夏休みを利用して、中国を訪問していた千葉市幸町少年野球友好訪中団(相川久雄団長、団員四十四人)が、でっかいおみやげと親善の成果を抱えて帰ってきた。少年中心の団体としては、初の本格的な中国訪問とあって、中国側も細かい点にまで神経を配る歓迎ぶりだったが、ちびっこナインはそれにも劣らぬ多彩なアイデア、見事な〝棒球親善を果たした。中国の子供や大人の人たちと、交わした友情の〝キャッチボール一の軌跡をルポしてみた。
中国の人たちは、礼儀や体面、形式を重んじる国民と言われる。それは新中国になっても変わらない。贈り物ひとつを取っても、理由のない贈り物は丁重に断られてしまう。だが、心の通う贈り物なら別だ。野球のユニホーム姿で、インディアンズのナインが町に出ると、物見高い中国の人たちが黒山の人だかりを作る。そこへ
ナインが「ニーハオ」 (こんにちは)「ウォ・シ・リベシャオニエン・パンチュウトイ」(私は日本の少年野球チームです。)と、日本で覚えていったカタコトの中国語で話しかながら、中国のちびっ子や大人の胸に「インディアンズワッペン」を付けて回ると、もう大変。中には、恥ずかしくて後ずさりする子供もいたが、いったん付けてもらうと「日本の小さ友達に付けてもらったlと、母親や父親に見せて大喜び。何事かと集まってきた人たちも、たちまち親善訪問の趣旨を理解してくれた。万里の長城の帰り道には、ワッペンをあげた子供が後ろから追いかけてきてアンズの実を五個、ナインの一人に手渡し、走って行った。傷だらけのすっぱいアンズだったが、これ以上のお返しはない。そのこだわりのない気安さ。ちぴっ子ならではの〝外交官ぶり。直径五センチ、白地のプラスチックに緑色のインディアンズのマークを印刷したこのワッペン、子供たちの事にかかる値千金の贈り物に変わってしまった。
万里の長城に向かう列車の中では(ナインの席に女性車掌や別の団体の中国人通訳、中国人旅行客、そしてアメリカからの旅行客まで、入れ替わり立ち替わり現れた。
子供たちが手帳を出してサインをせがむと、質素な制服だが、明るい笑顔が象徴的な女性車掌が「子々孫々まで友好を続けましょう」と書き入れた。胸にはもちろん、インディアンのワッペンが。 ホテルの食堂でも、給仕の人たちと、すぐ友だちに。通訳の人たちに「チーハオラ、シェシェ」 (ごちそうさま、ありがう)という中国語を教えてもい、食事の終わるたびに、あいさつし、給仕の人たちを喜ばせた。 こうして、ナインは「ハオチ」 (おいしい)、「ケイウォーシュイ」(お茶を下さい)「チアヨウ、チアヨウ」(がばれ、がんばれ)、場面に応じて、どんどん中国讃を吸収した。その数が増えるにしたがって、親善の輪が広がっていった。
(高井潔司前特派員)
中国の人たちは、礼儀や体面、形式を重んじる国民と言われる。それは新中国になっても変わらない。贈り物ひとつを取っても、理由のない贈り物は丁重に断られてしまう。だが、心の通う贈り物なら別だ。野球のユニホーム姿で、インディアンズのナインが町に出ると、物見高い中国の人たちが黒山の人だかりを作る。そこへ
ナインが「ニーハオ」 (こんにちは)「ウォ・シ・リベシャオニエン・パンチュウトイ」(私は日本の少年野球チームです。)と、日本で覚えていったカタコトの中国語で話しかながら、中国のちびっ子や大人の胸に「インディアンズワッペン」を付けて回ると、もう大変。中には、恥ずかしくて後ずさりする子供もいたが、いったん付けてもらうと「日本の小さ友達に付けてもらったlと、母親や父親に見せて大喜び。何事かと集まってきた人たちも、たちまち親善訪問の趣旨を理解してくれた。万里の長城の帰り道には、ワッペンをあげた子供が後ろから追いかけてきてアンズの実を五個、ナインの一人に手渡し、走って行った。傷だらけのすっぱいアンズだったが、これ以上のお返しはない。そのこだわりのない気安さ。ちぴっ子ならではの〝外交官ぶり。直径五センチ、白地のプラスチックに緑色のインディアンズのマークを印刷したこのワッペン、子供たちの事にかかる値千金の贈り物に変わってしまった。
万里の長城に向かう列車の中では(ナインの席に女性車掌や別の団体の中国人通訳、中国人旅行客、そしてアメリカからの旅行客まで、入れ替わり立ち替わり現れた。
子供たちが手帳を出してサインをせがむと、質素な制服だが、明るい笑顔が象徴的な女性車掌が「子々孫々まで友好を続けましょう」と書き入れた。胸にはもちろん、インディアンのワッペンが。 ホテルの食堂でも、給仕の人たちと、すぐ友だちに。通訳の人たちに「チーハオラ、シェシェ」 (ごちそうさま、ありがう)という中国語を教えてもい、食事の終わるたびに、あいさつし、給仕の人たちを喜ばせた。 こうして、ナインは「ハオチ」 (おいしい)、「ケイウォーシュイ」(お茶を下さい)「チアヨウ、チアヨウ」(がばれ、がんばれ)、場面に応じて、どんどん中国讃を吸収した。その数が増えるにしたがって、親善の輪が広がっていった。
(高井潔司前特派員)