谺して山ほととぎすほしいまゝ (久女ブログ)

近代女性俳句の草分け的存在である杉田久女について

俳人杉田久女(考) ~家庭の内と外での杉田宇内~ (15)

2017年01月19日 | 俳人杉田久女(考)

久女の夫、杉田宇内は家庭の中では、妻久女に対して前回述べた様であっても、<家庭の外では学校の職務に励み、卒業生や在校生の面倒を、日曜祭日、休日もないといってもよい位、事細かによく見た。なので10人のうち9人は宇内の事を悪くいう人はいない。反面、久女は愛想が悪いとか頭が高いなどと言われ、相手から許し難く思われたに違いない>と長女昌子さんは、その著書で書いておられます。
<大正初期の頃 夫宇内、長女昌子 久女>

家の内と外で振るまいが違うというのは、ある程度は誰にでもあることですが、宇内の場合はそれが極端だったのでしょう。長女昌子さんの著書にある話ですが、宇内は仕事から帰って外で気に入らないことがあると、靴を履いたまま久女が火をおこしていた七輪を蹴散らし、久女は泣きながら散らかったものをひろい、また火をおこし直す様なこともあった様で、家庭の中では感情のままに振る舞っていた姿が垣間見えます。

療養中におきた離婚話は、宇内と久女の間に大きな溝をつくることになってしまいました。久女が思い直して帰って来たことは、もう一回やり直そうという意思表示なのに、宇内はそれを許すどころか、反対に責める材料にしました。

昌子さんの書いたものによると、宇内は妻に来た手紙を水で濡らして開封し、ひそかに読んで又ポストに入れておくという事もしたそうで、男尊女卑の時代背景といってもそれは許されないことでしょう。

久女の育った家庭は沖縄、台湾の外地生活が長く、見聞も広かっただろうと思われます。父は女の子にも教育は必要と考え、久女にも姉にも高等教育を受けさせています。

宇内は反対に閉鎖的な山深い奥三河の生まれです。娘が本を読むのも「生意気になる」と言って好まなかったそうで、長女昌子さんは隠れて本を読んだと言っておられます。

育った環境の違いから、あるいは当時の時代背景から
来たようにも思われる夫婦の性格、考え方の違いは、後々まで二人の生き方に影響を及ぼしたように思います。

にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ


(この久女ブログは「日々の暮らしに輝きを! http://blog.goo.ne.jp/lilas526」の中のカテゴリー、俳人杉田久女(考)を独立させたものです。久女ブログの目次は左サイドバーの最新記事の最後にある >>もっと見るをクリックすると出てきます。)












俳人杉田久女(考) ~夫婦間の溝~ (14)

2017年01月19日 | 俳人杉田久女(考)

年譜によると、東京の実家での約1年にわたる腎臓病治療の療養をどうにか終えて久女が小倉に戻って来たのは、大正10年(1921)7月でした。この時、彼女は31歳になっていました。
<大正10年頃の久女と次女光子>

久女の長女昌子さんはこの時期のことを、久女年譜にこう書かれています。<里方滞在中、母さよから子供のために辛抱して、夫が俳句を嫌うなら俳句をやめるように説得された。自分の記憶では、宇内は腹の悪い人ではないかわり単純で、久女の離婚したいという気持ちを昼夜責め立てた。亭主関白ともいえる時代だったので、久女は泣きの涙で家を飛び出さねば喧嘩は止まなかった。宇内は病的なくらい執拗で、久女を怒らせ、目を吊り上げるまでにしなければすまなかった。怒れば久女の方が強かったにせよ、怒らせるまでに挑発するのはいつも宇内の方であった。中学教師は嫌いといった久女の言い分は表面的なものではなく、宇内の性格的なものに対する批判と非難が籠っている>と。

怒れば久女の方が強かった、というのは面白いですね。久女が居住まいを正して説明すると、おそらく宇内は答えに窮したのでしょう。

この文章に限らず、長女昌子さんが書いた他の文章を読むと、久女の夫宇内には妻への寛大さ、思いやり、妻の人格への配慮がなく、代わりに人を責めたがる酷薄さ、ゆがんだ嫉妬などが感じられ、ため息が出る程です。

(写真はネットよりお借りしました)

にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ


(この久女ブログは「日々の暮らしに輝きを! http://blog.goo.ne.jp/lilas526」の中のカテゴリー、俳人杉田久女(考)を独立させたものです。久女ブログの目次は左サイドバーの最新記事の最後にある >>もっと見るをクリックすると出てきます。)