず口も濯がぬので、
「大変に寝過して了って。」と会釈して、急いで毎(いつも)の洗面場の方に行った。
主婦は、座敷の掃除が済んだなら、其処に出す可き牛乳、膳に供へる香の物まで下婢に命令(いひつ)けて、金盥の顔の湯、嗽ひ茶碗の水も歯に刺(し)みぬ程に加減して待って居ると、丁度初野が便所から出て来る。
「でも、此様なにお寝られて好うございましたねえ、私はまた、急に勝手が違ひなすツて、如何かと思って心配して居りましたよ、本当に好い塩梅でございましたこと。」と主婦は何を為るにも片腕の利かぬ初野を、手拭を絞るやら、背後(うしろ)から袂を押へてやるやらして、相手を焦燥(じれ)させぬ様に気を配って手を貸して居る。
「何処かで鶏の声を聞いてから眠ったんですけど、でも、先刻まで何も知らないんですの。」
「左様でございませう、今朝程、窺(そツ)と覗ひましたら、熟くお睡て居らツしゃいましたもの。」
「おや、そう、些とも知りませんわ。お主婦の出て行った事は、今方、お廉さんから聴いた許し…。」
と濡れた手拭に襟頸を撫で上げながら、「此様なに寒いのに、朝っから済みませんでしたわねえ。」
「いゝえ、寒いツて貴女…、其様な事なんざ何とも有りませんがね…。」と困った様な顔をするので、
「あれ、如何でした?」と手を止めて訊く。
「何うも貴女、無効(だめ)でございますよ、本郷から下谷、神田の淡路町から鍋町の方まで、大概の処は聞いて廻りましたけれど、何うも、今が今と云ふお間には合(あは)ない様でございますよ…。」
「まア、此処ぢゃ何ですから、何卒か彼方へ…。」と初野は顔色まで変えたが此う云って、先づ我が室に主婦を伴込んだ。
室は綺麗に掃除が済んで、火鉢には火が熾り、座布団も正しく、机の傍に鏡台まで出してある。けれども初野は、今は鏡に向ふ気力も無く、手拭も楊枝も机上に置いたまゝ、
「では、何処にも、買って呉れる店(うち)は無いんでせうか?」
「日本橋から京橋の方から、ずうと探したら無いこともございますまいけれど…。」と主婦は話出した。自分の廻った処では、生憎と主人が不在(るす)だツたり、居ても古物は取引しませんと断ったりして、本郷の通から神田に掛けて、自転車営業の十五六軒の店々、誰も引受けようと云ふ者が無い。池の端に一軒、品物を拝見の上、値段に依て頂戴しても可いが、と云ふのが在れど、二三日後で無ければ、それを鑑定(めきゝ)の番頭が帰らぬとやらで、これ以て今日明日の間に間に合ふ話ではないのだ。
「買手が無きや仕方が無いけれど…、」と初野は当惑の溜息を洩らして、「如何したら可いでせうねえ、私も実に困って了って。」
「それで、私も途々考へたんですがね…。」
「は、」と初野は其の後を促す様に、「何うしたら可いでせう?」
「其様な訳ですから、今急にお払いなさると云った処で、熟(どう)せ今日今日(けふけふ)のお間には合ひませんからね…。」
「え、」と点頭いて、「そうですわねえ。」
「ですから、如何です…、」と主婦は躊躇しながらも凝然(ぢツ)と初野を見て、「昨夜のお話の、彼の方からお借りなすツては?」
「昨夜のお話と云ふと?」
「殿井様のお話でございますがね。」と云って、初野の顔色を覗った。
殿井の談と云はれて、初野は瞬時(しばし)口を噤んだ。金に差支えたとて、縁もゆかりも無い見ず知らずの他人(ひと)から、貰ふ様な借金は支度(したく)は無い。後で利息を添へて返済すれば夫で済む様なものゝ、夫を済ます迄は始終恩を被て居る様で心苦しいのだ。且つ、先方では我が学校に於ける成績なども知って補助し度いと言出したとか、若し、其の言に乗って、其様なら早速是だけの金を貸して貰ひ度いと申込んだなら、如何に厚面皮(あつかま)しい女と蔑まるゝか知れぬ、或は其様な卑しい女ならば、と其の取引の際に臨んで謝絶(ことわ)られる様な、辱ずかしい目にも遭はうも知れぬ。
「彼の談なら、まア止しませうよ。」と思切悪さうに云ふ。
「左様でございますか…、では、何か他に良いお考へでも?」
「別に、良い考へも無いけれど…。」と初野は当惑したが、「良い考へが無いからと云って、因縁(いはれ)なく他人の補助(たすけ)を受ける理由(わけ)も有りませんから。」
「いゝえ、貴女は因縁が無いと仰有いますけれど、殿井様の精神(こゝろ)はそう云ふ理由ぢゃ無いんですよ、今も帰途(かへり)にお目に掛りましたらね、お主婦の話し様が悪い、夫ぢゃ、萩原さんのお怒んなさるのも道理(もっとも)だと仰有いましてね…。」
「その、殿井様とか云ふ方へお寄りなすツて?」
「え、直ぐ切通し下に在らツしゃるものですからね…。」
と云ってる処に、下婢が牛乳や膳を運んで来た。主婦は傍近く躙寄って、食事する初野に手を借しながら、
「殿井様は、貴女の様にお優(でき)なさる方が、些細(いさゝか)なお金で御心配なさいますのが、それが如何にもお気の毒だと仰有いましてね…。」
「では、自転車を売ると云ふ事も、其の方へお話しなすツて?」と初野は紅くなツた。
「別に、委しい事はお話も致しませんけれど、熟せお謝絶(ことわり)する便次(ついで)ですからね…、」と云って主婦は息を呑んで、「すると、お主婦の様に下手な云ひ方をするから、それで萩原様もお怒んなすツたんだ、乃公(おれ)の精神(こゝろ)はそう云ふんぢゃ無い…。」
「いゝえ、怒るなんて、決して其様な事はありませんけれど。」と初野は口を挿(い)れた。
「…それで、僕の精神はそうぢゃ無いけれど、お主婦の云ひ様が悪い許しで、却って萩原様を怒らして了ったんだ、併し今更それを悔やんだ所で仕様がない、また、僕の身に取って、三文の得にも成る事ぢゃ無いから、悪く思はれても怒られても、其様な事は気に掛けんが、何しろ、萩原様ほどの人が、其様な些かな金に差支へて、自転車を売るのなんのツて、外聞の悪い事をするのが如何にも遺憾だ、幸ひ僕は、爰に少し許し金を持ってるが、如何だらう、此金(これ)で今日の急場を救うて上げる事が出来まいか、勿論、僕の金と云っちゃ可けない…其様な失礼な事が無いなんて、また反対(あべこべ)に怒られでもしちゃ何にも成らないから、僕の名を出しちゃ可けない…、其点(そこ)を何とか、お主婦の計ひで、他でも手配した様に作(こしらへ)て、兎も角も、そう云ふ不名誉な事は為せない様にして上げてお呉れ此う仰有いましてね、御覧なさい、此様に…。」
と云雛がら、主婦は太った懐中(ふところ)から紙幣(さつ)の一束を出したのである。
初野は丁度食事を終ったところで、意外な紙幣の一束を見せられて、思はずも顔を染めたが、それを主婦に凝然(ぢツ)と視て居られるので、何と云ふ訳も無く恥ずかしくなツて、最う耳の脇までも紅くした。
「折角彼程まで仰有るのですもの、兎も角も、之はお使用(つかひ)なさるが可いぢゃありませんか、」と主婦は勧め出した、「何ですよ、何も、考へる事も危む事も無いぢゃありませんかね?」
「いゝえ、危むなんて、其様な事は無いけれど…。」
「知らない男(ひと)から世話になるのがお厭ならば、後でお返しすれば夫で済むぢゃございませんかね?」
無論、それに違ひ無い、利息を加へて返却すれば夫で可いのだ、けれども、自分は未だ金を借りた経験(おぼえ)がない。借財!唯だ之を思うた許りで、罪悪、失敗、堕落の淵に陥ちて行くやうな気がするのだ。と云って、目の前に迫った入院料を何処から何うして手配す可き的(あて)も無い。
「ほゝゝゝゝ、萩原様の様でも無いぢゃありませんか。」と主婦は、初野の吃驚する程快活な語調になツてm「是ん許しのお金、ご卒業後には、お給料の半月分にも当らないぢゃありませんかね、ほゝゝゝゝ。」
此う笑はれて、初野は主婦を凝然(ぢツ)と視詰めたが、頓て自分も莞爾(にっこり)として、
「そして、此金(これ)は幾何あるんでせう?」と云ったが、それが急に明瞭(はツきり)とした音声(こゑ)と変わった。
「五円紙幣(さつ)で、丁度五十円でございますよ。」
「お主婦(かみさん)、それでは、此うして戴く訳には行かないでせうか。故なく他(ひと)から金を借りる理由(わけ)はありませんから、証文を書いて、利息も極めて、単純な貸借と云ふ事にして、そして貸して戴く訳には行かないでせうか?」
「証文なんって、其様な小難かしい事をなさらないだツて貴女…。」
「いゝえ、そうでないと、私は却って気が置けて可けませんもの…、如何でせう、そう云う事に、殿井様にご相談なすツて下さいませんか。」
「なアに、相談も何も、一切私が任されてますから、其様な事は要りませんけれど…。」
「ぢゃ、何卒(どうぞ)そう云ふ事に御承知なすツて下さいな、そして、此のお金は私に貸して下さいな、ね、何卒そうなすツて下さい、ね。」
「ぢゃ、何うでも、貴女のお気の済む様になさる事として、ま兎も角も、病院へ行ってらツしゃい、最う貴女、彼此お正午(ひる)でございますよ。」
「そうですねえ、夫では、証文の事は帰ってからとして…。」
「証文なんざ、何うでも宜ござんさアね、殿井様の方から、別に、書いて呉れとでも云うのと違って。」
於此(そこで)、主婦の云ふまゝに此の金を借りる事に決めた。五十円、此れだけ有れば、入院料も、看護婦への礼も、歳月分の下宿料の滞りも悉く済まされるのだ。初野は、初めて安堵の太息を吐いた。
夫から主婦に手伝って貰って、頭髪を正(なほ)し、顔も一寸と化粧(こしら)へ、衣服は昨日のまゝなれど、襦袢だけは新しい白羽二重の襟の掛ったのに着更へ、肩掛(ショール)は白鳥の羽毛(はね)を散したフラシテン、袴は唐草模様のカシメヤを裙長に穿いて、気取るとも無くついと立った其の姿の美(よ)さ、品の高さ、見慣れた主婦も唯だ目を瞠って見惚れる許りである。
彼此する間に、呼びに遣った俥の声も聞えた。
「お忘れ物がございませんか?」
「いゝえ、別に。」
初野は前に、主婦は後に、二人は伴立って室を出たが、此の時しも、履物を揃(そろへ)に玄関へ駈出した下婢は、
「あら、お主婦、殿井様が来らツしゃいましたよ。」と吃驚した様に云ふ。