日々思うこと

- M家の情報発信 -

二宮尊徳記念館を訪ねて

2006-09-29 11:13:54 | Weblog
 前に一度載せた文を一部修正しました。神奈川ワード/港北ワードのYokohama Times(ワードニュース)に投稿するために書き直したものです。  7月20日(木)浜松から東京神殿に行く途中、以前から寄りたいと思っていた神奈川県西部にある小田原市の二宮尊徳記念館(以下記念館と略します。)と報徳博物館を訪ねることにしました。20日早朝5時33分JR浜松駅発の東海道本線の在来線普通電車で青春18切符を使い小田原に向かいました。JR小田原駅で小田急線に乗り換え富水駅で下車し、記念館に9時半ごろ着きました。  記念館を訪ねたおもな目的は、二宮尊徳が江戸時代の1800年代に小田原藩の赤字財政の建て直しをし、地元小田原地方だけではなく桜町(栃木県)や谷田部藩(茨城県)方面まで広めて赤字財政の建て直しをしました。その基本になったのが積小為大(例えば第1ニーファイ16:29相当)、断食祈願(例えばモーサヤ27:22相当)、収入の範囲内の生活と節約(リアホナ1999年1月号61,62頁相当)などです。「報徳仕法」とも言われる「分度推譲」は厳密に現状調査を行なったうえで、各自にふさわしい生活の支出の限度を決め(分度)、余剰分は将来に備えて貯えるか、他人に譲る(推譲)ということですが、これには私たちが日々学び実践している福音と共通する部分があるため、もっと詳しいことを知りたいと思ったからです。  記念館の中に入って最初に目にしたのは、小石およそ1万個を使って描いた幅5m×高さ3.1m四方の大きな石画(壁画)で、その大きさに圧倒されました。20年前に製作し1,000万円ほど掛かったそうです。絵の近くに行ってみると、色のついた原石(小さな大理石)で出来ています。絵から10mくらい離れてみると酒匂川と両脇に堤防があり、そこに松の木が生えている美しいカラーの絵に見えます。(写真参照)  江戸幕府は260余年に及ぶ安定した長期政権を維持しました。この時代は自分の子どもを抱いた父親達が井戸端会議をするように集まり、互いに自分の子どもの自慢話しをしたと言うほど庶民にとっては平和だったようです。ある人は江戸時代を「道徳の時代」とも言い、二宮尊徳のような道徳家が多くいたと言います。福音に基づいたシオンの民とは同じ条件ではないので比較は出来ませんが、旧約時代のエノクの民(モーセ7:18)、新約聖書の共同制度の民(使徒4:32)、そして第4ニーファイ3節に出てくるシオンの民と似ている部分があると感じます。  栢山(記念館の建っている場所)で生まれた尊徳は55歳になるまで金治(次)郎と呼ばれていたそうです。彼が12歳頃、明日の食事に困る老農夫が金銭を手に入れるため、松の苗を売っていたところ、誰も買う人がいなかったので、可愛そうな余り、200本の松の苗を全部買いました。その苗を堤防に植え、やがて松の木が大きくなり、酒匂川の氾濫を食い止める役目をしたと言います。そのうちの何本かの松が今でもあると言われています。このことから金治郎の人柄が理解できます。  金治郎は12歳のとき父を、15歳のとき母を亡くしました。両親はとても親切で人のために尽くす人で、その気質を受け継いだようです。藩の赤字財政の建て直しが認められ、全国にその名前をよく知られるようになり、数人の弟子を持つようになりました。弟子の教育も盛んに行なわれたようです。分度推譲を推し進める仕法を分かりやすく書いた手引書が80巻以上もあると聞きました。忙しい中でよく書いたものだと感心させられます。その手引書は毛筆で書いたもので、その一部が展示してありました。  記念館を見学後、JR小田原駅に戻り、昼食後、駅近くにある小田原城を通り、報徳博物館に午後1時過ぎに着きました。ここには記念館には無い、より専門的な資料が展示されていました。学芸員に1時間ほど展示品について説明して頂きました。毛筆で丁寧な字で綺麗に清書した書物がありました。昭和21年に発行された一円紙幣も展示されていました。そのお札には二宮尊徳の顔が載っています。お札に顔の絵が載ったのはこの紙幣が最初なそうです。今は使われていませんが、私が子どもの頃に使われていました。  今回の見学で、二宮尊徳の事業の根底には福音と共通する部分があり福音に対する思いを更に深めたこと、昔を偲び先祖のことを思い浮かべたりすることなど、福音をいろいろな角度から見ることで有意義な時間を過ごすことが出来ました。神殿参入の行き帰りに道草することで見聞を広め、自分を見直す良い機会にもなったと考えています。  (し)

高等評議員の責任

2006-09-26 20:29:38 | Weblog
 高等評議員に召されて、約20年になります。どんな仕事をしているのかその一部を見てもらいます。文章には人の名前が出てきますがN、Tなどのイニシャルで表します。今回の事例は、人を育てるということに部類すると思います。読みにくいですが、参考にしてください。

 N兄弟(既婚)は成人のアロン神権者(祭司)でしたが、ネクタイなしで、カジュアルな服装をした上、8時に始まる聖餐会に遅刻することが多く、私が訪問した際、聖餐のパスをしたのを見たことはありませんでした。アロン神権者なので正装でネクタイを締め、パスをするように何度か支部会長に提言していました。

その後、相変わらず変化は見られませんでした。T支部会長に聞いてみたところ「本人には伝えているが直りません。」ということでした。私が直接、N兄弟に話してみることをT支部会長に伝えました。

 3月5日、浜松第2支部(ブラジル人支部)を訪問した時、彼はやはり遅れてきました。聖餐会が終わってからH兄弟に通訳して頂き、N兄弟に私の思っていることを伝えました。「アロン神権者なので聖餐のパスをするようにして欲しいです。そのためにはスーツを着てネクタイをし、遅刻しないで教会に来て頂きたいです。」と言ったところ、彼は短く「ハイ」と言い、私の前で深々と頭を下げました。言い過ぎたのかなと身が引き締まるほどでした、彼はいやな顔もせず、むしろさわやかな表情をしている様にも見えました。これ以上しつこく言うと逆効果になると考え、何も言わずに、しばらく様子を見ることにしました。その後、奥さんのN姉妹に「兄弟は神権者なので聖餐のパスをしてもらいたいです。そのためには聖餐会に遅れないようにして頂きたいので、朝早く家を出るように協力して頂けませんか。」とお伝えしました。彼女はニコニコして何も言いませんでしたが「分かりました。」という様子でした。

 3月26日は浜松第2支部の訪問日でした。N兄弟は遅れずに来るのかどうか期待をして教会に行きました。彼は遅れずに聖餐会に出席しました。顔を合わせて挨拶をし、握手しました。スーツを着て、ネクタイをしていました。筋肉質の体でガッチリしていて、スーツがとても似合い、立派で素晴らしく見えたので思わず「素晴らしい!スーツがよく似合うよ!立派だなあ!」と言葉が出ました。彼はやがて礼拝堂の前列に座って聖餐のパスをしました。その後、何度か訪問し、パスをする姿を見て安心しました。

 6月11日の第2安息日の訪問は私になっていました。6月はメルキゼデク神権回復記念の月になっているので、聖餐会では是非そのことをお話したいと準備しました。おもに教義と聖約84,107,121章に関することと、自分の経験を交え、証しました。少し難しい話をしたのかと思いつつも、第2支部には神権会がないことや長老推薦もあり、ちょうど良かったのではないかなとも考えました。

 9月17日にステーク大会でメルキゼデク神権の長老に支持され聖任されました。

 9月24日浜松第2支部を訪問しました。この日の聖餐会の話者は、どのようなめぐり会わせか分かりませんが、N夫妻の2人のお話を聞くことが出来ました。それは感動させるものでした。A姉妹の通訳を通して聞きました。お話の概要は次のとおりです。箇条書きにします。

1. N姉妹(11分)
● 今までどのようにすればよいのか分からなかったが、家族の中に神権の力が存在して大きな力がある。
● 日本とブラジルは遠い。とても時間がかかる。
● 日本に来たとき知っている人もなく、仕事もなかなか見つからず寂しかった。
● バプテスマを受けてから、聖典を学んだり、頑張ってきて力を頂いた。
● 今は結婚しているが子どもがいないが、お祈りしている。子どもが生まれたら温かい家庭を築きたい。子どもには寂しい思いをさせたくない。神様から力が与えられるだろう。
● ブラジルで家族そろって神殿に行きたい。
● ブラジルで家を持つのは難しいことであるが2人で頑張れば出来る。
● 日本には両親や兄弟や親戚もないが教会に入ってからよいものを頂いている。
● 主人が力を持つように助けることが大切だ。
● ジョセフ・スミスの見神を信じている。
● 家庭を持つように祈っている。
● 天父に感謝している。

2. N兄弟(16分)
● 2週間前に(メルキ)神権を頂き、力を与えられワクワクしている。福音のことをもっと知りたくなった。
● 神権を頂く前とは全然違う。
● 車の免許と同じように、良い運転手になるには常に訓練が必要だ。聖典を学ばなくてはならない。
● 神は地球を創造した。その力はなくならない。
● 天父が力を神権者に与えた。神権は人を助けるためにある。
● イエス・キリストの代表者である。
● 神権により家族や近所、友人などに手伝って上げることが出来る。
● 力をもらって神に近づきたい。
● 神から指示されたらそれを果たしたい。
● 人を愛するようにしたい。
● トラブルがあったら手伝ってあげたい。
● 聖典を学んで力を使う時、どのように力を使えばよいかを考えたい。力を使う時に家族の模範となる。
● リアホナに宣教師の証が載っていた。それを読んで感動した。
● 神権を頂き、天に繋がったことを感謝している。

 お話の内容は聞き違いかな?と思うようなところは割愛しましたが概略は以上のとおりです。N姉妹は泣きながら話し、兄弟は堂々として余裕のある話し方で2人はメルキゼデク神権を受けたことの喜びを語っていました。

 N兄弟がメルキゼデク神権を受けるまで、本人の努力は勿論のこと、奥さんや周りの人の助けや支部会長会やステーク会長会の指導と支援があったからと思っています。私も少しですがお手伝いが出来、よい経験になったと嬉しく思います。
(し)

身代わりの儀式を受けた経験

2006-09-19 10:24:07 | Weblog
 9月15,16日と身代わりの儀式を受けてきました。これからの儀式を受ける参考になると思い、ブログに採り上げました。この身代わりの儀式は浜松ワードのO姉妹に頼まれた家族ファイルです。儀式を受けて経験したことをO姉妹に手紙に書いたので以下に載せます。
 ブログに載せた写真は別館多目的ホールに集まった河内長野ワードの会員です。(し)

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O姉妹へ
 めっきり涼しくなりました。お元気にお過ごしのことと思います。
お預かりしていたご先祖の家族ファイルを9月15日(金)にイニシアトリーの儀式を男性16名分、他の兄弟のご協力があり全ておこないました。また、翌16日(土)には11名分のエンダーメントをやはり他の兄弟のご協力がありおこなって来ました。残り5名分は次回以降、神殿に参入した時におこないたいと考えています。

 9月15日は久しぶりに東名高速バスを使い、余裕を持って出かけました。バスの中では本を読んだり、雑記長の整理をしながら過ごしていたので頭の中を整理することが出来ました。神殿別館での宿泊はいつもとは違って一部屋3人だったので、余裕を持って休むことができました。16日は朝3時半頃に起床し、多目的ホールで聖典を読みに行ったところ、そこには数名の兄弟がいて神殿参入の準備をしていて、彼らと快く挨拶をすることが出来ました。しばらくしてから数名の兄弟姉妹が入ってきて、その中の一人の兄弟に声をかけられました。「あなたは前田長老のお父さんですか。私は河内長野ワードからきた津田と言います。前田長老にはとてもお世話になりました。」と言うことでした。修平の最初の伝道地であるワードの会員でした。少しの時間ですが会話を交わし、身の回りが福音の輪で繋がっているように感じ、とても心地よい気持ちを抱きました。 

 亡くなられたO姉妹のお父さんのTさんの身代わりのエンダーメントを16日(土)朝6時のセッションに参入し、私がその儀式を受けました。儀式中、何度もお父さんの儀式カードを見てお名前をすっかり覚えてしまいました。何度か見ているうちに1915年浜名郡積志村生まれということが気に止まりました。積志村は遠い昔、のどかな田園風景の広がる美しい村であったに違いありません。その時代は第一次世界大戦が始まった頃で、日本はイギリスと同盟を結んでいた関係もあり参戦し、その後、満州事変や日中戦争、第二次世界大戦の激動の時代そして地震や暴風雨などの自然災害、大恐慌や物資の乏しい時代そして戦後の復興の中をたくましく切り抜けて生活され、そのような中で子どもさんを育て、どんなに大変だったのかを想像していました。このような方がいらっしゃったので、今の私たちの世代があると考えていました。そして、自分がこのようにして身代わりの儀式を受けていることをとても嬉しく感じ、止めどもなく涙が溢れてきて何度も拭きました。それは穏やかで安らぎのあるゆったりとした時間で、とても長く感じました。お父さんは霊界で身代わりの儀式を受け、私をとおして涙を流して喜んでいると感じました。亡くなられたお父様は子どもさんたちが生活している今の時代を静かに見守っているに違いと思ったのです。

 O姉妹、ご先祖のための儀式を受ける機会を下さりありがとうございます。神殿に参入しエンダーメントを200回以上受けていますが、このような感動的な儀式を受けるのは稀です。今回の神殿参入を振り返ってみますと、浜松を出かける9月15日からよい心の備えが出来ていたと思っています。高速バスでのこと、別館での宿泊や多目的ホールで河内長野ワードの数名の会員との出会い、そして身代わりの儀式を喜んで受けて下さった他の兄弟たち、その中には修平の2番目の伝道地である春日井ワードの石川兄弟がいらっしゃり、協力して下さった彼らに感謝しています。このようなことは全て良い儀式が受けられるように備えてあったように思います。神殿参入の喜びを得るには、気持ちの整理や準備が大切であることを改めて知ることが出来ました。

 神様は生きていて神殿をとおして死者のための儀式を行っていること、そしてイエス・キリストが贖い主であり、救いに導いて下さることを証します。
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プニちゃんの絵手紙

2006-09-19 09:15:03 | Weblog
 定年になってから同じ職場で2年間嘱託として働き、2006年3月31日付けで36年間の勤めを辞めました。4月からは新たな出発で、これからが第2の人生です。仕事の第一戦から退くや否や、このときこそこのチャンスと言わんばかりに、「我がファミリー」に新しい生命が誕生しました。それはプニちゃん家族の長女「プニちゃん」です。これが世のサイクルと言うか世代交代というものなのかと実感しました。
 
 これを機会に何か新しいことをしなくてはと思っているとき、テレビをとおして絵手紙の素晴らしさを知りました。絵を描くのが大の苦手だった私に果たして「出来るだろうか」という疑問がありました。家には子どもたちが小さいときに使った30色クレパス、24色クーピー、18色クーピー、12色鉛筆などの残りを保管してあり、それを活用できないか検討した結果、クレパスやクーピーは少し使っただけで、まだまだ十分使えるものでした。

 描くことに自信がなかったのでとりあえず、太目のクレパスを使って誕生間もない「プニちゃん」の写真を見ながら描いてみました。これが絵手紙の始まりです。描いているうちにクレパスでは細かい所が描写できないため、クレパスよりは細いクーピーに変えました。落款(絵が完成したとき押す印)は消しゴムを利用して、繁喜の「し」と彫りました。この落款に朱肉を付けて押印したところ、絵手紙の風格が更に増しました。

 4月から描いてきた絵手紙は、9月20日までで15枚になりました。これから描く絵手紙は「プニちゃん」が成長したときの特徴をとらえて描いていきたいと思っています。例えば、積み木を持った時、幼稚園に入園したとき・・・・・などです。絵手紙が「プニちゃん」を始め、我が家の家風を描き続けるものであって欲しいと願っているところです。

 本ブログに載せた絵手紙は「36年間通った通勤道路の田園風景」です。これをきっかけにいろいろな絵手紙を描き、いつまで描けるか分かりませんが、長く続けられればいいと考えています。  (し)

プニちゃんの積み木

2006-09-13 13:37:55 | Weblog
 「プニちゃん!」手作り積み木で遊んでくれてありがとう。我が家で初めての積み木を作ったのは子どもたちが小学生の頃「ニキーチンの積み木」を作ったのが始まりです。この積み木は組み合わせればいろいろな形のものが出来上がります。遊んでいるうちに頭の訓練にもなりました。

 そんなこともあり、今回、プニちゃんにも是非積み木を作りたいと考えました。積み木は4,5歳頃から始めるもののようですが、今回作ったのは幼児が握ったり、しゃぶったりすることで本物の木に触れてみるだけでも成長に役立つのではないかと考えて作りました。

 積み木を作るまでの簡単な過程を書いてみます。
①ホームセンターに行き積み木になりそうな長さ2mくらいの角材と円柱の檜の木材を探しました。
②木材を買ってジグソーで切ってみたところ、いくら集中しても曲がって切れました。
③木材を切断するためホームセンターで専用のカッターであらかじめ決めておいた寸法に切断してもらいました。とても綺麗に切れました。ただし、円柱の棒はさすがのカッターでも切断が難しいため切り口が残っています。
④積み木の形が出来上がったので、丹念にサンドペーパーを掛けました。特に角(コーナー)は危険なのでサンドペーパーで削りました。また、四方八方にも同じように掛けました。
⑤積み木にサンドペーパーを掛けたので綺麗になり、今度は綺麗な白い布を水で濡らして積み木に付着している粉状の切り子を拭き取りました。
⑥積み木を入れるのにちょうどよい収納箱があったので、それにも丹念にサンドペーパーを掛けました。その後、同じように白い布を水で濡らして粉状の切り子を拭き取りました。
⑦5月頃書いた絵手紙をフイルムにプリントアウトして接着剤で貼り付けました。
⑧積み木は檜を使っているので、よい香りが漂います。「檜のおもちゃ」のことについて書いた新聞記事があったので切り抜いて積み木の収納箱の中に入れました。

【注意】積み木は大小様々ありますが、特に2cmくらいの小さなものは、危ないのでプニちゃんが大きくなってから使ってください。

 「手作りのおもちゃ!」これが信仰の宝です。    (し)

青春18切符で岩手旅行 (信仰の宝あり)

2006-09-11 13:42:35 | Weblog
 直ぐ上のひろき兄(しろう兄の弟で昭和15年生まれ)が病気のため岩手を訪れることにしました。何故この時期かというと、新幹線を使えば約5万円はかかるので、ちょっとした海外旅行が出来る金額に相当するので、節約のため普通電車行くことを考えました。また、夏の時期は暖かく薄着の上、衣料などの持ち物が少ないため旅行しやすいことと、青春18切符が9月10日まで使えるからです。
 
青春切符で浜松から岩手の実家のある八幡平市まで帰るのには大変抵抗を感じました。なぜなら、浜松から実家まで約800kmあり、大変だからです。各駅停車で行ったら浜松―東京間が4時間半、東京―八幡平市まで約12時間かかるからです。決断するのに勇気が必要でした。自分に出来るかどうか過去のことを思い起こしていました。20代の独身のときは新幹線がなく、上野から実家まで急行で8~9時間掛けて帰っていました。また、昨年はモスクワ近郊に旅をして11時間電車に乗ったこともあるので、それを思うと出来そうな気がしました。万一、具合が悪くなり、各駅停車は無理だと思ったらどこかの駅で新幹線に乗ればいいのではないかと考えたのです。 

9月1日(金)6時30分頃に思い切って青春18切符を手にして浜松駅の改札を通りました。電車の中では退屈にならないように本とか郷土の資料を見るようにしました。
 
浜松から東京までは約4時間半、乗り換え2回、停車駅52以上です。また、東京から岩手まで約12時間半、乗り換え8回、停車駅123でした。

 行き帰り共に東京で1泊したのは疲れを取るのに役立ちました。東京神殿に参入したあと、別館で泊まったのです。神殿に参入することも出来たので両得でした。
 
9月2日の電車では宮城県松島で約1時間待ち時間があったので、日本三景の一つ、松島の海を見に行ってきました。水は濁っていて汚く感じました。

 電車の中では一度だけ居眠りをしました。それは宮城県小牛田付近から30分くらいは眠ったのかもしれません。

 岩手県の一関で乗った電車はとても混んでいて立っていたところ、親切な若い夫婦のうちの奥さんが、私が年寄りに見えたのか、席を譲ってくれました。また、帰りに福島付近で私の隣に座った若い学生風の男性が、年配の女性に席を譲っていました。とてもよい光景を目にしました。もう日本にはこのような光景が見られないのではないかと失望していましたが、道徳心のある若者が健在であると理解しました。他人のして欲しいことをして上げた若者(信仰の宝!)を思い浮かべ感激しました。しかし、関東(栃木県から南)に近づくに従ってそのような光景は見られませんでした。 (し)


 見づらいですが、電車に乗った時刻を載せます。

9月1日(金) 行き  乗り換え2回 
浜松 沼津 品川 恵比寿            
6:41 8:55                
  9:02 10:57 11:07            

2日 乗り換え 8回
上野 宇都宮 黒磯 郡山 福島 仙台 松島 一関 盛岡 大更
5:47 7:27                
  7:37 8:18              
    8:37 9:56            
      10:08 10:54          
        11:00 12:12        
          12:20 12:45      
            14:04 15:27    
              15:27 16:54  
                17:46 18:24

6日帰り 乗り換え 8回
好摩 盛岡 一関 小牛田 仙台 福島 郡山 黒磯 宇都宮 恵比寿
6:40 7:04                
  7:17 8:51              
    9:05 9:52            
      9:58 10:45          
        11:02 12:14        
          12:18 13:06      
            13:21 14:23    
              14:36 15:25  
                15:39 17:15

7日 乗り換え 3回
恵比寿 品川 沼津 静岡 浜松          
5:35 5:45                
  5:55 8:05              
    8:09 9:05            
      9:10 10:20          


江戸東京博物館(信仰の宝あり)

2006-09-11 09:44:33 | Weblog
 2006年9月1日(金)岩手旅行に行く途中、東京両国の江戸東京博物館に立ち寄り見学しました。そのときのことをお知らせします。
 江戸時代は地方の大名の奥さんや子どもを江戸において、参勤交代のとき家族と会うようにしていました。各大名の屋敷は江戸城を中心に至るところにありました。今はその面影が殆ど残っていませんが、当時を思わせる幾つかの場所があります。        
 その一つに有栖川記念公園があります。有栖川記念公園(写真左下に陸奥盛岡藩二十万石(岩手)南部美濃守利剛とある。道路を隔てた左側(西)が今の東京神殿)は東京神殿の隣にあり、その公園の南側に南部坂という坂道があります。南部というのは、盛岡藩の殿様の名前です。また、公園の近くの愛育病院(紀子さまが出産入院した病院)の北隣に盛岡交番があります。盛岡という地名は岩手の県庁所在地です。有栖川記念公園は盛岡藩の屋敷があったところです。
 もう一つですが、東京大学は加賀藩の屋敷があったところです。東京大学には赤門があり、それに対して加賀藩の金沢城跡にある金沢大学(今は移転している)には白門があります。また、東京大学周辺の文京区に白山通りという道路があります。白山は石川県にあり、日本三大名山の一つです。白山通りの白山はここから来ていると推測します。
 江戸や東京の街は大正時代には関東大震災、昭和時代には第2次世界大戦で100回以上の空襲を受けたといいます。焼け野原からここまで立ち直ることができたことに改めて感心させられます。
 東京というと近代化されたビル群や現代のテクノロジーが高度に蓄積された場所を思い浮かべますが、少し時代を遡れば、昭和、大正、明治、江戸・・・・それぞれの時代の人々が住み、活躍していたことを忘れてはならないと考えさせられました。それは私たちの系図探求の精神がこのようなところで発揮されているように感じました。南部とか盛岡とか白門、白山などの呼び名はそれを思い起こしてくれます。これも「信仰の宝」のうちの一つなのでしょう。 (し)