日々思うこと

- M家の情報発信 -

一日一つの証

2006-07-24 15:15:48 | Weblog
  2003年10月、教会歴史の旅をした際、歴史に残る場所には必ずやビジターセンターがあるのを見ました。そのビジターセンターに多くの場合、当時の指導者の日記が展示してあります。その日記を見たとき普通の日記でないことが分かりました。極、普通の一行日記とか、業務日記とかではなく、1ページ以上の長い文で書かれた「証」、言葉を変えれば「随想」に見えました。一日の状況や御霊の導きを受けて行動したこと、特別な経験をしたことなどを書いたのでしょう。迫害されて自分の命がどうなるか分からない危険な中を忙しく動き回り、疲れた体を休める前に日記をつけたものと思われます。B5かA4版の用紙に1ページ以上の証を書くのは大変時間の掛かることですし、エネルギーを使います。
 
 5,6年前になりますが、朝のNHK第一放送を聞いているとき、東海大学の秋山仁教授が若者の理科離れを少しでも食いく止めるため、専門の数学教育にまつわる話をしているのを聞きました。

 彼が数学を学んでいる大学院時代に「順列組み合わせ」を学ぶためにアメリカのU.C.I(ユニバーシティ・オブ・カリフォルニア・アルバインキャンパス)の教授のところに急いでJ1(留学)ビザを取り、すっ飛んで行ったそうです。その時、U.C.Iの教授は「私の研究室に入るなら、一日一論文書くことを条件」としたそうです。秋山さんはそれに従ったかどうかは定かではありませんが、教授の話を聞いたとき、アメリカ社会の厳しさの一端を垣間見ることができました。

 教会初期の指導者が長い証を一日に書き上げてしまうのは、アメリカ人気質としては当然のことだと思っていたのかも知れません。聖霊が導くままに証の筆を走らせるならばそれほど難しくはなかったのかも知れません。当時の指導者が残した日記は私たちの前に「鑑」となって静かに見守り、導いているようにも思います。

 今の私は一日に一つの証を書く時期にあるのかも知れません。毎日書けなくても、できるだけそれに近い数の証や体験を綴ってみたいと決意しているところです。自分の信仰生活を省みたとき「信仰とは何だったのか」、「多くの時間をかけてそれがどのような祝福(益)となったのか」など、自分が過ごした信仰生活を後世にどのように伝えるのかなどを考えると、証や体験を書いて行くことは大切なことだと考えています。 (し)

二宮尊徳記念館と報徳博物館を訪ねて(信仰の宝あり)

2006-07-23 20:15:55 | Weblog
 退職したら今まで見られなかったところを最小限のお金で旅をしたいと思っていました。最初は7月12日~14日にかけて飛行機代無料のマイレージを使った知床旅行をし、今回は2回目の旅になります。
 7月20日(木)東京神殿に行く途中、小田原に寄り、以前から寄りたいと思っていた二宮尊徳記念館と報徳博物館を訪ねることにしました。美佳子も行きたいと言うので一緒に行きました。20日早朝5時34分の鈍行で青春切符を使い一路、小田原に向かいました。小田原からは小田急線で2駅目の富水駅で下車し徒歩で二宮尊徳記念館に着きました。なぜ二宮尊徳かというと、それには大きく2つあります。

 一つには彼は江戸時代にあって、酒匂川(さかわがわ)の治水事業を手がけ、藩の赤字財政の建て直しをして、地元小田原だけではなく北関東方面までその地域を広めて事業を見せてくれたからです。

 もう一つは、江戸幕府は260余年に及ぶ安定した長期政権を維持したのですが、その背景を少しでも知りたいと思ったからです。江戸には200万人住んでいたと言われ、モルモン書に出てくるヤレドの民も200万人いたこと。そして、江戸時代は旧約聖書に出てくるエノクの民、新約聖書に出てく共同制度の民、そして第3ニーファイに出てくるシオンの民にも似た時代であるからです。江戸幕府には福音はなかったのでシオンの民とは同じ条件ではありません。ある人は江戸時代を「道徳の時代」とも言います。自分の子どもを抱いたおやじ連中が近所同士、井戸端会議のように集まり、互いに自分の子どもの自慢話しをしたと言うほど平和だったようです。民が何かの罪を犯したときには罰を与えるのではなく、罪を犯したことを書いた看板を首に下げ、町を歩いて恥をかかせて罪を帳消しにするという「恥の文化」があった時代のようです。(西洋は「罰の文化」、日本は「恥の文化」という学説があります)道徳の時代らしく、二宮のような道徳家が多くいたようです。

 このような興味のある人物や時代を調べてみるのも楽しくて、為(ため)になるのではと思っています。退職前はこのような旅行は浜松を基点に自転車を使って訪れたいと思っていましたが、身の危険や体力などを考えて青春切符を使った旅に考えを変えました。悪しからず了解してください。

 今回の旅で「信仰の宝発見」があったところを書きます。栢山(今の小田原市で記念館のあるところ)で生まれた二宮尊徳は55歳になるまで金治(次)郎と呼ばれていたようです。彼が12歳頃、食うに困る老農夫が松の苗を売っていたところ、誰も買う人がいなかったことが金次郎の琴線に触れ、老農夫が可愛そうな余り、200本の松の苗を全部買い、それを堤防に植林し、やがて松の木が大きくなり、酒匂川の氾濫を食い止める役目をしたと言います。そのうちの何本か分かりませんが、当時の松が今でもあると言われています。記念館の中に入って最初に目にしたのは、小石1万個を使って描いたおよそ5m四方の大きな画です。およそ20年前に製作し1,000万円掛かったそうです。絵の近くに行ってみると色とりどろの石の小片が目につきます。10mくらい離れてみると酒匂川と両脇に堤防があり、松の木が生えています。美しいカラーの絵に見えます。
 金治郎は12歳のとき父を、15歳のとき母を亡くしました。両親はとても親切で人のために尽くす人で、金治郎は両親の気質を受け継いだ(信仰の宝)ようです。酒匂川の治水事業や赤字財政の建て直しが認められ、分度推譲(ぶんどすいじょうと読み、その意味は一年間どれだけの経費や生活費が掛かるかを割り出(分度)し、余分にあまった金額や品物は貧しい人や土地の開拓などの基金とする(推譲)こと)を推し進める仕法を分かりやすく書いた手引書が80巻以上もあると言います。忙しい中よくも書いたものだと思います。その手引書は毛筆で書いたもので、その一部が展示してありました。

 報徳博物館では尊徳の書物を清書したものが展示してありました。毛筆で書いた綺麗で丁寧な字体の文でできた書物です。これぞ宝物と言う感じがしました。また、昭和21年に一円紙幣が発行されましたが、そのお札には二宮尊徳の絵があります。この絵には政治的な指摘があったようですが、当時、尊徳はアメリカのリンカーンと言われたこともあるようです。この一円紙幣は私が子どもの頃流通していました。今でも使えるようなことを学芸員が言っていました。

 次回は何処にするか思案中です。掛川に二宮尊徳の「報徳博物館」があるので、行ってみたいと思っています。東京の江戸博物館ほかなども考えています。(し)

知床のバス運転手

2006-07-23 15:02:46 | Weblog
 7月12日9時頃、女満別空港に着きました。空港は小さく、かわいい飛行場でした。そこから知床の中心部(拠点)であるウトロに向かう斜里バスに乗りました。ウトロまでは約120kmあり、所要時間は2時間です。バスに乗ったのは私たち2人だけでした。明子はこれぞとばかりA運転手さん(33歳)に声を掛けました。彼は神奈川県出身で中学生くらいの子どもさんが病気でこちらの方に住むようになったといっていました。この辺はとても空気が綺麗で、バスの車窓から望む景色は広いジャガイモ畑や牧草畑そしてところどころ牛が放牧されているのが見えました。このような環境のもとでは自ずと病気も治るのだろうと思いました。道路には信号が無く、およそ60,70kmのゆっくりとした速度で走っているようでした。飛行場からウトロまで所要時間が長いため、ちょうど中間点の斜里でB運転手に交代になりました。彼もまた、親切な運転手でした。
 民宿の近くにあるウトログランドホテル前でバスを降り、一時民宿に行きチェックインして荷物を置き、4,5km離れた知床自然センターに向かいました。バス停で待っているとき何処行きのバスに乗り、何時に出るのかを知りたくてうろうろしている所にバスが来たので、運転手に聞くため声をかけたところ、それが何とびっくり、斜里からウトロまで運転した親切なB運転手でした。知床にはいろいろなバス会社のバスが何台も走っているのに同じ運転手に会うなどとは思ってもいませんでした。
 知床自然センターの見学を終えて、ウトロの民宿に帰るためバスに乗りました。ところが、そのバスの運転手がルームミラーから仕切りに私たちのほうを覗いていました。おかしいと思い、運転手をよく見るとA運転手でした。これまたびっくりです。このときのバスは乗客が多くて、運転手に声をかけるのを控えました。
また、次の日13日夕方、散策をしているとき、ウトロでただ一箇所しかない信号で赤信号のため止まっているバスを見たらそれはB運転手でした。
 ウトロを後にする最終日の14日夕方、女満別空港行きのバスの時刻や停留所のバスを確認するため、ウトロバスセンターに行きました。そこの受付の小母さんは私たちが泊まった民宿の女将さんをよく知っていて、友人のようでした。女将さんの子どもさんが学校に行かなかったり、仕事をするようになってから、機嫌が悪いときに、家を出てどこかへ行ってしまうとか、いろいろ世間話をしてくれました。
ウトロバスセンターから女満別空港行きのバスに乗ったら、これもまた乗客は私たち2人だけでした。このバスは来たときとは違う網走バスに乗りました。と言うよりこのバスしかなかったのです。乗り込んでから間もなく、明子はC運転手に声をかけ、ウトロ観光の思い出を話しました。運転手は機嫌がよく受け答えをしていました。バスの速度はゆっくりで、この速度で走っていたら空港に着くのが遅れるのではないかと気になりました。左車窓からは山頂のとがった綺麗な山「斜里岳」が聳えていました。どこを見ても地平線まで広がる畑ばかりでした。
 同じ運転手に2,3回も会ったことやバスセンター受付の小母さんと面白い会話をすることができ、旅を一層楽しくすることができました。浜松と知床は約1,500km以上も離れていて、気候も環境も人情も違い、別世界かとも思っていましたが、世間は狭いなと言う感じを深めました。人情味溢れる北海道の人柄や雄大な自然に触れることができ、新しい世界を発見したような気がする「有意義な旅」でした。(し)
   
  (下記に運転手および小母さんとの出会いをタイムチャートにします)

12日 女満別空港→斜里バスセンター→ウトロバスセンター(民宿の近く)
      (A運転手) (B運転手)

                       ウトロバスセンター → ウトロ自然センター
                         (B運転手と話す)
                       ウトロバスセンター ← ウトロ自然センター
                        (A運転手)

                         
13日 ウトロ交差点の信号待ちバスのB運転手を見た

14日 女満別空港    ←      ウトロバスセンター
          (C運転手)   (受付の小母さん)

退職して思うこと

2006-07-20 18:47:02 | Weblog
  36年間働き、この3月で退職しました。その間、一度も転勤はなく、同じ敷地にかよってきました。通勤の多くは自転車と歩きと雨・風の日は車で通い続けました。田や畑の中を通勤していて、年老いた婦人が乳母車を杖代わりしして散歩をしている光景や脳梗塞を患ったのか、片足を引きずりながらリハビリをしていた老人と何回か見てきました。すれ違うと「おはよう」と挨拶をしてくれました。また「あんたはあそこの先生か」と声をかけてくれたり、いつの間にかその姿を見かけなくなる時がありました。いつか歩くコースを少し換えて何げなく民家の前を通ったとき、葬祭の提灯の明かりが玄関前についているのを見て「きっと、いつかのあの老婦人が亡くなったのでは・・・」と思うことが何度かありました。暑い夏に汗をかきながら道を歩いていて、涼しい風が吹いてきて、その風が20年前か30年前の風とそっくりなのです。しかし、それとは反対に自分の心は全く変わっていることに気づきます。激しい技術革新、目まぐるしく変わる社会情勢、自然災害、身に余る恐ろしい事件の多いことなどを考えると36年前とは余りにも違いすぎます。北を見れば赤石山脈、そして周りは田んぼと畑、空の色、空気、土は変わらないけれど、自分の心は何度も変わってきている。こんな気持ちを持った人がどこかにいるだろうかと思いもしたが、どこにも見当たりません。しかし、ごく最近ある書物の中に同じような情景を描いた随筆を見つけることができました。それはおよそ800年前に鴨長明が書いた「方丈記」です。その冒頭部分だけ書きます。

 「行く河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる試しなし。世の中にある人と栖(すみか)と、またかくの如し。たましきの都のうちに棟を並べ、甍(いらか)を争える高き賤しき人の住まいは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ある家は稀なリ。或るいは去年(こぞ)焼けて、今年作れり。或いは大家(おおいえ)ほろびて小家(こいえ)となる。住む人もこれと同じ。ところも変わらず、人も多かれど、いにしえ見し人は、2,30人が中にわずかに1人2人なり。朝(あした)に死に夕べに生まるるならい、ただ水の泡にぞ似たりける。・・・・・と名文は続きます。

 河の水はいつも同じに見えるが、同じ水が流れたことはない。数十前にあった家に住んでいた人はもういなく、別の人が入っている。こんな情景は水の泡にも似ている。私の36年の情景はこの文に似ていることに気がつきます。いつも新鮮な気持ちでいたいですね。(し)

ピアノと歌

2006-07-19 13:11:27 | Weblog
   今日は久しぶりに娘のピアノと私の歌で少しの時間を楽しみました。娘が家にいるときは、必ず歌おうと考えていました。
娘が名古屋の短大に通っていた頃のこと、中学から高校の音楽の教科書に載っている、江間章子さん作詞の「夏の思い出」や「花の街」などを時々歌っていました。娘がBYUハワイや伝道に出てからは、その機会が少なくなり、いつか家に帰ったときに歌いたいと思っていたので、「夏の思い出」の楽譜をコピーしたものをカードケースに入れ、教会用の鞄に入れておいて、いつでも歌えるようにと思っていたのです。
 なぜ、江間章子さんの歌かと言うと、作詞者である彼女は私が生まれた同じ町の出身であり、私の父方の義理の祖母の出た家の出身だからです。それは、系図を探求しているときそのことを知りました。4,5年前帰省したとき、彼女が幼年時代影響されたと言われる「七時雨山」を見てきました。この山は彼女の生まれたところから近いところにあり、美しい姿をしていました。よい環境のもとで育ったのでしょう。「夏の思い出」の歌は栃木県と群馬県堺の尾瀬の水芭蕉の光景を歌ったもので、七時雨山と直接関係はありませんが、夏になると美しく咲きほこる水芭蕉の光景を思い浮かべることができるからです。 (し)

知床世界自然遺産旅行

2006-07-18 17:50:28 | Weblog
 7月12日(火)~14日(金)までマイレージの飛行機とバスで知床世界自然遺産を旅行してきました。その感想を綴ってみました。
 
 知床は昨年7月14日に世界遺産に登録され、ちょうど満1年経ちました。記念すべき日に訪ねることができました。初日は少し雨にぬれましたが、後は晴れの旅行日よりでした。
 2004年7月国際自然保護連合(IUCN)のデビッド・シェーバード保護地域部長が5日間の日程で知床の現地調査を実施した結果、7月25日羅臼町で開かれた記者会見で「知床にはとても美しい自然があり、海洋と地上の生態系が強いかかわりを持っている。候補地としての強みだ。」と言ったそうです。
 「知床の海はオホーツク海の流氷が運んできたプランクトンのお陰で多種の魚が生息し、その魚を餌としてトドやアザラシ、オオワシやオジロワシなどがやってくる。更には岩尾別川のような清流を産卵のため遡り、鮭をヒグマなどがそれを餌として生息している。また、ヒグマやエゾシカの排泄物や樹木の枯れ葉などが堆積し、山の土を肥やし、それが雨や雪どけ水などで流され、川を経由して海に注ぎ、魚やプランクトンの餌にもなる。」このように知床は生息する動物、山林や植物、海の魚などの生態系が見事なサイクル(海洋と地上の生態系が強いかかわりを持っている)を見せてくれます。
 この見事なサイクルは自分にとってどのような意味があるのか考えました。多分、福音もいや、人間そのものがサイクルの中にいるのだと思います。例えば、高橋兄弟がなさっている「サムエル」は今の私たちの信仰生活や証を細かく書いていることになります。ありがたい貴重な記録となっていくと思います。次の世代の聖徒がきっと今の時代をもっと知りたいと思うかもしれません。
 7月16日(日)、神権会で学んだ第14課「霊的な受け継ぎ」の研究とレッスンのための提案の最初の質問(149ページ)にこのようにあります。「なぜ私たちは初期の末日聖徒について学ぶべきなのでしょうか。開拓者の物語が「根も葉もない作り話のように忘れ去られる」ことのないようにするにはどうすればよいのでしょうか」とありました。昨年3月ロシアのスモレンクス支部で見かけた光景を思い出しました。それは安息日の集会が終わった後、3,4人の会員が分厚いバインダーを囲んで興味ありげに語り合っている姿でした。彼らは支部の設立からそのときの伝道部長やバプテスマを受けた会員のことを写真入りで綴る小さな歴史をバインダーにまとめたものでした。スモレンスク支部は小さな支部ですが、歴史を作る人がいれば、歴史を読む人もいることを目の当たりにしました。それは西洋人の特徴かどうか分かりませんが、歴史を大切にする国民であることが伺われました。これはある意味では小さなサイクルが完成しているように思います。神権会・扶助協会その他の分野を見ても6、7月になると開拓者の話題が登場します。これは、教会初期のことを思い起こし、福音について考え直し、認識を新たにするための「自然のサイクル」のような気がします。知床には大自然のサイクルがあるように、私たちが教えられている福音にもサイクルがあって、このサイクルが完成したときに、私たちはシオンの民となるのだと感じました。(し)

畑仕事

2006-07-18 09:06:31 | Weblog
 7月17日(月祝)14時頃磐田の畑仕事をしました。雑草が多く生えています。取るのが大変です。しかし、植えた作物は順調に育っています。インゲンやナスそして小松菜を取ってきました。これからが楽しみです。(し)

 三人で草取りをしていると、クラクションの音が聞こえ、顔を上げると、地主の飯田兄弟の車が通り過ぎて、すぐ近くの自宅に入っていくのが見えました。3時に約束があり、畑仕事を終えて急いで挨拶だけしに行くと、彼は自分の畑の鳥小屋の前に立っていて、バケツに一杯なすときゅうりを入れて、待っていました。我が家の収穫より多いナスときゅうりをもらい、急いでいたけれど挨拶に行って本当によかった。(あき)