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小杉天外 魔風恋風 その2

2011年03月22日 | 著作権切れ明治文学
 

其の室

 此処は萩原初野が室(へや)である。四五日前までは、彼の学校の祝賀会の朝、慌てゝ出たまゝに取散らされてあるのを、主婦が丁寧に整理(かたづ)けて、見渡した畳の上に紙片一つ落ちて居ない。
 「大変に暗い室だねえ。」と殿井はのツそり敷居に立っている。 
 「貴方、まア静になすツて下さいよ。」と主婦は殿井を内に入れて障子を閉め、其処の横手の肘掛窓をがたがたと明けた。
 鼠色の障子から、薄い光線(あかり)が射込んだ。眼に着く物はインキの痕に汚れた桐の勉強机、(つくゑ)蒔絵の硯箱と鉄蓋のインキ壺、それと並んで筆記帖(ノートブック)が二三冊に英和字書の綴糸の切れたのを重ねて、その上に肉色の吸取紙を石の文鎮で押へてある。机の後には、二本立の書箱(ほんばこ)と、硝子戸の洋本棚と並べてある、が硝子戸には中の見えぬ様に白紙(かみ)を張ってある。また、此の机の下には、反故籠(ほごかご)に炭籠(すみどり)、それから縁の取れ掛った栗在の角火鉢。
 「宛然(まるで)男書生(をとこ)の室の様だね。」殿井は四辺を見廻して独語した。女ならば、定めし見事な物、綺麗な物、色彩の濃い物に飾られてあると思ひの外、其様な目に着く物は一品(ひとつ)も無いので当今(いま)の女学生としては変わって居る、成程優(えら)い者かも知れない、と密に感心した。
 「貴方、ま一寸此れを御覧なすツて下さいな。」と云ひながら、主婦は押入から斜に自転車を引出した。
 「はゝア、此事(これ)か。」と殿井は傍に寄って、「ピアスだね…。随分酷く遣(や)ったと見える。把手(ハンドル)が此様なに曲がってらア、鈴(ベル)も毀れたね…。でも此車はまだ新しい、女だけに使用(もち)が良かツたんだね。」
 「如何でせう、此様な物でも、拂ふと云ったら早速買手が有るでせうか?幾何(いくら)位取れるもんでせう?」
 「売るのかい、如何して?入院料を徴(と)られるから?だツてそれは余り狼狽(うろた)へた話ぢゃ無いか?」と殿井は笑った。
 「いゝえ、私が売るんぢゃありませんけど、過日(こなひだ)、見舞に参った時もね、其様なお話がありましたし、それに…。」
 「売る?萩原が売る気なんだね?」
 「だツて、此うなりゃ貴方、此様な物でも売らなきゃ、仕方が無いぢゃありませんか?如何云ふもんでせう、早速買ふ人が有るでせうか?」
 「其は有るとも、そう云う別嬪の乗ったのだもの、幾人(いくら)も買手はあるさ。」
 「冗談で無くさ貴方。」
 「なに冗談なもんか…。ぢゃ、僕が引受けても可い。」
 「貴方が?だって、貴方には如彼(あゝ)いふ立派なのが有るぢゃありませんか。」
 「有っても可いさ、勿論、僕が買ふとすれば、其処に一つ条件があるがね。」
 「条件て仰有ると?」
 「お主婦の話では厭だ、当人から、直接(ぢき)に頼むんで無きゃ買はない。」
 「そら、貴方のお談は直ぐ其れだから、可けませんよ。ほゝゝゝゝゝ。」と笑ったが、直ぐまた真面目に成り、「本当の事、幾何位で拂へるもんでせう?実はね、先月分の下宿料が其のまゝに成ってるもんですからね、萩原様はそれを気に懸けて、熟(どう)せもう、自転車なんざ不用なもんだから、彼品(あれ)を売って勘定を済まさうツて、此の間もさう云ふんですよ、けれども私は…。」
 と云ふ主婦の顔を、殿井は訝(をか)しい眼で眺めて居たが、
 「先月の下宿料?可笑しいねえ。ぢゃア、矢張し堕落生の仲間ぢゃ無いか。」
 「いゝえ、堕落生なんて貴方…。」
 「いや、お主婦の辯護も可いけれど、学資が滞り無く来て、真面目に勉強して居る女なら、月々の下宿料の滞る筈は無いぢゃないか、怪(をか)しいよ、何(どう)してもこれは怪しいよ。」
 「いゝえ、些かも怪しい事はありません、今迄は、只だの一度だツて此様な事なんか無かったんですもの…。」
 「ぢゃ、つい先月あたりから、男狂ひを始めたんだ!」
 「はゝゝゝゝ。まアお聞きなさいよ。男狂ひなんて、萩原様が其様な事を為さる人なもんですか…?」
 「ぢゃ、何故下宿料が拂へないんだ?可け無いツて事よ、幾ら辯護しても駄目だツて事よ。」
 「先月はね、お故郷(くに)から妹さんが逃げて参りましてね、最う久(しばら)く、萩原様の厄介になツて居たんですよ。だもんですから、方々の見物、買い物、それからお故郷へ帰す時の旅費、土産物…、何して貴方、月々送って来る学資で間に合ふもんですかね、加之(それに)、感心に妹思ひですからね、二人一緒に出る時なんぞ、私ばかし肩掛けをして、波ちゃんが何も掛けないぢゃ外見(みツとも)ないツて…其の妹が波ちゃんて云ふ娘(こ)なんですよ…外見ないツて、寒い日でも貴方、何も掛けずに出るんでせう、終ひには、自分と同ぐ様なのを買って遣りましたけれど…、まア一体そう云ふ性(ひと)なんですからね。」
 「そうか、ぢゃア、中々感心な所が有るね。」
 「ねえ、感心でせう?男狂ひだなんて、余りお酷いぢゃありませんか。」
 「併し、其の時に、故郷から妹の金と云ふのが来た筈だ。」
 「いゝえ、夫が参りませんの。」
 「酷いね、其の兄と云ふ奴は何だい、商売がさ?憎い奴ぢゃ無いか。」
 「元は造酒屋だツたとか云ひますが、今は、別に商売は無いやうですよ、何でも、銀行にでも関係して居なさる様子ですが。」
 「何しろ、余程吝嗇(けち)な奴だな。夫ぢゃ萩原様も可哀相だし、其の妹も可哀相だ。」
 「夫よりは、阿母様が何様なに辛いんですか?」
 「阿母様なんざ如何でも構はないさ。」
 「何故?年寄だから…?」
 「女の年寄なんざ、世の中には不用の物だ。」
 「まア其様な、はゝゝゝゝゝ。」と主婦は高く笑ったが、押入れの内(なか)を覗込んだ殿井を退ける様に手を広げ、「何をなさるんですよ、其様なに覗くもんぢゃ有りませんよ。」
 「可いぢゃないか、ま一寸と見せて呉れ。余り感心だから、急に擦って見度くなツた。」
 「何を感心なさるんだか、貴方の事だもの、解るもんですか。」
 「ま一寸と。」云ひながら、殿井はぐいと其の唐紙を明けたが、機(とたん)に上の棚から転げ落ちた物がある、「や、枕だ、括枕(くゝりまくら)を遣ってるね。美(い)い香(にほひ)だ、ふん、ふん、何だらう?ま嗅いで御覧。」
 「厭ですよ殿井様、汚ない。頭髪の臭気(にほひ)ぢゃありませんかね。」と主婦はそれを中に投り込んだ。
 けれども殿井は、尚ほ紙門(からかみ)を閉めさせようとはせぬのだ。
 押入の中は二段に仕切られて、上にはお納戸キャラコの裏の、紡績八丈のふツくり膨らんだ夜具布団が一組、縁の切れた茶色毛布の端、色の褪めた天鵞絨の襟の掛った銘仙か節糸か、何でも萌黄色の多(かっ)た瀧縞の小掻巻、小豆色のネルの寝衣、これが又丁度襟の方が前に出て、汚目の見える肩当が綻びて下がツて居る。以上の物の上に、紫地のメリンスの座布団と、主婦が今投り込んだ枕までを詰めたので、脂っこい天井板が跳反りさうである。それから、其の隣には縞ズックの支那鞄、呉服屋から仕立物でも入れて届いたらしいボール箱が二個、桑材の西洋鏡臺、但し鏡には白金巾を被(き)せてあるが、油やら白粉やらの汚染(しみ)が附いたまゝに成って居る奴。
 「や、此様な物が在る。」下の棚を覗込んだ殿井は、丸薬の入ってる小さな壜を拾上げて、「何だらう、微毒の薬だな?」
 「冗談を仰有いよ、萩原様が其様な薬を服むもんですかね…それは貴方、夜分お眠(よ)られないもんだから、睡眠剤(ねむりぐすり)でさアね。」
 「成程、健脳丸か、僕はまた、微毒の薬かと思った、はゝゝゝゝ。」
 「…まア貴方、其様なに掻回すことはお止しなさいよ、何ですねえ、御人品(ごじんたい)に障るぢゃありませんかね。よ、閉めますよ。」
 「まア一寸。可いぢゃ無いかね…。」殿井は、主婦の制止(とど)むるを肯かず、切りと其の内を見廻す。
 柳行李が二個重なり、其の傍に紐で結いた鶏卵の空折(あきをり)、中からは古新聞が溢出(はみだ)してゐる。それから婦人雑誌、算術を稽古した古手帳、風月堂の菓子の丸罐、洋傘(こうもり)に雨傘、これは熟れも袋に入ったので。
 「おい、お主婦お主婦、大変な物が出たぞ。」と殿井は卒(にはか)に勇んで云ふ。
 「何です?」と主婦は肩から覗込んで、「其様な事を為すツちゃ可けませんよ。まア、錠をお明けなすツて?」
 「なに、僕が明けるもんか、明いてたんだよ。そら、これが如何だ?」
 「何です?」と主婦は、其の文庫から出た物を手に把った。
 「質屋の通(かよひ)だ!此う云ふ物が出たら、最うお主婦の弁護も立消えだらう。」
 「まア、此様な物が在るんですか。」
 「如何だ、吃驚したね。ま中を開けて御覧、それ、二月二十五日、八円で袷一枚と襦珍の丸帯、ね、二十五日と云ふと、女子学院の記念会ぢゃ無いか?」
 「いゝえ、彼は二十六日です、」と、主婦は呆れながら通帳を繰返して、「爰に、六円で風通の小袖と云ふのが消えてますよ、ぢゃ、入替(いれかへ)たんだよ、まア、此様な事を為さるんですかねえ。」
 「案外だらう?だから、人は見掛けに依らぬ物さ。此様な事を為るんぢゃ、最う、品行も大概推測が附くさ。」と笑って、「だから、お主婦の云ふ事も信(あて)にならないツて事よ。」
 「ですけど…、」と首を傾げて、「ま、待って頂戴よ。これが二月二十五日と…。」
 主婦は通帳の日を調べて居たが、頓(やが)て小膝を撲って、
 「そうだ、彼(あ)の妹さんの来た時から、」と面を上げて、「可哀相ぢゃありませんか、皆な貴方、お妹御に何か買って遣る為でさアね。それ、通帳の日が丁度…まア、感心ぢゃありませんか…。」
 と云ふ時、台所の方から慌ただしく下婢が駈けて来て、
 「お主婦(かみさん)、お主婦、お主婦は何方(どちら)です?」
 「何だよ、此処だよ。」
 「お主婦、速く来て下さいよ、萩原様がお帰りになりましたよ…。速く来て下さいよ。」と叫びながら、またも彼方へ引返した。
 「えツ、萩原様が…?」と主婦は吃驚して、通帳を文庫に投り込むや否や、紙門(からかみ)をばたりと閉める。
 それよりも狼狽(うろた)へた殿井は、直ぐに縁側に出ようとすると、
 「可けません、其方へ出ちゃ可けません!」と主婦は背後から曳戻して、遮二無二其処の肘掛窓から押し出さうとする。
 殿井は目を円くして、
 「冗談ぢゃ無い、此処から何うして出るんだ…?」
 「ま、殿井様、何卒(どう)か早く…。」と無理に突出して、速くも窓を閉めて了った。
 其処は垣根を添うて庭続き、前は便所の羽目板、椿が一本高く茂って、其処の二階の戸袋を隠し、花は濡れた地面に絞の様に落ちてゐる。掃除口には石炭の痕が穢なく散ってゐる。
 「失敬な!」と彼は窓の中を睨め返したが、未だ鼻緒摺(はなをずれ)も見えぬ紺足袋の下から、気持悪(あし)き泥水が浸込むので、其足を爪立て、その衣服(きもの)の裾を手繰って、今度は金の入歯までむき出して、「実に失敬な!」
 室の内は寂然(ひっそり)して、その初野の入ってきた様子も無く、主婦の声も聞こえぬ。日没(くれ)に近き空は曇色濃く塞がツてるが、それでも西の山際が晴れて居るか、何処かに明るい光線(かげ)が射して、高く飛んで居る鳥の下腹が赤く見える。
 殿井は馬鹿々々敷く、起って居る訳にも行かぬので、成るたけ乾いた処を跳びながら、庭の木戸を開けようとすれば、内からさるが掛って居る。忌々敷さに二つ三つ強く押すと、古くなツた建仁寺垣が、今にも倒れそうに揺(うご)くけれど戸は開かない。仕方なく檐下を杉垣に添うて廻れば、浅いか深いか行先に水溜が在って、其の先は広い茶畑を見越して寺院の白壁、何処か遠くからは井戸車の音が響く。



 「畜生!」と四辺(あたり)を睨廻(ねめまは)して唇を咬んだ。
 彼は如何にも当惑したが、頓て又元に引返した。其の摘み上げた衣服(きもの)の下からは、縮緬の長襦袢の裾が溢れて、毛の厚い脛に絡まるのである。帯は襦珍、之に黄金鎖(きんぐさり)を巻いて、磁石、財布入、棙鉛筆(ねぢペン)などが、身体を動かすと共に燦爛(ぴかぴか)する。
 「…大丈夫でございます、確乎(しっかり)私に捉ってらツしゃいまし。」と云ふ主婦の声が、突然室に入ってきた。何うやら二三人の足音がする様だ、殿井は耳を欹てた。
 「何だね、気の利かない、お布団は後にして、まづお枕をお上げなね。」と又主婦の声。
 続いて紙門(からかみ)に突当る音がした。
 「宜うござんすか…、徐(そツ)と…、お痛かござんせんか…?」
 すると、何を云ふのか静な別の声がした。
 「はい、お冷水(ひや)を…?」と答へたが、急に調子を高く、「それ、お廉や…。」
 お廉が出て行くと、
 「最う快うござんすから、何卒、彼方へ行らしツて下さいな。」と低声(こゞえ)ではあるが、明瞭(はっきり)したのが聞えた。
 「なんですよ、其様な御遠慮なんぞ…。」と主婦が云ふ。
 「いゝえ、少し安眠(やすみ)たいんですから。」
 其処へお廉が水を運んで来たらしい。暫く物音もせぬ。
 「あー。」と溜息が聞えた。
 「宜うございますか…?では、ま暫く徐として在らツしゃいましよ。」
 「種々(いろいろ)と、何うも、御心配を掛けて済みません。」
 夫っ切り返事も無い、主婦も下婢も出て行った様子である。殿井は窓近く耳を寄せて、室内を窺って居た。静寂(しん)として何の音も響き来ぬ。眠ったのかと思ったら、久(しばら)くして微に欠伸するのが聞えた。
 と、不意に殿井の袂を曳く者がある、愕然(ぎょツ)として振返へると、背後に主婦が笑を殺して起って居る。殿井は勃然(むツ)として眺めると、益々可笑しい顔をして、終ひには口を袖で被(かく)して、黙って脚下を指示す、見下せば其処に下駄を揃へて、それを穿けよと促すのである。殿井は一段と怖い顔をして、泥足袋のまゝに突掛けて、室の病人にも響けとばかり、足音荒く庭から縁側へ廻った。



 入院料

  一

 床の間から下ろした机には、見事な毛糸の編物を敷いて、丸心の洋燈(ランプ)明るく、初野と主婦と対座(むかひあ)ってゐる。
 「如何でございます?」と主婦は顔を覗く様にして、「夫で宜しいぢゃございませんか?」
 「そうですねえ、」と初野は仰向いた顔を挙げて、「如何したら可いでせう?私も迷って了って!」
 「何故でございます?何か、後日(あと)で難題でも言掛けられては、と云ふ様な御懸念でも…?」
 「其様な事も有りますまいけれど…。」
 「ございませんとも貴方、」と主婦は笑って、「三條の殿井と云へば、越後でも聞えた資産家ですし…、加之(それ)に、今は如彼(あゝ)して遊んで在らツしゃいますけれども、ちゃんと美術学校を御卒業なすツて、油絵の方では最う、立派な先生株なんですもの。」
 「では画工ですか?」
 「は。御郷里(おくに)は其様な御身分でございますからね、職業と云ふんで無く、真(ほん)の御道楽に遣って在ツしゃいますけれど…何ですか、其の中洋行でもなさる様なお話もございますよ…。」
 「洋行?」初野は目を瞠った。
 「は。」と主婦は頷頭(うなづ)き、「そう云ふ方ですもの、後日(あと)で御迷惑を為さるなんて、請合って其様な事はございませんよ、大丈夫でございますよ。」
 「そうでせうとも。私も、決して其の方を疑ふんぢゃ無いんですけれど…。何だか、余り。」
 「余りお話が旨過ぎるから…?」
 「一度も会った事も無いし、名も知らない方が、其様な、無抵当で金を貸して下さるなんて、何だか私には…。」
 「否(いゝ)え貴女、そう云ふ訳ぢゃございませんよ、私の話し方が下手なもんですからね、」と主婦は膝を進めて、「昨日でした、その殿井様が来らツしゃいましたからね、過日(このあひだ)お話の、自転車の事をお訊きしたんですよ…彼の方も自転車を持って在らツしゃるもんですから。すると、夫は、売買の事なら止した方が可い。何故売るんだ、と此う仰有いますから、実は此々で、最う、自転車は見るも怖いと云ふ事で、それでお拂ひなさるのでございます、と云ふと、や、萩原様の自転車か、大変英学の出来ると云ふ、彼の、女子学院で有名な萩原様のゝかい、てね貴方。」
 「あら、私の名を知って在(い)らしツて?」と蒼白い顔を赤くした。
 「新聞で御覧なすツたんでせう。で無いでも、交際の広い御方ですから、何処か、御婦人達からでも聞いて在らツしゃるでせうよ、貴女の事は、(よう)く御存じでしたもの。それでね、」と主婦は、何処までも真面目な顔色(かほ)で、其の殿井の談なる物を淀みなく述立てるのである…。
 「だから、私の名を知らさないで、お主婦の手で都合した様に、其処は、萩原様の感情を悪くしない様に話して呉れツてね貴方、そう仰有るんでございますよ。」と主婦は言ひ足した。
 初野は、胸を蠢かしながら此の話を聴いて居た。我が名の然程(さほど)までに世に広まツたか、と思へば、此のまゝ死んでも惜しくない様な逆上せた気もするのである。
 入院して未だ十日と経たぬ。医師からは元より退院の許容(ゆるし)を得たのでないが、郷里(くに)の兄からの来状(てがみ)に、頼んで遣った金を送らぬのみか、定額の学資で不足ならば早速帰郷せよと有るのみなので、卒(にはか)に明日支払日を算段せねならず、看護婦等の危むのも構はず外出を願って、此く我が下宿へ帰って見たのである。
 下宿に帰ると、果して卒倒し掛けたりもしたが、併し後で考へれば、多少衰弱した身体を突然車で駈けさした為で、別に挫いた手が何うなったと云ふのでは無い。ギプス包帯とやら、是は治る迄この儘に置く物とのこと、何も高い金を出して病院に居る必要はない、隔日位に此家(ここ)から通うても、三週間を過ごせば全治すると云ふ其の三週間に二種(ふたいろ)あるのではない…勿論今は金を出す的(あて)が無いので、入院して居れと云はれても不可能の事であるが。初野は愈よ退院と決めた。それに附けても先に立つ金の手配、今は恥しいとのみ云って居られぬので、主婦に自転車を売る事を相談して見た。然すると主婦からは前の様な談で、此様な好都合の事は無いから、先方(むかう)の云ふがままに借りたが宜いぢゃありませんかと勧むるのである。
 「如何でございます、矢張し、お気に済まない所が有るんですか…?」何時までも相手が考へて居るので、主婦は此う促した。
 「はア、何うも…。」と初野は考へながら首を捻って、「何う考へても、見ず知らずの方から、そう云ふお金を借りる理由(わけ)は有りませんから…。」
 「宜しいぢゃござんせんか、貴方が見ず知らずでも、殿井様の方では、貴方の御名誉を慕って御用立て度いと仰有るのですもの、宜しいぢゃござんせんかね。」
 「そう許しも云へ無いでせう…若し、私の様な者でも名誉が有るとすれば、其様なお金を借りましては、直ぐ不名誉に成っ了(ちま)ふ訳ですから…。」
 「え、不名誉?不名誉でございますか?」
 「はア、何うも…。」 
 「では、何うなさるお心算(つもり)なんです?」
 「矢張し、自転車を売った方が一番に良い様ですが…。お主婦、何うもんでせう?」
 「それが貴女、早速買手が有れば宜うございますけれど…。」と言葉を断った、「また、有った所で、早速明日のお間に合へば宜うございます…けれど。」
 「然うですねえ。」と微に肩で息をした。
 二人とも久く黙って居た、火鉢の火も小さくなツた。何(ど)の室からか、微に月琴を鳴らすのが聞える。
 「また始めたよ、」と主婦は天井を眺めて、「幾ら止して下さいと云っても…、仕様が無いねえ、他の邪魔になるのが、解らないでせうかねえ。」
 「如何(どう)でせう、彼様な物は質屋ぢゃ取ら無いでせうか?」と初野は突然に云った。
 「え、質屋で…?」と主婦が見返ると、初野は真赤になツて居る。「月琴でございますか?」
 「いゝえ、あの自転車ですの…。」と俯向いた。
 「如何でせうか?此の頃は、嵩張った物は取らないとか云ふ事ですから。」と黙って初野を眺めて居たが、「それでは、殿井さんのお談は如何致しませう?」
 「何卒か、お主婦から宜(よろし)い様に仰有って下さいな。」
 「謝絶(ことわ)るんですか?」
 「は、何卒か!」
 主婦は、其の案外なる言(ことば)に呆れたが、併し毛程も厭な顔色は見せない。
 「では、彼下(あれ)を御払ひなさるんでございますね?」
 「何うも、外に仕様が有りませんから。」
 「そうですねえ、ま、そうなさるのが、一番趾に物が残らないんですねえ…。ぢゃ、今夜は最う遅くもなりましたから、明朝早く、本郷に聞合(きゝあは)しに遣りませう。」
 「何卒かお願ひします。」
 「おや、最うお火が無くなりましたね。」
 「いゝえ、火は入りません、最う寝みますから。」
 「然うですねえ、急に起きて在らしツて、さぞお疲れでせうから。」
 「えゝ、何だか、茫然(ぼんやり)し了って…。」
 「左様でございませうツて…。」
 と主婦は起上って、其処に敷いて在る蒲団や夜具を直し、
 「如彼(あゝ)いふ、立派な西洋室に在らしツちゃ、此様な所は小舎の様でございませうねえ。」
 「いゝえ、何だか、故郷(くに)へでも帰った様で、大変に悠然(ゆっくり)しましたの…。」と初野も座を起ったが、「お主婦、失礼ですけれど、其方の浴衣を出して、着更へさして下さいませんか…。最う此様な一人で着物も着られない不具者(かたは)に成っ了って。」
 初野は淋しく笑った。主婦は「最う数日(しばらく)の御辛抱、」などゝ慰めて、行李から洗ってある白地の浴衣を取出し、さて初野の傍(わき)に突膝(つきひざ)して、其の締めて居る紫紺地らしい緞子の帯、糸織の曙縞の綿入、下着は絹の桜小紋、その下のネルの襦袢を分(わけ)れば、何処からとも無く白薔薇香水(ホワイトローズ)の香ひ、肌は珠玉(たま)の如きに、乳房むツちりと高まり、細腰より下は腰巻(けだし)の色がしツとりとして、紅の瀧の落ちるとも声ふ可きである。
 「あら、お主婦…。」と叫んで、何うしたのか初野は燈火を背後に身を遮った。
 「ほゝゝゝゝ、宜しいぢゃありませんか。」
 「だツて。」
 「些(ちツ)たア、お痩せなさいましたねえ。」と主婦は浴衣に寝衣の綿入を着せて遣りながら云った、
 「痩せもしますわ、彼様に…。」
 と云ふ時、不意にがたりと縁側から障子に触(ふれ)る物音がした。
 「あら!」と初野は吃驚して其の障子を視詰めた。
 「誰だい?お廉かい?」と主婦も声を掛けたが、「誰が覗くもんですか、猫でも触ったんですよ。」
 そこで、初野も帯も締めて貰って、主婦の出て行く迄寝床にも入らずに居た。
 主婦は、今脱がせた衣服(きもの)を倉皇(そこそこ)に整理(かたづ)けて、さてお息(やす)みなさいの挨拶して此室(こゝ)を出た。暗い縁側から台所を抜けて、直ぐ其処の茶の間の、燈火(あかり)の一杯に射してる障子を明くれば、湯の沸騰
ってる長火鉢の向うに、殿井恭一たゞ一人、擽ツたい様な顔をして胡坐を組んで居る。
 「貴方でせう?」主婦は詰問する様な様子で、先づ火鉢の此方に腰を卸した。
 「何を?」
 「何をぢゃありませんよ。若し、障子が脱(はづ)れたら何うなさるんですよ?」
 「はゝゝゝゝ。」殿井は笑って、「併し、中々美人だねえ。」
 「美人だも無いもんです。萩原様に見られや為まいかと思って、私、はらはらしましたよ。」
 「ふゝゝゝ。」鼻で笑って居る。
 そう性急に成さらないで、まア数日(しばらく)、凝然(ぢツ)と待って在らっしゃる訳には参らないもんですかねえ?」
 「兵は拙速を貴ぶさ。」
 「何ですツて、貴(たツ)といツて、何が貴といんです?」
 「遅いより速い方が可いツて事さ。」
 「ほゝゝゝゝゝ。幾ら速いが可いって、今日初めてお話の出た事ぢゃありませんか。今日の話を今日の中に物に成さらうと云ふのは、夫(そりゃ)ア貴方、余りお性急過ぎますよ。」
 「そうぢゃ無い、物に仕ようて云ふんぢゃ無いがね…。」
 「無いが如何したんです?」
 「兎に角、まア僕を会はして呉れるが可いぢゃないか。」
 「可けませんよ、其様な事を仰有っても。彼の通り固いんですもの、直接(じか)にお会いなすツて御覧なさい、それこそ、出来る物も逃して了ひますよ…。貴方は、通常(たゞ)の女学生と一緒に思って在らツしゃるから可けない。何うして、萩原様許しは貴方…。」
 「また始めた、先刻から何遍同じこと繰返すんだ?」
 「だツて、貴方は余り安く見て在らツしゃるからさ。」
 「けれども、幾ら高く見ても女学生は女学生だらう…、女子学院の秀才だらうが、新聞に肖像が出やうが、僅かな入院料を差支へて、自転車を売らうとしてるんぢゃないか?」
 「夫は、まア然うですけれど…。」
 「蔭で談話(はなし)を聴いて居たが、音声(こえ)だって言葉だツて、別に変った処も無いぢゃないか、矢張し人間の娘ぢゃないか?」
 と、都の胃は笑ったが、主婦の方は中々真面目なもので、
 「いゝえ、今夜は貴方、彼の通り卒倒(めまひ)したり何かした後ですもの…。」と主婦の言の終わらぬに、
 「ぢゃ、通常は音楽の様な声で、身体から後光でも射すんだね。はゝゝゝゝ。」
 「通常ですか、」と主婦は笑ひもせず、「通常はもツと挺然(しゃツきり)として、顔も綺麗ですし、第一、彼様に滅入って在らツしゃりはしませんよ、元気が有って、活発で、如何して貴方…。」
 「ふん、女の活発か…、これで、お転婆と云ふ奴は、余り自慢に成る物ぢゃないからね。」
 「いゝえ、お転婆なんて…、途方も無い、彼様な優容(しとやか)で、品の良い、人柄な…。」
 「始まツた、始まツた、はゝゝゝゝ。」と殿井は腹を抱へて笑ったが、「最う効能も其辺(そこいら)で止さんか、余り広告すると、買薬だツて信用がなくなるぜ。」
 主婦も笑って、
 「だツて、貴方もまた、意地になツて貶すんですもの。」
 「そこで、今後何う為るんだ。」
 「ですから、まア凝然(ぢツ)として、時節を待って在らツしゃいましよ。」
 「其点(そこ)は解ったが、今の談話の様子ぢゃ、何だか、僕の方は脈が断れた様ぢゃ無いか。」
 「いゝえ、ご自分で許し売るに決めた処で、早速買手(かひて)がございません…、此う云へば、それ、其れツ限(き)りでせう。」
 「成程。買手が無いと云って置いて、困らせて置いて、また僕の話を持出すと…。」
 「売るも買ふも貴方、彼様な包帯した身体で、豈夫(まさか)自身外へ出る訳にも行かないでせう、それ、是非私がお世話しないぢゃ、何うすることも出来ないでせう?」
 「其点を見込んで…、成程、さすがはお主婦だ。」
 「ね、解りましたらう。」
 「や、感服々々、流石は昔執った杵柄(きねづか)…。」
 「ま、一寸と、」と主婦は殿井の口を止めた。
 耳を澄ませば、彼方の室から初野の声がして、之に答へる下婢(かひ)の、
 「はい、畏まりました。」と、縁側を此方に急ぐ足音も聞こえる。
 「おや、未だ起きて在らツしゃるんですよ。」
 「聞こえたか知ら?」と殿井は微(すこ)し赤くなツた。
 「貴方、余りお声が高いんですもの…。」と叱言の様に云ったが、丁度台所に物の音する下婢を呼んで、「お廉、萩原さまは未だお寝(よ)らないのかい?」
 「はい、あの、睡眠剤(ねむりぐすり)を服(あが)るから、お冷水(ひや)を呉れと仰有いまして。」と下婢は障子の外から答へた。
 「睡眠剤を?」と殿井は咎める様に、「眠れないんだね?」
 「そうでせう。考えても御覧なさいな、御無理は無いぢゃありませんか。」と主婦は低声(こゞえ)に力を籠めて云ふ。
 「ぢゃ、眠らなきゃ金が出来るんかい?
 「其様な貴方、思遣りの無い事を仰有るもんぢゃありませんよ。」
 「だツて其の通ぢゃないか…。いや、女と云ふ物は愚癡なもんだ。」
 「それぢゃ、将来に能(よう)く教へてお遣んなさいましな。」
 「教へろ?僕がゝ?はゝゝゝゝゝ。」
 「何ですねえ貴方。」と主婦は、殿井の大声を制して、「もツとお静になさいましよ。」





 二
 
 初野は夜明け前になツて漸(やつ)と眠に就いた。夢で、郷里の母がリウマチスが癒ったと云って、態々見舞に上京したが、其の話に、近頃は兄も母に有情(やさし)くなツて、今度上京するに就いても、小遣いだと云って此様なに金を呉れた、と鞄に一杯の紙幣(さつ)を出した。之さへ有れば自転車を売ることも要らぬ、入院料は元より、看護婦や世話になツた人々に思ふ程の謝礼(れい)をして、夫から下宿の払を済して、質を受けて、日頃欲しいと思った彼品(あれ)を買って此品(これ)を調へて、と喜んだが、其の紙幣は悉く贋紙幣と云ふ事で、母も自分も警官に掴まらうとするところ、掴まツては大変と、母古(おやこ)手を握合(とりあ)って逃げ廻ったが、幾ら逃げても逃げても跡から追蒐(おツか)けて来る、その靴音が次第に近くなツた、其の剣のがちゃがちゃ鳴るのも聞える、何うやら手が背中に触る様だ、それ、掴まツては大変と、一生懸命に駈出すと、横合から不意に男書生が出て来て、互いに衝突(ぶつか)って、一二間も前に投出された、と思ふと目が覚めた。
 見回せば節の多い下宿の天井、障子には日光(ひかげ)が射し、庭の木影も映って居る。
 「あー、夢で宜かツた。」と溜息を吐いた。
 身体中汗をかいて、浴衣はしツとり濡れて居る。何時頃かと思って、机から銀側の懐中時計(たもとどけい)を取ると、既う十時に程も無い、此様なに眠ったのか、と驚いたが、驚くと共に、入院料…自転車の売却、午前中に病院に帰らねばならぬ事などが、水桶の栓でも抜いた様にどツと心中に湧出てた。
 「一刻も此様なにしちゃ居られない。」
 と呟きながら、負傷(けが)した方の手を物に触れぬ様に除(そツ)と起上った。
 他手(ひとで)を借りなくては、帯を結ぶ事もならぬので、障子を明けて誰か呼ばうとすると、綺麗に片付いた台所、日光が一杯に射込んで、竈、銅壺、雑巾の跡の鏡の如き其処から、斜(はす)に見通さる茶の間まで寂静(ひっそり)と静まり反って、垣の外を洋燈屋(ランプや)の触れて通るのが聞えるのみである。
 「お廉さん、お廉さん。」何処に居るか分らぬが、此う呼んで見た。
 返事はない。正可(まさか)に誰も居らぬ筈は無いが、何うしたんだらう、と訝しがりながら二歩三歩、縁側を勝手の方に行かうとすると、直ぐ前の木戸口から、バケツに水を提げて、ひょツくり下婢が出て来たが、「おや、お目覚めで在らツしゃいますか。」と自分の用をば其処に置いて、襷を脱しながら上がって来た。



 先づ衣服(きもの)を着更へさせて貰ひながら、お主婦(かみさん)の事を聞けば、今朝早く本郷から神田の方へ出られて、貴女がお目覚めならば、其の事を申上げよ、と云ひ置いて行ったと云ふ。
 「それから、先刻お客様がお出でゝございました。」と下婢は、寝具を片付けながら、思ひ出した様に云ふ。
 「おや、何誰(どなた)?」と初野は楊枝を使ふ手を止めた。
 「何誰ですか、お姓名(なまへ)を伺ひましたけれど、仰有らないんですもの…。何でも、日外(いつか)来らしツた事の有る方ですよ。」
 「日外(いつか)って、其様な事ぢゃお廉さん、分からないぢゃありませんか。」と笑って、「して、何か言い置いて行った事でもあツて?」
 「いゝえ、只だ、」とお廉は顔を紅くしたが、其処へ支膝(つきひざ)して、「あの、何う云ふ事で、昨夜は此方にお泊りなすツたか、今日は病院へお帰りになるか、何時頃お帰りになるかツて、只だそれ許(ばか)しお訊きでした。」
 「誰だらう?何うして、此方へ泊った事が分ったんだらう?」と訝った。
 病院へ訪ねて、看護婦から聴いて着たとしても、何も言置く程の用事も無い身で、私の病院に帰るか否か尋ねて行ったとは何うした事だらう。
 「一体、何様な方なの?何様な服装(なり)して?」
 「矢張り袴を穿いて在らツしゃいました。」
 「齢(とし)は?」
 「左様でございますねえ、薄く髯が生えて在らツしゃいましたから…。」
 「あら、男の方なの?」
 「は。」
 「ぢゃ、大学の…角帽を冠った?」
 「はい、左様でございますよ。」
 「背の高い?」
 「は、御存じで在らツしゃいますの。」
 初野はそれには答へず、考へる顔をして、
 「そして、貴女何て云ったの?」
 「あの、未だお寝て在らツしゃいますツて。」
 「そう、」と少し紅くなったが、「そしたら、何様な事を云って?」
 「あの、急に外出して、何処も触った様子は無いかツて。」
 「其様な事を訊いたの…、」と美しい眼を輝(ひか)らして、「夫っ限(き)り?」
 「は。夫っ限り…。何ですか、怒って在らツしゃる様な方でしたよ。」と云ったが、急に格子戸の開く音がしたので、縁側に駈出して見て、「おや、お主婦さんが帰って参りました。」
 初野は、何事を措いても先づ自転車が売れるか何うか、主婦の話を聴き度いのであるが、今起きた許りで、顔も洗はず口も濯がぬので、
 「大変に寝過して了って。」と会釈して、急いで毎(いつも)の洗面場の方に行った。
 主婦は、座敷の掃除が済んだなら、其処に出す可き牛乳、膳に供へる香の物まで下婢に命令(いひつ)けて、金盥の顔の湯、嗽ひ茶碗の水も歯に刺(し)みぬ程に加減して待って居ると、丁度初野が便所から出て来る。
 「でも、此様なにお寝られて好うございましたねえ、私はまた、急に勝手が違ひなすツて、如何かと思って心配して居りましたよ、本当に好い塩梅でございましたこと。」と主婦は何を為るにも片腕の利かぬ初野を、手拭を絞るやら、背後(うしろ)から袂を押へてやるやらして、相手を焦燥(じれ)させぬ様に気を配って手を貸して居る。
 「何処かで鶏の声を聞いてから眠ったんですけど、でも、先刻まで何も知らないんですの。」
 「左様でございませう、今朝程、窺(そツ)と覗ひましたら、熟くお睡て居らツしゃいましたもの。」
 「おや、そう、些とも知りませんわ。お主婦の出て行った事は、今方、お廉さんから聴いた許し…。」
 と濡れた手拭に襟頸を撫で上げながら、「此様なに寒いのに、朝っから済みませんでしたわねえ。」
 「いゝえ、寒いツて貴女…、其様な事なんざ何とも有りませんがね…。」と困った様な顔をするので、
 「あれ、如何でした?」と手を止めて訊く。
 「何うも貴女、無効(だめ)でございますよ、本郷から下谷、神田の淡路町から鍋町の方まで、大概の処は聞いて廻りましたけれど、何うも、今が今と云ふお間には合(あは)ない様でございますよ…。」
 「まア、此処ぢゃ何ですから、何卒か彼方へ…。」と初野は顔色まで変えたが此う云って、先づ我が室に主婦を伴込んだ。
 室は綺麗に掃除が済んで、火鉢には火が熾り、座布団も正しく、机の傍に鏡台まで出してある。けれども初野は、今は鏡に向ふ気力も無く、手拭も楊枝も机上に置いたまゝ、
 「では、何処にも、買って呉れる店(うち)は無いんでせうか?」
 「日本橋から京橋の方から、ずうと探したら無いこともございますまいけれど…。」と主婦は話出した。自分の廻った処では、生憎と主人が不在(るす)だツたり、居ても古物は取引しませんと断ったりして、本郷の通から神田に掛けて、自転車営業の十五六軒の店々、誰も引受けようと云ふ者が無い。池の端に一軒、品物を拝見の上、値段に依て頂戴しても可いが、と云ふのが在れど、二三日後で無ければ、それを鑑定(めきゝ)の番頭が帰らぬとやらで、これ以て今日明日の間に間に合ふ話ではないのだ。
 「買手が無きや仕方が無いけれど…、」と初野は当惑の溜息を洩らして、「如何したら可いでせうねえ、私も実に困って了って。」
 「それで、私も途々考へたんですがね…。」
 「は、」と初野は其の後を促す様に、「何うしたら可いでせう?」
 「其様な訳ですから、今急にお払いなさると云った処で、熟(どう)せ今日今日(けふけふ)のお間には合ひませんからね…。」
 「え、」と点頭いて、「そうですわねえ。」
 「ですから、如何です…、」と主婦は躊躇しながらも凝然(ぢツ)と初野を見て、「昨夜のお話の、彼の方からお借りなすツては?」
 「昨夜のお話と云ふと?」
 「殿井様のお話でございますがね。」と云って、初野の顔色を覗った。
 殿井の談と云はれて、初野は瞬時(しばし)口を噤んだ。金に差支えたとて、縁もゆかりも無い見ず知らずの他人(ひと)から、貰ふ様な借金は支度(したく)は無い。後で利息を添へて返済すれば夫で済む様なものゝ、夫を済ます迄は始終恩を被て居る様で心苦しいのだ。且つ、先方では我が学校に於ける成績なども知って補助し度いと言出したとか、若し、其の言に乗って、其様なら早速是だけの金を貸して貰ひ度いと申込んだなら、如何に厚面皮(あつかま)しい女と蔑まるゝか知れぬ、或は其様な卑しい女ならば、と其の取引の際に臨んで謝絶(ことわ)られる様な、辱ずかしい目にも遭はうも知れぬ。
 「彼の談なら、まア止しませうよ。」と思切悪さうに云ふ。
 「左様でございますか…、では、何か他に良いお考へでも?」
 「別に、良い考へも無いけれど…。」と初野は当惑したが、「良い考へが無いからと云って、因縁(いはれ)なく他人の補助(たすけ)を受ける理由(わけ)も有りませんから。」
 「いゝえ、貴女は因縁が無いと仰有いますけれど、殿井様の精神(こゝろ)はそう云ふ理由ぢゃ無いんですよ、今も帰途(かへり)にお目に掛りましたらね、お主婦の話し様が悪い、夫ぢゃ、萩原さんのお怒んなさるのも道理(もっとも)だと仰有いましてね…。」
 「その、殿井様とか云ふ方へお寄りなすツて?」
 「え、直ぐ切通し下に在らツしゃるものですからね…。」
 と云ってる処に、下婢が牛乳や膳を運んで来た。主婦は傍近く躙寄って、食事する初野に手を借しながら、
 「殿井様は、貴女の様にお優(でき)なさる方が、些細(いさゝか)なお金で御心配なさいますのが、それが如何にもお気の毒だと仰有いましてね…。」
 「では、自転車を売ると云ふ事も、其の方へお話しなすツて?」と初野は紅くなツた。
 「別に、委しい事はお話も致しませんけれど、熟せお謝絶(ことわり)する便次(ついで)ですからね…、」と云って主婦は息を呑んで、「すると、お主婦の様に下手な云ひ方をするから、それで萩原様もお怒んなすツたんだ、乃公(おれ)の精神(こゝろ)はそう云ふんぢゃ無い…。」
 「いゝえ、怒るなんて、決して其様な事はありませんけれど。」と初野は口を挿(い)れた。
 「…それで、僕の精神はそうぢゃ無いけれど、お主婦の云ひ様が悪い許しで、却って萩原様を怒らして了ったんだ、併し今更それを悔やんだ所で仕様がない、また、僕の身に取って、三文の得にも成る事ぢゃ無いから、悪く思はれても怒られても、其様な事は気に掛けんが、何しろ、萩原様ほどの人が、其様な些かな金に差支へて、自転車を売るのなんのツて、外聞の悪い事をするのが如何にも遺憾だ、幸ひ僕は、爰に少し許し金を持ってるが、如何だらう、此金(これ)で今日の急場を救うて上げる事が出来まいか、勿論、僕の金と云っちゃ可けない…其様な失礼な事が無いなんて、また反対(あべこべ)に怒られでもしちゃ何にも成らないから、僕の名を出しちゃ可けない…、其点(そこ)を何とか、お主婦の計ひで、他でも手配した様に作(こしらへ)て、兎も角も、そう云ふ不名誉な事は為せない様にして上げてお呉れ此う仰有いましてね、御覧なさい、此様に…。」
 と云雛がら、主婦は太った懐中(ふところ)から紙幣(さつ)の一束を出したのである。
 初野は丁度食事を終ったところで、意外な紙幣の一束を見せられて、思はずも顔を染めたが、それを主婦に凝然(ぢツ)と視て居られるので、何と云ふ訳も無く恥ずかしくなツて、最う耳の脇までも紅くした。
 「折角彼程まで仰有るのですもの、兎も角も、之はお使用(つかひ)なさるが可いぢゃありませんか、」と主婦は勧め出した、「何ですよ、何も、考へる事も危む事も無いぢゃありませんかね?」
 「いゝえ、危むなんて、其様な事は無いけれど…。」
 「知らない男(ひと)から世話になるのがお厭ならば、後でお返しすれば夫で済むぢゃございませんかね?」
 無論、それに違ひ無い、利息を加へて返却すれば夫で可いのだ、けれども、自分は未だ金を借りた経験(おぼえ)がない。借財!唯だ之を思うた許りで、罪悪、失敗、堕落の淵に陥ちて行くやうな気がするのだ。と云って、目の前に迫った入院料を何処から何うして手配す可き的(あて)も無い。
 「ほゝゝゝゝ、萩原様の様でも無いぢゃありませんか。」と主婦は、初野の吃驚する程快活な語調になツてm「是ん許しのお金、ご卒業後には、お給料の半月分にも当らないぢゃありませんかね、ほゝゝゝゝ。」
 此う笑はれて、初野は主婦を凝然(ぢツ)と視詰めたが、頓て自分も莞爾(にっこり)として、
 「そして、此金(これ)は幾何あるんでせう?」と云ったが、それが急に明瞭(はツきり)とした音声(こゑ)と変わった。
 「五円紙幣(さつ)で、丁度五十円でございますよ。」
 「お主婦(かみさん)、それでは、此うして戴く訳には行かないでせうか。故なく他(ひと)から金を借りる理由(わけ)はありませんから、証文を書いて、利息も極めて、単純な貸借と云ふ事にして、そして貸して戴く訳には行かないでせうか?」
 「証文なんって、其様な小難かしい事をなさらないだツて貴女…。」
 「いゝえ、そうでないと、私は却って気が置けて可けませんもの…、如何でせう、そう云う事に、殿井様にご相談なすツて下さいませんか。」
 「なアに、相談も何も、一切私が任されてますから、其様な事は要りませんけれど…。」
 「ぢゃ、何卒(どうぞ)そう云ふ事に御承知なすツて下さいな、そして、此のお金は私に貸して下さいな、ね、何卒そうなすツて下さい、ね。」
 「ぢゃ、何うでも、貴女のお気の済む様になさる事として、ま兎も角も、病院へ行ってらツしゃい、最う貴女、彼此お正午(ひる)でございますよ。」
 「そうですねえ、夫では、証文の事は帰ってからとして…。」
 「証文なんざ、何うでも宜ござんさアね、殿井様の方から、別に、書いて呉れとでも云うのと違って。」
 於此(そこで)、主婦の云ふまゝに此の金を借りる事に決めた。五十円、此れだけ有れば、入院料も、看護婦への礼も、歳月分の下宿料の滞りも悉く済まされるのだ。初野は、初めて安堵の太息を吐いた。
 夫から主婦に手伝って貰って、頭髪を正(なほ)し、顔も一寸と化粧(こしら)へ、衣服は昨日のまゝなれど、襦袢だけは新しい白羽二重の襟の掛ったのに着更へ、肩掛(ショール)は白鳥の羽毛(はね)を散したフラシテン、袴は唐草模様のカシメヤを裙長に穿いて、気取るとも無くついと立った其の姿の美(よ)さ、品の高さ、見慣れた主婦も唯だ目を瞠って見惚れる許りである。
 彼此する間に、呼びに遣った俥の声も聞えた。
 「お忘れ物がございませんか?」
 「いゝえ、別に。」
 初野は前に、主婦は後に、二人は伴立って室を出たが、此の時しも、履物を揃(そろへ)に玄関へ駈出した下婢は、
 「あら、お主婦、殿井様が来らツしゃいましたよ。」と吃驚した様に云ふ。 



『魔風恋風』 小杉天外 (明治36年)

2011年03月03日 | 著作権切れ明治文学



小引

 明治三十六年二月起筆して、同年九月に亙り讀賣新聞に連載した小説である。
 構想の初めは専ら新描寫を試む可く苦心をしたものである。当時先輩諸家の作に不満の感を唆かされた處もあって、擱筆するに到るまで、始終世俗的刺戟から脱離し得なかったのは遺憾である。

  啓蟄や馴染の蟲ものぞかれる
                   蔘房舎天外
    昭和二十六年四月


記念會 病院 下宿 其の室 入院料 意外 子爵の養子 
畫工の家 同胞 あらそひ 魂膽 依頼心 子爵家 大決斷





記念會
 二三日前から、都下の新聞は筆を揃へて、帝國女子學院の、創立十周年祝賀會の盛大なる催しに就いて掲出てるのである。
 校長の挨拶、學監の報告、来賓の祝辞や演説、これ等は何處の會にも珍しくは無い、觀物は工芸家科學生の競技陳列品、文化學生の英語の戯曲朗読、音楽科は云ふ迄も無く洋楽の演奏、また夜に入っては、一時世評に喧しかツたので、今では美しい令嬢揃ひと云ふ事と共に、此の学校の名物に数えらるる仮装舞踏会の催しも有るとのことである。
 それから饗應は、婦人が多い所から和洋二種の献立、受持は築地ホテルと新橋の花月、互に腕を振るうて来賓二千の舌に其の巧拙を競ふ由、などと孰れも仰山の事のみなるに、今朝の新聞を見ると、若し晴天ならば、今日の女子学院の祝賀会には、畏くも皇后陛下を初め奉り、某宮、某宮の二親王殿下、某宮妃、某宮妃など打揃ひ御臨場相成る由と、巣鴨までの御順路をさへ細かに記してある。都民は皆な目を瞠った、在学生は常に千名に近く、其の基本金は五十萬圓、器械の具備した事から教授方の整頓した事、卒業生には多くの名媛を出して、最早東洋屈指の大学校ではあるが、申さば一個の私立校に陛下の行啓遊ばされることは、如何にも異例の如くに思はるるので。



 三四日打続く春日和、今日も南の風晴と云ふ天気予報は中りて、寒がりも綿入を一枚脱ぐほどの陽気である。陛下の御出門は一時、祝賀式は一時半と有るに、駒込から巣鴨に掛けて、来賓の馬車、観覧人の雑踏、午過ぎからは容易に通切れぬ程である。
 学校の正門前は、既に緑色の虹の湧きしかと思わるる大緑門、交叉したる大国旗は微風に重く揺らいで、其端は正に御者の絹帽子を誉めんばかりに垂れて居る。道は撒砂に清め、両側は巡査の警衛、着御の時刻次第に近づけば、騎馬の警吏頻りに上下して、群集の動揺は十里の長汀に春の潮の寄せては返す如くである。
 正面から七八町が間は、山の手各小学校の女生徒整列して、錦の幕を張りしにも似たるが、此の処から彼方は某伯爵邸の石垣に沿うて、道幅急に廣きだらだら坂、群集の頭の遙に黒く見渡さるる間を、一條の御通路、此方より逆行する者を禁じたれば、馬車を驅る者、人車を走らす者、宛然流に浮ぶ木の葉の如くに、女子学院の構内へと注込むのである。忽ち来賓の馬車は絶えた。最早御着あらせらるる覚ゆるぞと、群集は襟を掻合わせ固唾を呑んで、頭の者を取るやら、姿勢を正すやら…。
 「こらこら、何処へ通るのか?」
 一台の腕車が駈けて来ると、一人の巡査は敏捷くも梶棒を押へた。
 「へ、染井へ参りますんで…。」車夫は一も二も無く恐入った、車上の男は、果して女子学院への来賓では無かった。
 「今此処を通っちゃ可かん。」と、巡査は大声に叱った。
 車夫はへどもどして、幾度か首を下げて、直ぐ樣群集の中へ腕車を曳入れようとした。
 「こら、お前も降りなきゃ可かん。」また一人の巡査は、其の車上の男を叱った。
 髭の長い二重鳶の其の男は、見掛けに依らず、慌てて腕車を降りるや否や、ぴょこぴょこ叩頭したが、その機に黒の山高帽をぽこんと地面に落した、両側からどッと笑声が起こった。
 「こら!」と巡査はまた其の声を制した。
 男は赤くなッて密々と群集の中に消えた。
 すると、此の時しも坂の曲角に立つ人々の眼は、皆一様に輝いて下の方に向いた。此方に立つ群集も、そりゃ御出でだと首を伸し、人の背後なるは足を爪立てた。
 鈴の音高く、現れたのはすらりとした肩の滑り、デートン色の自転車に海老茶の袴、髪は結流しにして、白リボン清く、着物は矢絣の風通、袖長けれど風に靡いて、色美しく品高き十八九の令嬢である。
 両側に列ぶ幾千の目は、只だ此の自転車を逐うて輝くのであるが、娘は学校にのみ心急ぐか、夫とも群集の前を羞かしいのか、仕切りにペダルを強く踏んで、坂を登れば一直線に、傍目も振らず正門を指して駈付けんすると、今しも腕車を曳込んだ雑踏の間から、向こう側に移らんとしたらしく、二人の書生が不意に躍出した。
 曲角の出合頭、互に避くる暇もない、後なる書生に自転車が衝突ったと思ふ間も無く、令嬢の體は横樣に八九尺も彼方に投げられ、書生は仰向きに其処に倒れたのである。


病院



 一

 大学病院の外科病室の長廊下で、両方から行逢った若い二人の看護婦は、互ににっこりして、懐かし相に窓際に立止った。
 「ちょいと、貴女の患者さん大変な別嬪さんだツてぢや有りませんか。あんまり評判が好いから、私、一寸見に行く処なのよ。」
 「えゝ、別嬪さんよ、貴女その新聞御覧なすツて?」
 「新聞に出てるの?何新聞?」
 「何ですか、二の側で其様な評判でしたから…。あの、女子学院の生徒で、大変に英語の優る女(ひと)ですツて。ですからね、昨日なんかも、皇后陛下の御前に出てね、何か英語のお話を御覧に入れる予定でしたッて…。」
 「そう、其様なに優るの?だッて、未だ十五六にきや成ら無いってぢやありませんか。」
 「いゝえ、十九よ、私、入院證を、見ましたもの、千葉県香取郡佐原町平民、学生、萩原初野…。」
 「あら、田舎の女(ひと)?ま然(そ)う。私はまた、華族とか高等官とか、紳士の令嬢と許(ばか)し思ってたら…。田舎の女(ひと)なら、何程別嬪さんでも知れてるわ。」
 「いゝえ、でもそれは別嬪よ。全く別嬪さんよ、目の大きいね、鼻の高い、色なんぞは、宛然(まるで)透通る様なのよ。彼様(あんな)に苦痛んで居て彼様(そんな)なんだから、平常はまァ、何様なだらうと思ふ位よ。」
 「そう、其様なに?」
 「貴女に見せたら、必然ぽーツとなツ了(ちま)ふわ。」
 「見たいわねえ。」
 「来らツしゃいな、見せて上げるから。」
 「貴女の附いてらツしゃる時で無きや可笑しいわ…、一緒になんか入ってツちゃア。今は何してるの、お眠(よ)ってゝ?」
 「正午(ひる)頃からやツと眠ったの。今朝までの、其の悩み方ったら無いのよ。熱が上がってね、もう、譫語(うはごと)ばかし云ってるのよ。」
 「可哀相にねえ、腕を折ったんだツてぢやありませんか。」
 「え、上膊骨の外科頸…。」
 「余程酷く落ちたんだわねえ、自転車も怖いわねえ、好くまア、顔を怪我しなかツたこと。」
 「矢張(やっぱ)し、顔を怪我しまいと思って、そら、夢中になツて、手を突いたんでせう。」
 「だけど、自転車へ乗るなんて、余程お転婆さんねえ。」
 「いゝえ、夫は、余程確乎(しっかり)した気性の女(ひと)よ、彼様に苦しがツてゝね、医師(せんせい)に聞かれると、判然(はっきり)答へるんですもの…。夫に、其の譫語(うはごと)がね、それは感心な事を云ふのよ。」
 「何様(どん)な事を?情夫(をとこ)の事でも云やしなくツて?」
 「いゝえ、此(これ)ん許(ばか)しも…。何でも、妹か何かでせう、波ちゃん波ちゃんてね、種々(いろん)な事を云って、何でも諭して聴かせる処でせうよ…最う少し辛抱して居てお呉れの、それから、本を読む許しが学問ぢやない、苦しい境遇に居って、心を清く持つのが一番の学問ですツて…、夫は、本当に感心な事許し云ふのよ。」
 「でも、其様なに譫語を云ふなら、一言位男の事も出さうなもんぢやありませんか。それを聴き度いわねえ。」
 「始まツたよ。ほゝゝゝゝ。」
 「然う云ふ容貌(きりやう)なら、誰も打棄(うツちや)っとく筈は無いんだもの…。ぢやア、全くの処女(バアジン)か知ら?十九にも成って、感心だわねえ。」
 「処女(バアジン)は最う処女に違ひ無いけどね、爰(こゝ)に一つ解せない事はね、始終、病状を覗に来る男が一人在るのよ。」
 「へえ、何様な男?」
 「何ですよ、其様な仰山な顔を顔をして、ほゝゝゝゝゝ。」
 「でも何様な男?学生?」
 「え、法科の制服を着て居る人よ。」
 「大学の?まア、何様な人?何て云ふの?」
 「何て云ふか知らないけど、男らしい、立派な学生さんよ。昨日もね、入院する時一緒に附いて来たし、今日も、今朝から最う、三度も覗に来たのよ。」
 「へえ、怪(をか)しいわねえ。」
 「だから、誰の鑑定も、何か関係の有る男(ひと)に違いないツて云ふのよ。」
 「私もそう思ふわ。」
 「だけれど、見た所では、何もそう云ふ様子も無いのよ。」
 「ぢや何なの?同胞(きゃうだい)?」
 「然うねえ、同胞にしては似て居ないし。」
 「ぢや許嫁男(いひなづけ)?でなきゃ従兄妹?」
 「然うねえ。」
 「だツて、大体挙動(やうす)でも解るぢやありませんか。まア、談話(はなし)の様子は何様なゝの?其の、口の利きツ振がさ?」
 「それが、一度も未だ談話を交(し)ないのよ。だって、昨日は其の通り人事不省でせう、今日も、来るには来たけれども、彼様なに苦痛んで居て、傍に誰が居るか判らない位ですもの、談話を交ようたツて、交る暇なんか有りアしないわ。」
 「その談話を聞けば、必然(きツと)判るんだけれどねえ。」
 「私もそう思って気を付けてるけれど…それにね、それに可笑しいのよ、先刻(さツき)もね、学校の女教師(せんせい)とか云ふ女(ひと)の来て居る時にね、また覗に来てね、人が居るもんだから、体裁(きまり)悪さうにしてね、そして、私を呼出して病態を訊くのよ。」
 「夫じゃ愈よ怪しいわ、同胞とか従兄妹とか云ふなら、何も、他人(ひと)が居たから入(はひ)れ無いツて法は無いでせう、可笑しいわ、可笑しいに極ってるわ。でなきゃ…。」
 と声の高くなるのを一人は袖を引いて、
 「一寸々々、背後(うしろ)を御覧なさいよ。背後を…」小声で注意する。
 振返れば、玄関まで人目に眺めらるゝ長廊下を、十六七とも見える美しい令嬢が、海老茶の袴の裾より見事な靴下補足、繊細(きゃしゃ)な手にはしツとりした袱紗包、病室の番号札を読みながら此方に歩み来るのである。二人の看護婦は言葉も無く、其の令嬢の通り過ぐるを眺めたが、
 「まア、美(い)い容貌(きりやう)ねえ!」と小声に目を光らす。
 「服装(なり)が莫大(たいし)た服装ぢやありませんか。それに彼の指輪…。何でせう、ダイヤか知ら?」
 「何様な処の令嬢でせう、何でも、余程良い処のだわねえ、美い姿だこと…。」
 「いゝえ、萩原様(はぎはらさん)の方は、彼(あれ)よりかまだまだ、ずうツと優(うへ)よ。」
 「彼女(あれ)より?」
 「えゝ、優ですとも、色だって白いし、もツと艶々して、第一、彼様なに痩せてやしないわ…。おや、私の室へ入ってよ。」  「必然(きっと)、萩原様のお友達でせう。」
 「未だお眠(よ)ってるか知ら…。失礼しますよ。」と一人が彼方に小走りに去らうとすると、
 「ぢや、後(のち)に行ってよ。」
 「えゝ、来(い)らツしゃいな。」



 二

 看護婦の入った室は、此の側の曲角から二室目(ふたつめ)の上等室である。
 「萩原様は、お眠って在らっしゃいますのねえ。」
 徐(しづか)に中仕切の扉(ドア)が開いて、次の室から今の令嬢が出て来たのである。看護婦は、此の社会の特有とでも云ふべき、気取った様な一種の会釈をして、
 「は、午後からは、好い塩梅にお眠みになりまして…。まア貴女、此方へお掛けなさいまし。」と云ひながら、看護婦は前(さき)に寝室に入って、消え掛った暖炉(ストーブ)の前に椅子を直し、蜜柑の皮と共に石炭を掬くって、ぢやくりと一つくべたものである。
 壁白く天井高き五六坪の一室、真中より少し窓際に寄せて鐡製の寝室、向うの隅棚には鏡一面、之には白いベットから白い被蒲団、括枕(くゝりまくら)に崩れ落ちた患者の髪、温度表の下に垂がツてる西洋手拭(タオル)などが、青く斜に映って居る。



 令嬢はしばらく寝室の側に起って、眠りながらも時々額を顰むる患者を見詰めたが、頓(やが)て徐(そッ)と身を退(の)いて、
 「大変な事になったわねえ?」と溜息と共に口に出したが、白い帽子の看護婦を見ながら、「これでまた、使用(つかへ)る様な手に成るでせうか?」
 「成りますとも、もう、全然(すっかり)癒って了ひますよ…。まア貴女、お掛けなさいまし。」
 「其様なに折れて了ひました物が、また使へる様に?」
 「癒りますとも、三週間も立てば、もう全治退院ですよ…。」
 「まア、只(たツ)た三週間で…?」と初めて其処の椅子に腰を卸して、「其様なに速く癒るもんでせうか?」
 その声が高かツたのか、患者は目を覚ましたらしく、口の中でむにゃむにゃと唸くのが聞えた。二人は背後を振返った、そして暫く物も云はずに眺めて居ると、掛蒲団が緩く波を打って、
 「あー、」と深く溜息をした。
 「お目覚めですか?」看護婦は顔を覗く。
 患者は又口をもぐもぐ為(さ)せて、
 「凍氷(こほり)を一片(ひとつ)下さいな。」
 「萩原様(はぎはらさん)。」と令嬢も起って来て看護婦の後から覗いた。
 「まア、夏本様(なつもとさん)なの。」と患者は眼を瞠った。
 「大変な事を為たわねえ。」と声も震へて、はらはらと涙が溢れた。
 それを見ると、此方も急に悲しくなツたらしく、潛然(なみだぐ)んだ眼を慌てゝ手巾(ハンケチ)に押へた。看護婦も二人の様子を見て、何でも非常に親しい間柄に違ひ無い、他(ひと)に聞かせぬ談話(はなし)も有らうと思った。で、凍氷の破片(かけ)を口に投れようとすると、患者は濡れた目を閉じて頭(つむり)を振るので、夫を機(しほ)に室の外に出て行った。
 久(しばら)くして、
 「好く来て下すツたわねえ、」と患者は染々云った、「私、何様なに貴女に会ひたかツたらう…、だツて、昨日は最う此の儘死ぬ処かと思ってよ。」
 「馬鹿々々しい、義姉様(ねえさん)のやうでも無いわ、これん許しの怪我で死んで何うするの、」と笑顔を作って、「だけど、今朝新聞を見た時はね、私、實(じつ)に吃驚(びっくり)してよ…。直ぐにも駈けて来ようと思ったけれども、母様(かアさま)は、もツと暖(あツた)かに成ってからでなきや可けないって、何うしても出して呉れ無いんですもの、本当に気が気で無かツたわ。」
 「でも、最う快いの?」
 「快いも不快(わる)いも、唯だ鼻風を感(ひ)いたのよ。」
 彼女は、それが為に四五日以来外出を禁(と)められ、昨日の記念会にも出なかツたのである。
 「貴女は直ぐ風を感くのねえ、」と凝然(ぢツ)と其の服装(なり)を眺めて、「薄着だわ、夫で寒か無いこと?」
 「暖かだわ、」と云ったが、何うしたのか、患者の顔は見て居る間に淋しい色に変わったので、「何うしたの?痛(や)んで来て?」
 「いゝえ、」と微かに答へたが、続いて深く溜息を洩した。
 友達の美しい服装を見て、昨日来た我が一張羅の小袖、自転車などを想起(おもひおこ)したのである。何様なに裂けたか、何様なに毀れたか、最う再び用ゐられぬ物に成って了ったらう、今更それを惜んでも仕様がない、此様な大負傷(おほけが)までしたのだもの、もとの様な身体に成れゝば、最うそれで満足せねばならぬのだ。けれども、今後(これから)の我が身を顧みれば、最早(もう)如彼(あゝ)いふ服装などをする望は無いのである。
 「あゝ!」と又嘆息して、「私の様に不幸(ふしあはせ)な者も無いわねえ。」
 「其様なことは無いわ、怪我ですもの、誰だツて、怪我なら詮方(しかた)が無いわ。」
 「だけれどねえ、芳江様(よしえさん)…。」と云って言澱む。
 「はア?何?何なの?」と聞いても言葉なき患者の目には、又しても涙が浮かんで居るので、
 「可厭(いや)、義姉(ねえ)さんは、其様な哀しい事許し想って…。不治の病気に羅ったぢやあるまいし、退院する時には、もとの通りの体に成って退院するんぢやありませんか。それは、今の内は痛みもするだらうけれど、だツて夫位の事で精神を挫くなんて、余り意気地が無いわ…。」
 すると患者は、行きなり利く方の手を伸べて、友達の繊細(きゃしゃ)な手を強く握った。握られた手の主ははツと思って、その蒼白い顔を微(すこ)し紅くした。
 「堪忍して頂戴よ、私ね、精神を挫きも何うもしないけれど、芳江様を見ると、急に気が緩んでね、理由も無く哀しくなツて来たのよ。矢張し、独立心が弱いからなんだわねえ。」
 「其様(そん)な事は無いけれど。」と、芳江は離された手を徐(そツ)と引いた。
 「漸(やツ)との事で、妹も故郷(くに)へ帰したし、今後(これから)は最う、煩い事も無いんだし、学資も兎に角間に合って行くしするから、六月迄は一勉強してね、余り悪くない成績を取り度いと思って居たんでせう、其処を此様(こん)な酷い難(め)に遭ったもんですから、希望も計算も、もう、めちゃめちゃに成って了った様に感(おも)ってね…」
 「夫は、義姉さんに成れば無理はないけれど、だツて、長く入院(はひ)ってる訳ぢやなし…、試験にだツて十分間に合ふわ。」
 「いゝえ、今は最う何とも思はないの…直ぐ退院が出来ると云ふ事ですもの。だけれどねえ、初めは最う、何うなる事かと思ったのよ、肩から先は、宛然(まるで)鋸でゝも挽かれる様に痛(やむ)し、熱は出るし…」
 「そうでせうねえ、私も、何様なに痛んだらうと思ってね、」と芳江は美しい眉を寄せて、「それで、貴女、如何して此処へ連れて来られたの?」
 「それが、少(ちツ)とも分からないのよ、目を開いて見るとね、何時の間にか此様な処へ臥かされてゐるんでせう…。」
 「ぢや、誰が介抱して此所まで連れて来てくれたんだらう?」
 「分からないの…。先刻ね、楠田先生が見舞いに来て下すツたから、事務の方に聞いて貰ったらね、入院証書には、下宿屋の印が押してあるんですと。」
 「ぢや、島井の主婦(かみさん)が来たのか知ら?」
 「必然(きっと)、警察からでも呼ばれて、詮方なしに保証人に成ったでせうよ。そうでも無きや、彼の主婦が何うして。」
 「幾ら島井の主婦でも、夫位の事は為て呉れるでせうよ…。保証人と云った処が、僅か三週間立てば退院の出来る患者なんですもの…。」と云ひながら、芳江は忘れて居た見舞の西洋菓子を出した。
 「三週間?」患者は解せぬ眼をした。
 「えゝ、私今、此処に居た看護婦の人から聴いてよ。三週間で、全治退院が出来ますツて。」
 「三週間?まア、其様なに長く費るの?」
 「長いことは無いわ、只(たツ)た三週間ですもの、」と芳江は笑い出さうとしたが、相手の顔色(かほ)には分明(ありあり)と心配の影が見えるので、急に真面目な顔になって、「義姉さんは、幾日許し費ると思ってゝ?」
 「三日も立てば、最う体を動かしても可いって云ふからね、私は、五日か…長くも一週間位で退院されるものと思ってよ。」
 「其様な大怪我をして…?」
 「だって、三週間なんて…、」と考への眼を据ゑて、「私は、到底(とて)も其様なに長く在院(はひ)ってる訳には可けませんわ。」
 「何故?何故在院ってられないの?例ひ何様な事情が有った処で、癒くならなきゃ仕方がないでせう。」
 「だツてねえ…。」凝然(ぢツ)と芳江を覗た。
 「何うしたの?何か、在院って居られない事情でも有って?」
 「此うして居ればねえ、日に二円以上も費(かゝ)るのよ。」
 「二円掛っても、全治するまで居なければ…。」
 「…加之(それ)に、先刻故郷(くに)へも手紙を出したんだから…。」と又嘆息した。
 彼女は、今朝の新聞に自分の負傷した記事の出て居る事を聞き、故郷の母に心配を懸けまいと思うて、四五日で退院する由を、見舞いに来た学校の女教師(せんせい)に代筆の郵便を頼んだのだ。一旦彼様な手紙を出して、三週間も掛るから夫だけの送金を頼むと、今更願って遣られもしない、又幾ら願った所で、金銭(かね)に厳格(やかま)しい異母兄(あに)の、夫を承諾する筈はないのだ。
 「あゝ、また頭痛がして…・芳江さん、看護婦を呼んで頂戴な。」と顔を顰める。
 「貴女、其様な余計な心配するからだわ、費用なんぞ幾ら掛っても、母にそう云って、私何うにでも為るわ。」
 「だけれどね、貴女にはね、私より年下なんだから、若し其様な事でもすると…。」
 「また義姉さんは其様な事を…、」と芳江は怨めし相に云ツた、「口で誓ひ合った義姉妹(ぎきゃうだい)だなんて云っても、私なんか頼みにしちゃ下さらないんだもの。」
 「いゝえ、そう云ふ訳ぢゃ無いけれど…。」
 「だツてそうだわ、波ちゃんを帰す時だツて、私の願った事は採用して呉れないでせう…それぢゃ余(あんま)り水臭いと思ふわ。」
 「其様な事は有りませんよ、貴女の心はね、夫は熟(よ)く分かってるけれどね…。」
 「ぢゃ、今度の事は可いでせう、私に任して下さるでせう…病院の費用の方をさ、ね、可いでせう?」
 「併しね、それはね…。あゝ痛い、」と耐(たへ)られぬ様に顔を顰めて、「看護婦を呼んで頂戴な、頭が破(わ)れかへる様よ。…、あゝ痛い…、あゝ!」
 芳江は驚いて看護婦を呼んで来た。氷嚢を載せても痛(いたみ)が去らぬので、医員を連れて来る様な騒(さわぎ)をした。芳江は、我が談話(はなし)から此様な事に成ったのを悔いながら、日没(ひぐれ)までも傍で看病をして居た。


 下宿


 
 駒込は千駄木林町に、或浄土寺院(でら)の地続き、杉垣薄く廻らして、泥濘(ぬかるみ)の路地深く、突当(つきあたり)は北向の潜格子(くぐりがうし)、下宿営業島井もと、と記した看板には、最う皺くちゃに成った明き間ありの紙札、之は但し男子の客は御断り申候、と書添へてある。
 去年の春、女学生の醜聞が世間に喧ましく無かッた頃までは、帝国女子学院の認可下宿として、十に余る室は常に満員の繁盛を続けたものであるが、校則改正の結果その認可も取消されて、急に今日の淋しい有様、親戚とか何とか事情を作為(こしら)へて居る二三名の外は、悉く女子学院ならぬ名も聞えぬ女学校の学生、それから外の職業に転じようとして居る看護婦、産婆、まだ給料に有り付かぬ女教師、始終医師に通ふ子宮病患者、と云った様な輩(てあひ)のみ下宿して居るのだ。
 客が此れと決まってないので、引断(ひっきり)なしに移動(でがはり)がある、従って下宿料も、月末々々にきちんと入った元の様な訳には行かぬ。ならまだ可いが、二月三月と滞った挙句、ふいと姿を隠す質の宜しからぬ者さへある。主婦(かみさん)は大嘆(おほこぼ)しで、此様な詰らない商売は無い、と人を見ると算盤珠を弾いて示(み)せ、
 「そら、ねえ、此れじゃ貴女、浅草公園(おくやま)へ行って、鯉に麩でも遣ってる方が予ほど余程(よっぽど)気が利いてるぢゃありませんか。」と云ふ。
 で、家内(うち)は余程以前から売物に出してあると云ふ話も有るが、買手(かひて)が出ぬのか、値が纏らないのか、愚痴を零しながらも相変わらず営業を続けてはいる。近所や商人(あきんど)の噂では、主婦は種々(いろいろ)な世界を渡って来た苦労人で、確り者だ、甘い酢で食へない人で、損の行く商売を一日も遣って居る筈がない、何しろ客は若い女生徒、此の頃は服装(みなり)を飾った男も出入する様子、其処にはそれ、明けて云はれぬ巧い儲け口もあらうさ、と仔細有りげに云ふ。
 午後四時頃、日没(ひぐれ)には未だ間が有るのに、白い物でも落ちて来さうな空の色、昨日の雨に濡れたまゝの庭は、枯木立(かれこだち)静り返って、室々(へやへや)の窓の中には人声も聞こえない。
 みしりみしりと梯子を降りて、煮物の香(にほひ)のする台所の前を、
 「左様なら、」と其処に働いて居る下女に挨拶して通るのは、風呂敷包の書籍(ほん)を長く背負った男である。
 すると、直ぐ其処の斜向(すぢむか)ひの室から、
 「お廉、何だい?」と荒(さび)た女の声が起った。
 下女のお廉が未だ口を開かぬに、
 「へい、拙者(てまへ)で、」と男は一寸足を止める。
 「おや、貸本屋さんかい。先刻からまだ居たの?」
 「へゝゝ。」と鼻に皺を寄せて笑って、「何ぞ御用で?」
 「一寸待つとお呉れ、今朝中村さんからね…。」と云ひながら、障子を明けて出てきたのは、丸髷の、五十近い主婦(かみさん)である。
 「へえ、中村さんのですか…。」と貸本屋は禿掛った頭を動かしながら歩み寄った。
 「確か五十八銭だツたねえ。お前さん、五円札幣(さつ)でお釣銭を持って無いだらうか?」
 「へえ、お生憎様で…。なアに、またお便次(ついで)に戴きませう。」
 「然う、ぢゃ、次回(こんど)来た時まで借りとかうね…。」と主婦(かみさん)は、出した紙入を肥った帯の下に仕舞って、「だけれど、先刻からお前さん、何処で油を売ってたのさ?」
 「へ、お二階の…。」
 「石本さんの室かい…お前さん又、悪い本なんか持って来たんぢゃ無からうねえ?」
 「へゝゝゝ。」
 「へゝゝぢゃ無いよ、彼様な物を持って来られちゃ、全く困るからさ。」
 「いゝえ、そんな物持っちゃ参りませんよ、小説本許りですよ。」
 「本当かい?私は此処で改めて見るよ。」
 「お改めなさいとも。」と云ひながら出て行く。
 「本当なら可いけれど…。」と主婦は其の背後(うしろ)を眺めて居たが、頓(やが)て、「仕様が無いよ。」
 と独語しながら、今出た室に再(ま)た入らうとして、其処の障子に手を掛けるや否や、吃驚した様に、
 「まア、此の煙(けむ)…。」と顔を顰めて身を反らした。
 紙巻莨(シガレット)の煙の渦巻く底には、押入れと床の境に背を凭せて、色白の若い男が、黒の二重鳶(とんび)を被(き)たまゝ胡坐(あぐら)を組(か)いて居る。
 「毒ですよ、些と明け置(と)きませう、」と主婦は内に入って、「寒いんですか?」
 「いゝや、寒か無いが、可いのかね?」と何処(どツ)か笑ってる様な調子。
 「何がです?此処を明けてもですか?」と主婦は小火鉢を間(なか)に男の対(むか)うに坐り、
 「大丈夫ですよ、誰も覗いて見る者は有りませんよ。まア御覧なさい、此の煙ですもの…、ふう、ふう、おゝ大変だ」
 「如何だ、最う一戦(ひといくさ)来る気が有るかね?」
 「遣りますとも、撒いて下さいな。」
 「負けた人から撒くさ。」
 「でも、貴方は上手いから。」
 若い男は、火鉢の傍(わき)に散らばツてる花骨牌(はなふだ)を拾上げて、細い指を器用にはたはたと切始めた。二十四五の年配、少し顔は小さいが、色白で、髭を剃った跡が蒼々として、頭髪(あたま)はコスメチツクで綺麗に分けて居る。二重鳶(とんび)の下から見える其の服装(なり)は、大島らしい十の字絣に、黒八の襟の揃うた下着を二枚も重ね、白っぽい八丈格子の絲織の書生羽織を着て居る。
 主婦(かみさん)は木綿盡(づく)め、寒くさへ無ければ何でも構はぬ、と云った様に、肩を丸く着こんで居る。何方(どちら)かと云へば大女の方で、手の頸も肥って、色は黄色い。目の縁は小皺に刻まれ、鬢の辺りには大分白い毛が見えるのだ。
 「…今の話は、彼(あれ)は皆(みん)な貸本の見料かね?」と男は、骨牌(ふだ)を撒きながら訊いた、「五十八銭とか云ったが、何様な書籍(ほん)で、其様な高い見料を取るんだらう?」
 「いゝえ、彼(あれ)は貴方、二た月分も溜ったからですよ。一種(ひとつ)の御本で其様な、五十何銭なんて、其様な馬鹿々々敷い見料があるもんですかね。」
 「でも、今の様子ぢゃ、随分怪(をか)しい物を持って来るやうぢゃ無いか。」
 「怪しい物ですか、はゝゝゝ。」と主婦は高く笑ったが、「流石は殿井様(とのゐさん)だよ、お耳の早いこと…、はゝゝゝゝゝ。」
 「だが、僕は初めて聞いたが、女学生が其様な物を借りて見るのかねえ?」
 「いゝえ、手前共では貴方、此うやって私が眼張(がんば)ってますもの、其様な物なんぞ入れさせるもんですか。」
 「一々検査する訳にも行かないぢゃないか…。併し驚いた。全く意外だ、貸本屋も抜目は無いねえ、可い所へ目を着けたもんだ、是は必然(きツ)と的(あた)るよ。」
 「先アづ、商売を始めるなら貸本屋ですかね、はゝゝゝゝ。」と主婦は花骨牌を叩きながら、
 「貸本屋に依っちゃ、随分質の悪いのがございますからねえ。彼(あ)の為めに堕落(しくじ)る女学生さん許(ばか)しも、中々少数(すくな)い事ぢゃ無いでせうよ。夫で無いでも、私が此うして見てますに、最う小説本を借りる様になツちゃ駄目ですねえ。」
 「そんなら、家(うち)へ入れなきゃ宜さゝうなもんだ。」
 「そうは行きませんよ、元と違ってそう厳(やか)ましく云ふ権利はありませんもの、夫に、手前の方では幾ら厳ましくしても、今ぢゃお客が曳張(ひっぱ)って来ますもの。」
 「そうか。ぢゃ仕様が無いね。…ぢゃ、今の其の女も、其の貸本の方の組だね?」
 「其の女…其の女って誰です?」
 「今談(はな)した娘さ。」
 「萩原様ですか、萩原様は貴方、別物ですよ、何うして、貸本どころか、学校の勉強の他には、余所見一つなさらないツて方ですもの。」
 男は義歯(いれば)を光らして笑ひ、
 「大層褒めたもんだね。」
 「だツて、実際のお話ですもの。」と主婦は力を入れて云った、「また、如彼(あれ)で無きや、彼様な成績(でき)の優(い)い筈はありませんからねえ。」
 「お主婦(かみ)さんがそう云ふ位ぢゃ、余程変わってると見えるね。」
 「変わってるツて貴方、如彼が本当の学生さんなんですよ、他(はた)が変わってるんでさアね、勉強家で品行が良くツて…。」
 「それから美人で…。」
 「そうですとも、」主婦は真面目に頷頭(うなづ)き、「別嬪さんでは有るし、お家は財産家だし…。」
 「加之(おまけ)に、片方の手がぶらんさんだしか、はゝゝゝゝ。」と笑ひ出した。
 「また其様なお口の悪い事を、手は貴方、最う直ぐ癒っ了(ちま)ふぢゃありませんかね。」
 「夫は冗談だが、卒業をして、それから何(どう)仕(し)ようと云ふんだ?財産家なら学問が無いでも、幾らも貰ひ手が有りさうなもんぢゃ無いか…?必然(きっと)何だね、許嫁でも在って、其奴が教育が無ければ不可(いけな)いとか何とか…、其様なところだね?」
 「だツて、当今は最う、何様な処の阿嬢(おぢゃう)さんでも、皆な御修行なさるんぢゃありませんかね。」
 「けれども、皆な夫々の事情が有るさ、独立して生計(くらし)を立てなきゃ成らんとか、或は、許嫁の望だとか…、何か其処に仔細が有るさ。」
 「夫はまあ然うでせうけれど。」
 「でなきゃ、女が学問して何に成るんだ…?愚問か、や、一口に学問て云ふけれど、一学科を修めるのは容易な事ぢゃ無いんだからねえ、男皃(をとこ)の学生だツて、首尾好く成功する者は一割、…漸(や)っと二割有るか無しだらうよ。」
 「そうでせうよねえ。」
 「夫も可いが、首尾好く卒業してからがさ、先づ、喰って行くだけ取れゝば上出来、でなければ、借金を拵へる許(ばか)しだ。まア、何方かと云へば借金を拵へる方が多いね、況して女だ…、女て云ふ物は、是で男よりは金が費(かゝ)る物だからね…。」
 「いゝえ、女だって女にも依りけりですけれど、金の費る事は男の方ですねえ。」
 「女には衣服(きもの)と云ふ物が有るさ。」
 「男の方にだツて有るぢゃありませんか…。まア、衣服だツて、女の使ふ御金は、使った丈の品がちゃんと其処に残って居ますけれど、殿方の遣ふお金は然うは来(まい)りません、芸者だとか、交際だとか…、その外にも、貴方の様にそう云ふ…」と迄云ったが、「ほゝゝゝ、はゝゝゝゝゝ」
 男も笑って、
 「ぢゃ、男の方が余計に金が掛るとしても可いさ、兎に角、女の腕で取る金なら知れたもんだよ、此の物価高騰の世の中で、二十や三十の給料が何になるんだ、少し好き嫌ひを云ったら、一ト月の家賃にだツて足りアしない。」
 「いゝえ、女子学院の本科を卒業したとなると、未だ未だ猶(もツ)と取れます。去年卒業なすツた方で…矢張(やっぱ)し拙前共(てまえども)に在らしった方ですけれど、廣島の学校へ五十円で抱へられて行きましたもの。萩原様は如何云ふ思召か知れませんけど、月給取りにお成りに成ったら、五十円の物は七十円も…八十円もお取りなさるでせうよ、だツて学校の人たちの評判て云ふものは、夫は大した物ですもの…。」と、主婦は、我と我が談話に感心して首をひねり、「全く人望が有りますねえ、陰でだツて、悪口(わるくち)一つ云ふ人は有りませんよ。」
 「そうかねえ、余程優(でき)ると見えるね。」
 「何しろ、女子学院の花と立てられる方ですもの、あの学問ばかりは…。さ、今度は貴方の番ですよ、」と主婦(かみさん)は、我が手の骨牌(ふだ)に目を移したが、また、「さ、殿井様、如何なすツたんですよ、早くお遣んなさいましよ。」
 「ま、此様な事は止さう、」と殿井は骨牌を其処に投(はふ)って、「もっと、その萩原の話を聴こうぢゃ無いか。」
 主婦は呆れた顔をして、そう云ふ殿井を眺めていたが、頓て、
 「おゝゝゝ、はゝゝゝ。」と笑出した。
 「何だい、他(ひと)の顔を見て突然(だしぬけ)に笑ふなんて…、失敬な。」その癖、自分も可笑(をかし)いのを耐へて居る様な風である。
 「ほゝゝゝ、また貴方、そろそろ持病の蟲が起りましたね、はゝゝゝゝ。」
 「だツて、余りお主婦(かみさん)の話が巧いもの、つい、捲き込まれて了うぢゃ無いか。」
 「けれども不可(いけ)ません、萩原様ばかしは不可ません。」と主婦は手を振った。
 「不可ないツて?何が不可ないんだ?可笑しいぢゃ無いか、談(はなし)を為ちゃ可けないのかい?」
 「いゝえ、お話は幾らでも致しますけれど、あの方許(ばか)しは不可ません、お堅いんですもの、不可ません…。」
 「だから、何が可けないと聞いているぢゃ無いか、可笑(をか)しなお主婦だ、自分独りで合点しているんだ、はゝゝゝ。」と無理笑のやうに笑って、「まア冗談で無く、その萩原の話をもっと聴かせないか…、郷里は千葉県の佐原とか云ったね?」
 「萩原様ですか…。」と主婦(かみさん)は初めて手にした骨牌を捨てゝ、「大変な御執心ぢゃありませんか…。ですけれども不可ませんよ、幾ら御執心でもこれ許しは駄目ですよ…」
 「また始まツた、」と殿井は焦燥(じれツ)た相に、「執心だらうとなからうと、唯だ談を聴く許しぢゃないか、厭ならお由、もう聴かない。」
 「お話だけなら訳はありませんがね…。」
 「ぢゃ、勿体振らないで、疾(はや)く話してお聞かせよ。その代り、今夜はお主婦の好きな物を散財(おご)って上げやう…。」と殿井は二重鳶(とんび)を脱いで胡坐を掻き直した。
 「そうですか、そう云ふ事なら私も…。」と主婦も膝を進めたが、男の注ぐ急須の空(から)なのを見て、「おや、注しませう。お廉、一寸お廉…。何処へ云ってるだらうねえ。お廉や。」
 「はいはい。」と云ふ返事は、遙か玄関の方から駈けて来て、障子の外から、「お主婦(かみさん)、お呼びでしたか?」
 「何処へ行ってるんだよ、」と障子の間から湯沸を出して、「一寸(ちょい)と、此れを注してお来(い)でな。」
 それと一緒に赤く肥った下婢(げじょ)の手がぬツと内へ入って、
 「只今、この郵便が。」と青い封筒の書状と葉書を投込んだ。
 主婦はそれを手に取上げたが、
 「此の葉書は、これは石本様へ来たのだよ。」と再びお廉に渡して、我が名を認めた書状(てがみ)を、近視眼(ちかめ)の覚束ない眼で見詰める。
 「骨牌(はな)を曳く時は平気で、文字を見る時は近眼に化(な)るんだね、不都合な眼もあったもんだ、はゝゝゝゝ。」
 「また其様な…。」と云ったが、其の書状を殿井の方へ向けて、「これ、此れですよ、萩原吉兵衛、ね、千葉県佐原町、ね?」
 「此れが何なんだ?」
 「萩原様のお兄様、此の方が戸主なんですよ。阿父様は、何でも二三年跡に亡くなツたとか云ふお話ですがね…。」と云ひながら、主婦は開封をした。
 殿井は紙巻草(たばこ)を喫(の)みながら、眺むるとも無く主婦を眺めて居たが、
 「如何したね?」と夫を読んでいる主婦の顔色が変わったので、斯う聞く。
 「まア、何う云ふ訳だらう?」と主婦は独語して首を捻ったが、再(ま)た前から読み始めた。
 「如何したんだ、其様な顔色(かほ)をして?」
 「まア呆れた!」と主婦は書状(てがみ)を其処へ置いて、嘆息するやうに云ふ。
 「何故、何様な事を云って来たんだ?」
 「実に乱暴ですねえ、是ぢゃ義理も人情も知らないと云ふもんですねえ…」
 「どれ、見ても可いかね?」
 「まア御覧なすって下さい。私がね、此の間貴方、萩原様の入院した事に就いてね…。」と主婦は息巻いて語り出した。
 その云ふ所を摘まむと、萩原初野が自転車から落ちて入院した其の日の様子から、自分が保証人に成った事、医師の話では、三週間で全治退院さるゝ事、少しも其の痕が遺らぬと云ふ事、上衣は落ちた機(はずみ)に擦切れたが、他の物は何とも無い事、自分も時々見舞いに行く事、及ばずながら出来る限りの力は尽す心算(つもり)なれば、決して御心配には及ばぬ事まで、細々認めた書状を初野が兄なる此の吉兵衛に送ったのである。
 殿井恭一は、主婦の話を聞きながら此の書状を読むと、此様な意味が書いてある。初野の事に就いて種々御深切を下すツて有難い、其の儀は厚く御礼を申上ぐるけれども、金銭の事に関しては余り立入ってお世話下さらぬ様に願ふ。それも「貴下に於て責任を負ひ下さるゝ御所存ならば格別に候へども」私から償却せしむる心算ならば、それは断然止めて貰ひ度い、全体初野を修行に出したのは、一家族悉く反対であるが、当人が強(たツ)ての願から止を得ず許したのである、従って学資も定額外には一銭も送らぬ約束、私の方でも其の外の準備が無ければ、送ることが出来ぬ次第である、然るに此の度のお手紙に拠れば、平生自転車など乗廻し、又た他の病室が塞がツて居るとは云へ、勝手に上等室に入院するなど、その贅沢には驚き入る、併し当人には其費用を支払する的(あて)が有って為たのであらうから、其処まで私の方から、苦情は申さぬ、只だ私の方では此の度の費用には一切関係がないのだから、左様に承知して貰ひ度い、と云ふのである。
 「酷く残酷な物(もん)だねえ。」と殿井は読終って主婦に面を向けた。
 「下宿屋と客とは云ひ候、申さば私は他人ぢゃ有りませんか、他人の私に此程心配を掛けて置いて、現在兄たり戸主たる者が、此様な不人情な事が云へるもんでせうか。」
 「全く乱暴だねえ、これでも、同胞(きゃうだい)なのかねえ?」
 「同胞ですとも。勿論阿母さんは違ふ相ですが、それでも貴方、兄妹は兄妹ぢゃありませんかね。」
 「母が違ふと云ふと?初野さんは後妻の子かなんかだね?」
 「そうです、萩原様の阿母さんて云ふ人は、もとはお妾だツたて相ですけれど…。」
 「成程、夫で此様なに情愛が無いんあだね。併し、夫にしても乱暴だ。金は持ってるんだらう?」
 「持ってるのなんのツて、佐原でも屈指(ゆびをり)の財産家でさアね。」と云ったが、主婦は急に考へる顔色をして、「だけれど、本当にお金を送らなかったら、如何したら可いでせう?」
 「入院料かい?夫は、初野さんに手配の的(あて)が有るだらう。」
 「如何ですか?否(いゝ)え、お故郷(くに)の外に的なんぞ有りますまいよ。何しろ、一日二円以上、彼此三円も掛りますからねえ、三円が三週間…そら、六十円から以上(さき)ぢゃ有りませんか、如何して貴方、六十円なんて…。」と云ふ中に主婦は眼を瞠って、「さア大変だ!其様なお金なんぞ負担(せお)はされた日にはまア!」
 「其様な事が有るもんか、親類も有るだらうし、友人も有るだらうし…。六十円許(ばか)し、金策(こしらへ)ようと思や何うでも出来るよ。着物とか、書籍(ほん)とか、何か有る物を売っても出来ようぢゃ無いか。」
 「ですけれどもね、」と考へて居たが、主婦は思出した様に座を起って、「貴方、済みませんが一寸(ちょい)と何卒(どうか)。」
 「何を…?如何するんだ?」
 「一寸何卒…。些し、見て戴き度い物が有りますから。」と主婦は前に起って、此室(こゝ)から一間隔てた六畳の一室に入った。