●晴れた日の 藤枝の山 くっきりと 御霊に満ちて 心清まる
3月静岡訪問 短歌49
●安息日 静岡駅の バス停で 見渡す眺め 昔思わす
彼女は2004年3月28日の聖餐会(当日の出席者=16人)で「改宗談」について(24分間)話しました。宣教師の通訳を通して聞いていたので、銃とナイフのことは通訳違いか、聞き違いではないかと耳を疑いました。平松兄弟に確認したところ本当だということでした。
日本では聞くことの無い大胆な証だったので是非、証を紙に書いて頂きたいとお願いをしました。それを証集に載せたいことも話しました。返事は「ハイ」ということでしたがなかなか書く気配がありませんでした。そのうちに平兄弟を浜松に残してシル姉妹と子どもさんがブラジル本国に帰ったため諦めていました。
昨年秋ごろ、シル姉妹とお子さん達が再び第2支部に集うこととなり、平兄弟に奥さんの証が書けないかと聞いたところ「ハイ」と言うことでした。いい返事だな・・・ と思っていたところ、12月に入ってから平兄弟からポルトガル語で書いた証を頂くことができました。これは凄いことだと思い、その場で日本語に通訳していただきそれを筆記しました。そして証集に載せることを承諾していただきました。
我が家の4人の子ども達が小さい頃、割り当てられた掃除をするため家族揃って教会に行きました。子ども達は早めに掃除を切り上げ、バプテスマフォントの部屋(改修前)に卓球台を出し、家族揃って「ピンポン」をするのが慣わしでした。その後簡単なリフレッシュメントで労をねぎらい清掃を終えて家に帰ったことを思い出します。
教会での「ピンポン」がきっかけになったと思いますが、二男が小学校の頃から卓球に興味を持ち、中学校に入学したとき部活に卓球を選びました。そのため教会は休みがちになりましたが、安息日に練習や試合の無いときには教会に集いました。卓球部ではよい友だちを得ました。その友だちと同じ高等学校に入学し、卓球部に入り、県大会や東海大会まで行くようになりました。高等学校3年の後半には卓球部の全スケジュールを終えて教会に専念するようになりました。
また、三男は二男の影響を受けたのか中学校の部活に卓球を選びました。教会を休みがちになりましたが、安息日に練習や試合が無いときは教会に出席しました。
今は4人の子ども達が大きくなって家を離れていますが時々里帰りします。長女が里帰りをしているとき、たまたま私たちが掃除当番に当たっていました。「今、お母さんが忙しいから代わりに掃除を手伝ってくれないか」というと嫌な顔をせず、一緒に教会までついてきて手伝ってくれました。学校に通っていた頃担任の先生が妻に「目立たないところで掃除をする子ですね。どのように育てたのですか?」と尋ねられたことが何度かあったそうです。
昨年のことです、長男が里帰りしているときにこのようなことがありました。以前に浜松ワードに集っていて熊本の自宅に戻った年配のK兄弟が亡くなったことを長男に知らせたとき、K兄弟のことを思い出して「彼に感謝している」と言いました。小さい頃、掃除会に参加し「何か手伝うことがないか」と思っていたとき、K兄弟がモップを持って掃除をしている姿を見て、モップの柄のところを支えてあげたとき、K兄弟は長男に「手伝ってくれてありがとう」と言ったそうです。その言葉を聞いて自分が掃除の手伝いが出来たのだと嬉しくなったことを思い出し「K兄弟に感謝している」と言ったのです。
4人の子どもは外から家に帰って来ると、ポケットの中にゴミが一杯入っていることがありました。「掃除しなさいとか、ゴミをやたらに捨ててはいけない」と教えたわけではありませんが、小さい頃から掃除会に出ているうちに、そのことが身についたのだと思っています。
私は1969年3月横浜支部でバプテスマを受け、翌年の4月に浜松に転入しました。最初の1年のことをよく覚えています。アロン神権指導主事(当時の呼称)やアロン神権クラスの教師から教義と聖約を引用して聖餐式などの儀式や清掃はアロン神権者の責任です、と何度も教わりました。そのためかアロン神権定員会は班編成を行ない、輪番制で1年間男子トイレの掃除をしました。
今は歳を重ね腰が重くなり掃除をすることを負担に感じることがありますが掃除をしているとき、子ども達が小さかった頃のことを思い出します。家族揃って掃除会に参加したことが子育ての役にたっていたのだと感じます。主はさまざまなプログラムをとおして導いて下さることを証します。