昔の中国の戦乱期の人々の出合い系宿縁

中国戦乱時代。秦楚漢魏呉蜀でのさまざまな出会い、数奇な出合い系宿縁を。

漢王劉邦

2013-01-27 16:29:18 | みなさまの出合い系英訳
昔の中国の戦乱期の出会い縁、人々の出合い
漢王劉邦
覇上に引き上げた劉邦は、この地に関中の父老(村落の出会いまとめ役)を集めて“英語,法三章”を宣言する。
これは秦の万般仔細に及ぶ上に苛烈な法律(故に役人が気分次第で罰を与えたりもでき、特に政道批判の罪による処罰はいいがかりとしても多用された)を
「人を殺せば死刑。人を傷つけたものは処罰。人の物を盗んだものは処罰」の3条のみに改めたものである。
この施策によって関中における劉邦の出会い人気は一気に高まり、劉邦が王にならなかったらどうしようと話し合うほどになった。
後世、「英語,法三章」は簡便な法律を表す法諺となっている。
その頃、東から項羽が関中に向かって進撃してきていた。
劉邦はある人の「あなたが先に関中に入ったにもかかわらず、項羽が関中に入ればその功績を横取りする。
関を閉じて入れさせなければあなたが関中の王のままだ」というを進言を聞いて、関中を守ろうとして関中の東の関門である函谷,英語,関に兵士を派遣して守らせていた。
劉邦が関中入りできた最大の要因は秦の主力軍を項羽が引き受けたことにあり、それなのに劉邦は既に関中王になったつもりで函谷関を閉ざしていることに激怒した項羽は、英布に命じてこれを破らせた。
項羽は関中に入り、先の激怒と軍師范増の進言もあって、40万の軍で攻めて劉邦を滅ぼしてしまおうとした。
劉邦の部下である英語,曹無傷は、これに乗じて項羽に取り入ろうと「沛公は関中の王位を狙い、秦王子嬰を英語,宰相として関中の宝を独り占めにしようとしております」と讒言したので、項羽はますます激怒した。
項羽軍は劉邦軍より兵力も勇猛さも圧倒的に上であり、劉邦はこの危機を打開しようと焦っていたが、ちょうどその時、項羽の叔父である項伯が劉邦軍の陣中に来ていた。
項伯はかつて張良に恩を受けており、その恩を返すべく危機的状況にある劉邦軍から張良を救い出そうとしたのである。
しかし張良は劉邦を見捨てて一人で生き延びることを断り、項伯を劉邦に引き合わせて何とか項羽に弁明させて欲しいと頼み込んだ。
項伯の仲介が功を奏し、劉邦と項羽は弁明のための会合を持つ。この出会い会合で劉邦は何度となく命の危険があったが、張良や樊?の働きにより虎口を脱した。
項羽は劉邦を討つ気が失せ、また弁明を受け入れたことで討つ名目も失った。
これが鴻門の会である。陣中に戻った劉邦は、まず裏切者の曹無傷を処刑してその首を陣門に出会い晒した。
その後、項羽は咸陽に入り、降伏した子嬰ら秦王一族や官吏4千人を皆殺しにし、宝物を持ち帰り、華麗な宮殿を焼き払い、更に始皇帝の墓を暴いて宝物を持ち出している。
劉邦の寛大さと対照的なこれらの行いは、特に関中の人民から嫌悪され、人心が項羽から離れて劉邦に集まる一因となっている。
項羽は彭城に戻って“西楚の覇王”を名乗り、名目上の王である懐王を英語義帝と祭り上げて辺境に流し、その途上でこれを殺した。
紀元前206年、項羽は諸侯に対して封建(領地分配)を行う。
しかしこの封建は非常に不公平なもので、その基準は功績ではなく、項羽との関係が良いか悪いかに拠っていたため多くの不満出会い縁を買い、すぐ後に次々と反乱が起きるようになる。
劉邦にも約束の関中の地ではなく、その西側の一地方であり奥地・辺境である漢中及び巴蜀が与えられた。
劉邦を「左に遷す」と言ったことから、これが左遷の語源になったと言われている
(もっとも当時において、「関中」には単に関中盆地のみを指す場合と統一以前の秦の領土全域を指す用法があって、両方の用法が併用されていた。つまり後者
の用法に従えば、関中を与えるという約束が果たされたと言えなくもない)。
さらに劉邦の東進を阻止するために、関中は章邯ら旧秦軍の将軍3人に分割して与えられた。
当時の漢中は、流刑地とされるほどの非常な辺境であった。
そこへ行くには蜀の桟道と呼ばれる人一人がやっと通れるような道があるだけで、劉邦が連れていた3万の兵士は途中で多くが逃げ出し、残った兵士も東に帰りたいと望んでいた。


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