昔の中国の戦乱期の人々の出合い系宿縁

中国戦乱時代。秦楚漢魏呉蜀でのさまざまな出会い、数奇な出合い系宿縁を。

斉を占拠~酈食其に数奇な出会い系ご縁

2020-08-17 11:46:26 | 出合い系宿縁
昔の中国の戦乱期の人々の宿縁

斉を占拠~酈食其に数奇な出会い系ご縁悪縁


燕は降伏す。


趙を占拠した韓信(英語 Han, Shin)は、趙の将軍であった李左車(りさしゃ)に助言を請います。
そして「趙の北東にある燕は、使者を送って降伏を促せばそれを受け入れるでしょう」と言われます。
実行してみたところ、李左車の言うとおりに燕は降伏し、軍を送るまでもなく韓信は燕を劉邦陣営に組み込むことができました。
この頃にはあっというまに二国を降した韓信の強さが周囲に鳴り響いており、これには抗しがたいという空気が生まれていたのでしょう。
こうして中国北部を平定した韓信は、軍の編成と訓練のため、修武という土地に駐屯します。
しかしある日、不意に成皋(せいこう)で籠城していたはずの劉邦がこの修武に姿を現し、韓信から軍を奪ってしまいます。
劉邦(英語訳 Liu Bang)は項羽軍の攻撃を受けて激しく疲弊しており、軍勢不足に陥っていました。

これを解決するため、彼氏は韓信の率いていた軍をまるごと奪うという行動に出たのです。


そして劉邦は軍の一部を韓信に与え(もともと韓信の編成した軍なのですが)、残る斉の国を攻めるようにと命じます。
韓信はこれに逆らわず、言われるがままに減少した軍を率いて斉に向かいます。

もともと韓信は身一つで劉邦に仕えた身分ですので、軍勢を取り上げられても文句は言えません。


しかしながら、これまでも韓信は機を見て劉邦に援軍を派兵しており、にも関わらず行われた劉邦の乱暴な措置に対し、思うところもあったようです。



斉を占拠~酈食其の宿縁


劉邦(英語訳 Liu Bang)は韓信(英語 Han, Shin)を斉に向けて送り出した後、酈食其(れきいき)という説客を斉に派遣し、降伏を促します。
韓信の軍が迫っていた影響もあり、斉はこの降伏勧告を受け入れます。
しかしこの命令には宿縁があり、劉邦はどうしてか韓信に対し、事前に酈食其を派遣したことを知らせていませんでした。
このため斉の降伏の知らせを受けた韓信は進軍をいったん停止しますが、蒯通(かいつう)という弁士にそそのかされ、斉への侵攻を再開します。
その時の蒯通の言い分は以下の様なものでした。
「酈食其は弁舌だけで斉の70城を降しましたが、このままだと韓信様の功績は儒者に過ぎない酈食其に劣ることになります。(韓信がこれまでに降した城は50城であったため)進軍停止の命令は出ていないのだし、このまま攻めこむべきです」
実際には韓信軍を恐れたからこそ斉は降伏したわけで、韓信の功績と言えなくもないのですが、韓信はこの蒯通の言葉を受け入れ、斉に攻め込みました。
そして降伏したことで油断していた斉の諸城は簡単に陥落し、韓信は斉の占拠に成功します。
だまし討ちを受けた結果となり、怒った斉の王は逃亡する前に酈食其を釜で煮殺してしまいました。
こうして韓信は酈食其を犠牲とすることで斉を制圧しました。
しかしこの時の韓信の行動が劉邦に咎められることはありませんでした。
もともとは劉邦が韓信に無断で、二重に命令を出したことに問題があったからです。
もしかしたら、劉邦は韓信が鮮やかに戦功をあげ続けることに危惧の宿縁を覚え、酈食其に外交的な成果をおさめさせることで、韓信の功績を抑制しようと考えたのかもしれません。
一方で韓信は先に、劉邦に理不尽な形で自軍を奪われていましたし、蒯通のそそのかしに乗ったのは、その意趣返しの思惑があったとも考えられます。
この頃から劉邦と韓信の関係には、軋みが生じ始めていたと見ることもできるでしょう。
臣下があまりに大きな功績を上げると、やがて主君を凌駕してしまう可能性もあり、劉邦は優秀すぎる韓信の存在を、だんだんと恐れつつあった、ということでもあります。
この劉邦の恐れが、やがて韓信の身に危機の宿縁をもたらすことになります。

半渡に乗じて龍且を討つ

韓信(英語 Han, Shin)に敗れた後、斉の残党はこれまで敵対していた項羽(英語名 Xiang Yu)に救援を求めます。
斉を押さえる好機と見て、項羽は配下の龍且と周蘭を将として、20万の大軍を派兵します。
周蘭は持久戦を行うよう龍且に進言しますが、龍且は韓信が臆病者だと侮っており、正面から野戦を挑みます。
これに対して韓信は、またも川を活用した作戦で迎え討ちます。
韓信は広くて浅い川の周囲を戦場として選び、決戦の前夜に川の上流をせき止めて水位を下げておきます。
そして戦場で龍且と対峙すると、機を見て韓信は退却を始めます。
もとより韓信を侮っていた龍且は疑いもなく追撃を開始しますが、これが韓信の罠でした。
龍且の軍勢の半分ほどが川を渡ったのを見て、韓信は前夜に築いておいた堤防を切り、川を増水させ、残りの半分が渡れないようにします。
川に押し流された兵もおり、戦力が半分以下になった龍且の軍勢を包囲して攻撃をしかけ、これを壊滅させました。
こうして韓信を侮った龍且は川の増水によって退路を絶たれて捕虜となり、処刑されてしまいました。

このように、韓信の戦術は

・川を活用して敵の意表をつく

・自分を侮らせて敵の油断を誘う

このふたつの原則をもって、状況に応じて柔軟に作戦を立案していたことがうかがえます。
韓信はもともとは浮浪者同然の身分で、臆病者だという風評がありました。
これらを払拭することもなく、それを利用して戦術に組み込めるほどに韓信は怜悧な精神を持っていたことになります。

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別働隊として西魏に宿縁遠征を行う

まず劉邦(英語訳 Liu Bang)自身が主力として項羽(英語名 Xiang Yu)と対戦し、その戦力を滎陽方面に引きつけておきます。
同時に韓信(英語 Han, Shin)が別働隊を率いて遠征し、中国北部にある諸国を平定して劉邦の陣営に組み込んでいく、というものでした。
まずは滎陽から近い西魏という国を討つことになり、韓信は張耳(ちょうじ)と曹参という武将を副将として討伐に出発します。
ここで韓信は西魏を降すにあたり、川を利用した奇策を用います。
まず川を挟んで敵と対峙し、その主力を引きつけておきます。
その一方で別働隊を派遣し、敵の目の届かない地点で渡河させ、敵の本拠地を急襲してこれを奪ってしまいました。
本拠を失った敵軍は慌てて退却し、それを追撃した韓信はあっさりと西魏を征服します。
この時に韓信は「木おう」という木製の桶を使っていかだを作らせ、船を用意することなく軍を渡河させています。
別働隊のために船を用意すれば敵に察知されたでしょうが、木おうを用いていかだを作って川を渡る、という奇策によって敵の意表をつき、鮮やかに勝利をおさめることができたのです。
韓信はもともと川沿いの街の出身だったこともあってか、川を活用した作戦の立案を得意としていました。

背水の陣で趙を破る



次の標的となったのは、西魏の東に隣接する趙という国でした。
この趙は20万を号する大軍を有しており、韓信軍は数で劣っていました。
韓信(英語 Han, Shin)はこれに対し、水を背にして陣をしく、いわゆる「背水の陣」で対峙します。
当時の著名な兵法書には「水を背にして陣をしいてはいけない」と記されており、韓信はあえてその逆を行ったことになります。
趙軍を率いるのは陳余という将軍でしたが、韓信のこの常識破りの布陣を見て、韓信は兵法の基本も知らないのかと思い、侮ります。
韓信はさらに敵を油断させるために、陣から軍勢を繰り出してわざと負けさせ、そのうえ軍需物資を戦場に放棄する、という作戦を取ります。
これによって趙軍はすっかり油断し、軍需物資を回収するために、城にいた部隊も戦場におびき寄せられました。
そして川を背後に陣を構える韓信軍に攻撃を開始します。
逃げ道がないことから、小数でも韓信軍はこの攻撃によく持ちこたえます。
そうして耐えているうちに別働隊が趙軍の本拠地を襲撃し、これを占拠しました。
別働隊はそのまま趙軍の背後から攻撃を開始し、韓信の率いる本隊も陣を出て挟撃します。
こうして本拠を失ったうえに挟み撃ちにされた趙軍は士気を失い、あえなく壊滅しました。
陳余と趙王を捕らえてこれを斬り、韓信はまたしても完勝をおさめ、趙を支配下に置きました。


燕を降し、劉邦の軍勢略奪との宿縁

趙を占拠した韓信(英語 Han, Shin)は、趙の将軍であった李左車(りさしゃ)に助言を請います。
そして「趙の北東にある燕は、使者を送って降伏を促せばそれを受け入れるでしょう」と言われます。
実行してみたところ、李左車の言うとおりに燕は降伏し、軍を送るまでもなく韓信は燕を劉邦陣営に組み込むことができました。
この頃にはあっというまに二国を降した韓信の強さが周囲に鳴り響いており、これには抗しがたいという空気が生まれていたのでしょう。
こうして中国北部を平定した韓信は、軍の編成と訓練のため、修武という土地に駐屯します。
しかしある日、不意に成皋(せいこう)で籠城していたはずの劉邦がこの修武に姿を現し、韓信から軍を奪ってしまいます。
劉邦(英語訳 Liu Bang)は項羽軍の攻撃を受けて激しく疲弊しており、軍勢不足に陥っていました。

これを解決するため、彼氏は韓信の率いていた軍をまるごと奪うという行動に出たのです。

そして劉邦は軍の一部を韓信に与え(もともと韓信の編成した軍なのですが)、残る斉の国を攻めるようにと命じます。
韓信はこれに逆らわず、言われるがままに減少した軍を率いて斉に向かいます。

もともと韓信は身一つで劉邦に仕えた身分ですので、軍勢を取り上げられても文句は言えません。

しかしながら、これまでも韓信は機を見て劉邦に援軍を派兵しており、にも関わらず行われた劉邦の乱暴な措置に対し、思うところもあったようです。




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