世田谷パブリックシアターに「MANSAI◎解体新書 その伍」を観に行きました。
同劇場の芸術監督をつとめる野村萬斎さんが、テーマごとにゲストを迎えて、
演劇をいろんな角度から”解体”していこう、というこのイベント(トーク&レクチャー?)。
基本的には世田谷区民対象らしい(抽選の倍率も高いらしい)のですが、
それ以外の人も、当日券に並べば観られるんです。ほほ。
「その四」のときは、当日券は実は舞台の真横の席で(!)、
萬斎さんの右横顔を間近で拝めたのですが、今回は3階席立ち見。うう、あ、足が疲りる…。
ゲストに演出家・作家の鴨下信一氏、浪曲師・国本武春氏を迎えた「その伍」のテーマは
「日本語の音、ことばの色 ~発話からのイマジネーション~」
いろんな話が出てきたのですが、かいつまんで結論言ってしまうと、
要は、
台詞を言う時に、日本語の意味を踏まえることも大事だけど、
強調すべきところをきちんと強調するために、それ以外のところをさらっと言う”引き算”も必要。
句読点をどこに置くか(=間をつくる)も含め、日本語の“流れ”を美しく語れない役者はダメ。
……ってことでしょうか?
でも考え間違いしてるかも。ちょっと自信ナシ。
(鴨下さん、言うこと難しいっす~(泣)。
「能で言う○○と同じように…」つっても知らないし!
「上手い役者は『刀をスラリと抜いて』というけど、下手な役者は『スラリと抜いて』って言っちゃう」
とか言われても同じに聴こえるし!)
正直、私なんか演劇の基礎知識みたいなの全然ないし、
話の内容もよくわからん、みたいなところがあったんですが、
よくよく考えてみると、思い当たるフシもあるんですな。
話題が『間』に及んだときのこと。
浪曲だと「待ってました!」とか「日本一!」とか
観客が『間』に掛け声を入れて参加する(歌舞伎の大向こうなんかもそうよね)んだけど、
対して狂言は?って話になり、萬斎さん曰く、
「狂言の場合は、もちろん掛け声はないけど、うまく『間』が作れたときは、
お客様の注目がぐっと集中して、引き込めて、一体感がある」
(↑あ、言い回しとかはご本人の言とは違います。けど、だいたいそんなようなこと)
いきなり私の好みの話になっちゃうんですが、
ダメなんですよ、『熱演』系の俳優さん。
ヒくというか、感情移入できないというか、おいてけぼりにされるというか
「勝手にやっといて~~」な気分になるというか。
で、その手の役者さんって、いわゆる“演技力”はあるのかもしれないけど、
メリハリじゃなくてメリメリメリメリ…って、羊かお前はーっ!!
じゃなくて;ずーっとテンション高くて、見てて疲れる。
んで、そんなに声高に芝居をしないのに、観てるこちらがくっと意識を持ってかれちゃう役者さんは、
抑えた演技が、んまい。言われてみると。
やっぱ間を含めて、きれいな“流れ”を作る、あえて“引き算"する、っつうのは、
こうゆうことかね、と思ったのです。
TVは、編集や映像の演出も含めて完成形をつくるので、
素材である役者の演技を、あとからキレイな流れに入れ込めるよう調整できるのかもですが、
(それがないと、私は眉毛の山田君がダメで「世界の中心で、愛をさけぶ」は観られないな、きっと…)
舞台役者はなー。
そこまで自分でやらなきゃならんのね。大変だわ;
あと、「流れをつくる」というのを別の面で考えると、やっぱ台詞って音楽なのね~。と思いました。
浪曲って今回ほとんど初めて聴いた(つってもサワリだけだけど)けど、
も、まさに「ひとりミュージカル」。
歌としゃべりの間にあって、するっと楽に聴けるんだけど意味はきちんとわかりやすくて、
情景が目の前にばーっと想像できるという……すごい。
狂言もそうだけど、伝統芸能って、やっぱり観る側に伝えるための「型」がちゃんとあるから、
小さい頃からそうゆう訓練をしてきた人が、舞台俳優として台詞を言った時は、
やはし何か一本筋が通っているというか、土台があるからなんでもできるなー、と思いました。
(カツゼツとか発声とか、最低限の基礎のできてない役者が立ってる舞台は、観てる方はかなりストレス…;)
かつて、萬斎さんが松本幸四郎丈に言われたそうな。
「いい役者は耳がいい」
やっぱ、良い役者というのは、言葉を言いっぱなしじゃなくて、
それがどうゆうふうに観る側に伝わるか、客観的に観ないといかんということやね。
この日、いちばん心に残った言葉でした。
って、ここにいない人の言葉じゃねぇかよ!!
同劇場の芸術監督をつとめる野村萬斎さんが、テーマごとにゲストを迎えて、
演劇をいろんな角度から”解体”していこう、というこのイベント(トーク&レクチャー?)。
基本的には世田谷区民対象らしい(抽選の倍率も高いらしい)のですが、
それ以外の人も、当日券に並べば観られるんです。ほほ。
「その四」のときは、当日券は実は舞台の真横の席で(!)、
萬斎さんの右横顔を間近で拝めたのですが、今回は3階席立ち見。うう、あ、足が疲りる…。
ゲストに演出家・作家の鴨下信一氏、浪曲師・国本武春氏を迎えた「その伍」のテーマは
「日本語の音、ことばの色 ~発話からのイマジネーション~」
いろんな話が出てきたのですが、かいつまんで結論言ってしまうと、
- 音の流れとしての「日本語」
- 「間」をつくるということ
要は、
台詞を言う時に、日本語の意味を踏まえることも大事だけど、
強調すべきところをきちんと強調するために、それ以外のところをさらっと言う”引き算”も必要。
句読点をどこに置くか(=間をつくる)も含め、日本語の“流れ”を美しく語れない役者はダメ。
……ってことでしょうか?
でも考え間違いしてるかも。ちょっと自信ナシ。
(鴨下さん、言うこと難しいっす~(泣)。
「能で言う○○と同じように…」つっても知らないし!
「上手い役者は『刀をスラリと抜いて』というけど、下手な役者は『スラリと抜いて』って言っちゃう」
とか言われても同じに聴こえるし!)
正直、私なんか演劇の基礎知識みたいなの全然ないし、
話の内容もよくわからん、みたいなところがあったんですが、
よくよく考えてみると、思い当たるフシもあるんですな。
話題が『間』に及んだときのこと。
浪曲だと「待ってました!」とか「日本一!」とか
観客が『間』に掛け声を入れて参加する(歌舞伎の大向こうなんかもそうよね)んだけど、
対して狂言は?って話になり、萬斎さん曰く、
「狂言の場合は、もちろん掛け声はないけど、うまく『間』が作れたときは、
お客様の注目がぐっと集中して、引き込めて、一体感がある」
(↑あ、言い回しとかはご本人の言とは違います。けど、だいたいそんなようなこと)
いきなり私の好みの話になっちゃうんですが、
ダメなんですよ、『熱演』系の俳優さん。
ヒくというか、感情移入できないというか、おいてけぼりにされるというか
「勝手にやっといて~~」な気分になるというか。
で、その手の役者さんって、いわゆる“演技力”はあるのかもしれないけど、
メリハリじゃなくてメリメリメリメリ…って、羊かお前はーっ!!
じゃなくて;ずーっとテンション高くて、見てて疲れる。
んで、そんなに声高に芝居をしないのに、観てるこちらがくっと意識を持ってかれちゃう役者さんは、
抑えた演技が、んまい。言われてみると。
やっぱ間を含めて、きれいな“流れ”を作る、あえて“引き算"する、っつうのは、
こうゆうことかね、と思ったのです。
TVは、編集や映像の演出も含めて完成形をつくるので、
素材である役者の演技を、あとからキレイな流れに入れ込めるよう調整できるのかもですが、
(それがないと、私は眉毛の山田君がダメで「世界の中心で、愛をさけぶ」は観られないな、きっと…)
舞台役者はなー。
そこまで自分でやらなきゃならんのね。大変だわ;
あと、「流れをつくる」というのを別の面で考えると、やっぱ台詞って音楽なのね~。と思いました。
浪曲って今回ほとんど初めて聴いた(つってもサワリだけだけど)けど、
も、まさに「ひとりミュージカル」。
歌としゃべりの間にあって、するっと楽に聴けるんだけど意味はきちんとわかりやすくて、
情景が目の前にばーっと想像できるという……すごい。
狂言もそうだけど、伝統芸能って、やっぱり観る側に伝えるための「型」がちゃんとあるから、
小さい頃からそうゆう訓練をしてきた人が、舞台俳優として台詞を言った時は、
やはし何か一本筋が通っているというか、土台があるからなんでもできるなー、と思いました。
(カツゼツとか発声とか、最低限の基礎のできてない役者が立ってる舞台は、観てる方はかなりストレス…;)
かつて、萬斎さんが松本幸四郎丈に言われたそうな。
「いい役者は耳がいい」
やっぱ、良い役者というのは、言葉を言いっぱなしじゃなくて、
それがどうゆうふうに観る側に伝わるか、客観的に観ないといかんということやね。
この日、いちばん心に残った言葉でした。
って、ここにいない人の言葉じゃねぇかよ!!
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