前回の続き~^^;
王号を手に入れたとはいえ所詮ノルマンディはフランスの一地方。当時のイングランド王国にいたってはその一地方領主に簡単に征服される程度ですので、フランス王との対立もその後500年もの間続くほどのこともなかったと思われます。(もっともフランス王直属の領地自体も一地方領主の域を出ていませんでしたが)
この力関係に大きなに大きな変化が起きるのはアンジュー伯アンリ・ドゥ・プランタジュネという幸運な男の存在によります。詳しくは書きませんがこの男、父方の相続からアンジュー、メーヌ、トゥレーヌを、母方の相続からノルマンディ、イングランドを、妻の相続から広大なアキテーヌを得、フランスの西半分を影響下におく大貴族に成長しました。
よそのゲームからですが1187年頃のフランス周辺。右の青いのがフランス王国、左のオレンジがプランタジュネ家。ブラターニュ半島(左の青いの)のブラターニュ公国、ブリテン島のウェールズ侯国、スコットランド王国もプランタジュネ家の影響下にありました。
フランス国王としては目も当てられない状況で当然のことながらどうにかして勢力を削ごうと躍起になります。イングランド王国はともかくフランス国内の領地には自分に封主権がある以上、これを最大の武器にして何とかしようと画策を始めます。
こうしてジョン(欠地王)はフランスのフィリップ2世(尊厳王)にフランスから叩き出され、その息子アンリ(アンリ3世、ヘンリー3世)もルイ9世(聖王)にこてんぱんにされてお情けでガスコーニュ地方(南アキテーヌ、ボルドー周辺)の領有だけを認められるという、なんとも情けない結果となりました。(これら(アンリ2世のイングランド相続からアンリ3世の和約まで)を第1次百年戦争と呼んだりする場合もあります。)
コラム ~封主権~
なんで、こんなものが英仏戦争の切り札になるかというと中世の領地というものは封主に認められて初めてそのものの領地と認められたからです。また、王国や公国の範囲というものは基本的に変わることがなかったようです。
例えばプランタジュネ家はイングランド王、ノルマンディ公、アンジュー伯、アキテーヌ公などなど多数の称号を獲得しましたが、イングランド王としての権力が及ぶのはブリテン島のイングランド王国内だけでノルマンディ公やアンジュー伯としてはフランス王の臣下ということになります。
フィリップ2世はアキテーヌ公国内の伯爵とプランタジュネ家の対立をあおり、フランス王としてその対立に介入していくという手法でプランタジュネ家から領地を奪っていきました。
といったところで百年戦争へと続きます。と、とりあえず不定期連載ということで@@
※本文中でイングランド王といわれた人たちもフランス名表記になってるのは彼らの本貫地があくまでフランスだったことを強調するためにそうしてあります。ヘンリー5世までは英語もしゃべれませんでしたしね。