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牧之瀬雅明/一陽来復・前向きな言葉を集めました。

未曾有の災禍で心身ともに疲弊しがち。前向きな言葉で人は生かされます。
少しでも暗い気持ちを明るくできれば本望です。

東日本大震災から10年。「花が咲く」「山笑う」

2023-03-13 13:53:29 | ポジティブ

春 山笑う季節。3月11日なれど「啓蟄」七十二候では「笑う」時。

 

24節気、72候を楽しむ。

 

3月、啓蟄に入りました。啓蟄とは陽気に誘われて土の中の虫が動き出す頃のこと。

一雨ごとに春が近づく、そんな季節の間を感じながら。

「石走る 垂水の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも」志貴皇子

 

訳「雪解けの水が岩からほとばしる滝のほとりに、ワラビが芽を出す季節が来ましたね」

 

万葉集巻八を開くと、春雑歌から歌が始まります。

古の人の自然への思いにふれるたび、感受性豊かな祖先に畏敬の念を覚えます。

 

3月初候は「啓蟄戸を啓く」です。この時季に祭事や農事を始めることを「コトハジメ」といいます。

お事汁という食べ物をいただくのが習わしで、豚汁の豚肉抜きの味噌汁といったところでしょうか?

 

初候をすぎると、「桃始めて笑う」です。桃の花が咲き始める頃、この花が咲くことを昔は「笑う」と表現したのですね。

 

四季の山の表現も

「春山淡冶にして笑ふが如く、夏山蒼翠とし滴るるが如く、秋山明浄にして粧ふが如く、冬山惨淡として眠るが如し 」(中国北宋の画家郭煕 『郭煕画譜』)とあり、

 

「山笑う」は春の季語にも成っています。

 

3月11日、東日本大震災から10年。そろそろ、一区切りを迎えたのでしょうか。

震災の翌年に発表されたチャリティーソングが「花は咲く」です

「真っ白な 雪道に 春風香る
わたしは なつかしい
あの街を 思い出す

叶えたい 夢もあった
変わりたい 自分もいた
今はただ なつかしい
あの人を 思い出す

誰かの歌が聞こえる
誰かを励ましてる
誰かの笑顔が見える
悲しみの向こう側に

花は 花は 花は咲く
いつか生まれる君に
花は 花は 花は咲く
わたしは何を残しただろう

夜空の 向こうの 朝の気配に
わたしは なつかしい
あの日々を 思い出す

傷ついて 傷つけて
報われず 泣いたりして
今はただ 愛おしい
あの人を 思い出す

誰かの想いが見える
誰かと結ばれてる
誰かの未来が見える
悲しみの向こう側に

花は 花は 花は咲く
いつか生まれる君に
花は 花は 花は咲く
わたしは何を残しただろう

花は 花は 花は咲く
いつか生まれる君に
花は 花は 花は咲く
わたしは何を残しただろう

花は 花は 花は咲く
いつか生まれる君に
花は 花は 花は咲く
いつか恋する君のために」

 

「咲く」とは、昔の言葉で「笑う」です。

 

震災の日に思いを寄せて、花が笑うように、私たちも笑って過ごせますように。

 

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前向きになれる言葉/ 一陽来復・陰から陽へ転じます

2023-03-13 13:40:59 | ポジティブ

行く雲、流れる水。自由自在の心

 

 「行雲流水」という言葉を紹介します。

広々した空に浮かぶ雲の悠々とした姿の前には人間の喜怒哀楽の感情など、とるに足りないほどの小さなものに思えます。鬱積とした気持ちを持っていても、それはこだわる心に過ぎないと反省させられ、強く生きる新たな力が湧いてきます。文学にはしばしば、悠然たる雲の姿に勇気づけられて人生の転機を乗り切る姿が描かれているのも当然でしょう。

「帰りなんいざ」が冒頭に来る有名な漢詩、陶淵明の「帰去来の辞」に

「雲無心以出岫       雲は無心に以て岫(みね)を出で
 鳥倦飛而知還       鳥は飛ぶに倦みて還へるを知る」

があります。

「雲無心」の章とも呼ばれるこの節は、帰去来辞の核心を成す部分で、

「雲には天下を覆い尽くそうとする野心も、雨を降らせようとする邪心もない。自らの性に従って、山より出てゆったり空に浮かぶ。

今の私の生活のあまりに虚偽の多いことよ。鳥でさえ、飛ぶのをやめてねぐらに帰るのだから、私も本来の自分に立ち戻り、自由な天地で暮らしてみよう」の意味です。

「岫」という言葉は、山の風穴の意味で、古代は深山には洞穴があり、そこから雲が湧き上がると信じられていたのです。

 

青い空をふんわり浮かぶ雲が、のどかに流れていく様。その無心の雲は、私たちに、小さな感情に囚われずに、己が信じた道を貫き、自在に生き抜けと訓えてくれるのです。

例え、今が苦悶に満ちて苦境にいても、必ず新たな新天地が開けて幸せな人生が訪れるのに違いないと。

 

仏教では、雲の自在の姿を人生の理想的な在り方としています。行脚僧のことを「雲水」と言いますが、これは一か所に停滞せずに自由に諸国を修行して歩く姿を、行く雲、流れる水に擬えているのです。

修行の目的も、「悟りとは、とらわれることのない自由自在の心」を目指しています。

つまり、行雲流水の自在の心は、小事に拘泥せず、自分を貫く努力です。

いつまでも昨日までの不遇を嘆き悲しみ、拘泥して、努力を放棄することは自分の人生の冒涜となります。

キツイ言い方ですが、人生は一度きりなのです。

悔いなく、充実して生きるには日々を新たに、こだわりなき心にて今日という一日を最善を尽くして生きたいものです。

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禅語「巌松無心風来吟」と『回向返照』(えこうへんしょう)

2021-10-19 14:45:38 | ポジティブ

禅語「巌松無心風来吟」

 

なんの意識も、狙いも、欲望もない、無心こそ、自然の姿。

無策無心こそ、美しい人の姿形である、という意味の禅語です。

 

そのまま読めば「巌松無心風来たって吟ず」です。

 

巌谷の松に風が吹き来て、松籟の音が、時には激しく、時には優しく梢々と響く様を表現しています。

風が吹けば梢を鳴らします。

 

 良い音を鳴らしてやろうと風が吹くわけでもなく

 

 良い音を鳴らそうと松が思う訳でもありません。

 

 自然法爾で思惑のない

 

 無策無心だからこそ美しい。

 

松は歌う意志があるわけではなく、風も歌わせようと吹いているわけではありません。

その場の機縁に応じているだけ。ただ自然に鳴っているのです。

 

松には、歌おうとか人に褒められようとかという、意識も作為もなく、風が吹いてくれば自ずから、ただ鳴るだけ。

これをそのまま人に置き換えれば、自然の働き、無作無心こそが美しい人間性を現すという意味になるのでしょう。

 

しかし、自然のまま、ありのままで生きるのは難しいことです。

誰もが他人の目で評価される自分を測り、一喜一憂する世界で生きているのだから。

自然こそ、本来のあるべき姿、有り様なのは知っているのですが、そこが思うようにならないから、今日もこうして生きているのです。

 

「神様は越えられない壁を与えない」

 

日曜劇場ドラマ「JIN―仁」の中で、「神は乗り越えられる試練しか与えない」という言葉が何度も出てきました。

 

多くの人は、この言葉を「あきらめなければ必ず目的を達成できる」という意味で解釈したことでしょうが、実は神様は「辛いこと悲しいこと」という意味では、人に「越えられない試練」を与えます。

 

人間は限界のある存在ですから、何もかもを自力で乗り越えられるはずがありません。

 

たとえば重い病気の人を「神様は乗り越えられない試練を与えないから必ず治るよ」と励ますのは、はたして優しいことなのでしょうか。

病気が治るか治らないかは神様の領域のことで、人には分からないからです。

もし、この励まされ方をした人の病気が治らなかったら、その人は「やっぱり神様はいない」とか「神様は嘘つきだ」とか思って、絶望してしまわないでしょうか。

 

 「自分が悪いか、神様が自分を見捨ててしまったからだ」と自暴自棄になってしまいます。そう考えると、この励まし方は必ずしも優しくないということになります。

 

 すべての苦しみや悲しみを自分の力で越えられるなら、人間は神様を必要としません。

 

『回向返照』(えこうへんしょう)という禅語があります。

 

 人はその人生の中で

幾度となく壁にぶつかる事になります。

 

多くの人は壁にぶつかった時

どうするべきか?という答えを自分の外に求めます。

 

例えば、それは、賢人に助言を求めたり、占い師に相談してみたり。

しかし、人の助言は的確でないものも多くあります。

 

『回向返照』(えこうへんしょう)は外に答えを求めるのではなく、自分の内面を見つめなさいと教えています。

 

自分はどうしたいのか?

自分の内なる声に耳を傾ける

 

自分は自分をどう評価するのか?

他人から見た自分をよく見せることだけに執着していないか?

 

本来は、自分の人生なのだから、周りの目を気にしすぎることなく

 

もっと自由にワガママに生きてもいいのです。

 

誰のものでも無い、自分の人生なのですから

 

自分はどうしたいのか?

 

その声に素直に生きれば、人生はもっと素敵なものになります。

 

もちろん、回向返照の逆も、また有りです!

 

乗り越えられない壁にぶち当たったなら、ひとりで抱えずに、誰彼ともなく相談したり、話してみれば良いのです。

背負う荷物を軽くすることも時には必要です。

 

自分の内なる声が、きっと誰かに話して荷を軽くせよ!と仰ったのですから。


50代こそ、なりたかった自分になれるチャンス

2021-04-15 10:57:56 | ポジティブ

今日は、Nianticの足立光代表のインタビュー記事を参考に、「50代は落ち着くな!」について考察します。

以下は、足立さん(どんな会社の代表かはググって下さい笑)の日経冊子のインタビュー記事から信条を自分なりに要約してみました。

 

40~50代の人たちが「歳を取ったら落ち着かなきゃ」と考えるのは間違いです。なぜなら「落ち着く」ことは【停滞】なのです。

 

人間は歳を取れば取るほど強い刺激を受けないと変わることができません。そのため、歳を重ねるほど新しいことに触れて、強い刺激をたくさん受けないと新しいことを考えられなくなります。50代になれば、ぜひ、外に出ていって新しいこと、流行っていることを体験してほしい。

子どもが独り立ちする40~50代は、もう1回、自分の殻を破るよいタイミングです。子どもの面倒をみなくてよくなり、経済的にも時間的にも余裕が生まれます。つまり、この時期こそ、20代のころになりたかった自分になれる大きなチャンスです

自分の殻を破って新しいことを始めるには二つしか方法はありません一つは時間の使い方を変えることです。殻を破れないとき、なかなか変化を起こせないとき、ほとんどの人は「時間がないから」と言います。それは当たり前で、何かをやめなければ、新しいことを行う時間は生まれません。新たに始めたいことを決めたら、それに費やす時間分、別のことに使う時間を減らさないと何もできない。

 もう一つは、リスクに対する不安を乗り越えることです。何かを変える・始めるのはリスクであり、リスクが恐いのは自然です。しかし、それは今持っているものをすべて守ろうとするからで、全部守る必要がないとわかればたいしたことはないんです。

 「流行っていること」とは、多数の人が心を動かされていることです。だからこそ、実際に、「流行っていること」を自分で見て体験して、なぜこれが多くの人の心を動かすのか一生懸命考え、それが自分の仕事に影響したらどうなるだろう、何ができるだろうと考えるようにする。これが刺激になります。 誰もがテレビを見たり、広告を見たりして、お店で何かを買う、サービスを受けるといった消費行動をしています。そのとき、自分はなぜそれを買ったのか、自分の仕事のイメージに当てはめてみてください。毎日、それを繰り返すだけでも、刺激を受け、今とは違った視点が出てくると思います。 

20代の頃を思い出してください。例えば、あの頃のAV,アダルトビデオ・・・モザイクはでかく、顔の半分も隠れるほどの大きさでしたが、なぜか、楽しかった。

村西とおる監督や豊田薫監督など、名前を聞いただけで、ワクワク・ゾクゾクしたものです。

いまや、ビデオテープは消え、DVDからネットで見る時代。モザイクもないものが氾濫していますが、モノ自体は刺激的ですが、見る側の刺激は追いついていますか?

もはや、感動も薄れ、刺激もないものです。加齢で欲が衰えているせいでしょうか?

いいえ、若い頃にあれほど疎ましかったモザイクが消えたのですから、念願の「ノーカット」が見えているのですよ。

それでも刺激が追いつかないのは、感動することを失ったのです。

人は感動が薄れるほど、老いていく動物です。

自ら、リスクをとり、時間を確保して、流行に刺激を求める姿勢を崩さず、行動するしかありません。

「落ち着いたら」イケないのです。