私の尊敬する
聖路加国際病院・名誉院長の日野原重明医師(今年92歳の現役医師です)は「医療者にとって大事なことは、患者さんと寄り添うこと、患者さんの“痛み”を知ること」とその著書の中で繰り返し語っています。
日野原先生は現在ホスピスに非常に力を注いでいます。ただ死を待つだけの患者さんに医師がどう関われるのか、という非常に重い命題に取り組まれる中で、患者さんから教えられることの方が多かったとも言っています。
自分はもはや何もしてあげられないが、一人の人間として、苦しんでいる患者さんの側にいてその苦しみを共有することで、患者さんの心が癒され、時には肉体の苦しみさえ和らいでいく、そういう経験もしているそうです。
Lukeはこのお話を読んで、ふいに
「当事者意識」という言葉が心に浮かんできました。さいちゃんのコメントをお借りすると、
>医師が選んだ治療法に患者が従っている・医師に任せている
という現実がそれと重なっていきました。
検査、治療法、医薬品などの科学的進歩によって病気の解明は格段に進んできましたが、それに伴って問題の細分化、医師・研究者の専門化が進み、まるで人間を部品の寄せ集めのように“分析”し“修理”することが「患者を治すこと」というふうにいつの間にかなってしまい、的はずれな方向に現在の医療は進んでいってしまったようにLukeは感じています。
一方で患者さん自身も自分の感じている「苦痛」や「身体や心の変化」を見ずに、検査データやあらぬうわさ話に振り回され、その結果、過度に医師に依存してしまう。そんな悪循環に陥っているのではないでしょうか。
大事なことは、患者さん自身がまず自分の状態を自分の感覚で把握し、理解すること。そして、その苦しみを余すことなく医師に伝えること。具合が悪くなり病院に行くと、医師にいろいろ尋ねられますよね。「問診」です。これなくしては医師ははっきりいって何も出来ないのです。検査データはその医師の判断を助ける手段にすぎません。
そして「さじ加減」。これもいろいろな治療法や薬がある中で、医師が患者さんからの情報を元に取捨選択し、患者さんの体や心の反応を見ながら加減していくことですが、ここでも患者さんからの情報、つまり「医師に話すこと」が非常に重要な役割を果たしているわけです。
よく、こんなことを医師に話すと怒られるのではないか、と言う患者さんがいますが、なぜ医師が「怒る」と思うのか考えたことがありますか?
医師の立場に立って考えて下さい。健康を害する恐れのある過度の飲酒や喫煙の事実を医師が知ったら、医師の仕事は病気を治すことですから、そりゃあ「そういうことは謹んで下さい。」と言うでしょう。医師によってはもっと厳しい表現をする方もいるでしょうが、それは他の職業であっても同じこと、人それぞれではないでしょうか。それを「怒られた」と解釈するか「病気を治すために止めるべきだと教えてくれた」と解釈するかは、患者さんの受け取り方次第ではないでしょうか。
こういう風に書くと、Lukeは医師の肩を持ち過ぎだと思われるでしょうが、決してそうではありません。病気の治癒は医師―患者双方の協力なくしては決して成立しないのだということ、医療者に過度に依存する傾向がないかどうか、患者さんに振り返ってみてほしいということを申し上げたかったのです。
患者さんが「自分の状態」を常に意識していれば、そして、過度に医師に依存していなければ、もし運悪く質の悪い医師にかかってしまっても、転院あるいは
セカンドオピニオンという手段を自らすすんで選ぶという具体的な行動につながってきます。
この「自ら」が非常に大切なのです。「わからない、だから頼る」と短絡的に考えずに、自分はどういう状態なのか、自分はどうしたいのか、そのためには誰からどのように解決手段を得たらいいのかをまず考えてみること。そこから本当の「癒し」が始まるのではないでしょうか。
(写真は
昭和大学横浜市北部病院のロビーにおかれているピアノ。毎月1~数回ミニコンサートが開かれる。セカンドオピニオン導入に積極的に協力している横浜市北部地域の中核病院。)
参考図書

- 中西 正司・上野 千鶴子/共著
- 「当事者主権」(岩波新書)

- 小野 繁
- ドクター・ショッピング―なぜ次々と医者を変えるのか