LOHAS 日誌

LOHASで生こう!なマ〜シャ♪のコラム

良い行いってなんだろう?(後編)

2022-07-25 20:40:00 | ゴスペル日誌
さて後半は兄のお話です。

◾️兄の罪とは?

兄はその間も父に真面目に尽くし、助け生活していました。

そのため、兄は弟の行いに身勝手さと、父の弟への振る舞いに、怒りや嫉妬を感じてしまいます。


自分は真面目に父に従い生きてきたのに、えこひいきだ、と。


しっかり者の兄と放蕩息子の弟。

どこか、よくある兄弟像ですね


しかし、ここに実は兄にも罪はあるのではないか?という問いを投げかけているように見えます。


弟の罪は分かり易いものでした。

自分勝手に財産を譲り受け使い果たし、困った挙句、親に泣いて謝り、許してもらった。


しかし兄はどうでしょう。

弟は父に財産がほしいと明に言ったのに対し、兄は財産がほしいと明にはいわなかったが、もらう目的のため、父に尽くしたのではないか、エコ贔屓だとの怒りからは、そうとも取れます。

ほしいと欲を見せたのか、見せなかったのか、その違いがあるだけで、欲しいという動機は同じように見えもします。


兄のその行い自体は、真面目で善のように見えます。

しかし、その行動の源泉たる動機が何に基づくか?そこにエゴが隠れています。

つまり、兄は、財産が欲しいがために愛や優しさ善意を使ったのではないか?ということです。


兄は、「自分は良い子で父に仕えたのに、一度も宴のようなことはしてくれなかった。。」とも憤り父に訴えます。


このことからも、欲しいものを我慢して尽くしてきたのに、弟にはその欲しいものを与えたことで、本当は父の寵愛や財産欲しさの献身であったということが伺えます。


善意ある行動を見た時、あるいはする時、その心、動機が不純か否か、ここにフォーカスするのはとても難しいかもしれません。


◾️善意の中の悪意

ここまで、善意に隠れたエゴの部分、悪意についても気をつけなさい、というお話でした。


自分が初めてボランティアをしたいと思ったのは、阪神淡路大震災の時ですが、あまりにも衝撃的で良し悪しなど考えず、とにかく助けにいくぞ!的な感じで突っ走ってました。

でも、そうした活動を続け、賞賛や感謝をもらううちに、奢りや自己正当心などが、ちらほら。。

そんな時、今の自分の行動が


その源泉たる動機からブレていないか

形だけになっていないか

賞賛や感謝欲しさにやってないか

ましてや、自分がやってるのに何故みんなはしないのか?

的な、他人を批判する気持ちが生まれていないか?


といった、続けていく中での問題に向き合う必要があると感じていました。


常にエゴなき心で善意を保つって難しく、気付くと善意がエゴという悪意に変わることがあるのだな、と感じます。 


ではどしたらよいか


おいらにも分かりませ〜ん

(マーシャ責任放棄か


ただ、自分の場合、善意は神様からの贈り物だと思っています。

善意は頭でするんでなくココロでする。


ココロの声に耳を澄まし、神様のチカラが働いたとき善意のある行動ができる。

そんときはかみさまからそれをせよ、とギフトが届けられる、そんな気がします。


なので善意をしなきゃ、いいことしなきゃ、と考えることはだいぶ無くなりました。

それよりまず、エゴのないココロの良心とつながっていくこと、それが一歩かな、と感じています。


参考文献

「放蕩」する神―キリスト教信仰の回復をめざして | ティモシー ケラー, Keller,Timothy, 麻子, 廣橋 |本 | 通販 | Amazon


良い行いってなんだろう?(前編)

2022-07-25 20:27:00 | ゴスペル日誌
なんか小難しいことを考えるやっちゃな、マーシャ。。
そんな声が聞こえそうですが
よかったらお付き合いください。

以前ボランティアをしてみて、振り返った時、
『自分は善意と思ってやってはみたが果たして本当にそうだったのか?』
と自答したことがあります。
特に考えたのは、

・相手に伝えた善意に偽りはなかったか?
・ボランティアを始めた動機にいつわりはなかっか?

です。
前者はボランティアで関わった方々に対する自分自身の判断行いが、その人、その時、その場に置いて、ベターであっても、その後に悪い影響を与えないか?
と言った、相手への善意の渡し方。

後者は自信の問題、善意の行動の動機が、自己満足やエゴでなく、他者への奉仕を純粋に考えたものだったか?

と言ったことです。

今回お話しするのは、後者、自身のエゴと善意のお話。

2018年、ゴスペル好きが興じて、教会やクリスチャンの方々と色々聖書について語りあった時のお題から紹介します。

聖書 ルカ15章 11-32のお話

ん?いきなり聖書!?

いや、構えないでください(^^)


聖書自体は、世界中で最も読まれてる本ってだけなので。。

もちろん信仰の原点でもありますが、当時を生きた人々のエピソードや出来事も書いてあって、今にも通じるような話題もあったりするので、本屋さんで手にとって見てくださいね


で、ルカの福音書15章 11説から始まるお話です。

とある父、兄、弟の話です。


ある日、弟は自分に分け与えられる予定の財産を先に欲しい、とせがみます。

(いきなりですね。。


そして、その財産をもらい出て行ってしまいます。

(激しいっすね〜。。

が、程なく、全部使い果たし、落ちぶれてしまいます。

(うーんなんか想像つくね〜。。


また飢饉もあって、食べ物もなく、与えてくれる人もなく、生きる気力もなくなるほど消沈した時、心から自分の行なった過ちに気づき、家族の縁を切って、雇人としてでも良いから、父の元に置かせてほしい、と心からの謝罪のため、自分の過ちを許してもらえないかも。。と思いながらも父の元に帰ります。

(そんな罰当たりしたら許されるわけないやろ〜。そんなん人生甘ないでぇ


しかしそんな弟を父は喜んで宴までして迎え入れるのです。

(え〜ちょっとは叱るとか、うちの敷居跨ぐなとか、エグい方に行かへんの〜!?とーちゃんえ〜人すぎやん!


と、(心の中)は小市民なオイラの心のつぶやき。。


と、なんかベタな呟きでした


ここまでの下りを読むと、この父は、弟の罪を赦し、迎え入れるかみさまのような存在。

弟はかみさまから離れたぼくたち。その関係を描いているように見えます。


しかしこのあとちょっと続きがあります。

兄はどうであったか?です。


後編へ続く。

良い行いってなんだろう?(後編) - LOHAS 日誌



生活の中のゴスペル。

2022-07-24 08:27:00 | ゴスペル日誌
マ〜シャ♪です(^o^)
今回はシャリマがゴスペルに出会った時の話から、暮らしの中にあるゴスペルについてお話します。

2002年。

短期の語学留学でNZを訪問した時、ホストに連れられて訪れた教会の礼拝でゴスペルに触れました。
それまで、キリスト教というと、聖書のルカ書やノアの箱船など、有名なエピソードを見聞きしたくらいで教会に足を運んだことはなく、聖歌や賛美歌、祈り、礼拝などは、どこか崇高なものと思い、敷居の高いイメージがありました。

反面、NZで見た礼拝は、とてもカジュアル。そして、生活に根ざしていていたことに驚きました。
ゴスペルの伴奏はドラムやコントラバス、ギターにピアノといったバンドスタイル。そこにポップやロック、ジャズの曲調のゴスペルの伴奏が流れます。
歌もいわゆるクワイアのような、コーラスといったものでなく、歌詞を口にして祈るだけのお年寄りもいれば、バンドに合わせて楽しそうに歌う子供と親御さん、ハモる人もいれば、ふつうに歌う人もいる、そんな祈りと歌が混ざったゴスペルでした。
そんな信徒さんの姿に、教会や礼拝を少し遠い存在に思っていた自分には、こんなにも生活感のある礼拝に、ちょっとしたカルチャーショックでした。


かたや日本では、1992年の映画、天使にラブソングでゴスペル音楽が注目されて以来、音楽教室で講座が持たれ、習い事として一般に広く紹介されるようになっていました。
ある牧師さんが、
『これまで、信仰を述べ伝えることで聖書のみことばを伝えてきたが、なかなか伝わらなかった。でも、ゴスペルがきっかけでカミさまを知りたい、と教会を訪れる方が増え始めた。これはとても嬉しい反面、他の国の広まり方と違った、興味深い伝道。かみさまのなさることは不思議であり、必要な形で伝えてくださるという、一つの事例なのかもしれません。』
と仰っていました。

私もゴスペルを歌ってみよう!と思った時、選んだのは音楽教室でした。
なんか、信仰心があったわけでもなく、ただ歌を習ってみようと思った時、テクニカルなことより楽しく歌いたいと思って、見つけたのがゴスペルでした。

教会の音楽が習い事になる、クリスチャンの方から見たら、また普通に考えても、ちょっと違和感があると思うのですが、
見方を変えると、信仰や宗教への関心が薄いと言われる日本で、このようにして広まったというのは、ある意味NZのように、日本ならではの形で生活の一部に入ってきた、とも言えるかもしれませんね。