昔の中国の戦乱期の人々の出合い系宿縁

中国戦乱時代。秦楚漢魏呉蜀でのさまざまな出会い、数奇な出合い系宿縁を。

高祖劉邦(2)反秦連合へ~項羽との出会い

2012-11-22 14:07:39 | みなさまの出合い系英訳
ある時、劉邦は亭長サイトの役目を授かり、英語人を引き連れて咸陽へ向かっていたが、秦サイトの過酷な労働と刑罰との出合い縁を知っていた人夫たちは次々と逃亡し、やけになった劉邦は浴びるように酒を飲んだ上、酔っ払って残った全ての英語人を逃がし、自らも一緒に行くあてのない人夫らと共に沼沢へ隠れた。

紀元前209年、陳勝・呉広の乱が発生し反乱軍の勢力が強大になると、沛の県令は反乱軍に協力するべきか否かで動揺、そこに蕭何と曹参が「県令では誰も従わない、人気のある劉邦を押し立てて反乱に参加するべきだ」と吹き込んだ。

一旦はこれを受け入れた県令であったが、彼氏に使者が行った後に考えを翻し、沛の門を閉じて彼氏を締め出そうとした。

彼氏は一計を案じて絹に書いた手紙を城の中に投げ込んだ(中国の都市は基本的に城塞都市である)。
The boyfriend threw in into the castle the letter which thought out a plan and was written to silk (the city in China is a fortification city fundamentally).
その手紙には「今、この城を必死に守った所で、諸侯(反乱軍)がいずれこの沛を攻め落とすだろう。

そうなれば沛の人々にも災いが及ぶことになる。

今のうちに県令を殺して頼りになる人物(彼自身のこと)を長に立てるべきだ」と書いてあり、それに答えた城内の者は県令を殺して劉邦を迎え入れた。

しかし、彼氏は最初は「天下は乱れ、群雄が争っている。自分などを選べば、一敗地に塗れることになる。他の人を選ぶべきだ」と辞退した。
However, "world was in disorder at first and Gunyu has fought for the boyfriend.
It will kiss the dust, if one are chosen.
It declined, "You should choose other persons."

しかし、蕭何と曹参までもが劉邦を県令に推薦したので、劉邦はこれを受けて県令となった。

以後、劉邦は沛公と呼ばれるようになる。

この時彼氏が集めた兵力は2、3千という所で、配下には蕭何・曹参の他に犬肉業者をやっていた義弟の樊噲、劉邦の幼馴染の出会い縁で同日に生まれた盧綰、県の厩舎係をやっていた夏侯嬰、機織業者の周勃などがいた。

この軍団で周辺の県を攻めに行き、豊の留守を雍歯という者に任せたが、雍歯は旧魏の地に割拠していた魏咎に誘いをかけられて寝返ってしまった。

怒った劉邦は豊を攻めるが落とすことができず、仕方なく沛に帰った。

当時、陳勝は秦の章邯の軍に敗れて逃れたところを殺されており、部下の景駒が君と秦嘉英語という者に代わりの王に無料で擁立されていた。

劉邦は豊を落とすためにもっと兵力が必要だと考えて、景駒に兵を借りに行く。

紀元前208年、劉邦は君と共に秦軍サイトと戦うが、敗れて引き上げ、新たに碭(トウ、現在の安徽省碭山。碭は石偏に昜)を攻めてこれを落とし、ここにいた5、6千の兵を合わせ、更に下邑(河南省鹿邑)を落とし、この兵力を持って再び豊を攻めてやっと落とした。

豊を取り返した劉邦であったが、この間に豊などとは比べ物にならないほどに重要なものを無料で手に入れていた。
Although it was ryuuhou which regained Yutaka, what has so important in the meantime that it does not become a comparison Yutaka etc. was got for nothing.
張良との出会いである。張良は始皇帝暗殺に失敗した後に、旧韓の地で兵士を集めて秦と戦おうとしていたが、それに失敗して留(沛の東南)の景駒の所へ従属しようと思っていた。

張良自身も自らの指導者としての資質の不足を自覚しており、自らの兵法をさまざまな人物に説いていたが、誰もそれを聞こうとはしなかった。

ところが劉邦は出会うなり熱心に張良に言葉を聞き入り、張良はこれに感激して「沛公はほとんど天性の英傑だ」と劉邦のことを褒め称えた。

これ以降、張良は劉邦の作戦のほとんどを立案し、張良の言葉を彼氏はほとんど無条件に聞き入れ、ついには天下をつかむことになる。
Tyouryou will draw up most strategy of Ryuuhou after this, a boyfriend will almost grant the language of Mr.Tyouryou unconditionally, and a world will be held finally.

劉邦と張良の関係は君臣関係の理想として後世の人に仰ぎ見られることになる。

その頃、景駒は項梁によって殺され、項梁が新たな反秦軍の頭領となって、旧楚の懐王の孫を連れてきて楚王の位に即け、祖父と同じく懐王と呼ばせた(後に項羽より義帝の称号を送られる)。

劉邦は項梁の勢力下に入り、項梁の甥である項羽と共に秦軍と戦う。

項梁は何度となく秦軍を破ったが、それと共に傲慢に傾いて秦軍を侮るようになり、章邯英語軍の前に戦死した。
Although there is no Mr.Kouryou with what times and Sin was broken, it inclined haughtily with it, came to despise Sin, and was killed in war before Mr.Syoukan English army.

彼氏は遠征先から軍を戻し、新たに反秦軍の根拠地に定められた彭城(現在の江蘇省徐州市)へと集結した。

項梁を殺した章邯は軍を北へ転じて趙を攻め、趙王の居城英語鉅鹿を包囲したため、趙は楚へ救援を求めてきていた。

そこで懐王は宋義・項羽・范増を将軍として主力軍を派遣し、趙にいる秦軍を破った後、咸陽へと攻め込ませようとし、その一方で劉邦を出合い別働隊として西回りに咸陽を衝かせようとした。

そして懐王は「一番先に関中(咸陽を中心とした一帯)に入った者をその地の王とするだろう」と約束した。

趙へ向かった項羽は、途中で行軍を意図的に遅らせていた宋義を殺して自ら総指揮官となり、渡河した後に船を全て沈めて3日分の兵糧を配ると残りの物資を破棄し、退路を断って兵士たちを死に物狂いで戦わせるという凄まじい戦術で秦軍を撃破、一気にその勇名を高めた。

しかしその後、咸陽へ進軍する途中で秦の捕虜20万を生き埋めにするという、これも凄まじい虐殺を行う。
However, the slaughter also with this frightful of burying Hata's prisoner of war 200,000 alive is performed while marching to Kanyou after that.

このことは後の楚漢戦争でも項羽の悪い評価として人々の心に残り、多大な影響をもたらすことになる。
Also by next War of So and Kan , this will remain in people's heart as bad evaluation of Mr.kouu, and will bring about great influence.
英訳の参考文献

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高祖劉邦(1)出生~人間界との出会い

2012-11-16 10:40:38 | みなさまの出合い系英訳
出生~人間界との出会い

沛県郡豊県中陽里(現在の江蘇省徐州市沛県)で、父・劉太公と母・劉媼の三男として誕生した。

人間界との出会い。長兄に劉伯、次兄に劉喜が、異母弟に劉交がいる。生年については2説ある。

劉媼が劉邦を出産する前、沢の側でうたた寝をしていると、夢の中で神に出合い、劉太公は劉媼の上に龍が乗っている姿を見た。その夢の後に劉邦が生まれたという。

また、諱の「邦」は『史記』では記されておらず、現在に残る文献で一番古いものでは後漢の荀悦『漢紀』に記され、史記 漢書の注釈でそれを引用している。

出土史料から諱が「邦」であったことはおそらく正しいと思われる。また、字の「季」は「末っ子」のことである。

劉邦の容姿は鼻が高く、立派な髭をしており、いわゆる龍顔、顔が長くて鼻が突き出ている顔をしていたという。

また太股に72の黒子があった、72とは1年360日を五行思想の5で割った数で、当時ではかなりの吉数である。

反秦戦争に参加する前の劉邦はいわゆる侠客であり、家業を厭い、酒色を好んだ生活をしていた。

出合い縁あって沛東に位置する泗水の亭長(警察分署長)に就任したが、任務に忠実な官人ではなかった。

沛の役人の中に後に劉邦の覇業を助けることになる蕭何と曹参もいたが、彼らもこの時期には劉邦を高くは評価していなかったようである。

しかし何故か人望のある性質であり、仕事で失敗しても周囲が擁護し、劉邦が飲み屋に入れば自然と人が集まり店が満席になったと伝えられる。またこの任侠時代に張耳の食客になっていたともいう。

ある時に劉邦は夫役で咸陽に行った事があったが、そこで始皇帝の行列と出会い、「ああ、男たる者はああ成らなくてはいかんな」と言った。

この言葉は項羽が同じく始皇帝の行列を見たときに言った「あいつに取って代わってやる」という言葉とよく対比され、劉邦と項羽の性格の違いを表すものとして使われる。

あるとき、単父(山東省)の人・呂公が仇討ちを避けて沛へとやって来た。

名士である呂公を歓迎する宴が開かれ、蕭何がこの宴を取り仕切った。

沛の人々はそれぞれ進物に金銭を持参して集まったが、あまりに多くの人が集まったので、蕭何は進物が千銭以下の人は地面に座ってもらおうと提案した。

そこへ劉邦がやってきて進物を「銭一万銭」と呂公に伝えた。

あまりの金額に驚いた呂公は慌てて門まで劉邦を迎えて、上席に着かせた。蕭何は劉邦が銭など持っていないのを知っていたので、「劉邦は前から大風呂敷だが、実際に成し遂げたことは少ない(だからこのことも本気にしないでくれ)」と言ったが、呂公は劉邦を歓待し、その人相を見込んで自らの娘を娶わせた。
これが呂雉との出会いである。

妻を娶ったものの劉邦は相変わらずの侠客であり、呂雉は実家の手伝いをし、2人の子供を育てながら生活していた。

ある時、呂雉が田の草取りをしていた所、通りかかった老人が彼女に出逢い呂雉の人相がとても貴いと驚き、息子と娘(後の恵帝と魯元公主)の顔を見てこれも貴いと驚き、帰ってきた劉邦がこの老人に人相を見てもらうと「奥さんと子供たちの人相が貴いのは貴方がいるためである。

あなたの貴さは言葉にすることが出来ない」と言い、劉邦は大いに喜んだという。

史記には他にもいくつかの「劉邦が天下を取ることが約束されていた」との話を載せている。

ただ、それらの逸話サイトの中で劉邦は赤龍系の子であるとする逸話は、漢が火徳の帝朝と称することに繋がっている。

項羽の生涯、さまざまな出会い

2012-11-05 10:23:41 | みなさまの出合い系英訳
項羽のさまざまな出会い
項羽(項 籍 こう せき、紀元前232年 - 紀元前202年)は、秦末期の楚の武将。秦に対する造反軍の中核となり秦を滅ぼし、一時西楚の覇王(在位紀元前206年 - 紀元前202年)と号した。その後、天下を劉邦と出会い、争い(楚漢戦争)、当初は圧倒的に優勢であったが人心を得ず、次第に劣勢となって敗死した。
姓は項、名は籍、字が羽である。以下、一般に知られている項羽(こうう)の名で記す。

数奇な出合い縁の生涯
挙兵まで 項羽は楚の将軍であった項燕の孫であり、項氏は代々楚の将軍を務めた家柄であった。項羽は両親を早くに亡くしたため叔父サイトの項梁に出会い、養われていた。
『史記』によれば、項羽は文字を習っても覚えられず、剣道を習ってもあまり上達しなかった。項梁はその事で項羽を怒ったが、項羽は「文字なぞ自分の名前が書ければ十分です。剣術のように一人を相手にするものはつまりません。私は万人を相手にする物がやりたい」と答えたので項梁は喜んで兵法を項羽に教えた。項羽は兵法の概略を理解すると、それ以上は学ぼうとしなかった。
成人すると、身長が9尺(約207センチ)の大男となり、怪力を持っており、才気は人を抜きんでていたこともあって、呉中の子弟はすでに項羽には一目置いていた。

秦軍との出合い
秦末期、陳勝・呉広の乱が起きると、項羽は項梁に従って会稽郡役所に乗り込み、郡守である殷通をだまし討ちした後に襲いかかってきた殷通の部下数十名を一人で皆殺しにし、会稽の役人たちは項羽の強さに平伏、項梁は会稽郡守となって造反軍に参加した。陳勝が敗死すると項梁は范増から教えを請い旧王家の末裔を探し出してこれを「楚王」に祭り上げて大いに威勢を奮ったが、秦の章邯の奇襲系出合いによって戦死する。このとき、項梁の戦死を恨んだ項羽は、章邯が居城としていたが既に去っていた定陶城の住民を皆殺しにしている。項梁死後の楚軍の指揮について会議が行われたが、結局斉の使者に項梁の戦死を予言した宋義が楚軍を指揮することになった。
宋義は趙の張耳、陳余の救援要請を受けて趙へ向かったが、進軍を安陽までで止めてしまい、兵が飢えてしまった。項羽は進軍すべきと宋義に直訴したが「秦が趙との戦いで疲弊したところを打ち破る」と言う宋義に納得できなかった項羽は彼を殺害し、実質的な楚軍の総大将となった。また、斉の宰相に就任しようと楚軍から離れていった宋義の息子の宋襄も追いかけて殺害した。
そして、項羽は咸陽へ向けて北進を開始した。途中、鉅鹿を包囲していた秦の名将・章邯が率いる20万を超える大軍と決戦した。鉅鹿の落城は時間の問題と見られており、趙救援に駆けつけていた各国の軍は全く手を出せず、傍観していた。
しかし項羽は、まず秦軍の食料運搬部隊を襲い、糧道を絶って秦の大軍を飢餓に追い込み、士気を低下させた。次いで彼は、川を渡った後に兵士に三日分の兵糧のみを与え、残りの物資と共に船を沈めた。三日で決着が着かねば全滅あるのみ、と決死の覚悟をさせたのである。そして彼は王離の軍を包囲し、甬道を絶って章邯との戦いに大勝し、王離を捕え、蘇角を討ち取った。秦の将の渉間は自殺した。この戦いで数に劣る楚の兵は皆一人で十人の敵と戦ったという。この功績により各国の軍の指導者達は項羽に服属し、項羽は上将軍となった。
項羽はその後も秦軍を攻め、連戦連勝し、総大将の章邯は降伏を申し出、戦いは終わった。この時、彼は20万以上の秦兵を捕虜として得たが、暴動の気配が見えたので新安という所でこれを全て坑(穴に埋めて殺す事)した。
項羽は関中に入ろうとしたが、その時すでに、別働隊として咸陽を目指していた劉邦が関中に入っていた。功績を横取りされたと感じた項羽は大いに怒り、劉邦を攻め殺そうとした。劉邦は慌てて項羽の伯父項伯を通じて和睦を請い、項羽と劉邦は酒宴を開いて和睦の話し合いを行い、劉邦は命拾いをした。これが有名な鴻門の会である。
西楚の覇王 項羽は劉邦を許した後、劉邦に降伏していた秦の最後の王である子嬰一族を殺し、咸陽を焼き払って財宝を略奪した。その後、地の利の良い咸陽を都とするように進言されたが、故郷に錦を飾るために楚の彭城(現在の徐州)を都と定めた。
楚へ帰ると自ら「西楚の覇王」と名乗り、諸侯を対象に大規模な封建を行うが、その基準となったのは功績ではなく、項羽との関係が良好か否かであった。故に、ろくに手柄を立てなかったものが優遇されたり、逆に、咸陽に一番乗りして秦を滅亡させた劉邦が冷遇されて漢中に左遷されるなど、不公平なものとなり、諸侯の多くに大きな不満を抱かせるものとなった。
また、楚の懐王を「義帝」と呼んで格上げしたが、遷都ということで彭城から追い出し、僻地へ移動させたその途中で暗殺した。
楚漢戦争 紀元前206年、斉の王族・田栄が項羽に対して挙兵すると、これをきっかけに封建に不満を抱く諸侯が続々と反乱を起こした。義帝の殺害を知った「漢王」劉邦は大義名分を得て蜂起し、諸侯へ項羽への反乱を呼びかける。これ以降の楚と漢の戦争を「楚漢戦争」と呼ぶ。
このときの諸侯に向けた檄文は以下のものである。
「天下共立義帝,北面事之.今項羽放殺義帝於江南,大逆無道.寡人親出会い系為發喪,諸侯皆縞素.悉發關内兵,收三河士,南浮江漢以下,願從諸侯出合い系王?楚之殺義帝者.」
項羽は討伐軍を率いて各地を転戦する。項羽は戦闘には圧倒的に強く、項羽が行けばすぐに反乱は収まるものの、間を置かず別の地域で反乱が置き、項羽がその鎮圧に行けばすぐにまた別の地域で反乱が再発するといういたちごっこを繰り返した。また項羽が降伏を許さず、反乱を起こした国の兵士は全員生き埋めにして殺し、住民も情け容赦なく殺すため、反乱軍は兵民一丸となって必死に抵抗し、戦闘は泥沼化していった。
特に斉は70余りの城があり、項羽は長らく手を煩わされることになる。さらに、九江王に封じた英布に幾度も救援要請を行ったが、病と称して拒否されるなど、味方と考えていた者にも裏切られている。項羽は戦術には非常に優れていたが、戦略・政略・人望などに乏しく、直情径行型であったため人の恨みを買いやすかったといわれる。
三秦(関中)を平定した劉邦は魏・趙などと連合して50万を超える大軍を率いて楚の彭城を占領するが、これは寄せ集めの集団であり、3万の精兵のみを率いて急行してきた項羽はこの大軍を一蹴する(彭城の戦い)。劉邦は敗走し、父や妻の呂雉は項羽の捕虜となった。その後、項羽は?陽(けいよう、河南省?陽市)一帯に劉邦を追い込んだが(?陽の戦い)、劉邦配下の韓信による魏・趙・燕・斉諸国遠征や、
項羽に反感を抱く彭越、離反した英布などの、諸侯による後方撹乱行動に悩まされる。
このため劉邦をしばしば破り何度も追い詰めながら、最後にはいつも逃げられてしまい、別の反乱の鎮圧に戻らざるを得なくなって追及の手を緩めると、今度は関中の蕭何の補給で盛り返した劉邦が再度項羽と対峙する、という繰り返しとなった。
その間隙を狙って行われた陳平による内部分裂工作により、知恵袋であり亜父(父についで尊敬する人)とまで呼んでいた范増や、これまで共に闘ってきた鍾離昧・龍且等の将軍を疑うようになる。その後、范増は病死し、韓信に攻められていた斉の救援に龍且率いる20万の軍勢を差し向けるものの、これは韓信の水計との出会いにより壊滅し、大打撃を受ける。更に漢から斉に至る楚包囲網が完成し、ここにきて劉邦・韓信の力が楚を上回るようになっていった。

四面楚歌との出合い
紀元前203年、項羽は劉太公を返還することで劉邦と一旦和睦し故郷へ帰ろうとしていた。しかしこの時、漢軍サイトが和平の約束を破り項羽の後背を襲った。長い戦闘との出会いで疲弊の極みにあった楚軍は敗走し、韓信の兵力30万を始めとする諸侯連合軍に項羽軍10万は垓下に追い詰められた(垓下の戦い)。この時に城の四方から項羽の故郷である楚の国の歌が聞こえてきた。これを聞いた項羽は「漢は皆已に楚を得たるか?是れ何ぞ楚人の多きや」と嘆いた。ここから四面楚歌の言葉との出会い。
その夜、項羽が愛人、恋人、恋女房の虞美人に送った詩が垓下の歌である。
「力は山を抜き,気は世を蓋う。時、利あらず,騅、逝かず。騅の逝かざるを奈何にす可き。虞や、虞や,若を奈何んせん!」
項羽は手勢八百騎を率いて漢軍の包囲網を突破して烏江(うこう、今日の安徽省和県の烏江鎮)と言うところまでやってきた。烏江の亭長に出会い、彼から
「江東は小さな所ですが土地は千里あり、万の人との出会いが待っています、彼の地ではまた王になるには十分でしょう。願わくは大王、早く渡ってください。今は私一人が船を出し、漢の軍は至っても渡ることは出来ないでしょう」
と言われたが、項羽は
「天が我を滅ぼすのに何故渡ろうか?私が江東の子弟八千人を率いてここから西へ出発し、今一人として帰る者が居ない、たとえ江東の父兄が哀れんで私を王にしようとも、私に何の面目があろう?たとえ彼らがそれを言わなくとも、どうして私一人が心に恥を感じずにいられようか」
と断った。 『史記』によれば、項羽は自分の乗馬である騅を烏江の亭長に譲り渡し、従卒を下馬させ、劉邦軍と出会い迎え撃ち、項羽みずから数百人の敵兵を討ち取ったという。この戦いで十数か所に傷を負った項羽は、追っ手の中に旧知の呂馬童がいるのを見つけると、
「漢は私の頭に金を千と邑を万を懸けていると聞く、おまえにその恩賞をやろう」
と、言って自らの首を刎ねて死んだ。
劉邦は項羽を殺した者に対して領土をかけていたので、項羽が死んだ時、王翳が頭をとり、その他の部分の死体に向かって兵士が群がり、死体を取り合い、殺し合う者が数十人にもなった。故に死体は五つに分かれた。劉邦はその五つの持ち主(楊喜・王翳・呂馬童・呂勝・楊武)に対して一つの領土を分割して渡した。また劉邦は無惨な死体となった項羽を哀れみ、魯公の礼を以て穀城に葬った。なお、項羽の死後、項伯(射陽侯)をはじめとして項一族はいずれも劉邦によって列侯に封じられ、劉姓を賜っている。

項羽の評価
項羽は劉邦と対照的な性格とされ、それを示す逸話として項羽と劉邦がそれぞれ始皇帝の行幸との出合いの時の発言が良く取り上げられる。項羽は始皇帝の行列を見て「あいつに取って代わってやる!」と言ったが、劉邦は「ああ、立派な男とは此の様な者であるべきだな」と言ったと伝えられる。
このように項羽と劉邦は様々な点で対照的な面を見せたが、劉邦が項羽に対して対照的であろうとした節もある。項羽は自らも言うように戦場では連戦連勝で文句の付け所が無かったが、戦闘以外の場所では捕虜を虐殺したりするなどの悪行が目立った。有名な新安での秦兵20万の虐殺は項羽にとっては決して特別な行為ではなく、それ以外にも城を落とすたびに住民を殺したことが幾度もあった。項羽に対して秦は激しく抵抗し、その間、秦軍を降伏させて進軍を早めた劉邦が先に咸陽一番乗りを果たしている。また、こうした苛烈さは、秦滅亡後に起きた斉の離反を鎮圧できずに劉邦に東進を許してしまう原因にもなった。

事跡から想像できる項羽の性格は、かなり子供っぽいものと言える。咸陽を落とした後、「関中は山河に四方を囲まれ、土地は肥沃、此処に都を構えて覇を唱えましょう」と進言されたが「せっかく出世したのに故郷へ凱旋しないのは、夜中に刺繍の入った着物を着て道行くのと同じことぞ。誰がそれを知ろうか」と答えたという逸話は、項羽の性格をよく表している。

項羽は喜怒哀楽が激しく、部下に対して厚く慈しむ場合もあれば、激しく詰ることも多かった。特に部下と女子との扱いが極端に違っていたこともあり、韓信を雑兵のまま重用しなかったり、陳平の対応に怒り殺そうとしたため陳平が漢に降ることになったり、揚げ句の果てには亜父と慕っていた范増さえも疑って引退させるなど、その性格から数々の将軍・策士が項羽から離れる結果となった。秦滅亡後の処遇も、論功行賞ではなく項羽と仲が良いかどうかによっており、数々の反乱を生む要因となった。
また、ある時あまり敵兵が抵抗せずに城を落とせた為兵士が弱い(或いは敵兵が強く抵抗したことで自分を主と認めない)と怒って城兵を含む住民を皆殺しにしようとしたが、利発な子供に出会い説得されて住民の皆殺しを取りやめたなどの逸話がある。

韓信に評価された「匹夫の勇」(取るに足らない男の勇気)、「婦人の仁」(実態の伴わない女のやさしさ)という項羽の性格は、天下を治めるには不適格だった。そうした自分の欠点に最後まで気づかないまま自ら命を絶った項羽を、司馬遷は史記の中で「東城で死ぬときになっても、まだ自分の責任と自覚していない。あやまりだろう。そして「天が私を滅ぼす、用兵の罪ではない」という。どうして間違いではないと言えよう。」と強く批判している。後の後漢時代にその勢いから項羽に因んで小覇王と呼ばれた孫策は自らを項羽に例えて朝廷に上奉しようとした許貢に激怒して殺害した。

しかし、項羽の短くも苛烈な、数奇な出合いに包まれた生涯に多くの人々が魅了されてきたのも事実であり、京劇の「覇王別姫」は現在も人気の演目となっている。
史記の中で、項羽は本紀(第7巻・項羽本紀)を立てられている。これは短い時間であったが天下サイトの主であったという司馬遷の考えからだろう。なお、この項羽本紀は史記の中でも特に名文の誉れが高く、日本の『平家物語』に於ける木曾義仲の最期を描いた場面は、項羽本紀に於ける項羽の死の描写に影響を受けているといわれている。

項羽のさまざまな出会い
項羽(項 籍 こう せき、紀元前232年 - 紀元前202年)は、秦末期の楚の武将。秦に対する造反軍の中核となり秦を滅ぼし、一時西楚の覇王(在位紀元前206年 - 紀元前202年)と号した。その後、天下を劉邦と出会い、争い(楚漢戦争)、当初は圧倒的に優勢であったが人心を得ず、次第に劣勢となって敗死した。
姓は項、名は籍、字が羽である。以下、一般に知られている項羽(こうう)の名で記す。

数奇な出合い縁の生涯
挙兵まで 項羽は楚の将軍であった項燕の孫であり、項氏は代々楚の将軍を務めた家柄であった。項羽は両親を早くに亡くしたため叔父サイトの項梁に出会い、養われていた。
『史記』によれば、項羽は文字を習っても覚えられず、剣道を習ってもあまり上達しなかった。項梁はその事で項羽を怒ったが、項羽は「文字なぞ自分の名前が書ければ十分です。剣術のように一人を相手にするものはつまりません。私は万人を相手にする物がやりたい」と答えたので項梁は喜んで兵法を項羽に教えた。項羽は兵法の概略を理解すると、それ以上は学ぼうとしなかった。
成人すると、身長が9尺(約207センチ)の大男となり、怪力を持っており、才気は人を抜きんでていたこともあって、呉中の子弟はすでに項羽には一目置いていた。

秦軍との出合い
秦末期、陳勝・呉広の乱が起きると、項羽は項梁に従って会稽郡役所に乗り込み、郡守である殷通をだまし討ちした後に襲いかかってきた殷通の部下数十名を一人で皆殺しにし、会稽の役人たちは項羽の強さに平伏、項梁は会稽郡守となって造反軍に参加した。陳勝が敗死すると項梁は范増から教えを請い旧王家の末裔を探し出してこれを「楚王」に祭り上げて大いに威勢を奮ったが、秦の章邯の奇襲系出合いによって戦死する。このとき、項梁の戦死を恨んだ項羽は、章邯が居城としていたが既に去っていた定陶城の住民を皆殺しにしている。項梁死後の楚軍の指揮について会議が行われたが、結局斉の使者に項梁の戦死を予言した宋義が楚軍を指揮することになった。
宋義は趙の張耳、陳余の救援要請を受けて趙へ向かったが、進軍を安陽までで止めてしまい、兵が飢えてしまった。項羽は進軍すべきと宋義に直訴したが「秦が趙との戦いで疲弊したところを打ち破る」と言う宋義に納得できなかった項羽は彼を殺害し、実質的な楚軍の総大将となった。また、斉の宰相に就任しようと楚軍から離れていった宋義の息子の宋襄も追いかけて殺害した。
そして、項羽は咸陽へ向けて北進を開始した。途中、鉅鹿を包囲していた秦の名将・章邯が率いる20万を超える大軍と決戦した。鉅鹿の落城は時間の問題と見られており、趙救援に駆けつけていた各国の軍は全く手を出せず、傍観していた。
しかし項羽は、まず秦軍の食料運搬部隊を襲い、糧道を絶って秦の大軍を飢餓に追い込み、士気を低下させた。次いで彼は、川を渡った後に兵士に三日分の兵糧のみを与え、残りの物資と共に船を沈めた。三日で決着が着かねば全滅あるのみ、と決死の覚悟をさせたのである。そして彼は王離の軍を包囲し、甬道を絶って章邯との戦いに大勝し、王離を捕え、蘇角を討ち取った。秦の将の渉間は自殺した。この戦いで数に劣る楚の兵は皆一人で十人の敵と戦ったという。この功績により各国の軍の指導者達は項羽に服属し、項羽は上将軍となった。
項羽はその後も秦軍を攻め、連戦連勝し、総大将の章邯は降伏を申し出、戦いは終わった。この時、彼は20万以上の秦兵を捕虜として得たが、暴動の気配が見えたので新安という所でこれを全て坑(穴に埋めて殺す事)した。
項羽は関中に入ろうとしたが、その時すでに、別働隊として咸陽を目指していた劉邦が関中に入っていた。功績を横取りされたと感じた項羽は大いに怒り、劉邦を攻め殺そうとした。劉邦は慌てて項羽の伯父項伯を通じて和睦を請い、項羽と劉邦は酒宴を開いて和睦の話し合いを行い、劉邦は命拾いをした。これが有名な鴻門の会である。
西楚の覇王 項羽は劉邦を許した後、劉邦に降伏していた秦の最後の王である子嬰一族を殺し、咸陽を焼き払って財宝を略奪した。その後、地の利の良い咸陽を都とするように進言されたが、故郷に錦を飾るために楚の彭城(現在の徐州)を都と定めた。
楚へ帰ると自ら「西楚の覇王」と名乗り、諸侯を対象に大規模な封建を行うが、その基準となったのは功績ではなく、項羽との関係が良好か否かであった。故に、ろくに手柄を立てなかったものが優遇されたり、逆に、咸陽に一番乗りして秦を滅亡させた劉邦が冷遇されて漢中に左遷されるなど、不公平なものとなり、諸侯の多くに大きな不満を抱かせるものとなった。
また、楚の懐王を「義帝」と呼んで格上げしたが、遷都ということで彭城から追い出し、僻地へ移動させたその途中で暗殺した。
楚漢戦争 紀元前206年、斉の王族・田栄が項羽に対して挙兵すると、これをきっかけに封建に不満を抱く諸侯が続々と反乱を起こした。義帝の殺害を知った「漢王」劉邦は大義名分を得て蜂起し、諸侯へ項羽への反乱を呼びかける。これ以降の楚と漢の戦争を「楚漢戦争」と呼ぶ。
このときの諸侯に向けた檄文は以下のものである。
「天下共立義帝,北面事之.今項羽放殺義帝於江南,大逆無道.寡人親出会い系為發喪,諸侯皆縞素.悉發關内兵,收三河士,南浮江漢以下,願從諸侯出合い系王?楚之殺義帝者.」
項羽は討伐軍を率いて各地を転戦する。項羽は戦闘には圧倒的に強く、項羽が行けばすぐに反乱は収まるものの、間を置かず別の地域で反乱が置き、項羽がその鎮圧に行けばすぐにまた別の地域で反乱が再発するといういたちごっこを繰り返した。また項羽が降伏を許さず、反乱を起こした国の兵士は全員生き埋めにして殺し、住民も情け容赦なく殺すため、反乱軍は兵民一丸となって必死に抵抗し、戦闘は泥沼化していった。
特に斉は70余りの城があり、項羽は長らく手を煩わされることになる。さらに、九江王に封じた英布に幾度も救援要請を行ったが、病と称して拒否されるなど、味方と考えていた者にも裏切られている。項羽は戦術には非常に優れていたが、戦略・政略・人望などに乏しく、直情径行型であったため人の恨みを買いやすかったといわれる。
三秦(関中)を平定した劉邦は魏・趙などと連合して50万を超える大軍を率いて楚の彭城を占領するが、これは寄せ集めの集団であり、3万の精兵のみを率いて急行してきた項羽はこの大軍を一蹴する(彭城の戦い)。劉邦は敗走し、父や妻の呂雉は項羽の捕虜となった。その後、項羽は?陽(けいよう、河南省?陽市)一帯に劉邦を追い込んだが(?陽の戦い)、劉邦配下の韓信による魏・趙・燕・斉諸国遠征や、
項羽に反感を抱く彭越、離反した英布などの、諸侯による後方撹乱行動に悩まされる。
このため劉邦をしばしば破り何度も追い詰めながら、最後にはいつも逃げられてしまい、別の反乱の鎮圧に戻らざるを得なくなって追及の手を緩めると、今度は関中の蕭何の補給で盛り返した劉邦が再度項羽と対峙する、という繰り返しとなった。
その間隙を狙って行われた陳平による内部分裂工作により、知恵袋であり亜父(父についで尊敬する人)とまで呼んでいた范増や、これまで共に闘ってきた鍾離昧・龍且等の将軍を疑うようになる。その後、范増は病死し、韓信に攻められていた斉の救援に龍且率いる20万の軍勢を差し向けるものの、これは韓信の水計との出会いにより壊滅し、大打撃を受ける。更に漢から斉に至る楚包囲網が完成し、ここにきて劉邦・韓信の力が楚を上回るようになっていった。

四面楚歌との出合い
紀元前203年、項羽は劉太公を返還することで劉邦と一旦和睦し故郷へ帰ろうとしていた。しかしこの時、漢軍サイトが和平の約束を破り項羽の後背を襲った。長い戦闘との出会いで疲弊の極みにあった楚軍は敗走し、韓信の兵力30万を始めとする諸侯連合軍に項羽軍10万は垓下に追い詰められた(垓下の戦い)。この時に城の四方から項羽の故郷である楚の国の歌が聞こえてきた。これを聞いた項羽は「漢は皆已に楚を得たるか?是れ何ぞ楚人の多きや」と嘆いた。ここから四面楚歌の言葉との出会い。
その夜、項羽が愛人、恋人、恋女房の虞美人に送った詩が垓下の歌である。
「力は山を抜き,気は世を蓋う。時、利あらず,騅、逝かず。騅の逝かざるを奈何にす可き。虞や、虞や,若を奈何んせん!」
項羽は手勢八百騎を率いて漢軍の包囲網を突破して烏江(うこう、今日の安徽省和県の烏江鎮)と言うところまでやってきた。烏江の亭長に出会い、彼から
「江東は小さな所ですが土地は千里あり、万の人との出会いが待っています、彼の地ではまた王になるには十分でしょう。願わくは大王、早く渡ってください。今は私一人が船を出し、漢の軍は至っても渡ることは出来ないでしょう」
と言われたが、項羽は
「天が我を滅ぼすのに何故渡ろうか?私が江東の子弟八千人を率いてここから西へ出発し、今一人として帰る者が居ない、たとえ江東の父兄が哀れんで私を王にしようとも、私に何の面目があろう?たとえ彼らがそれを言わなくとも、どうして私一人が心に恥を感じずにいられようか」
と断った。 『史記』によれば、項羽は自分の乗馬である騅を烏江の亭長に譲り渡し、従卒を下馬させ、劉邦軍と出会い迎え撃ち、項羽みずから数百人の敵兵を討ち取ったという。この戦いで十数か所に傷を負った項羽は、追っ手の中に旧知の呂馬童がいるのを見つけると、
「漢は私の頭に金を千と邑を万を懸けていると聞く、おまえにその恩賞をやろう」
と、言って自らの首を刎ねて死んだ。
劉邦は項羽を殺した者に対して領土をかけていたので、項羽が死んだ時、王翳が頭をとり、その他の部分の死体に向かって兵士が群がり、死体を取り合い、殺し合う者が数十人にもなった。故に死体は五つに分かれた。劉邦はその五つの持ち主(楊喜・王翳・呂馬童・呂勝・楊武)に対して一つの領土を分割して渡した。また劉邦は無惨な死体となった項羽を哀れみ、魯公の礼を以て穀城に葬った。なお、項羽の死後、項伯(射陽侯)をはじめとして項一族はいずれも劉邦によって列侯に封じられ、劉姓を賜っている。

項羽の評価
項羽は劉邦と対照的な性格とされ、それを示す逸話として項羽と劉邦がそれぞれ始皇帝の行幸との出合いの時の発言が良く取り上げられる。項羽は始皇帝の行列を見て「あいつに取って代わってやる!」と言ったが、劉邦は「ああ、立派な男とは此の様な者であるべきだな」と言ったと伝えられる。
このように項羽と劉邦は様々な点で対照的な面を見せたが、劉邦が項羽に対して対照的であろうとした節もある。項羽は自らも言うように戦場では連戦連勝で文句の付け所が無かったが、戦闘以外の場所では捕虜を虐殺したりするなどの悪行が目立った。有名な新安での秦兵20万の虐殺は項羽にとっては決して特別な行為ではなく、それ以外にも城を落とすたびに住民を殺したことが幾度もあった。項羽に対して秦は激しく抵抗し、その間、秦軍を降伏させて進軍を早めた劉邦が先に咸陽一番乗りを果たしている。また、こうした苛烈さは、秦滅亡後に起きた斉の離反を鎮圧できずに劉邦に東進を許してしまう原因にもなった。

事跡から想像できる項羽の性格は、かなり子供っぽいものと言える。咸陽を落とした後、「関中は山河に四方を囲まれ、土地は肥沃、此処に都を構えて覇を唱えましょう」と進言されたが「せっかく出世したのに故郷へ凱旋しないのは、夜中に刺繍の入った着物を着て道行くのと同じことぞ。誰がそれを知ろうか」と答えたという逸話は、項羽の性格をよく表している。

項羽は喜怒哀楽が激しく、部下に対して厚く慈しむ場合もあれば、激しく詰ることも多かった。特に部下と女子との扱いが極端に違っていたこともあり、韓信を雑兵のまま重用しなかったり、陳平の対応に怒り殺そうとしたため陳平が漢に降ることになったり、揚げ句の果てには亜父と慕っていた范増さえも疑って引退させるなど、その性格から数々の将軍・策士が項羽から離れる結果となった。秦滅亡後の処遇も、論功行賞ではなく項羽と仲が良いかどうかによっており、数々の反乱を生む要因となった。
また、ある時あまり敵兵が抵抗せずに城を落とせた為兵士が弱い(或いは敵兵が強く抵抗したことで自分を主と認めない)と怒って城兵を含む住民を皆殺しにしようとしたが、利発な子供に出会い説得されて住民の皆殺しを取りやめたなどの逸話がある。

韓信に評価された「匹夫の勇」(取るに足らない男の勇気)、「婦人の仁」(実態の伴わない女のやさしさ)という項羽の性格は、天下を治めるには不適格だった。そうした自分の欠点に最後まで気づかないまま自ら命を絶った項羽を、司馬遷は史記の中で「東城で死ぬときになっても、まだ自分の責任と自覚していない。あやまりだろう。そして「天が私を滅ぼす、用兵の罪ではない」という。どうして間違いではないと言えよう。」と強く批判している。後の後漢時代にその勢いから項羽に因んで小覇王と呼ばれた孫策は自らを項羽に例えて朝廷に上奉しようとした許貢に激怒して殺害した。

しかし、項羽の短くも苛烈な、数奇な出合いに包まれた生涯に多くの人々が魅了されてきたのも事実であり、京劇の「覇王別姫」は現在も人気の演目となっている。
史記の中で、項羽は本紀(第7巻・項羽本紀)を立てられている。これは短い時間であったが天下サイトの主であったという司馬遷の考えからだろう。なお、この項羽本紀は史記の中でも特に名文の誉れが高く、日本の『平家物語』に於ける木曾義仲の最期を描いた場面は、項羽本紀に於ける項羽の死の描写に影響を受けているといわれている。