千葉に於ける野球のある話

海浜埋立地に生まれた少年野球チームを中心にコミュニティづくりが進み、世界で初めて少年野球を中国に紹介。

ワッペン外交ー心こもる贈り物 その1 (1979)

2006-12-21 11:10:58 | 棒球親善ーちびっ子訪中記
夏休みを利用して、中国を訪問していた千葉市幸町少年野球友好訪中団(相川久雄団長、団員四十四人)が、でっかいおみやげと親善の成果を抱えて帰ってきた。少年中心の団体としては、初の本格的な中国訪問とあって、中国側も細かい点にまで神経を配る歓迎ぶりだったが、ちびっこナインはそれにも劣らぬ多彩なアイデア、見事な〝棒球親善を果たした。中国の子供や大人の人たちと、交わした友情の〝キャッチボール一の軌跡をルポしてみた。


 中国の人たちは、礼儀や体面、形式を重んじる国民と言われる。それは新中国になっても変わらない。贈り物ひとつを取っても、理由のない贈り物は丁重に断られてしまう。だが、心の通う贈り物なら別だ。野球のユニホーム姿で、インディアンズのナインが町に出ると、物見高い中国の人たちが黒山の人だかりを作る。そこへ
ナインが「ニーハオ」 (こんにちは)「ウォ・シ・リベシャオニエン・パンチュウトイ」(私は日本の少年野球チームです。)と、日本で覚えていったカタコトの中国語で話しかながら、中国のちびっ子や大人の胸に「インディアンズワッペン」を付けて回ると、もう大変。中には、恥ずかしくて後ずさりする子供もいたが、いったん付けてもらうと「日本の小さ友達に付けてもらったlと、母親や父親に見せて大喜び。何事かと集まってきた人たちも、たちまち親善訪問の趣旨を理解してくれた。万里の長城の帰り道には、ワッペンをあげた子供が後ろから追いかけてきてアンズの実を五個、ナインの一人に手渡し、走って行った。傷だらけのすっぱいアンズだったが、これ以上のお返しはない。そのこだわりのない気安さ。ちぴっ子ならではの〝外交官ぶり。直径五センチ、白地のプラスチックに緑色のインディアンズのマークを印刷したこのワッペン、子供たちの事にかかる値千金の贈り物に変わってしまった。



万里の長城に向かう列車の中では(ナインの席に女性車掌や別の団体の中国人通訳、中国人旅行客、そしてアメリカからの旅行客まで、入れ替わり立ち替わり現れた。


子供たちが手帳を出してサインをせがむと、質素な制服だが、明るい笑顔が象徴的な女性車掌が「子々孫々まで友好を続けましょう」と書き入れた。胸にはもちろん、インディアンのワッペンが。 ホテルの食堂でも、給仕の人たちと、すぐ友だちに。通訳の人たちに「チーハオラ、シェシェ」 (ごちそうさま、ありがう)という中国語を教えてもい、食事の終わるたびに、あいさつし、給仕の人たちを喜ばせた。 こうして、ナインは「ハオチ」 (おいしい)、「ケイウォーシュイ」(お茶を下さい)「チアヨウ、チアヨウ」(がばれ、がんばれ)、場面に応じて、どんどん中国讃を吸収した。その数が増えるにしたがって、親善の輪が広がっていった。
   (高井潔司前特派員)



熱烈歓迎ー人気曲に大拍手  その2 (1979)

2006-12-21 11:06:00 | 棒球親善ーちびっ子訪中記
北京も上海も、日本に比べてかなり蒸し暑い。ほとんどが初めての海外旅行で少々興奮気味だったナインは、よく鼻血を出した。 しかし、上海市の試合会場となった墟西(フシー)体育場は、ほどよく刈り込まれた芝生が美しく、さわやかな涼風を送り込んでくれた。ふだんはサッカー場だが、三年前、現巨人軍の江川投手を中心とする法政大学チームが上海を訪れた際、試合をやったりっばなグラウンドだ。江川投手も投げたマウンドと聞いてナインは大喜び。それだけ、中国側の歓迎ぶりが肌に伝わってきた。「あすは、500人ぐらい観客が集まるでしょう」試合の前夜、打ち合わせに来た体育総会の上海市幹部はそう予告していった。



翌日、ナインが体育場を訪れると、五百人どころか、千人前後の観客でスタンドは鈴なり。しかも、メーンスタンドには赤地に白抜きで「熱烈歓迎日本手葉用幸町少年棒球隊」の横断幕までかかっていた。北京での第一戦は15対2の大膀で「もっと強いチームとやりたいよ」と不満顔だったナインも、この熱烈歓迎にすっかりきげんをとり戻した。


試合の方はインディアンズの紅白両チームにそれぞれ四人ずつの中国の子供を入れた紅白戦。ルールの説明や、一球一球のストライクポールまで場内放送され、ナインもおもしろい野球を見せようと張り切った。


 
四回読、中国選手の初打球を迎えた賀陽邦彦投手(市立幸町第3学校六年)は緊張気味。打たせてやろうと、ややスピードを抜いた球は、打者の腰へゴツン。上海市で初の中国の子供の歴史的な第一球は「デッドボール」とな,った。しかし、これもご愛きょう、中国選手が登場するたびに、スタンドは大いにわき返った。



そして、試合後、スタンドとナインの交歓は最高潮を迎える。ナインは、スタンド前に整列、主将の鈴木敏則岩(市立幸町第一中一年)が、感謝の言葉を述べたあと、日本で覚えて行った「我愛北京天安門」という歌を元気よく歌った。



この歌は文革中に生まれた歌だが、中国の子供たちの問で今でも人気のある曲。思いがけい日本の少年たちの合唱に、スタンドの方も一つになって手拍子をたたき、歌が繕わってナインがグラウンドを去るまで、拍手がスタンドに鳴り響いた。
 
しかし、いつも拍手が送られるとは限らない。同じ歌を、北京の天安門の前で歌った持、沢山のの人だかりはできたが、全く反応はなかった。連日の歓迎で気をよくしていた子供たちもこれには「僕たちは見せ物じゃない。手ぐらいたたいてくれ
たって」とだだをこねた。「天安門前広場は、地方からのおのぽりが多くて、皆さんの歌にどぎもを抜かれたんですよ」と、中国の通訳の人は慰めてくれた。いつも、いつも〝熱烈歓迎″というわけにはいかないらしい。
   (高井潔司前特派員)